指名手配
【号外】
その報せは、二日後に届いた。
――アスレオンの港に入った、帝国の商船が持ち込んだ。
束で二百部。船長が、酒代の足しにと言って埠頭で売り、三十分で捌けた。
新聞は、五日前のものだった。海を渡る間に、紙が湿気を吸って波打っている。
その一面に、大きな文字が並んでいた。
『皇帝陛下、御不予により静養へ』
『――公務は、統合作戦本部が代行』
「……なによ、これ」
リズが、新聞を睨んだ。
「静養? 誘拐されたって言わないの?」
「言えないだろ」
アシュが答えた。
「『皇帝が攫われました』なんて発表したら、軍の面子が丸潰れだ」
「じゃあ、これで済ませる気?」
「――済ませたいんだろうな」
三面に、別の記事があった。
二人分の人相書きが、並んで載っていた。どちらも、軍の身分証から起こしたものだ。三年前のリヴィアは、まだ髪が肩までしかない。グレイの一枚は、中佐に昇進した時のものだった。
『帝国反逆者、指名手配』
『グレイ・アークライト 元中佐 三十一歳』
『リヴィア・ノクス 元大尉 三十一歳』
その下に、罪状が並んでいた。
『軍事機密の漏洩』
『敵性勢力との内通』
『――そして、皇帝陛下の身柄拘束、および脅迫』
「……脅迫」
リヴィアは、その文字を読んだ。
「陛下を、脅迫したことになってるのね」
「そうだな」
グレイが、記事を覗き込んだ。
「――皇帝が自分の意志で出た、とは書けない」
彼は言った。
「書けば、この国が皇帝に見捨てられたことになる」
「……あの」
ミーナレイが、恐る恐る言った。
「あたしたちの名前は、載ってないんですか」
「載ってない」
「なんでですか?」
「――お前らは、部下だからだ」
グレイが答えた。
「上官に脅されて、従わされた。……そういう筋書きにしてある」
「え」
「投降すれば、罪に問わない」
彼は言った。
「――そう書いてある」
彼は、その一節を指で示した。活字が、他の行より一回り大きかった。
「懐柔だ。……お前らを、こちらから剥がしたい」
部屋の音が、落ちた。
窓の外で、埠頭の呼び込みの声がしていた。新聞を売っていた船長が、まだ何か叫んでいる。
「……ふうん」
リズは、その新聞を、卓の向こうから引き寄せた。
それを、ぱっと破いた。
三面が、縦に二つに裂けた。人相書きの二つの顔が、それぞれ別の手に残った。
「――帰らないわよ」
彼女は言った。
「あたしの上官、脅すような人じゃないもの」
「そうそう」
アシュが頷いた。
「そもそも、こいつが誰かを脅すところを、想像できねえ」
「――酷い言い方ですね」
「褒めてんだよ」
ミーナレイは、破れた新聞を見ていた。
床に落ちた片方を拾い上げて、しばらく持っていた。
小さく、言った。
「……あたし、この前まで」
「なによ」
「新聞、信じてたんです」
彼女は言った。
「募兵ポスターも、信じてました。『河を制した英雄たちに、続け』って書いてあって、かっこいいなって思って、それで軍に入ったんです」
「…………」
「――今、破られた紙を見て、なんとも思わない」
彼女は、少し笑った。
「二年前のあたしが見たら、たぶん泣いてます」
【四つ】
その日の午後、作戦会議が開かれた。
――迎賓館の大広間。
長机に、地図が三枚。大陸全図と、群島の海図と、そして今日新しく広げられた北方グラルドの地形図。
三十人が、それを囲んでいた。七島の代表。リバースオーダーの幹部。ネフィラの高官。黒翼。
最後に――皇帝アルディス。
彼は、初めて、公式の場に姿を現していた。
服装は、粗末な外套のままだった。誰かが正装を用意しようとしたが、彼が断った。
――彼が席に着いた時、部屋の全員が立ち上がった。
彼は、それを手で制した。制した後、しばらく、自分の膝に置いた両手を見ていた。
「――現状を、整理する」
グレイが、地図の前に立った。
彼は、地図の上に駒を四つ、置いた。木の駒だった。
「一つ。帝国は、皇帝陛下の失踪を『静養』として処理した」
彼は、帝都に駒を置いた。
「二つ。俺と、ノクス大尉が、指名手配された」
その隣に、二つ目。
「三つ。ネフィラ王国は、陥落した」
南東に、三つ目。彼は、それを置く時、少しだけ手を止めた。
「四つ。……そして」
彼は、四つ目の駒を、手の中で一度、回した。
それから、地図の東と西に、二つに割って置いた。
「――シキナと、イルドレナからの通信が、途絶えた」
部屋が、ざわめいた。
「……通信が?」
「三日前からだ」
グレイは言った。
「両方とも、同じ日に」
「偶然では」
「――偶然ではない」
彼は、断言した。
「同じ日に、東と西で、同時に。……これは、作戦だ」
リヴィアの背筋が、冷たくなった。
(……ムラサメ殿)
(――ミラ殿)
三ヶ月前、彼女は時計店の二階に二通を置いた。届いていた。届いて、それでも、間に合わなかった。
「――何が、起きたんですか」
「分からん」
グレイは、正直に答えた。
「だが、最悪を想定する」
彼は、地図を叩いた。東と西の駒が、二つとも、一度跳ねた。
「――セイクリッドルートは、二人になったと考えろ」
部屋が、静まり返った。
――五百年前、五人で封じた男を。
今、二人しか、対抗できる者がいない。
「……勝てるんですか」
誰かが、掠れた声で言った。
「――勝てん」
グレイは、あっさり答えた。
「正面からは、絶対に勝てない」
「じゃあ、どうしろと」
「――戦わない」
彼は言った。
「戦わずに、どうやって」
「四つ、柱がある」
グレイは、地図の上の駒を、また動かした。
今度は、四つを一列に並べた。
「一つ。正統性の宣言」
彼は、皇帝を見た。
「陛下が生存し、ご自身の意志でここにおられることを、世界に公表する」
「……それで、何が変わります」
七島の代表の一人が言った。老人だった。声に、疑いの色があった。
「――帝国の正統な元首が、こちらにいることになります」
グレイは言った。
「ヴァルグレイスは、元帥でしかない。……玉座には、座れていない」
「座らせればよい話では」
「座れないのです」
グレイは、首を振った。
「血統がない。継承権もない。……あの男が玉座に座れば、そこで初めて『簒奪』になる」
彼は言った。
「――だから、二十年、座らなかった」
「二つ。証拠の公開」
彼は、二つ目の駒を前に出した。
「エルデナ謀略の資料を、帝国国内へ流す。……民に、直接」
「新聞は、書けませんよ」
別の代表が言った。
「三週間前に、一社が潰されたと聞きました。用紙の配給規定違反、と」
「知っています」
グレイは頷いた。
「だから、新聞は使わない」
「では、どうやって」
「印刷して、撒く」
「撒く?」
「――空から」
部屋が、ざわめいた。
「アスレオンには、船がある。……そして、飛べる者もいる」
彼は、リズを見た。
リズは、口を開けたまま、しばらく固まっていた。
「……え。あたしですか」
「他にいるか」
「いや、あの、量にもよるんですけど」
「――十万枚だ」
「十万!?」
「三つ。経路の遮断」
彼は、三つ目の駒を、大陸の外周に沿って滑らせた。
十一箇所で、止めた。
「帝国は、十一の国に駐留している。……その全部が、補給線だ」
「……離反させると」
「そうだ」
彼は頷いた。
「駐留国に、証拠を送る。『あなた方は、次の標的です』とな」
「――信じますか」
「ネフィラが、証拠だ」
彼は言った。
「三度、通商を断った国が、二十万に潰された。……次は自分だと、誰でも思う」
――部屋の隅で、ネフィラの高官の一人が、俯いた。
誰も、そちらを見なかった。
「四つ。時間」
彼は、最後の駒を、地図の中央に置いた。
「セイクリッドルートが二人でも、生きている限り、封印の可能性は残る」
「……それは」
「――希望的観測だ」
彼は、認めた。
「だが、向こうもそう考える。……だから、あの男は理を潰しに来る」
彼は、地図を叩いた。
「潰しに来ている間は、こちらに来ない」
「――そして」
グレイは、最後に言った。
彼は、四つの駒を、一つの場所へ集めた。
帝都の上に、四つ、重ねて置いた。
「これら全部の、目的は一つだ」
彼は、部屋を見回した。
「――帝国を、割る」
彼は言った。
「軍の全部が、あの男を信じているわけじゃない」
彼は、拳を握った。
「……信じているふりをしている者が、必ずいる」
彼は言った。
「――そいつらに、選択肢を渡す」
【鞄】
会議が終わりかけた頃。
――扉が、開いた。
ノーチェが、入ってきた。
手に、黒い革の鞄を持って。
彼女は、仮面をつけていなかった。額の右上の黒い痣を、隠しもしていなかった。
「――遅くなったわ」
彼女は言った。
「……それは」
リヴィアの動きが、止まった。
――見覚えが、あった。
二年前、レイリット・バンスが、議場で掲げた鞄。
護送車の中で「これは、空だ」と言った、あの鞄。
「……いいえ」
彼女は、首を振った。
――形は似ているが、違う鞄だった。
もっと古く、もっと使い込まれていた。角の革が、擦れて下地の色が出ている。留め具は一度、別のものに付け替えられていた。
二十年、毎日開け閉めされてきた鞄だった。
「――本物よ」
ノーチェが言った。
「本物?」
「あの人が議場で掲げたのは、囮」
彼女は、机に鞄を置いた。重い音がした。
「――中身は、こっちにあったの」
リヴィアの喉が、鳴った。
「……どこに」
「帝都中央駅の、手荷物一時預り所」
――彼女の指が、無意識に上着の内側へ動いた。
そこに、真鍮の札が入っていた。『六』と刻まれた、もう何も引き出せない札が。
「……六番」
「あら」
ノーチェが、少し驚いた顔をした。
「知ってたの」
「……札を、貰いました」
リヴィアは言った。
「あの人が、死ぬ間際に」
「そう」
ノーチェは頷いた。
「――札は、二枚あったのよ」
「もう一枚は、どこに」
「セドリック・ヴェイン議員の、書斎」
部屋が、ざわめいた。
「――反戦派の、あの方ですか」
「そう」
彼女は言った。
「二ヶ月前、あの人が死んだ後、私たちは屋敷に忍び込んだの。……別の目的でね」
彼女は、鞄を撫でた。
「そしたら、暖炉の裏の隠しに、木箱が一つ」
彼女は言った。
「中には、真鍮の札が一枚と、手紙が一通」
「……手紙」
「『いつか、これを使う日が来る』」
彼女は、そらんじた。
「『その日は、私は死んでいる』」
リヴィアは、その意味を考えた。
レイリット・バンス。ヴァルグレイスの手駒。
セドリック・ヴェイン。反戦派の頭。
――二人は、繋がっていた。
いつからかは、分からない。
だが、二年前のあの夜、老侍従にヴェインはこう言い残していた。
――鞄の中身は、鞄には入っておらん。
(……知ってたのね)
(――全部)
「レイリット中将が撃たれた日の、夜」
ノーチェは続けた。
「私たちは、その札を持って駅へ行った」
「……何時ですか」
「二十時過ぎ。……騒ぎで、駅が混んでる頃よ」
リヴィアは、目を閉じた。
――五十分だった。
彼女が翌朝の始発前に駅へ行った時、それは既に引き出されていた。
五十分。二枚目の札が、正確にその時間で動いた。
(……二十年、切られる日に備えてた人と)
(――それを知ってて、黙って預かってた人)
二人とも、もう、この世にいない。
「――開けてみて」
ノーチェが言った。
「……私が?」
「あなたじゃないわ」
彼女は、皇帝を見た。
「――陛下が」
部屋が、静まり返った。
皇帝は、しばらく動かなかった。
それから、立ち上がった。
机へ、歩いた。
――その足取りは、少し、遅かった。長机の端から中央まで、十二歩あった。彼は、その十二歩を、誰の手も借りずに歩いた。
彼は、鞄の前に立った。
留め具に、手をかけた。
――手が、震えていた。
「……陛下」
「――よい」
彼は言った。
留め具が、乾いた音を立てて外れた。
彼は、開けた。
中には、書類の束が入っていた。
二十年分。
束は、麻紐で八つに分けて括られていた。紐の色が、束ごとに違う。分類してあったのだ。
――一番上に、一枚の紙があった。
黄ばんだ、古い紙。折り目が四つついていて、その折り目の上で、インクが少し滲んでいた。
彼は、それを取って、読んだ。
――部屋の誰も、動かなかった。
皇帝は、その紙を読んでいた。
一行ずつ、指で追いながら。
窓から入る光が、彼の手元を照らしていた。紙の裏から、光が透けていた。
――そして。
彼の手が、震え始めた。
紙が、揺れた。
「……陛下?」
彼は、次の紙を取った。読んだ。次を取った。読んだ。
――五枚目で、彼は、椅子に座り込んだ。
「……陛下!」
リヴィアが、駆け寄った。
「――よい」
彼は、手で制した。
それから、掠れた声で言った。
「……日付が」
「……え?」
「――日付が、合っている」
彼は言った。
「聖暦一〇二二年、三月十四日」
彼は、震える指で、紙を指した。
「――父が、死んだ日だ」
部屋が、凍りついた。
「……その紙は」
「――記録だ」
彼は言った。
「その日、玉座の間で、何があったか」
彼は、紙を持ち上げた。
「誰が入り、誰が出て、誰が何を言ったか」
彼の声が、震えた。
「――全部、書いてある」
「……誰が、書いたんですか」
「――署名がある」
彼は言った。
「レイリット・バンス」
彼は、紙を裏返した。裏にも、細かい字が続いていた。
「当時、空挺部の、大佐だ」
彼は言った。
「――そして、その日、玉座の間の警備を担当していた」
リヴィアの背筋が、凍った。
(……あの人が)
(――見てたの?)
「……なんて、書いてあるんですか」
彼女は、掠れた声で聞いた。
皇帝の口は、すぐには動かなかった。
彼は、紙を見ていた。
やがて、低い声で読み上げた。
「――『午後十一時四十分、元帥閣下、玉座の間へ入室』」
彼の声が、震えた。
「『警備は、私一人であった。他の者は、閣下の命により、退出させられていた』」
彼は、続けた。
「『十一時五十二分、陛下の悲鳴を聞く』」
部屋の空気が、重くなった。
「『扉を開けようとしたが、開かなかった』」
彼は読んだ。
「『内側からではない。……外から、開かなかった』」
「『十二時七分、扉が開いた』」
その一行を読んだところで、彼の声が掠れた。喉に何かが引っかかったような、詰まった音になった。
「『元帥閣下が、出てこられた』」
紙を握りしめた彼の指の形に、縁が折れた。
「『閣下は、私を見て、こう言われた』」
彼は、そこで一度、深く息を吸い直した。
「――『陛下は、ご病気だ。医師を呼べ』」
部屋の誰も、動かなかった。三十人が、同じ姿勢のまま、息を詰めていた。
「『私は、玉座の間に入った』」
皇帝は、読み続けた。
「『陛下は、玉座に座っておられた』」
そこで、彼の声が割れた。それでも、彼は読むのをやめなかった。
「『外傷は、なかった』」
「『目だけが、開いていた』」
「『私は、医師を呼んだ』」
――最後の一行。
「『そして、それ以来、二十年、この紙を持っている』」
皇帝は、紙を置いた。
彼の手が、震えていた。
――誰も、声をかけられなかった。
やがて、彼は、掠れた声で言った。
「……余は」
彼は言った。
「余は、その夜、隣の部屋にいた」
部屋が、静まり返った。
「十六だった」
彼は言った。
「悲鳴を、聞いた」
彼の目が、赤かった。
「――だが、扉が開かなかった」
「……陛下」
「余は、扉を叩いた」
彼は、続けた。
「叩いて、叫んだ。……父上、と」
彼の声が、震えた。
「――誰も、来なかった」
彼は、両手で顔を覆った。
「そして、朝になって、聞かされた」
彼は言った。
「――『陛下は、ご病気で崩御された』と」
「余は」
彼の声が、掠れた。
「――信じたふりをした」
彼は言った。
「十四年、信じたふりをして生きてきた」
彼は、顔を上げた。
「だが」
彼は、紙を握った。
「――余は、知っていた」
【余は】
しばらく、誰も動かなかった。
窓の外で、船の汽笛が鳴った。荷を積み終えた商船が、港を出ていく音だった。
――やがて。
皇帝が、立ち上がった。
彼は、机に手をついて、体を支えた。
それから、深く息を吸った。
「――グレイ・アークライト」
その声は、さっきまでと、違った。
「……はい」
「余は」
彼は言った。
――『余』という言葉を、彼は数日ぶりに使った。船の上でも、この島でも、彼はずっと「俺」と言っていた。
「余は、これより、皇帝として喋る」
部屋の全員が、姿勢を正した。
椅子の擦れる音が、三十人分、一度に鳴った。
「――第一に」
彼は言った。
「アルディス・ヴェル・ディナシアは、生存している」
彼は、部屋を見回した。
「脅迫も、拘束もされていない」
彼は言った。
「余は、自らの意志で、この地にいる」
「――第二に」
彼は、続けた。
「ヴァルグレイス・ルシオン元帥を、大逆罪により、その職を解く」
部屋が、ざわめいた。
「――第三に」
彼は、机の上の紙を指した。
「先帝アルセウス・ヴェル・ディナシアの崩御について」
彼の声が、震えた。
だが、止まらなかった。
「――病死ではない」
彼は、はっきりと言った。
「暗殺である」
部屋の空気が、震えた。
「――第四に」
彼は、続けた。
「本日をもって、帝国は、二つに割れる」
彼は言った。
「一つは、帝都にある。……元帥が握っている軍と、議会だ」
「もう一つは」
彼は、床を指した。
「――ここに、ある」
彼は、部屋を見回した。
「余には、軍がない。金もない。国土もない」
彼は言った。
「あるのは、この体と、名前だけだ」
彼は、拳を握った。両手とも、指の関節が白くなっていた。
「――だが、それで十分だ」
彼は言った。
「この国の正統性は、余にある」
彼は、まっすぐに立った。机から、手を離した。
「――余が、そう言うからだ」
――しばらく、誰も動かなかった。
――最初に膝をついたのは、七島の代表の一人だった。会議の最初に「それで、何が変わります」と聞いた、あの老人だった。
次に、ネフィラの高官が。
最後に、リバースオーダーの幹部が。
――全員が、跪いた。
部屋の全員が。
布の擦れる音と、膝が床に触れる音が、三十回、少しずつずれて重なった。
皇帝は、それを見て、少しだけ、目を伏せた。
「……座れ」
彼は言った。
「余は、跪かれる価値のあることを、まだ何もしていない」
【北へ】
三日後。
――出航の朝だった。
港に、船が二十隻、並んでいた。
どれも、船体に補修の板が当たっている。この三ヶ月、四万二千人を運び続けた船だった。帆は、継ぎだらけだった。
積んでいるのは、水と、乾パンと、毛布。それだけだった。人を乗せる余地を、限界まで空けてある。
その先頭に、セリウスが立っていた。
「――行くの」
リヴィアが聞いた。
「ああ」
彼は頷いた。
「ボルガンドラーク殿が、まだ持ちこたえている。……その間に、民を逃がす」
「……何人」
「分からん」
彼は、正直に言った。
「山の民は、散らばってる。……集めるだけで、時間がかかる」
彼は、船を見た。
「――二十隻で、四千が限界だ」
「……危険よ」
「知ってる」
「帝国軍が、包囲してるのよ」
「知ってる」
彼は言った。
――そして、少し笑った。
「――でも、行く」
リヴィアは、彼を見た。
――そして、言葉を探した。
言いたいことは、たくさんあった。
行かないで。私も行く。無事でいて。
――どれも、言えなかった。
彼は、組織の長だ。彼女は、隊長だ。
――二人とも、自分の場所を、持ってしまった。
「……気をつけて」
彼女は言った。
「ああ」
「…………」
彼女は、少し迷った。
それから、言った。
「――帰ってきてね」
セリウスの動きが、止まった。
「…………」
――十年前と、同じ言葉だった。
燃える広場で、彼女は言った。
――絶対、追いついて。
彼は「ああ」と答えて、追いつかなかった。
――彼は、しばらく黙っていた。
波が、船腹を二度、叩いた。
やがて。
「……今度は」
彼は言った。
「――追いつく」
彼は、背を向けた。
船へ、歩いていく。
――そして、三歩進んで、足を止めた。
振り返る。
「――リヴィア」
「はい」
「……その」
彼は、言葉を探した。
言えずに。
「――いや」
彼は、首を振った。
「――終わったら、言う」
彼は、そう言って、船に乗った。
リヴィアは、その背中を見送った。
――船が、出た。
二十隻が、順に舫を解いていった。最後の一隻が水道を抜けるまで、彼女はそこに立っていた。
【北の山】
――同じ頃。
北方、グラルド国境。
山岳地帯に、雷が落ち続けていた。
――一つの峡谷が、丸ごと焼けていた。
岩肌が、上から下まで黒い。積もっていた雪は、全部蒸発していた。谷底に、白い蒸気が溜まって、そこだけ雲海のようになっている。
その中に、焦げた鉄が散らばっていた。砲の残骸だった。溶けて、地面に流れて、そのまま固まっている。
「――撤退!! 全隊、撤退!!」
帝国軍の指揮官が、叫んでいた。
「三度目だ! 三度目の全滅だぞ!」
「化け物か、あいつは!」
峡谷を見下ろす岩の上に、巨大な影が立っていた。
――ボルガンドラーク。
赤褐色の巨躯。白髪。金色の目。
その周囲の岩が、白く帯電していた。
彼が息を吸うたび、峡谷の空気が一度、彼の方へ引かれる。吐くと、また戻る。その往復に合わせて、岩の表面の砂粒が跳ねていた。
彼の両拳から、青白い雷が迸っていた。
「――帰れ」
その声は、峡谷の岩壁に当たって三度返り、四度目に消えた。
「――帰れと言うとる」
彼は、疲れていた。十二日、一度も腰を下ろさずに戦い続けていた。
道着の縫い目が、右の肩口で裂けていた。そこから覗く肌が、自分の雷で灼けて、黒く変色している。
――そして、彼は知っていた。
勝てないことを。
彼が三万を焼けば、次に五万が来る。五万を焼けば、十万が来る。
――向こうには、二十万がいる。
(……いつまで、保つか)
彼は、拳を握った。
(――村が、いくつ残っておる)
彼は、背後を振り返った。
山の斜面に、小さな灯りが散っていた。
――村の灯りだった。
十二日前は、二十三あった。
今は、十七だった。
――彼のところに、伝令が来たのは、その夜だった。
息を切らした、若い村人だった。裸足だった。靴は、途中で片方なくしたらしい。
「――ボルガン様!」
「なんじゃ」
「南の海に、船が!」
彼は言った。
「二十隻! 旗は――三日月と、鍵です!」
ボルガンの動きが、止まった。
「……三日月と、鍵」
その紋を、彼は知っていた。
――カイゼンが、十四年前に送ってきた手紙。
あの封の隅に、同じ印が押されていた。
彼は、あの手紙を読んで、笑い飛ばした。そして、燃やさずに、山の祠に置いた。
「……あの、変な男の」
彼は言った。
「――生きとったか」
彼は、しばらく黙っていた。谷底からは、まだ蒸気が上がり続けていた。
やがて、言った。
「――村の者を、集めろ」
「え?」
「全員だ。……子供と、老人からだ」
「で、ですが、村を捨てるのですか」
「――捨てる」
彼は、あっさり言った。
「そんな」
「山は、逃げん」
彼は言った。
「――だが、人は死ぬ」
彼は、拳を握った。
「石は、また積める。……人は、積めん」
彼は、南の海を見た。
山の稜線の向こうに、まだ何も見えなかった。船が着くまで、二日はかかる。
「――俺は、殿を務める」
彼は言った。
「全員が船に乗るまで、ここで叩く」
「ボルガン様……!」
「泣くな」
彼は、笑った。
その顔の右半分が、自分の雷の光で、青白く照らされていた。
「――俺は、まだ死なん」
彼は言った。
「千年、死んどらん。……あと十日くらい、どうということはない」
――夜が、明けようとしていた。
北の山に、また、雷が落ちた。
谷底の蒸気が、その光で一度、下から白く光った。




