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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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46/53

約束の続き

【噛み合わない】


 ――二人は、妙に噛み合わなかった。


 同じ島にいて、同じ会議に出て、同じ食堂で食事をして。


 ――それでも、噛み合わなかった。




 廊下ですれ違う。


 迎賓館の廊下は、石畳の上に薄い絨毯が敷いてある。歩幅が合うと、足音が二人分、揃って響く。


「あ」


「……ああ」


 それだけで、終わる。


 ――どちらも、足を止めない。


 止めると、何を話せばいいのか分からなくなるからだ。


 すれ違った後、絨毯の上で、二人分の足音が別々の速さになった。




 会議で、隣になる。


 書類を回す時、指が触れる。


 ――両方が、同時に引く。


「――すみません」


「いや」


 その後、二人とも、書類を見つめて動かない。


 議長が話しているのに、内容が頭に入らない。


 リヴィアは、同じ行を三度読んだ。三度目でも、何が書いてあるか分からなかった。




 食堂で、目が合う。


 ――二人とも、別の方向を見る。


 少し経ってから、また目が合う。


 ――また、逸らす。




「……ねえ、ミーナレイ」


 リズが、小声で言った。


「はい」


「あれ、見て」


 食堂は、元は使用人の広間だったらしい。長机が四つ、壁沿いに並んでいる。窓は東側だけで、午後は暗い。


 その対角線上に、二人が座っていた。


 ――机の、一番端と、一番端に。


「……なんですか、あの距離感」


「知らないわよ」


「あれ、避けてるんですか?」


「逆でしょ」


 リズは、あっさり言った。


「――近づきすぎて、どうしていいか分からないの」


「……はあ」


「見んな」


 アシュが、パンを齧りながら言った。


「可哀想だろ」


「――可哀想だから見るのよ」




 ――そして、少し離れた場所で。


 グレイが、それを黙って見ていた。


 彼は、口を開かなかった。


 ただ、書類に目を落としたまま、頁をめくる手が、しばらく止まっていた。


【灯りの夜】


 三日後の夕方。


 ネフィラの避難民たちが、集まり始めた。


 ――港の桟橋に。


 老人も、女も、子供も。


 誰も、急いでいなかった。列を作るでもなく、ただ、同じ方角へ歩いていた。天幕の間の細い道が、少しずつ、人で埋まっていった。


 その全員が、手に何かを持っていた。


 ――薄い木を組んで、紙を張った、掌ほどの箱。


 紙は、白ではなかった。麻の袋を煮て、叩いて、伸ばしたものだった。だから、色が一つずつ違う。生成りのもの。少し茶色いもの。端が透けているもの。


 その底に、板が渡してある。板の中央に、蝋燭が一本。


「……なんですか、これ」


 ミーナレイが、通りかかった老婆に尋ねた。


「――灯りの夜だよ」


 老婆は、そう答えた。


 彼女の手の灯籠は、四隅の紙が波打っていた。糊が足りなかったのだろう。


「灯りの夜?」


「月に一度、死んだ者に灯りを流す」


 彼女は、それを掲げてみせた。


「砂漠の習わしだ。……砂には、墓が作れんからね」


「…………」


「風が吹けば、砂は動く。墓標も、消える」


 彼女は言った。


「――だから、灯りを流す」




 彼らは、三日かけて、それを作っていた。


 木は、島の代表が出した。船を修理するために取ってあった、細い材だった。


 紙は、避難民が持っていた麻袋を潰して作った。それが尽きると、最後は、自分の衣の裾を裂いた者がいた。


 蝋は、島の漁師が分けた。網に塗る蝋を、樽ごと持ってきた。


 ――誰も、代金の話をしなかった。




 その夜。


 群島の海が、光で埋まった。


 最初の一つが流されたのは、日没の直後だった。


 ――そこから、一時間かけて、四万二千が流された。


 桟橋から。岸から。小舟の上から。


 流されるたび、海面の光が一つずつ増えていく。灯りは、潮に乗って、島と島の間の水道へ吸い込まれていった。


 水道は、幅が二百メートルほどある。そこを、光の帯が埋めた。


 ――先頭は、既に沖へ出ていた。


 最後尾は、まだ桟橋の下にあった。


 その間、五キロ。


 海面は、凪いでいた。波が立たないので、光は水に映って、二倍に見えた。


 ――海が、星空になった。


 いや。星空より、明るかった。


 空の星は、遠すぎて瞬く。海の灯りは、すぐそこで揺れていた。


「……綺麗」


 ミーナレイが、呟いた。


 ――だが、彼女は、すぐに口をつぐんだ。


 この灯り一つ一つが、死んだ人の数だと、気づいたからだ。




 リヴィアは、埠頭に立って、それを見ていた。


 ――既視感が、あった。


 十年前。


 エルデナの、灯りの祭り。


 水路に魔光花を流し、街が光の網目になった、あの夜。


 あの時の光は、もっと淡かった。魔光花の光は、青みがかった白で、水の中でだけ光った。


 この灯りは、橙色で、熱を持っていた。近くを通ると、頬に温かさが届いた。


(……セリウスが)


(――林檎飴を、買ってくれた)


 彼女は、そう思い出した。


 あの夜、彼は言った。


 ――この光は、海に出て、それから世界中に散っていくんだって。


 ――嘘だと思う。でも、いい嘘だろ。


(……嘘じゃ、なかったのかもしれない)


 彼女は、目の前の海を見た。


 エルデナの灯りは、もう流れない。


 ――だが、別の国の灯りが、今、ここにある。


【押し出される】


「――隊長!!」


 リズが、駆けてきた。


「大変! あっち、灯りが足りないって!」


「……え?」


「南の桟橋! 行って!」


「え、でも」


「早く!!」


 彼女は、リヴィアの背中を押した。




 同じ頃。


「――セリウスさん!」


 ミーナレイが、駆け込んできた。


「こっちの列、人手が足りないんです! 南の桟橋!」


「……南?」


「はい! 早く!」


 彼女は、彼の袖を引いた。




 ――そして。


 南の桟橋には、誰もいなかった。


 灯りは、十分に足りていた。木箱に、まだ二百ほど積んである。


 人手も、余っていた。というより、この桟橋を使っている者が、一人もいなかった。


 板は、他の桟橋より古かった。手すりが片側だけしかなく、その手すりも三分の一が失われている。


「…………」


「…………」


 二人は、桟橋の上で、向かい合っていた。


 ――そして、同時に、来た方向を振り返った。


 遠くの物陰で、二つの影が、慌てて隠れた。


 隠れ方が、あまりに下手だった。


「……あいつら」


「……ええ」


「わざとだな」


「……わざとよね」


 ――二人は、顔を見合わせた。


 ――そして、初めて、笑った。


【灯りを流す】


 桟橋の端に、灯籠が積まれていた。


 二人は、なんとなく、それを流し始めた。


 ――一つずつ、水面に置く。


 置く時、少しでも傾けると、中の蝋燭が消える。だから、両手で持って、水平のまま、指の力だけを抜いて離す。


 離した後、灯りは自分の重さで一度だけ沈んで、また浮き上がる。


 そこから、沖へ流れていった。


「……何万流すの、これ」


「四万二千」


 セリウスは答えた。


「――全部?」


「そうだ」


 彼は、灯りを置いた。


「一人一つだ。……死んだ人の分」


 リヴィアの手が、止まった。


「……四万二千人、死んだんですか」


「いや」


 彼は、首を振った。


「――四万二千人が、それぞれ、誰かを失った」


 彼は言った。


「重なってる人もいる。……だから、正確な数は分からん」


 彼は、次の灯りを取った。


「――でも、それでいいらしい」




 二人は、しばらく黙って、灯りを流した。


 波の音と、遠くの祈りの声だけが、聞こえていた。


 祈りは、旋律がなかった。同じ音を、大勢が別々の速さで唱えている。だから、途切れなかった。一人が息継ぎをしても、他の誰かが続いていた。


「……なあ」


 やがて、セリウスが言った。


「はい」


「――十年、何してたんだ」


 リヴィアの手が、止まった。


「……工場」


「工場?」


「魔鉄鉱の精錬工場。……事務員」


 彼女は言った。


「帳簿をつけて、伝票を数えて。……十年」


「…………」


「魔法は、一度も使わなかったの」


「――なんで」


「怖かったから」


 彼女は、正直に言った。


「あの日、私の魔法は、何も守れなかった」


 彼女は、灯りを置いた。


「――だから、二度と使わないって決めてたの」




 セリウスは、しばらく黙っていた。


「……そうか」


「あなたは」


 リヴィアが、聞いた。


「あなたは、十年、何を」


「――歩いてた」


 彼は答えた。


「歩いてた?」


「ああ」


 彼は、海を見た。


「あの日、力が尽きて倒れて。……気づいたら、知らない場所にいた」


 彼は言った。


「そこから、二年くらい、歩いてた」


「……二年」


「行くところが、なかったからな」


 彼は、少し笑った。


「――帰る国が、なかった」




「……ご両親は」


「――死んだ」


 彼は、あっさり言った。


 リヴィアの息が、止まった。


「え……」


「あの日だ」


 彼は言った。


「東の田舎町も、燃えた。……理由は分からん」


「…………」


「三年後に、行った」


 彼は、海を見たまま言った。


「家は、なかった。……庭の木だけ、残ってた」


 彼は、少し笑った。


「――親父が、あんなに手をかけてたのにな」


 彼は、灯りを置いた。


「伸び放題だった」




 リヴィアは、応じられなかった。


 ――十年前の、あの日。


 馬車の窓から見た、几帳面すぎるほど整えられた植木。日に焼けた小柄な男が、隣の家の楓の話を延々としていた家。


 「今度、連れてってやる」と、彼は言った。


 そこで彼女は「また、来てもいい?」と答えた。


 ――行けなかった。


 その家は、もう、この世にない。


「……セリウス」


「なんだ」


「……ごめんなさい」


「なんで、お前が謝る」


「……分からない」


 彼女は言った。


「――でも、謝りたかった」


【エマ】


 しばらく、二人とも黙っていた。


 灯りが、増えていく。


 海が、光で埋まっていく。


 二人の足元の板が、下から来る光で、うっすらと明るかった。板の隙間から、光が線になって上がってきていた。


 ――やがて、リヴィアが言った。


「……セリウス」


「ああ」


「一つ、聞いてほしいことがあります」


 彼女は、灯籠を持ったまま言った。


「……なんだ」


「――エマ、って子がいました」


 セリウスの動きが、止まった。




「十七歳でした」


 彼女は、灯りを流した。


「工場の、経理見習い。……私の、初めての友達です」


「…………」


「うるさい子でした。毎日、話しかけてきて」


 彼女は、少し笑った。


「私、十年、誰とも喋らずに生きてたんです。……なのに、あの子だけは、諦めなかった」


「…………」


「飴をくれるんです。蜂蜜の飴」


 彼女は言った。


「『甘いものは、人を笑顔にするんですよ』って」




 セリウスは、動かなかった。


 彼は、灯りを持ったまま、聞いていた。


「……給料日に、一緒に帰ることになって」


 リヴィアは、続けた。


「初めてでした。……誰かと、一緒に帰るのが」


「…………」


「あの子、ケーキの話をしてました。苺の乗ったケーキが食べたいって」


 彼女の声が、少し掠れた。


「――その帰りの、列車でした」




 セリウスの手から、灯籠が落ちた。


 水面に、ぽちゃんと落ちて、光が揺れた。


 蝋燭は、消えなかった。灯りは、他のものと同じ速さで、沖へ流れていった。


「…………」


「あなたの、爆弾です」


 リヴィアは言った。


 ――責める口調では、なかった。


 ただ、事実として。


「……リヴィア」


「――違うんです」


 彼女は、首を振った。


「え?」


「責めに来たんじゃないんです」


 彼女は言った。


「じゃあ、なんで」


「……」


 彼女は、しばらく言葉を探した。


「――あの子が、いたことを」


 彼女は言った。


「誰かに、知っていてほしかったんです」




 セリウスは、動けなかった。


「…………」


「あの子、名簿の一行なんです」


 リヴィアは、続けた。


「五百人の中の、一人。……死亡者名簿に、名前だけ」


「…………」


「でも、あの子は」


 彼女の声が、震えた。


「――苺のケーキが、好きだったんです」


 彼女は、灯りを流した。


「それを、知ってる人が、この世に何人いるかって」


 彼女は言った。


「――だから、一人でも増やしたくて」




 セリウスは、しばらく黙っていた。


 やがて、彼は、膝をついた。


 ――桟橋の、濡れた板の上に。


「……セリウス?」


「――エマさん、だな」


 彼は言った。


「……はい」


「十七歳。経理見習い。蜂蜜の飴」


 彼は、繰り返した。


「苺のケーキが、好きだった」


 彼は言った。


「――覚えた」


 彼は、顔を上げた。


 その目が、赤かった。


「もう、一人増えた」




 リヴィアの視界が、滲んだ。


 ――言えなかったことが、まだ一つ、あった。


 あの夜、鉄の骨組みは、力を通せば動いた。


 彼女は、一秒、迷った。その一秒で、袖をつまんでいた指から、力が抜けた。


(……この人に、言えば)


(たぶん、楽になる)


 彼女は、口を開きかけて――閉じた。


 この人は今、濡れた板に膝をついて、「覚えた」と言った。


 自分の荷を、そこへ載せるのは、違う。


「……ありがとう」


 彼女は、それだけ言った。


「――礼を言うな」


 彼は言った。


「俺が、殺した」


「…………」


「その事実は、変わらん」


 彼は、立ち上がった。膝の布が、濡れて色が変わっていた。


「――だが、覚えておく」


 彼は言った。


「死ぬまで、忘れない」


【カラム】


「……なあ」


 しばらくして、今度はセリウスが言った。


「はい」


「――俺からも、一つ、いいか」


「……はい」


 彼は、灯りを取った。


「二年前の、あの街で」


 彼は言った。


「――一人、殺した」


 リヴィアの手が、止まった。


「あんたの、隊長だ」


「…………」


「名前は、後で知った。……カラム・ディート」


 彼は、灯りを持ったまま言った。


「あの人、最後に、なんて言ったと思う」


 リヴィアは、首を振った。


「――『こんな顔で人を殺す奴じゃねえだろ』」


 セリウスの声が、震えた。


「そう、言われた」




 リヴィアの膝が、笑った。


(……あの人)


(――最期に、そんなことを)


「……あの人は」


 彼女は、掠れた声で言った。


「……ずっと、そういう人でした」


「…………」


「三刻でした。魔力は、隊で一番低くて」


 彼女は言った。


「でも、隊で一番、人を見てた」


「…………」


「初任務の前の夜、私が眠れずにいたら」


 彼女は、思い出しながら言った。


「白湯を持ってきてくれたんです。……砂糖入りの」


 彼女は、少し笑った。


「『ジンの隠し持ってたやつ、没収してきた』って」


「…………」


「そういう人でした」




 セリウスは、灯りを見つめていた。


「……あれから」


 彼は言った。


「鏡が、見られなくなった」


「え?」


「あの人に言われてから」


 彼は言った。


「――自分の顔を、見られない」


 彼は、灯りを水面に置いた。


「二年間、髭を剃らなかったのは、そのせいだ」


 リヴィアの息が、止まった。


「…………」


「鏡を見なきゃ、剃れんからな」


 彼は言った。


 ――だから。


 リヴィアは、気づいた。


(……今、剃ってる)


(――鏡が、見られるようになった)




「……いつから」


「三ヶ月前だ」


 彼は答えた。


「グレイから、手紙が来た」


 彼は言った。


「十七通目でな。……返事を出そうと思った」


 彼は、少し笑った。


「――で、返事を書く時に、思ったんだ」


「なにを」


「――『会いに行くなら、顔を洗おう』と」




 リヴィアは、その言葉を聞いて。


 ――何も、言えなかった。


 彼女の目から、涙が落ちた。


「……なに、それ」


「なんだよ」


「……なんで、そんな」


 彼女は、袖で目を拭った。


「――そんな理由で、剃るの」


「悪いか」


「……悪くない」


 彼女は言った。


「――悪くないです」


【約束】


 灯りの海が、遠くまで広がっていた。


 最初に流された灯りは、もう水平線の近くにあった。そこだけ、線が細くなって、点になっていた。


 二人は、しばらく、それを見ていた。


 ――やがて。


 リヴィアが、口を開いた。


「……ねえ、セリウス」


「なんだ」


「私、ずっと」


 彼女は、海を見たまま言った。


 ――言葉が、喉で止まった。


 十年間、言えなかった言葉だ。


 二年前は、剣を向けられた。その前は、燃える街で見送った。


 ――今しか、ない。


「――ずっと、あの日の約束を、忘れないの」




 風が、吹いた。


 灯りが、一斉に揺れた。


 五キロぶんの光が、同じ向きへ傾いで、また戻った。


 ――セリウスは、しばらく応じなかった。


 彼は、海を見ていた。


 その横顔に、灯りの色が映っていた。


 やがて。


「……ああ」


 彼は言った。


 その声は、掠れていた。


「――俺も、ずっと」


 彼は言った。


「忘れたことは、一度もない」




 リヴィアの目から、涙が落ちた。


「……嘘」


「嘘じゃない」


「……だって」


 彼女は、彼を見た。


「二年前、あなた、『関わるな』って」


「――言った」


「――『敵だ』って」


「言った」


 彼は、認めた。


「……なんで」


「――近づけば、お前が死ぬからだ」


 彼は言った。


「俺は、あの時、追われてた。……お前が俺に関われば、お前も追われる」


「…………」


「だから、突き放した」


 彼は、拳を握った。


「――何度も、そう言い聞かせた」


 彼は、目を伏せた。


「……本当は」


「…………」


「本当は、毎日、会いたかった」


【言えない】


「……あの朝」


 リヴィアは言った。


「え?」


「十年前の、あの朝」


 彼女は、彼を見た。


「あなた、何を言おうとしてたの」


 セリウスの動きが、止まった。


「…………」


「十年、考えてました」


 彼女は言った。


「毎日じゃないけど。……でも、ずっと」


「…………」


「――教えて」




 セリウスは、しばらく黙っていた。


 それから、手を伸ばした。


 彼女の頬に、触れかけて。


 ――止まった。


 指先が、頬から指一本ぶんの距離で、そこに留まっていた。


「……言えない」


「なんで」


「――言ったら」


 彼は言った。


「俺、たぶん、死ねなくなる」




 リヴィアの息が、止まった。


「……死ぬ気なの」


「死ぬ気はない」


「――嘘」


「…………」


「嘘でしょう」


 彼女は、詰め寄った。


「……ああ」


 彼は、認めた。


「嘘だ」


 彼は言った。


「俺がやったことは、償えない」


 彼の声は、低かった。


「五百人。街一つ。あんたの隊長」


 彼は言った。


「――終わったら、どこかで、区切りをつける」




「――ふざけないで」


 リヴィアが、彼の胸倉を掴んだ。


「リヴィア」


「十年、待ったのよ!?」


 彼女は、叫んだ。


「二回も、見送ったの!!」


 彼女の目から、涙が溢れた。


「燃える広場で! 焼けた聖都で! ――二回とも、背中しか見てない!」


「…………」


「――今度も、置いていくの!?」




 セリウスは、応じなかった。


 彼は、彼女を見ていた。


 その目が、揺れていた。


 ――そして。


 彼は、彼女を、抱き寄せた。


「……っ」


 リヴィアの体が、こわばった。


 ――そして、力が抜けた。


 彼女は、彼の胸に、額を預けた。




 ――心臓の音が、聞こえた。


 驚くほど、速かった。走った後のような打ち方だった。


(……この人)


(――まだ、こんな音を出すんだ)


 十年前の夜と、同じ音だった。


 白の塔の、あの部屋で聞いた音と。


 あの夜は、窓の外でエルデ樹の光が明滅していた。


 今は、海が光っていた。




「……リヴィア」


 彼が、耳元で言った。


「……なに」


「――全部、終わったら」


 彼は言った。


「今度こそ、言う」


「…………」


「だから」


 彼の腕に、力がこもった。


「――それまで、生きてる」




「……信じないから」


 リヴィアは言った。


「なんでだよ」


「あなた、十年前も同じこと言ったもの」


「…………」


「『終わったら、絶対に言う』って」


 彼女は、彼の胸に顔を埋めたまま言った。


「――そして、十年、言わなかった」


「……悪い」


「謝らないで」


 彼女は言った。


「――言って」




 セリウスは、応じなかった。


 彼は、彼女の髪に、手を触れた。


 ――そして、顔を上げさせた。


 二人の目が、合った。


 灯りの光が、二人を照らしていた。


 ――どちらからともなく、顔が近づいた。


 波の音が、遠くなった。海の灯りが、揺れた。


 ――そして。


【影】


 ――倉庫の陰で。


 カリン・ユエルは、動けなかった。


 倉庫は、漁具を入れる小屋だった。網が壁一面に掛かっていて、その隙間から、桟橋が見える。


 網の目は、細かかった。だから、向こうからは見えない。


 見てはいけないと、分かっていた。


 ――だが、足が、動かなかった。


 彼女は、その光景を見ていた。灯りの海を背にした、抱き合う二つの影を。




(……知ってた)


(最初から、知ってた)


 二年間。


 あの人が、夜中に飛び起きるたび。


 寝言で、女の名前を呼ぶたび。


 ――彼女は、知っていた。


(それでも)


 彼女は、拳を握った。網の目を、指が掴んでいた。


(――隣にいたのは、私だった)


(あの人が一番苦しかった時、隣にいたのは私だ)


(それだけは、あの女には奪えない)


 ――そう思うことで、彼女は、自分を支えた。




 ――その肩に、手が置かれた。


「――ひっ」


 彼女は、跳び上がった。網が、揺れた。


「しっ」


 白い顔が、そこにあった。


 ――仮面を、外したノーチェだった。


「……ノーチェさん」


「見ちゃったのね」


「…………」


「私も、見た」


 彼女は、あっさり言った。


「――たまたま、通りかかったのよ」


「嘘」


「嘘ね」


 彼女は、微笑んだ。




 二人は、並んで、海を見た。


 灯りが、まだ流れていた。


「……泣いていいのよ」


 ノーチェが言った。


「泣きません」


「そう」


 ノーチェは、それ以上、何も足さずに、ただ隣に立っていた。




 ――やがて。


 カリンが、小さく言った。


「……あの人」


「なあに」


「――笑ってた」


 彼女の声が、震えた。


「二年、見たことなかった」


「…………」


「私、二年、隣にいて」


 彼女は言った。


「――一度も、あんな顔、見せてもらえなかった」




 ノーチェは、応じなかった。


 カリンは、続けた。


「私ね、一度、あの人に聞いたことがあるの」


「なにを」


「『笑わないんですか』って」


 彼女は言った。


「そしたら、あの人」


 彼女の声が、掠れた。


「――『忘れた』って」


「…………」


「『笑い方を、忘れた』って言ったの」


 彼女は、俯いた。


「――私、それを、二年かけて思い出させようとしたのに」


 彼女は、拳を握った。網の糸が、指に食い込んだ。


「あの女は」


 彼女の声が、割れた。


「――一晩で」




 しばらく、沈黙が落ちた。


 やがて、カリンは、背を向けた。


「……悔しい」


 彼女は、それだけ言った。


「――だから、私、まだ諦めない」


 彼女は、歩き出した。


「……あら」


「あの人が笑えるなら、誰が笑わせてもいい」


 彼女は言った。


「――でも、私も笑わせたい」


 彼女は、振り返らずに言った。


「――それだけです」




 ノーチェは、その背中を見送った。


 小さく、呟いた。


「……強い子ねえ」


 彼女は、海を見た。


「――私には、無理だったわ」


【丘】


 ――丘の上で。


 グレイは、それを見ていた。


 丘は、港を見下ろす位置にある。ここからだと、灯りの帯が、水道の入口から沖まで、全部見えた。


 彼は、口を開かなかった。


 ただ、立っていた。


 ――その隣に、いつの間にか、人がいた。


「……見物か」


 オルドだった。


「――違います」


「嘘つけ」


 彼は、酒瓶を呷った。




 二人は、しばらく、灯りの海を見ていた。


「……お前」


 やがて、オルドが言った。


「はい」


「――あの子のこと、好きだったろ」


 グレイは、応じなかった。


 彼は、海を見ていた。


「……昔の話です」


「昔ねえ」


「はい」


「――どのくらい昔だ」


「……十四年前です」


 彼は答えた。


「十一歳の時。……あいつが、学級に来た日から」




 オルドは、酒を飲んだ。


「……で、何もしなかったのか」


「……はい」


「なんでだ」


「――セリウスが、先に手を差し出したので」


 彼は言った。


「俺は、教科書を渡すのが、精一杯でした」


「…………」


「あいつは、手を出した」


 彼は言った。


「――俺は、物を渡した」


 彼は、少し笑った。


「――そういう差です」




 オルドは、しばらく黙っていた。


「……お前」


「はい」


「――十年前、あの子を引きずって逃げたのは、お前だろ」


 グレイの動きが、止まった。


「……なぜ、それを」


「見てた」


 彼は、あっさり言った。


「……見て」


「見てた」


 彼は言った。


「――遠くからな」


 グレイは、拳を握った。


「……なぜ、助けなかった」


「助けたら、その後、離れられなくなるからだ」


 オルドは言った。


「――俺の答えは、それだけだ」




 グレイは、しばらく黙っていた。


 丘の下では、まだ灯りが流されていた。数が減って、間隔が空き始めている。


 やがて、言った。


「……あの時」


「うむ」


「――あいつは、ずっと叫んでました」


 彼は、海を見た。


「『セリウス』って」


 彼の声が、少し掠れた。


「腕の中で、ずっと」


「…………」


「――俺の名前は」


 彼は言った。


「――一度も、呼ばれてない」




 オルドは、応じなかった。


 彼は、酒瓶を差し出した。


 グレイは、それを受け取った。


 ――そして、一口飲んだ。


「……くそ」


 彼は、顔をしかめた。


「まずいですね」


「安酒だからな」


「…………」


「――だが、こういう夜には、ちょうどいい」


 オルドは言った。


 二人は、しばらく黙って、灯りの海を見ていた。


 瓶は、二度、行き来した。


【翌朝】


 翌朝。


 リヴィアが部屋の扉を開けると、床に、何かが置かれていた。


 ――小さな灯籠だった。


 ネフィラの民が作る、素朴な作りのもの。麻の紙は、生成りだった。四隅の糊が、少しはみ出している。


 中に、蝋燭が入っていた。


 ――使われていない、新しい蝋燭が。


 その底に、紙が一枚、挟まっていた。


 彼女は、それを開いた。


 一行だけ、書かれていた。


『――終わったら、言う』




 リヴィアは、それを胸に抱えた。


 窓の外を見ると、海が朝の光を跳ね返していた。


 昨夜の灯りは、もう、一つも残っていなかった。


 ――全部、沖へ流れていった。


 水面には、その跡すら、なかった。


 彼女は、灯籠を、窓辺に置いた。


 しばらく、それを見ていた。


(……絶対に)


(――絶対に、聞くから)



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