距離
【対立】
翌日から、リヴィアはオルドと、毎日顔を合わせることになった。
――作戦本部が、迎賓館の一室に置かれたからだ。
部屋は、元は舞踏の間だったらしい。天井の隅に、金の唐草の装飾が残っている。その下に、机が七つ、無造作に並べられていた。
壁には、地図が三枚。大陸全図と、群島の海図と、北のグラルド周辺図。海図には、航路が赤い糸で示してあった。糸の端は、錘の代わりに硬貨で押さえてある。
窓は、南向きだった。朝の九時を過ぎると光が入りすぎて、書類の字が読めなくなる。誰かが帆布を張ったが、風のある日には、それが一日じゅう鳴っていた。
彼女は黒翼の隊長として。
彼は、なぜかそこにいる男として。
――そして、二人は、ぎこちなかった。
目が合うと、両方が逸らす。
朝の挨拶が、噛み合わない。
「……おはようございます」
「……おう」
それだけで、会話が終わる。
リズが、それを見て、小声で言った。
「……ねえ、ミーナレイ」
「はい」
「あれ、なんとかならないの」
「なりませんね」
「そうよね」
三日目の会議で、ついに衝突した。
議題は、グラルド戦線への支援だった。
海図の北端に、駒が三つ置かれていた。帝国艦隊を示す黒い駒だ。三日前は二つだった。
「――船を出すべきです」
リヴィアは言った。
「北のグラルドは、今、単独で帝国軍と戦っています。……ボルガンドラーク殿が持ちこたえている間に、民間人の避難路を確保するべきです」
「――駄目だ」
オルドが、即答した。
彼は、机に足を乗せたまま、目も開けていなかった。
「なぜですか」
「船が足りん」
「二十隻でいい」
「その二十隻が、ここの生命線だ」
彼は言った。
「四万二千人だぞ。……食糧の輸送だけで、船は全部埋まってる」
「なら、往復を増やせば」
「増やせば、船が保たん」
彼の声が、低くなった。
「船は、休ませないと壊れる。……壊れたら、四万二千人が飢える」
「――でも、今、グラルドでは人が死んでます!」
リヴィアが、声を上げた。
その声が、天井の高い部屋に響いて、帆布の鳴る音を一度だけ押しのけた。
部屋が、静まり返った。
――七島の代表たちが、動きを止めた。
誰も、口を挟まなかった。
挟めなかった。
オルドは、しばらく彼女を見ていた。
初めて、目を開けていた。
それから、低い声で言った。
「……お前」
「はい」
「――目の前で人が死ぬのは、耐えられんか」
「……当然です」
「そうか」
彼は、頷いた。
「――じゃあ、ここで飢える四万二千は、耐えられるのか」
リヴィアの言葉が、詰まった。
「見えんところで死ぬ人間は、勘定に入らんのか」
「……そうは、言ってません」
「言ってる」
彼は言った。
「――今のお前は、そう言った」
部屋が、凍りついた。
リヴィアは、拳を握った。
――反論できなかった。
彼の言う通りだった。
彼女が見ているのは、グラルドで死ぬ人だ。ここで飢える人は、まだ死んでいないから、見えていない。
窓の外で、荷を運ぶ声がした。天幕の間から、いつもと同じ声が、いつもと同じ調子で上がってきていた。
「…………」
彼女は、俯いた。
「――ただしな」
オルドが言った。
「え?」
「――十隻なら、出せる」
言い方は、水を一杯やるとでも言うような調子だった。
「え?」
「二十は無理だ。十なら、無理をすれば出せる」
彼は、机に足を乗せたまま言った。
「そのかわり、往復を一回減らす。……食糧は、当面、一割減だ」
彼は、代表たちを見た。
「――文句あるか」
誰も、文句を言わなかった。
会議が終わった後。
部屋には、机の上に広げたままの海図と、二人だけが残っていた。
リヴィアは、彼の前に立った。
「……あの」
「なんだ」
「最初から、十隻出す気だったんですか」
「――ああ」
「じゃあ、なんで」
彼女は、言葉を選んだ。
「……なんで、あんな言い方を」
「言っておかんと、忘れるからだ」
彼は、椅子から足を下ろした。
「見えんところで死ぬ人間のことを、な」
彼は、立ち上がった。椅子の脚が、床の絨毯に窪みを残していた。
「――お前は、隊長だ」
彼は言った。
「五人の隊長なら、目の前だけ見てりゃいい」
彼は、扉へ向かった。
「――だが、お前はもう、それじゃ済まん」
【研ぐ】
その夜。
リヴィアは、桟橋にいた。
――一人で、剣を研いでいた。
桟橋は、板が三枚、抜けていた。避難民が薪にしたのだろう。その穴から、下の海が見えている。
彼女は、その手前に腰を下ろしていた。
水を張った小さな器と、砥石が二つ。荒砥と、仕上げ砥。どちらも、二年使って、真ん中が窪んでいた。
黒曜色の刃を、砥石に当てる。
しゃりん、と鳴る。
その音が、波の音に混ざって、また離れる。
――足音が、近づいてきた。
彼女は、顔を上げなかった。
誰か、分かっていたからだ。
板の軋み方が、昨日と同じだった。
オルドは、何も言わずに、彼女の隣に座った。
――そして、自分の剣を抜いた。
反りのある、古い剣だった。
鞘は、塗りが半分剥げていた。柄の巻きは、擦り切れた場所に別の紐が巻き足してある。その紐も、既に色が褪せていた。
彼は、それを研ぎ始めた。
――二人とも、口を開かなかった。
しゃりん、しゃりん、という音が、二つ。
少しずつ、ずれて、重なって、また離れる。
波が、桟橋の脚を叩いていた。
月が、海を照らしていた。潮が引きかけていて、桟橋の脚の付け根に、濡れた線が一本、残っている。
――三十分。
二人は、一言も交わさなかった。
やがて、オルドが、剣を鞘に収めた。
彼は、立ち上がった。
去りかけて――足を止めた。
「……おい」
「……はい」
「――その研ぎ方」
彼は、背を向けたまま言った。
「ルシェリアと、同じだ」
リヴィアの手が、止まった。
「……え?」
「刃を、下から上へ。……普通は、逆だ」
彼は言った。
「あいつも、そうやってた。……剣なんて、使わん女だったのにな」
彼は、少し笑った。
「――誰に習った」
「……独学です」
「そうか」
彼は言った。
「――ならば、血だな」
彼は、歩き出した。
リヴィアは、自分の手を見た。
――砥石に当てる、その角度を。
誰にも習っていない。訓練所でも、白の塔でも、逆を教わった。それでも、いつの間にか、この向きに戻っていた。
(……血)
彼女は、砥石を撫でた。
二十八年、知らなかった人と、同じ動きをしていた。
【まずい】
五日目。
リヴィアは、厨房の前を通りかかった。
迎賓館の厨房は、地下にあった。石段を六つ降りたところに扉がある。
――そして、足を止めた。
中から、怒鳴り声が聞こえてきたからだ。
「――だから、それは違うと言ってるだろうが!」
「うるさい! あんたに料理の何が分かるのよ!」
覗くと、オルドが、島の女と言い争っていた。
厨房は、暑かった。竈が四つ、全部に火が入っている。中央の鍋は、大人が二人がかりで持ち上げる大きさだった。避難民の炊き出し用だ。
湯気が天井に溜まって、そこから水滴になって落ちていた。
「塩を入れる順番が違う! 先に入れると、身が締まる!」
「あたし、三十年これでやってるの!」
「三十年、間違ってたんだ!」
「――出てけ!」
男が、鍋つかみで殴られて、厨房から追い出された。
――リヴィアと、目が合った。
「…………」
「…………」
「……何してるんですか」
「料理指導だ」
「追い出されてましたけど」
「――あいつが分かってないだけだ」
彼は言った。
肩に、鍋つかみの跡が白く残っていた。
リヴィアは、思わず聞いた。
「……料理、できるんですか」
「できる」
「意外です」
「――しなきゃ、死ぬからな」
彼は、あっさり言った。
「ルシェリアの飯を食い続けてたら、死んでた」
リヴィアは、思わず吹き出した。
「……そんなに、まずかったんですか」
「まずかった」
彼は、真顔のまま頷いた。肩の白い跡を、手の甲で払った。
「三日、寝込んだこともある」
「え」
「――だが、本人には言えん」
彼は言った。
「言ったら、三日、口をきいてもらえん」
彼は、石段の下の暗がりへ目をやった。
「――だから、俺が作るようになった」
彼は、厨房を見た。石段の下の暗がりから、湯気と、煮えた野菜の匂いが上がってきていた。
「『あんたの方が上手いから』って言ったら」
彼の声が、少し柔らかくなった。
「――『そうでしょう』って、威張りやがった」
リヴィアは、笑った。
――そして、気づいた。
この人は、話す時、いつも同じ順番だ。
まず、悪口を言う。次に、それが実は嬉しかったことを、後から言う。
(……素直じゃないのね)
(――私も、そうか)
【七日目】
七日目の夕方。
グレイは、丘の上でオルドを見かけた。
訓練場は、丘の南側の平らな窪地にあった。元は牧草地だったのを、リバースオーダーが均したものだ。地面は、踏み固められて硬い。
オルドは、その窪地を見下ろす岩に、座っていた。
――酒瓶を持っていた。
だが、飲んでいなかった。栓は、開いてすらいなかった。
訓練場では、リヴィアが剣を振っていた。
地面に、黒い線が何本も刻まれている。彼女が三日かけて刻んだ跡だった。線は、扇形に広がって、外側へ行くほど浅くなっていた。
「……何を、されているんですか」
グレイが声をかけると、彼は少し驚いた顔をした。
「……なんだ、お前か」
「見学ですか」
「――違う」
彼は言った。
「たまたま、ここに座ってただけだ」
「三日連続で、たまたまですか」
オルドは、応じなかった。
グレイは、その隣に立った。
――二人は、しばらく、訓練を見ていた。
夕陽が、窪地を斜めから照らしていた。彼女が剣を振るたび、黒い斬撃が空気を裂いて、そのあとに埃が舞い上がった。埃は、光の中で金色に見えた。
「……あいつは」
やがて、オルドが言った。
「なんですか」
「――剣を振る時、左肩が下がる」
彼は言った。
「疲れると、もっと下がる」
「……はい」
「あれは、直した方がいい」
「――言ってあげてください」
「言えるか」
彼は言った。
「二十八年、何もしてこなかった男が」
彼は、酒瓶を握った。
「――今さら、フォームの指導か?」
グレイは、少し黙った。
窪地から、剣の風切り音が、また一つ上がってきた。
それから、言った。
「――言った方がいいと思います」
「…………」
「あいつは」
彼は、訓練場を見た。
「――たぶん、そういうことを、ずっと待ってました」
オルドは、応じなかった。
――だが、その翌日。
彼は、訓練場に降りていった。
【距離】
八日目。
訓練場で、リヴィアが剣を振っていた。
――絶空の練習だった。
闇を溜め、振り下ろす。
黒い斬撃が、扇状に走る。
地面の線が、また一本、増えた。
――だが、彼女は、納得していなかった。
(……届かない)
三年前より、遥かに強くなった。
カリンにも勝てるようになった。
――だが。
(あの人には、届かない)
ヴァルグレイス。
あの、空気の底が消えるような圧を思い出すと、今でも指が震えた。
「――お前、それ、無駄が多いぞ」
背後から、声がした。
振り返ると、オルドが立っていた。
――酒瓶を、提げて。
「……無駄」
「ああ」
彼は、近づいてきた。
「お前のそれ、闇を『飛ばして』るだろ」
「……そうですけど」
「なんで飛ばす」
「え?」
「飛ばさなくていい」
彼は言った。
「――斬りたいのは、向こうだろ」
「……意味が、分かりません」
「そうか」
彼は、酒瓶を置いた。
地面の硬い場所を選んで、倒れないように立てた。
「――風は、空間だ」
彼は言った。
「俺の理は風だが、風そのものじゃない。……風が『在る場所』だ」
彼は、手を上げた。
――そして、軽く振った。
その動きの後、一拍あった。
十メートル先の木が、揺れた。
枝の先が、まとめて一方向へしなり、葉が三十枚ほど、いっぺんに散った。
――間の空気は、動いていなかった。
リヴィアの髪も、二人の間の埃も、まったく揺れなかった。
「……え?」
「――こっちから、あっちへ、風を送ったんじゃない」
彼は言った。
「――あっちで、風を吹かせた」
リヴィアは、その木を見ていた。
散った葉が、まだ落ちきっていなかった。
「……そんなことが」
「できる。……理屈は同じだ」
彼は、地面に落ちた葉の一枚を、爪先で指した。
「お前は、剣先で闇を作って、飛ばしてる」
「はい」
「――なんで、向こうで作らん」
リヴィアの動きが、止まった。
(……向こうで、作る)
彼女は、斑を思い出した。
あれは、複数の陣を空中に展開する技だ。
――陣は、離れた場所に作れる。
三年前の氷の聖堂では、周囲二メートルに十二。二年前の廃墟では、四つ。
あの陣を、どこまで遠くへ置けるか。
考えたことが、一度もなかった。
(……じゃあ、もっと遠くに)
(――敵の、真上に)
「……できるんですか」
「知らん」
オルドは、あっさり言った。
「俺は風だ。闇は分からん」
「…………」
「――だが」
彼は、彼女を見た。
「理屈は、同じはずだ」
彼は言った。
「距離ってのはな、思い込みだ」
彼は、酒瓶を取った。
「――ここと、あそこの間に、線を引いてるのは、自分だ」
リヴィアの背筋が、震えた。
――線。
シキナの山で、餅を焦がす老人が言った言葉と、繋がった。
「……やってみます」
「おう」
「――あの」
「なんだ」
「教えて、くれるんですか」
オルドは、少し黙った。
それから、そっぽを向いた。
「……別に」
彼は言った。
「――暇だっただけだ」
彼は、歩き出した。
「毎日、暇だ。……何もすることがない」
彼は、手を振った。
「――だから、明日も来る」
――そして、三歩進んで、足を止めた。
「……おい」
「はい」
「――お前、左肩が下がる」
リヴィアは、自分の肩を見た。
「え?」
「疲れると、もっと下がる」
彼は、背を向けたまま言った。
「――そのうち、致命傷になるぞ」
「……直します」
「おう」
彼は、歩き出した。
「……あの」
「なんだ」
「――いつから、見てたんですか」
オルドの足が、止まった。
「…………」
彼は、応じなかった。
「――たまたまだ」
彼は、それだけ言って去っていった。
リヴィアは、その背中を見送った。
――そして、小さく笑った。
(……素直じゃない)
【握り飯】
十二日目。
リヴィアは、徹夜で作戦図を見ていた。
――グラルドの地形図と、ボルガンドラークが持ちこたえている戦線。その上に、支援船の航路と、潮の流れと、帝国艦隊の配置を、三色の紐で重ねてあった。
机の上の魔導灯は、朝方には芯が短くなって、光の輪が机の端まで届かなくなっていた。
彼女は、その輪の中だけで、地図を動かして見ていた。
気づけば、窓が白んでいた。
「…………」
彼女は、目をこすった。
――そして。
机の端に、何かが置かれていた。
布に包まれた、握り飯が三つ。
布は、島の柄だった。厨房で使っているのと、同じ模様。
まだ、温かかった。
「……え」
彼女は、周囲を見回した。
誰も、いなかった。
――窓が、指二本ぶんだけ、開いていた。
昨夜、彼女はそれを閉めた覚えがあった。
彼女は、握り飯を一つ、手に取った。
――中身は、梅と、魚の身だった。
塩加減が、絶妙だった。米の握り方も、崩れる寸前まで緩い。歯を当てると、そこから解けた。
(……美味しい)
彼女は、それを食べながら、思った。
(……あの人、ほんとに料理できるんだ)
その日、彼女は、彼に礼を言わなかった。
――言えば、たぶん「知らん」と言われる。
だから、言わなかった。
――だが、翌朝も、置かれていた。その翌朝も、そのまた翌朝も。五日、続けて。
四日目は、中身が変わっていた。梅と、干した魚と、青い菜。五日目は、また梅に戻っていた。
六日目の朝、彼女は窓の外に、紙を一枚貼った。
窓枠の、内側から見える位置に。糊がなかったので、小刀の先で挟んだ。
『――ありがとう』
それだけ、書いて。
――その日から、握り飯が四つになった。
【三人の夜】
十八日目の夜。
迎賓館の、小さな一室。
――グレイと、オルドと、リヴィア。
三人で、酒を飲んでいた。
きっかけは、些細なことだった。
グレイが作戦の報告に来て、そこにオルドがいて、なんとなく酒が出てきた。
――それだけだった。
部屋は、狭かった。卓が一つと、椅子が三脚。窓が一つ。
窓は開けてあった。夜の海風が入ってきて、卓の上の紙を時々めくった。誰も、押さえなかった。
卓の上に、空になった瓶が二本。三本目が、まだ半分残っていた。
「――で、だ」
オルドが、既に赤い顔で言った。
「お前ら、エルデナの学校だったんだろ」
「……はい」
「聞いてるぞ」
彼は、にやりと笑った。
「あの、金髪の坊主も一緒だったんだろ」
「セリウスのことですか」
「そうそう。……あいつ、昔から馬鹿だったのか」
「――馬鹿でした」
グレイが、即答した。
「グレイ!」
「事実だ」
彼は、酒を飲んだ。
「座学の点数が、六十一点だった」
「六十一!?」
オルドが、吹き出した。卓の紙が、一枚、床へ落ちた。
「そりゃ馬鹿だ」
「――今は、組織のトップです」
「余計、馬鹿だな」
三人が、笑った。
「――で、お前は」
オルドが、リヴィアを見た。
「なんですか」
「何番だった」
「……次席です」
「首席は」
「――グレイです」
「ほう」
彼は、グレイを見た。
「じゃあ、お前が一番賢いのか」
「座学だけです」
グレイは言った。
「実技はセリウスが首席で、リヴィアが次席でした」
「じゃあ、お前は」
「……実技も、次席でした」
「なんだそりゃ」
オルドが、笑った。
「器用貧乏か」
「……そうですね」
グレイは、少し苦笑した。
「――昔から、そうです」
「――でも、グレイは」
リヴィアが言った。
「え?」
「――一番、みんなの世話をしてました」
グレイの動きが、止まった。
「…………」
「セリウスを毎朝起こすのも、グレイでした」
彼女は言った。
「私が教科書を持ってなかった時、黙って予備をくれたのも」
「……古いことを」
「覚えてるわよ」
彼女は言った。
「――あなた、いつも、二冊持ってたでしょう」
「…………」
「あれ、予備じゃなかったでしょ」
リヴィアは言った。
「――私のために、買ってたんでしょう」
グレイは、応じなかった。
彼は、酒を飲んだ。
――耳が、少し赤かった。
「……昔の話だ」
「そうね」
彼女は、少し笑った。
「――でも、覚えてる」
オルドが、二人を見ていた。
それから、酒を注ぎながら、ぽつりと言った。
「……いい仲間だな」
「……はい」
「――俺には、いなかった」
彼は言った。
窓から入る風が、その一言の後で、紙を一枚めくった。
「……セイクリッドルートの、皆さんは」
「あれは、仲間じゃない」
彼は、あっさり言った。
「五百年、たまに顔を合わせるだけだ。……年に一回、飯を食って、文句を言い合って、解散する」
「…………」
「――仲間ってのは、毎日会う奴のことだろ」
彼は、酒を飲んだ。
「千年生きてな」
彼は言った。
「――毎日会う奴が、一人もおらん」
リヴィアは、その言葉を、黙って聞いていた。
(……この人)
(――ずっと、一人だったんだ)
千年、彼は誰とも深く関わらずに生きてきた。関われば、その相手の方が先に死ぬからだ。
(――だから、酒場にいたのか)
毎晩、同じ酒場の同じ椅子で三十年。名前を呼ばれて、笑われて、勝手に酒代を払われて。
――それが、彼にとっての、精一杯の「毎日」だったのだ。
【ネフェリス】
夜が更けた頃。
グレイが、席を外した。
――二人だけになった。
三本目の瓶が、空になっていた。オルドは、四本目の栓を抜いた。
彼は、既にかなり酔っていた。
「……なあ」
「はい」
「ネフェリスのこと、聞くか」
リヴィアの手が、止まった。
「……いいんですか」
「酔ってるからな」
彼は言った。
「――酔ってなきゃ、言わん」
彼は、酒を注いだ。杯の縁から、少しこぼれた。彼は、それを拭かなかった。
「――あの女とな」
彼は言った。
「あいつは、昔、恋仲だった」
リヴィアの息が、止まった。
「……あいつ、というのは」
「ヴァルルシオンだ」
「…………」
「五百年より、もっと前だ」
彼は言った。
「六人で集まるようになった、最初の頃だな」
彼は、天井を見た。梁に、蜘蛛の巣が張っていた。
「あの頃のあいつは、いい男だった」
「…………」
「よく笑って、よく飲んで、人の話をよく聞いた」
彼は言った。
「――俺は、好きだった」
「……いつから、変わったんですか」
「分からん」
彼は、天井の蜘蛛の巣から目を離さずに首を振った。
「少しずつだ。……気づいたら、変わってた」
彼は、杯を持ち上げて、口をつけずに置いた。
「最初は、『世界を良くしたい』だった」
「…………」
「次に、『世界を一つにしたい』になった」
彼は言った。
「――で、最後に、『一つにするために、全部殺す』になった」
彼は、杯を置いた。
「その間、たぶん、二百年くらいだ」
「――そして、五百年前」
彼は、続けた。
「俺たちは、あいつを封じることにした」
「…………」
「だが、正面からやったら、勝てん」
彼は言った。
「あの頃から、あいつが一番強かった」
「……じゃあ、どうやって」
「――誰かが、油断させる必要があった」
オルドの声が、低くなった。
リヴィアは、その先を、聞きたくないと思った。
――だが、聞かなければならなかった。
「……誰が」
「ネフェリスが、手を挙げた」
部屋が、静まり返った。
窓から入る風だけが、卓の紙を、また一枚めくった。
「…………」
「あの女はな」
彼は言った。
「――あいつを、抱いた」
リヴィアは、目を伏せた。
「そして、寝てる間に、檻を仕込んだ」
彼は、杯の中身を半分ほど飲んだ。喉が、二度、鳴った。
「あいつの体の中に、土の檻をな。……三ヶ月かけて、少しずつ」
「…………」
「そして、俺たちが、残りを封じた」
彼は、杯を置いた。
「――そういう女だ」
「…………」
リヴィアは、しばらく黙っていた。
小さく、聞いた。
「……ネフェリス殿は」
「うむ」
「――好きだったんですか」
オルドは、応じなかった。
長い、長い沈黙があった。
窓の外で、波の音が、三度、寄せて返した。
やがて、彼は言った。
「――五百年」
彼は言った。
「あの女は、五百年、後悔してた」
リヴィアの喉が、鳴った。
「年に一度、俺たちは集まる」
彼は言った。
「そのたびに、あいつは言うんだ」
彼は、四本目の瓶を傾けた。注ぐ手が、揺れていた。
「――『わたくしは、正しかったのかしら』と」
彼は、それを飲み干した。
「五百回だ」
彼は言った。
「五百回、同じことを聞かれた」
「……あなたは、なんて答えたんですか」
「――『正しかった』と言った」
彼は、卓の木目を指でなぞった。
「毎回な」
「…………」
「――嘘だ」
彼は、杯を置いた。
「正しかったかどうかなんて、俺には分からん」
彼は言った。
「――だが、そう言わなきゃ、あの女が保たん」
リヴィアは、その話を聞いて。
――ある、恐ろしいことに気づいた。
「……オルドさん」
「なんだ」
「――だから」
彼女の声が、震えた。
「だから、ネフィラが、最初だったんですか」
オルドは、応じなかった。
彼は、窓の外を見た。
――そして、低い声で言った。
「――あいつはな」
彼は言った。
「五百年、恨んでたんだ」
彼の声が、低くなった。
「封じられたことじゃない」
彼は、拳を握った。
「――騙されたことを、だ」
⸻
リヴィアの背筋が、凍った。
「…………」
「愛してた女に、寝首をかかれた」
彼は言った。
「――あいつは、それを五百年、封の中で考え続けた」
彼は、酒瓶を取った。
だが、既に空だった。
彼は、それを置いた。瓶の底が、卓を一度、鳴らした。
「――だから、最初にネフィラへ行った」
彼は言った。
「軍事的な理由じゃない。地理的な理由でもない」
彼の声が、掠れた。
「――あの女に、会いに行ったんだ」
リヴィアは、動けなかった。
二十万の軍勢。四万二千の避難民。
九日間、一人で戦い続けた女王。
――その全部が。
「……そんな理由で」
「そんな理由でだ」
オルドは言った。
「――五百年、恋を拗らせた男の、それが答えだ」
【お父さん】
夜が、深まった。
オルドは、椅子で寝てしまっていた。
卓の上に、空の瓶が四本。杯が二つ。
リヴィアは、彼に毛布をかけた。
――そして、しばらく、その寝顔を見ていた。
深い皺と、日に焼けた肌と、伸び放題の髭。どう見ても、五十を少し過ぎたあたりの顔だった。
――千年、生きてきた顔だった。
(……この人)
(――ずっと、誰かの話をしてる)
ルシェリアの話。ネフェリスの話。ヴァルルシオンの話。
――自分の話は、一度もしていない。
(……どんな人生だったんだろう)
(――千年)
彼女は、窓を閉めた。
それから、部屋を出ようとした。
――そして、扉の前で、足を止めた。
振り返る。
眠っている男を、見る。
――そして、彼女は、小さく言った。
「……おやすみなさい」
彼女は、少し迷った。
「――お父さん」
――そこで。
「ぶっ!!」
オルドが、酒を吹いた。
「わ!? 起きてたんですか!?」
「――寝てた!!」
彼は、跳ね起きた。椅子が、後ろへ倒れた。
「今のは、寝言だ! 俺が! 寝ぼけて!」
「意味が分かりません!」
「――もう一回言え!」
「言いません!」
「一回でいい!」
「言いません!!」
彼女は、真っ赤になって、部屋を飛び出した。
――扉が閉まった後。
オルドは、しばらく、動かなかった。
倒れた椅子も、起こさなかった。
それから、両手で顔を覆った。
「…………」
彼の肩が、震えていた。
――泣いていた。
千年生きた男が、床に座り込んだまま、声を殺して泣いていた。
「……ルシェリア」
彼は言った。
「――聞いたか」
窓は、閉まっていた。
それなのに、部屋の空気が、一度だけ動いた。
卓の上の紙が、二枚、めくれた。
「……あいつ、俺のこと」
彼の声が、割れた。
「――『お父さん』って、言いやがった」




