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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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距離

【対立】


 翌日から、リヴィアはオルドと、毎日顔を合わせることになった。


 ――作戦本部が、迎賓館の一室に置かれたからだ。


 部屋は、元は舞踏の間だったらしい。天井の隅に、金の唐草の装飾が残っている。その下に、机が七つ、無造作に並べられていた。


 壁には、地図が三枚。大陸全図と、群島の海図と、北のグラルド周辺図。海図には、航路が赤い糸で示してあった。糸の端は、錘の代わりに硬貨で押さえてある。


 窓は、南向きだった。朝の九時を過ぎると光が入りすぎて、書類の字が読めなくなる。誰かが帆布を張ったが、風のある日には、それが一日じゅう鳴っていた。


 彼女は黒翼の隊長として。


 彼は、なぜかそこにいる男として。


 ――そして、二人は、ぎこちなかった。


 目が合うと、両方が逸らす。


 朝の挨拶が、噛み合わない。


「……おはようございます」


「……おう」


 それだけで、会話が終わる。


 リズが、それを見て、小声で言った。


「……ねえ、ミーナレイ」


「はい」


「あれ、なんとかならないの」


「なりませんね」


「そうよね」




 三日目の会議で、ついに衝突した。


 議題は、グラルド戦線への支援だった。


 海図の北端に、駒が三つ置かれていた。帝国艦隊を示す黒い駒だ。三日前は二つだった。


「――船を出すべきです」


 リヴィアは言った。


「北のグラルドは、今、単独で帝国軍と戦っています。……ボルガンドラーク殿が持ちこたえている間に、民間人の避難路を確保するべきです」


「――駄目だ」


 オルドが、即答した。


 彼は、机に足を乗せたまま、目も開けていなかった。


「なぜですか」


「船が足りん」


「二十隻でいい」


「その二十隻が、ここの生命線だ」


 彼は言った。


「四万二千人だぞ。……食糧の輸送だけで、船は全部埋まってる」


「なら、往復を増やせば」


「増やせば、船が保たん」


 彼の声が、低くなった。


「船は、休ませないと壊れる。……壊れたら、四万二千人が飢える」


「――でも、今、グラルドでは人が死んでます!」


 リヴィアが、声を上げた。


 その声が、天井の高い部屋に響いて、帆布の鳴る音を一度だけ押しのけた。


 部屋が、静まり返った。




 ――七島の代表たちが、動きを止めた。


 誰も、口を挟まなかった。


 挟めなかった。


 オルドは、しばらく彼女を見ていた。


 初めて、目を開けていた。


 それから、低い声で言った。


「……お前」


「はい」


「――目の前で人が死ぬのは、耐えられんか」


「……当然です」


「そうか」


 彼は、頷いた。


「――じゃあ、ここで飢える四万二千は、耐えられるのか」


 リヴィアの言葉が、詰まった。


「見えんところで死ぬ人間は、勘定に入らんのか」


「……そうは、言ってません」


「言ってる」


 彼は言った。


「――今のお前は、そう言った」




 部屋が、凍りついた。


 リヴィアは、拳を握った。


 ――反論できなかった。


 彼の言う通りだった。


 彼女が見ているのは、グラルドで死ぬ人だ。ここで飢える人は、まだ死んでいないから、見えていない。


 窓の外で、荷を運ぶ声がした。天幕の間から、いつもと同じ声が、いつもと同じ調子で上がってきていた。


「…………」


 彼女は、俯いた。


「――ただしな」


 オルドが言った。


「え?」


「――十隻なら、出せる」


 言い方は、水を一杯やるとでも言うような調子だった。


「え?」


「二十は無理だ。十なら、無理をすれば出せる」


 彼は、机に足を乗せたまま言った。


「そのかわり、往復を一回減らす。……食糧は、当面、一割減だ」


 彼は、代表たちを見た。


「――文句あるか」


 誰も、文句を言わなかった。




 会議が終わった後。


 部屋には、机の上に広げたままの海図と、二人だけが残っていた。


 リヴィアは、彼の前に立った。


「……あの」


「なんだ」


「最初から、十隻出す気だったんですか」


「――ああ」


「じゃあ、なんで」


 彼女は、言葉を選んだ。


「……なんで、あんな言い方を」


「言っておかんと、忘れるからだ」


 彼は、椅子から足を下ろした。


「見えんところで死ぬ人間のことを、な」


 彼は、立ち上がった。椅子の脚が、床の絨毯に窪みを残していた。


「――お前は、隊長だ」


 彼は言った。


「五人の隊長なら、目の前だけ見てりゃいい」


 彼は、扉へ向かった。


「――だが、お前はもう、それじゃ済まん」


【研ぐ】


 その夜。


 リヴィアは、桟橋にいた。


 ――一人で、剣を研いでいた。


 桟橋は、板が三枚、抜けていた。避難民が薪にしたのだろう。その穴から、下の海が見えている。


 彼女は、その手前に腰を下ろしていた。


 水を張った小さな器と、砥石が二つ。荒砥と、仕上げ砥。どちらも、二年使って、真ん中が窪んでいた。


 黒曜色の刃を、砥石に当てる。


 しゃりん、と鳴る。


 その音が、波の音に混ざって、また離れる。


 ――足音が、近づいてきた。


 彼女は、顔を上げなかった。


 誰か、分かっていたからだ。


 板の軋み方が、昨日と同じだった。


 オルドは、何も言わずに、彼女の隣に座った。


 ――そして、自分の剣を抜いた。


 反りのある、古い剣だった。


 鞘は、塗りが半分剥げていた。柄の巻きは、擦り切れた場所に別の紐が巻き足してある。その紐も、既に色が褪せていた。


 彼は、それを研ぎ始めた。




 ――二人とも、口を開かなかった。


 しゃりん、しゃりん、という音が、二つ。


 少しずつ、ずれて、重なって、また離れる。


 波が、桟橋の脚を叩いていた。


 月が、海を照らしていた。潮が引きかけていて、桟橋の脚の付け根に、濡れた線が一本、残っている。


 ――三十分。


 二人は、一言も交わさなかった。




 やがて、オルドが、剣を鞘に収めた。


 彼は、立ち上がった。


 去りかけて――足を止めた。


「……おい」


「……はい」


「――その研ぎ方」


 彼は、背を向けたまま言った。


「ルシェリアと、同じだ」


 リヴィアの手が、止まった。


「……え?」


「刃を、下から上へ。……普通は、逆だ」


 彼は言った。


「あいつも、そうやってた。……剣なんて、使わん女だったのにな」


 彼は、少し笑った。


「――誰に習った」


「……独学です」


「そうか」


 彼は言った。


「――ならば、血だな」


 彼は、歩き出した。


 リヴィアは、自分の手を見た。


 ――砥石に当てる、その角度を。


 誰にも習っていない。訓練所でも、白の塔でも、逆を教わった。それでも、いつの間にか、この向きに戻っていた。


(……血)


 彼女は、砥石を撫でた。


 二十八年、知らなかった人と、同じ動きをしていた。


【まずい】


 五日目。


 リヴィアは、厨房の前を通りかかった。


 迎賓館の厨房は、地下にあった。石段を六つ降りたところに扉がある。


 ――そして、足を止めた。


 中から、怒鳴り声が聞こえてきたからだ。


「――だから、それは違うと言ってるだろうが!」


「うるさい! あんたに料理の何が分かるのよ!」


 覗くと、オルドが、島の女と言い争っていた。


 厨房は、暑かった。竈が四つ、全部に火が入っている。中央の鍋は、大人が二人がかりで持ち上げる大きさだった。避難民の炊き出し用だ。


 湯気が天井に溜まって、そこから水滴になって落ちていた。


「塩を入れる順番が違う! 先に入れると、身が締まる!」


「あたし、三十年これでやってるの!」


「三十年、間違ってたんだ!」


「――出てけ!」


 男が、鍋つかみで殴られて、厨房から追い出された。


 ――リヴィアと、目が合った。


「…………」


「…………」


「……何してるんですか」


「料理指導だ」


「追い出されてましたけど」


「――あいつが分かってないだけだ」


 彼は言った。


 肩に、鍋つかみの跡が白く残っていた。


 リヴィアは、思わず聞いた。


「……料理、できるんですか」


「できる」


「意外です」


「――しなきゃ、死ぬからな」


 彼は、あっさり言った。


「ルシェリアの飯を食い続けてたら、死んでた」


 リヴィアは、思わず吹き出した。


「……そんなに、まずかったんですか」


「まずかった」


 彼は、真顔のまま頷いた。肩の白い跡を、手の甲で払った。


「三日、寝込んだこともある」


「え」


「――だが、本人には言えん」


 彼は言った。


「言ったら、三日、口をきいてもらえん」


 彼は、石段の下の暗がりへ目をやった。


「――だから、俺が作るようになった」


 彼は、厨房を見た。石段の下の暗がりから、湯気と、煮えた野菜の匂いが上がってきていた。


「『あんたの方が上手いから』って言ったら」


 彼の声が、少し柔らかくなった。


「――『そうでしょう』って、威張りやがった」




 リヴィアは、笑った。


 ――そして、気づいた。


 この人は、話す時、いつも同じ順番だ。


 まず、悪口を言う。次に、それが実は嬉しかったことを、後から言う。


(……素直じゃないのね)


(――私も、そうか)


【七日目】


 七日目の夕方。


 グレイは、丘の上でオルドを見かけた。


 訓練場は、丘の南側の平らな窪地にあった。元は牧草地だったのを、リバースオーダーが均したものだ。地面は、踏み固められて硬い。


 オルドは、その窪地を見下ろす岩に、座っていた。


 ――酒瓶を持っていた。


 だが、飲んでいなかった。栓は、開いてすらいなかった。


 訓練場では、リヴィアが剣を振っていた。


 地面に、黒い線が何本も刻まれている。彼女が三日かけて刻んだ跡だった。線は、扇形に広がって、外側へ行くほど浅くなっていた。


「……何を、されているんですか」


 グレイが声をかけると、彼は少し驚いた顔をした。


「……なんだ、お前か」


「見学ですか」


「――違う」


 彼は言った。


「たまたま、ここに座ってただけだ」


「三日連続で、たまたまですか」


 オルドは、応じなかった。


 グレイは、その隣に立った。


 ――二人は、しばらく、訓練を見ていた。


 夕陽が、窪地を斜めから照らしていた。彼女が剣を振るたび、黒い斬撃が空気を裂いて、そのあとに埃が舞い上がった。埃は、光の中で金色に見えた。


「……あいつは」


 やがて、オルドが言った。


「なんですか」


「――剣を振る時、左肩が下がる」


 彼は言った。


「疲れると、もっと下がる」


「……はい」


「あれは、直した方がいい」


「――言ってあげてください」


「言えるか」


 彼は言った。


「二十八年、何もしてこなかった男が」


 彼は、酒瓶を握った。


「――今さら、フォームの指導か?」


 グレイは、少し黙った。


 窪地から、剣の風切り音が、また一つ上がってきた。


 それから、言った。


「――言った方がいいと思います」


「…………」


「あいつは」


 彼は、訓練場を見た。


「――たぶん、そういうことを、ずっと待ってました」


 オルドは、応じなかった。


 ――だが、その翌日。


 彼は、訓練場に降りていった。


【距離】


 八日目。


 訓練場で、リヴィアが剣を振っていた。


 ――絶空の練習だった。


 闇を溜め、振り下ろす。


 黒い斬撃が、扇状に走る。


 地面の線が、また一本、増えた。


 ――だが、彼女は、納得していなかった。


(……届かない)


 三年前より、遥かに強くなった。


 カリンにも勝てるようになった。


 ――だが。


(あの人には、届かない)


 ヴァルグレイス。


 あの、空気の底が消えるような圧を思い出すと、今でも指が震えた。


「――お前、それ、無駄が多いぞ」


 背後から、声がした。


 振り返ると、オルドが立っていた。


 ――酒瓶を、提げて。


「……無駄」


「ああ」


 彼は、近づいてきた。


「お前のそれ、闇を『飛ばして』るだろ」


「……そうですけど」


「なんで飛ばす」


「え?」


「飛ばさなくていい」


 彼は言った。


「――斬りたいのは、向こうだろ」




「……意味が、分かりません」


「そうか」


 彼は、酒瓶を置いた。


 地面の硬い場所を選んで、倒れないように立てた。


「――風は、空間だ」


 彼は言った。


「俺の理は風だが、風そのものじゃない。……風が『在る場所』だ」


 彼は、手を上げた。


 ――そして、軽く振った。




 その動きの後、一拍あった。


 十メートル先の木が、揺れた。


 枝の先が、まとめて一方向へしなり、葉が三十枚ほど、いっぺんに散った。


 ――間の空気は、動いていなかった。


 リヴィアの髪も、二人の間の埃も、まったく揺れなかった。


「……え?」


「――こっちから、あっちへ、風を送ったんじゃない」


 彼は言った。


「――あっちで、風を吹かせた」


 リヴィアは、その木を見ていた。


 散った葉が、まだ落ちきっていなかった。


「……そんなことが」


「できる。……理屈は同じだ」


 彼は、地面に落ちた葉の一枚を、爪先で指した。


「お前は、剣先で闇を作って、飛ばしてる」


「はい」


「――なんで、向こうで作らん」




 リヴィアの動きが、止まった。


(……向こうで、作る)


 彼女は、斑を思い出した。


 あれは、複数の陣を空中に展開する技だ。


 ――陣は、離れた場所に作れる。


 三年前の氷の聖堂では、周囲二メートルに十二。二年前の廃墟では、四つ。


 あの陣を、どこまで遠くへ置けるか。


 考えたことが、一度もなかった。


(……じゃあ、もっと遠くに)


(――敵の、真上に)


「……できるんですか」


「知らん」


 オルドは、あっさり言った。


「俺は風だ。闇は分からん」


「…………」


「――だが」


 彼は、彼女を見た。


「理屈は、同じはずだ」


 彼は言った。


「距離ってのはな、思い込みだ」


 彼は、酒瓶を取った。


「――ここと、あそこの間に、線を引いてるのは、自分だ」


 リヴィアの背筋が、震えた。


 ――線。


 シキナの山で、餅を焦がす老人が言った言葉と、繋がった。




「……やってみます」


「おう」


「――あの」


「なんだ」


「教えて、くれるんですか」


 オルドは、少し黙った。


 それから、そっぽを向いた。


「……別に」


 彼は言った。


「――暇だっただけだ」


 彼は、歩き出した。


「毎日、暇だ。……何もすることがない」


 彼は、手を振った。


「――だから、明日も来る」


 ――そして、三歩進んで、足を止めた。


「……おい」


「はい」


「――お前、左肩が下がる」


 リヴィアは、自分の肩を見た。


「え?」


「疲れると、もっと下がる」


 彼は、背を向けたまま言った。


「――そのうち、致命傷になるぞ」


「……直します」


「おう」


 彼は、歩き出した。


「……あの」


「なんだ」


「――いつから、見てたんですか」


 オルドの足が、止まった。


「…………」


 彼は、応じなかった。


「――たまたまだ」


 彼は、それだけ言って去っていった。


 リヴィアは、その背中を見送った。


 ――そして、小さく笑った。


(……素直じゃない)


【握り飯】


 十二日目。


 リヴィアは、徹夜で作戦図を見ていた。


 ――グラルドの地形図と、ボルガンドラークが持ちこたえている戦線。その上に、支援船の航路と、潮の流れと、帝国艦隊の配置を、三色の紐で重ねてあった。


 机の上の魔導灯は、朝方には芯が短くなって、光の輪が机の端まで届かなくなっていた。


 彼女は、その輪の中だけで、地図を動かして見ていた。


 気づけば、窓が白んでいた。


「…………」


 彼女は、目をこすった。


 ――そして。


 机の端に、何かが置かれていた。


 布に包まれた、握り飯が三つ。


 布は、島の柄だった。厨房で使っているのと、同じ模様。


 まだ、温かかった。


「……え」


 彼女は、周囲を見回した。


 誰も、いなかった。


 ――窓が、指二本ぶんだけ、開いていた。


 昨夜、彼女はそれを閉めた覚えがあった。


 彼女は、握り飯を一つ、手に取った。


 ――中身は、梅と、魚の身だった。


 塩加減が、絶妙だった。米の握り方も、崩れる寸前まで緩い。歯を当てると、そこから解けた。


(……美味しい)


 彼女は、それを食べながら、思った。


(……あの人、ほんとに料理できるんだ)




 その日、彼女は、彼に礼を言わなかった。


 ――言えば、たぶん「知らん」と言われる。


 だから、言わなかった。


 ――だが、翌朝も、置かれていた。その翌朝も、そのまた翌朝も。五日、続けて。


 四日目は、中身が変わっていた。梅と、干した魚と、青い菜。五日目は、また梅に戻っていた。


 六日目の朝、彼女は窓の外に、紙を一枚貼った。


 窓枠の、内側から見える位置に。糊がなかったので、小刀の先で挟んだ。


『――ありがとう』


 それだけ、書いて。


 ――その日から、握り飯が四つになった。



【三人の夜】


 十八日目の夜。


 迎賓館の、小さな一室。


 ――グレイと、オルドと、リヴィア。


 三人で、酒を飲んでいた。


 きっかけは、些細なことだった。


 グレイが作戦の報告に来て、そこにオルドがいて、なんとなく酒が出てきた。


 ――それだけだった。


 部屋は、狭かった。卓が一つと、椅子が三脚。窓が一つ。


 窓は開けてあった。夜の海風が入ってきて、卓の上の紙を時々めくった。誰も、押さえなかった。


 卓の上に、空になった瓶が二本。三本目が、まだ半分残っていた。




「――で、だ」


 オルドが、既に赤い顔で言った。


「お前ら、エルデナの学校だったんだろ」


「……はい」


「聞いてるぞ」


 彼は、にやりと笑った。


「あの、金髪の坊主も一緒だったんだろ」


「セリウスのことですか」


「そうそう。……あいつ、昔から馬鹿だったのか」


「――馬鹿でした」


 グレイが、即答した。


「グレイ!」


「事実だ」


 彼は、酒を飲んだ。


「座学の点数が、六十一点だった」


「六十一!?」


 オルドが、吹き出した。卓の紙が、一枚、床へ落ちた。


「そりゃ馬鹿だ」


「――今は、組織のトップです」


「余計、馬鹿だな」


 三人が、笑った。


「――で、お前は」


 オルドが、リヴィアを見た。


「なんですか」


「何番だった」


「……次席です」


「首席は」


「――グレイです」


「ほう」


 彼は、グレイを見た。


「じゃあ、お前が一番賢いのか」


「座学だけです」


 グレイは言った。


「実技はセリウスが首席で、リヴィアが次席でした」


「じゃあ、お前は」


「……実技も、次席でした」


「なんだそりゃ」


 オルドが、笑った。


「器用貧乏か」


「……そうですね」


 グレイは、少し苦笑した。


「――昔から、そうです」




「――でも、グレイは」


 リヴィアが言った。


「え?」


「――一番、みんなの世話をしてました」


 グレイの動きが、止まった。


「…………」


「セリウスを毎朝起こすのも、グレイでした」


 彼女は言った。


「私が教科書を持ってなかった時、黙って予備をくれたのも」


「……古いことを」


「覚えてるわよ」


 彼女は言った。


「――あなた、いつも、二冊持ってたでしょう」


「…………」


「あれ、予備じゃなかったでしょ」


 リヴィアは言った。


「――私のために、買ってたんでしょう」


 グレイは、応じなかった。


 彼は、酒を飲んだ。


 ――耳が、少し赤かった。


「……昔の話だ」


「そうね」


 彼女は、少し笑った。


「――でも、覚えてる」




 オルドが、二人を見ていた。


 それから、酒を注ぎながら、ぽつりと言った。


「……いい仲間だな」


「……はい」


「――俺には、いなかった」


 彼は言った。


 窓から入る風が、その一言の後で、紙を一枚めくった。


「……セイクリッドルートの、皆さんは」


「あれは、仲間じゃない」


 彼は、あっさり言った。


「五百年、たまに顔を合わせるだけだ。……年に一回、飯を食って、文句を言い合って、解散する」


「…………」


「――仲間ってのは、毎日会う奴のことだろ」


 彼は、酒を飲んだ。


「千年生きてな」


 彼は言った。


「――毎日会う奴が、一人もおらん」




 リヴィアは、その言葉を、黙って聞いていた。


(……この人)


(――ずっと、一人だったんだ)


 千年、彼は誰とも深く関わらずに生きてきた。関われば、その相手の方が先に死ぬからだ。


(――だから、酒場にいたのか)


 毎晩、同じ酒場の同じ椅子で三十年。名前を呼ばれて、笑われて、勝手に酒代を払われて。


 ――それが、彼にとっての、精一杯の「毎日」だったのだ。


【ネフェリス】


 夜が更けた頃。


 グレイが、席を外した。


 ――二人だけになった。


 三本目の瓶が、空になっていた。オルドは、四本目の栓を抜いた。


 彼は、既にかなり酔っていた。


「……なあ」


「はい」


「ネフェリスのこと、聞くか」


 リヴィアの手が、止まった。


「……いいんですか」


「酔ってるからな」


 彼は言った。


「――酔ってなきゃ、言わん」




 彼は、酒を注いだ。杯の縁から、少しこぼれた。彼は、それを拭かなかった。


「――あの女とな」


 彼は言った。


「あいつは、昔、恋仲だった」


 リヴィアの息が、止まった。


「……あいつ、というのは」


「ヴァルルシオンだ」


「…………」


「五百年より、もっと前だ」


 彼は言った。


「六人で集まるようになった、最初の頃だな」


 彼は、天井を見た。梁に、蜘蛛の巣が張っていた。


「あの頃のあいつは、いい男だった」


「…………」


「よく笑って、よく飲んで、人の話をよく聞いた」


 彼は言った。


「――俺は、好きだった」




「……いつから、変わったんですか」


「分からん」


 彼は、天井の蜘蛛の巣から目を離さずに首を振った。


「少しずつだ。……気づいたら、変わってた」


 彼は、杯を持ち上げて、口をつけずに置いた。


「最初は、『世界を良くしたい』だった」


「…………」


「次に、『世界を一つにしたい』になった」


 彼は言った。


「――で、最後に、『一つにするために、全部殺す』になった」


 彼は、杯を置いた。


「その間、たぶん、二百年くらいだ」




「――そして、五百年前」


 彼は、続けた。


「俺たちは、あいつを封じることにした」


「…………」


「だが、正面からやったら、勝てん」


 彼は言った。


「あの頃から、あいつが一番強かった」


「……じゃあ、どうやって」


「――誰かが、油断させる必要があった」


 オルドの声が、低くなった。


 リヴィアは、その先を、聞きたくないと思った。


 ――だが、聞かなければならなかった。


「……誰が」


「ネフェリスが、手を挙げた」




 部屋が、静まり返った。


 窓から入る風だけが、卓の紙を、また一枚めくった。


「…………」


「あの女はな」


 彼は言った。


「――あいつを、抱いた」


 リヴィアは、目を伏せた。


「そして、寝てる間に、檻を仕込んだ」


 彼は、杯の中身を半分ほど飲んだ。喉が、二度、鳴った。


「あいつの体の中に、土の檻をな。……三ヶ月かけて、少しずつ」


「…………」


「そして、俺たちが、残りを封じた」


 彼は、杯を置いた。


「――そういう女だ」




「…………」


 リヴィアは、しばらく黙っていた。


 小さく、聞いた。


「……ネフェリス殿は」


「うむ」


「――好きだったんですか」


 オルドは、応じなかった。


 長い、長い沈黙があった。


 窓の外で、波の音が、三度、寄せて返した。


 やがて、彼は言った。


「――五百年」


 彼は言った。


「あの女は、五百年、後悔してた」


 リヴィアの喉が、鳴った。


「年に一度、俺たちは集まる」


 彼は言った。


「そのたびに、あいつは言うんだ」


 彼は、四本目の瓶を傾けた。注ぐ手が、揺れていた。


「――『わたくしは、正しかったのかしら』と」


 彼は、それを飲み干した。


「五百回だ」


 彼は言った。


「五百回、同じことを聞かれた」




「……あなたは、なんて答えたんですか」


「――『正しかった』と言った」


 彼は、卓の木目を指でなぞった。


「毎回な」


「…………」


「――嘘だ」


 彼は、杯を置いた。


「正しかったかどうかなんて、俺には分からん」


 彼は言った。


「――だが、そう言わなきゃ、あの女が保たん」




 リヴィアは、その話を聞いて。


 ――ある、恐ろしいことに気づいた。


「……オルドさん」


「なんだ」


「――だから」


 彼女の声が、震えた。


「だから、ネフィラが、最初だったんですか」


 オルドは、応じなかった。


 彼は、窓の外を見た。


 ――そして、低い声で言った。


「――あいつはな」


 彼は言った。


「五百年、恨んでたんだ」


 彼の声が、低くなった。


「封じられたことじゃない」


 彼は、拳を握った。


「――騙されたことを、だ」


⸻


 リヴィアの背筋が、凍った。


「…………」


「愛してた女に、寝首をかかれた」


 彼は言った。


「――あいつは、それを五百年、封の中で考え続けた」


 彼は、酒瓶を取った。


 だが、既に空だった。


 彼は、それを置いた。瓶の底が、卓を一度、鳴らした。


「――だから、最初にネフィラへ行った」


 彼は言った。


「軍事的な理由じゃない。地理的な理由でもない」


 彼の声が、掠れた。


「――あの女に、会いに行ったんだ」




 リヴィアは、動けなかった。


 二十万の軍勢。四万二千の避難民。


 九日間、一人で戦い続けた女王。


 ――その全部が。


「……そんな理由で」


「そんな理由でだ」


 オルドは言った。


「――五百年、恋を拗らせた男の、それが答えだ」



【お父さん】


 夜が、深まった。


 オルドは、椅子で寝てしまっていた。


 卓の上に、空の瓶が四本。杯が二つ。


 リヴィアは、彼に毛布をかけた。


 ――そして、しばらく、その寝顔を見ていた。


 深い皺と、日に焼けた肌と、伸び放題の髭。どう見ても、五十を少し過ぎたあたりの顔だった。


 ――千年、生きてきた顔だった。


(……この人)


(――ずっと、誰かの話をしてる)


 ルシェリアの話。ネフェリスの話。ヴァルルシオンの話。


 ――自分の話は、一度もしていない。


(……どんな人生だったんだろう)


(――千年)




 彼女は、窓を閉めた。


 それから、部屋を出ようとした。


 ――そして、扉の前で、足を止めた。


 振り返る。


 眠っている男を、見る。


 ――そして、彼女は、小さく言った。


「……おやすみなさい」


 彼女は、少し迷った。


「――お父さん」




 ――そこで。


「ぶっ!!」


 オルドが、酒を吹いた。


「わ!? 起きてたんですか!?」


「――寝てた!!」


 彼は、跳ね起きた。椅子が、後ろへ倒れた。


「今のは、寝言だ! 俺が! 寝ぼけて!」


「意味が分かりません!」


「――もう一回言え!」


「言いません!」


「一回でいい!」


「言いません!!」


 彼女は、真っ赤になって、部屋を飛び出した。




 ――扉が閉まった後。


 オルドは、しばらく、動かなかった。


 倒れた椅子も、起こさなかった。


 それから、両手で顔を覆った。


「…………」


 彼の肩が、震えていた。


 ――泣いていた。


 千年生きた男が、床に座り込んだまま、声を殺して泣いていた。


「……ルシェリア」


 彼は言った。


「――聞いたか」


 窓は、閉まっていた。


 それなのに、部屋の空気が、一度だけ動いた。


 卓の上の紙が、二枚、めくれた。


「……あいつ、俺のこと」


 彼の声が、割れた。


「――『お父さん』って、言いやがった」



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