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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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44/53

オルド・ノクス

【探す】


 翌朝、リヴィアは、あの酒場へ行った。


 朝の店内は、空だった。


 昨夜の喧騒が嘘のように、椅子が机の上に上げられ、床が濡れている。開け放した戸から入る朝の光が、床の水たまりに反射して、天井の梁を下から白く照らしていた。


 夜には気づかなかったが、壁の板が一枚だけ新しかった。他が煤で黒いのに、そこだけ木の色をしている。誰かが、いつか壊したのだろう。


「――ああ、昨日の」


 店主が、モップを持ったまま顔を上げた。


「あの、昨日の男の人ですが」


「オルドさん?」


「――オルド」


 リヴィアは、その名を、口の中で繰り返した。


 どこかで聞いた気がした。


 だが、思い出せなかった。


「あの人、どこに住んでるんですか」


「知らんよ」


 店主は、あっさり言った。


「知らない?」


「三十年通ってるが、住所を聞いたことがない」


 彼は、椅子を一脚、卓から下ろした。脚が床に当たる音が、無人の店に響いた。


「船で寝てるって話も聞くし、丘の上の空き家だって話も聞く」


「…………」


「まあ、飲みたくなったら来るさ」


 彼は、笑った。


「――昨日みたいに、途中で帰るのは、初めて見たがね」




 その日、リヴィアは島を歩いた。


 港。市場。丘の上の道。


 市場は、三ヶ月前の倍に膨らんでいた。島の商人の店の間に、避難民の売る品が並んでいる。売っているのは、彼らが持ってきたものだった。装身具。織物。銅の食器。


 値をつけている女の指に、まだ砂が入っていた。


 ――どこにも、いなかった。


 人に聞いても、答えは同じだった。


「オルドさん? 昨日、港で見たな」


「今朝、東の入り江にいたよ」


「いや、あれは三日前だ」


「――まあ、そのうち出てくるさ」


 誰も、正確な居場所を知らなかった。


 なのに、誰もが、彼を知っていた。




 夕方、彼女は諦めて、宿へ戻った。


 ――階段を上がる途中で、リズに会った。


「あ、隊長。どこ行ってたの」


「……散歩」


「嘘つき」


「…………」


「あの酔っ払いでしょ」


 リズは、あっさり言った。


「……なんで分かるの」


「昨日から、ずっと変な顔してるもの」


 彼女は、階段の手すりにもたれた。木の手すりは、何十年も手が滑ってきたせいで、真ん中だけが窪んでいた。


「――ねえ、隊長」


「なに」


「あの人、誰だと思う?」


「……分からない」


「あたし、ちょっと調べたの」


 リズは言った。


「島の人に聞いて回った」


「……なんて言ってた」


「みんな、笑うのよ」


 彼女は、首を傾げた。


「『あれは、オルドさんだ』って。……それだけ」


「それだけ?」


「それだけ」


 彼女は、頷いた。


「――でもね」


 彼女の顔が、少し真剣になった。


「一人だけ、変なこと言った人がいたの」


「なにを」


「――『あの人がいる限り、この島は沈まない』って」


【会議】


 三日目の午前。


 迎賓館の大広間で、合同会議が開かれた。


 ――アスレオン連合国、七島の代表。


 ――リバースオーダーの幹部。


 ――ネフィラの、生き残った高官たち。


 ――そして、黒翼とグレイ。


 三十人ほどが、長机を囲んでいた。


 部屋は、天井が高かった。壁の上半分が窓で、そこから海の光が入ってくる。反射が天井の漆喰に届いて、水面の模様が、そこで揺れ続けていた。


 長机の上には、地図が三枚と、水差しが四つ。そして、末席の一つだけ、椅子が空いていた。


 リヴィアは、その斜め向かいにいた。


 ――扉が開いた時。


 彼女は、目を疑った。



 入ってきたのは、あの男だった。


 ――昨日と、同じ格好だった。


 豪奢な外套を、めちゃくちゃに着崩して。


 髪も髭も、伸び放題で。


 そして、明らかに、少し酔っていた。


「……よお」


 彼は、そう言って、手を上げた。


 ――そして。


 部屋の全員が、立ち上がった。


 七島の代表が。


 リバースオーダーの幹部が。


 ネフィラの高官たちが。


 椅子の脚が一斉に床を擦って、その音だけが、広間を一度、埋めた。


 全員が、立ち上がって、頭を下げた。


 ――リヴィアは、動けなかった。


(……え?)




「――座れよ。堅苦しい」


 男は、手を振った。


「そういうの、嫌いなんだ」


「――そうは参りません」


 最年長らしい島の代表が言った。


「あなた様がおられなければ、この会議は成立しませんので」


「またそれか」


 彼は、うんざりした顔をした。


「俺は何も決めねえぞ。……いつも通りだ」


「存じております」


「じゃあ、なんで待つんだよ」


「――あなた様が、聞いておられるかどうかで、我々の腹が決まりますので」


 男は、天を仰いだ。


「……面倒くせえ島だな」


 彼は、そう言って、空いていた一番端の椅子に、どさりと座った。


 ――足を、机に乗せた。


 誰も、それを咎めなかった。




 会議は、三時間続いた。


 ――ネフィラ陥落後の対応。


 ――帝国の次の標的の予測。


 ――避難民の受け入れ体制。


 ――そして、皇帝の処遇。


 議論は、白熱した。


 窓から入る光の角度が、机の上を少しずつ移動していった。地図の端に落ちていた影が、水差しの脚まで届いた頃、議題は五つ目に入っていた。


 ――その間、男は、一言も発しなかった。


 足を机に乗せたまま、天井を見ていた。


 時々、うとうとしていた。


 ――なのに。


 議論が煮詰まるたびに。


 ――全員が、彼の方を見た。


 彼が何も言わないと、また議論に戻った。




 彼が、一度だけ、鼻を鳴らした時。


 ――議論の流れが、変わった。


 それは、避難民の食糧配分についての議論だった。


 島の代表の一人が、こう言った。


「――第三島への配分を、二割減らすべきです」


 彼は、資料を掲げた。


「あそこは、既に人口比で最大の負担を負っております。……これ以上は、島の民が耐えられません」


 ――理にかなった意見だった。


 何人かが、頷いた。


 ――そこへ。


「……ふん」


 オルドが、鼻を鳴らした。


 それだけだった。


 目も開けていなかった。


 ――だが。


 広間の全員が、その音を聞いた。


 水差しに手を伸ばしかけていた者が、途中で手を止めた。頁をめくろうとしていた者の指が、紙の上で止まった。


 提案した代表が、口をつぐんだ。


 しばらくしてから、彼は言い直した。


「……いえ」


 彼は、資料を置いた。


「――失礼しました」


 彼は、頭を下げた。


「配分は、そのままで結構です。……代わりに、第一島から人を回します」


 ――誰も、オルドに理由を聞かなかった。


 オルドの方も、口を開かなかった。


 議論は、次の議題へ進んだ。




(……何なの、あの人)


 リヴィアは、混乱していた。


 役職も名乗らず、三時間で一言も発言せず、しかも酔っている。


 ――なのに、この部屋の全員が、絶えず彼の方を気にしていた。


 彼女は、隣のグレイに、小声で聞いた。


「……ねえ」


「なんだ」


「あの人、誰?」


 グレイは、しばらく黙っていた。


「……お前」


「なに」


「――知らないのか」


「知らないから聞いてるの」


 グレイは、少し驚いた顔をした。


「……いや」


 彼は、言葉を選ぶように言った。


「――俺の口から言うことじゃない」


「なにそれ」


「……悪い」


 彼は、それきり、口を開かなかった。


【ペンダント】


 会議が終わったのは、昼過ぎだった。


 人々が、次々と広間を出ていく。椅子を戻す音、書類をまとめる音、二人か三人ずつ固まって話しながら扉へ向かう足音。


 広間の空気が、少しずつ薄くなっていった。


 ――男は、最後まで座っていた。


 誰もいなくなってから、ようやく立ち上がった。


 ――そして、扉へ向かう。


「――待ってください」


 リヴィアが、その前に立った。


 男の足が、止まった。


「…………」


「昨日、酒場で」


 彼女は言った。


「私を見て、帰りましたよね」


「…………」


「あれは、なんですか」


 男は、応じなかった。


 彼女を、見なかった。


 視線を、床に落としていた。


 窓から入る光が、二人の間の床に、四角い模様を落としていた。




「――あの」


 リヴィアは、胸元に手をやった。


 鎖を、引き出した。


 銀のペンダント。


 黒い三日月を、荊の環が抱く紋様。


 二十八年、彼女が身につけてきたもの。


 銀は擦れて、三日月の縁の彫りが、一部分だけ浅くなっていた。彼女が指で触る癖のある場所だった。


「――このペンダントについて」


 彼女は、それを掲げた。


「教えてください」




 男の肩が、落ちた。


 深く、長い息を吐いた。


 ――やがて。


「……あー」


 彼は、髪を掻いた。


「……もう、逃げられねぇか」


 その声は、昨日とはまったく違った。


 酔っていなかった。


 喚いてもいなかった。


 ――低くて、疲れた声だった。


「――すまない、リヴィア」




 リヴィアの息が、止まった。


「…………」


「…………」


「――なんで」


 彼女の声が、震えた。


「なんで、私の名前を」


「…………」


「言ってません。名乗ってません」


 彼女は、一歩、前に出た。


「なんで、知ってるんですか」




 男は、しばらく黙っていた。


 それから、彼女の掲げたペンダントを見た。


「――それはな」


 彼は言った。


「俺の妻の、家系の紋章だ」


 リヴィアの視界が、揺れた。


「……え」


「そして、お前が持ってるそれは」


 彼は続けた。


「――俺の妻の、ものだ」




 部屋が、静まり返った。


 窓の外で、海鳥が鳴いた。


 天井の漆喰の上で、水面の反射が、まだ揺れ続けていた。


「……待って」


 リヴィアの声が、掠れた。


「待ってください」


 彼女は、後ずさった。


「なぜ……なぜ、あなたの妻の」


 彼女の頭の中で、何かが、繋がりかけていた。


 ――ムラサメの声。


 『血の線が、片方、どこにも繋がっておらん』


 ――ミラの声。


 『それはね、あなたのお父さんが、いつか言うべきことなの』


 ――夢の中の、老人の声。


 『私は、君の父上を知っている』


 ――もう一つ。


 もっと古い、声。


 孤児院の、院長のマーサ。


 出発の朝、彼女の襟元を直しながら言った言葉。


 ――持っていきなさいね。


 ――あんたが、どこの誰であっても。それだけは、あんたのものだから。


(……マーサ院長)


(あなたは、知ってたの?)


(――知ってて、あの言い方を?)


 彼女の指が、ペンダントを握りしめた。


「……まさか」


 彼女の唇が、震えた。


「……まさか」




 男は、彼女を見た。


 ――初めて、まっすぐに。


 その目は、黒かった。


 彼女と、同じ色だった。


「――俺の名は」


 彼は言った。


「オルド・ノクス」


 リヴィアの膝が、笑った。


「――風のセイクリッドルートと、呼ばれている者だ」




「……ノクス」


 彼女は、その名を、口の中で繰り返した。


「ノクス……」


 二十八年、名乗ってきた名前だった。


 孤児院で適当につけられたものだと思い、誰のものでもない、ただの記号として使ってきた名前だった。工場の帳簿にも、軍の名簿にも、その四文字を何千回と書いてきた。書くたびに、自分の一部だとは、一度も思わなかった。


「……嘘」


「嘘じゃない」


「――嘘でしょう!?」


 彼女は、叫んだ。


 その声が、天井の高い広間に反響して、二度、戻ってきた。


「私は、孤児院で育ったんです! 親なんて、いません!」


「……ああ」


「名前だって、院長がつけたって聞きました!」


「――違う」


 男は、低い声で言った。


「その名は、俺が置いてきた」


 リヴィアの動きが、止まった。


「三歳のお前と、そのペンダントと、一枚の紙を置いた」


 彼は言った。


「紙には、名前だけ書いた」


 彼の声が、少し震えた。


「――リヴィア・ノクス、と」




 リヴィアは、その場に、崩れそうになった。


 壁に、手をついた。


「……お」


 彼女の口が、動いた。


 言葉が、出なかった。


 二十八年間、一度も使ったことのない言葉だった。


「……お、父さん」


 彼女は言った。


「――なの?」




 男は、応じなかった。


 しばらく、動かなかった。


 ――頷いた。


「……ああ」


 その一言が、二十八年の空白を、埋めた。


 いや。


 ――埋めなかった。


 空白は、そこに、はっきりと形を持って、現れただけだった。



【バルコニー】


 迎賓館の、西のバルコニー。


 二人は、そこにいた。


 ――誰もいなかった。


 石の手すりは、一日じゅう日を浴びていたせいで、掌を置くと人肌より温かかった。手すりの根元には、去年のまま残された鳥の巣が一つ、風に飛ばされもせずに乾いていた。


 眼下に、群島の海が広がっていた。


 夕陽が、海面を金色に染めている。


 無数の島影が、その光の中に浮かんでいた。近いものは黒く、遠いものは金の中に溶けて、輪郭を失っていた。


 ――どこかで、避難民の子供たちの声がした。


 同じ声が、三度、同じ調子で繰り返された。遊びの掛け声らしかった。


 遠くで、船の汽笛が鳴った。




 二人は、手すりにもたれていた。


 ――しばらく、どちらも喋らなかった。


 海鳥が、二羽、目の前を横切った。


 やがて、オルドが口を開いた。


「……お前とは」


 彼は、海を見たまま言った。


「三歳の時に、別れた」


「…………」


「ルシェリアが……お前の母さんが、死んでからな」


 リヴィアの手が、手すりを握った。


「……母は」


「ルシェリア・ノクティルム」


 彼は言った。


「口が悪くて、気が強くて、無駄に美人な女だった」


 彼は、少しだけ笑った。


 ――寂しい笑い方だった。


「……どんな人でしたか」


「……そうだな」


 彼は、少し考えた。


「――お前に、似てた」


「え?」


「顔じゃない」


 彼は、首を振った。


「なんつうかな。……人の話を、途中で遮る癖があった」


「…………」


「そのくせ、自分が話す時は、めちゃくちゃ回りくどい」


 彼は言った。


「――そっくりだ」


 リヴィアは、応じられなかった。


 顔が、熱かった。


「……他には」


 彼女は、小さく聞いた。


「……他?」


「他に、どんな人でしたか」


 オルドは、少し驚いた顔をした。


 それから、海を見て、考えた。


「……喧嘩っ早かった」


「え」


「市場で、店主と値切り交渉をしてな」


 彼は言った。


「三十分、粘った。……で、結局、負けた」


「負けたんですか」


「負けた」


 彼は、少し笑った。


「で、帰り道で『あの店主は絶対いつか痛い目に遭う』って、一時間文句を言い続けた」


「…………」


「翌週、また同じ店で買ってた」


 リヴィアの口元が、ほんの少し動いた。


 ――笑ってしまった。


「……そういう人だったんですか」


「そういう人だった」


 彼は、頷いた。


「あと、料理が壊滅的にまずかった」


「え」


「本人は、うまいと思ってた」


 彼は言った。


「俺が『まずい』って言ったらな」


 彼は、少し遠い目をした。


「――三日、口をきいてもらえなかった」


「……三日」


「三日だ」


 彼は言った。


「で、四日目に、また同じものを作ってきた」


 彼は、笑った。


「――挑戦的な女だった」


 リヴィアは、その話を、黙って聞いていた。


 ――自分が、笑っていることに気づいた。


 会ったこともない人の話で。


 顔も知らない人の話で。


(……この人)


(――今、たぶん、思い出すのが辛いはずなのに)


(――私のために、話してる)




「……なんで」


 やがて、彼女は言った。


「なんで、見捨てたの」


 その声は、震えていた。


「三歳って……何も、覚えてない」


 彼女は、海を見たまま言った。


「顔も。声も。……なんにも」


 彼女の手が、震えた。


「――なんで、置いていったの」




 オルドは、しばらく応じなかった。


 夕陽が、彼の横顔を照らしていた。


 その頬に、深い皺があった。


 ――五十代に見える顔。


 だが、彼は、千年生きている。


「……俺は」


 彼は、口を開いた。


「セイクリッドルートだ」


「…………」


「常に、この世の荒事の因果が、付きまとう」


 彼は、海を見ていた。


「戦がある。国が滅ぶ。誰かが誰かを殺す。……そういうところに、必ず、名前が出る」


 彼は言った。


「――お前を、巻き込むわけにはいかなかった」




「……それだけ?」


「それだけじゃない」


 彼は、首を振った。


「――お前の存在は」


 彼の声が、少し低くなった。


「世界の均衡を、壊しかねない」


 リヴィアの背筋が、こわばった。


「……どういう」


「言葉通りだ」


 彼は言った。


「お前の中には、二つある」


 彼は、指を二本立てた。


「――理と、魔だ」


 彼は、それを握った。


「混ざるはずのないものが、一つの体に入ってる」


 彼の目が、細くなった。


「そんな人間は、千年で、一人もいなかった」




「……だから」


「だから、隠した」


 彼は言った。


「名前を消して、血を消して、記録を消した」


 彼は、手すりを撫でた。


「――誰にも、見つからないように」


 彼は、そこで、言葉を切った。


「上にも、下にも、な」


 リヴィアは、その意味を理解した。


 天界と、魔界。


 両方から、隠されていた。




「……あなたは」


 リヴィアは、掠れた声で言った。


「私を、守ったつもりなんですか」


「…………」


「二十八年」


 彼女の声が、大きくなった。


「一度も、会いに来なかった」


「……ああ」


「祖国が焼けても!」


 彼女は、叫んだ。


「十年、工場で働いてても! 仲間が死んでも!」


 彼女の目から、涙が落ちた。


「――あなたは、来なかった!」




 オルドは、動かなかった。


 彼は、海を見ていた。


 やがて、低い声で言った。


「――そうだ」


「…………」


「一度も、行かなかった」


 彼は言った。


「知ってた。全部な」


 リヴィアの息が、止まった。


「……え」


「エルデナが焼けた日も」


 彼は言った。


「お前が生き残ったことも。……十年、あの街で生きてたことも」


「…………」


「三年前、聖都で死にかけたことも」


 彼の手が、手すりを握った。


「――全部、知ってた」




「……じゃあ、なんで」


 リヴィアの声が、割れた。


「なんで、来なかったの」


「…………」


「一度でいい」


 彼女は、泣いていた。


「一度でよかったのに」


 彼女は、彼を見た。


「――なんで!!」




 オルドは、しばらく黙っていた。


 夕陽が、海に沈もうとしていた。


 水平線に触れた縁が、平たく潰れて、横に広がっていた。


 やがて、彼は言った。


「……行けば、戻れなくなるからだ」


「え?」


「一度でも顔を見たら」


 彼は言った。


「――俺は、二度と、離れられなくなる」


 彼の声が、初めて、震えた。


「そうなったら、俺はお前の傍にいる。……そして、俺の因果が、お前に付く」


「…………」


「――お前は、狙われる」


 彼は、拳を握った。


「上からも、下からも」




「……だから」


「だから、逃げた」


 彼は言った。


「守るために、捨てた。……そういうことにして、俺は逃げた」


 彼は、初めて、彼女を見た。


「――二十八年、一度も会いに行かなかった」


 彼の目が、赤かった。


「それが、答えだ」




 リヴィアは、応じられなかった。


 ――怒りは、あった。


 でも、それを、どこに向ければいいのか、分からなかった。


 この人は、逃げたと言った。


 守るためだったと、言い訳しなかった。


 ――「そういうことにして、逃げた」と言った。


(……ずるい)


(そんな言い方をされたら)


(――怒れないじゃない)




「――俺を、父親とは思わなくていい」


 オルドは言った。


「…………」


「その資格はない。……分かってる」


 彼は、海を見た。


 夕陽が、水平線に触れていた。


「――ただ」


 彼の声が、変わった。


「ただ、一つだけ、頼みがある」


「……なに」


「ルシェリアは」


 彼は言った。


「――最後の一秒まで、お前の母だった」




 リヴィアの動きが、止まった。


「……え」


「あれは、死ぬ時までな」


 彼は言った。


「――お前のことしか、言わなかった」


 彼の声が、掠れた。


「『リヴィアを頼む』でもない。『リヴィアを守れ』でもない」


 彼は、目を閉じた。


「――『あの子、寝相が悪いから』」


「……え」


「『布団、蹴るから。……ちゃんと掛け直してやってね』」


 彼は言った。


「――それが、最後の言葉だ」




 リヴィアの視界が、白くなった。


「…………」


 彼女は、口を押さえた。


 ――知らない人だった。


 顔も、声も、何ひとつ知らない。二十八年間、一度も思い出したことのない人だった。思い出しようが、なかったからだ。


 ――その人の、最後の言葉。


(……布団)


(――布団の心配を、してた)


 彼女の膝が、崩れた。


 手すりに、しがみついた。


 ――そして、彼女は思い出した。


 孤児院の、冬の夜。


 八人で一部屋の、狭い寝床。窓の隙間から風が入り、明け方には床が凍るほど冷えた。


 毎朝、彼女の布団だけが、床に落ちていた。


 ――「あんた、寝相が悪いねえ」


 マーサ院長が、毎朝そう言って、笑っていた。


 ――「毎晩、掛け直してるんだよ、あたしゃ」


(……)


 彼女の喉から、声が漏れた。


 言葉にならない、獣のような音だった。


 ――誰かが、掛け直してくれていた。


 母が死んだ後も。


 名前も知らない誰かが、彼女の布団を、掛け直し続けていた。


「……あ」


 彼女は、両手で顔を覆った。


「……ぁ、あ」


 ――涙が、止まらなかった。


 顔も知らない人のために。


 覚えてもいない人のために。


 彼女は、初めて、泣いた。




「――許してやって欲しい」


 オルドは言った。


「あれは、お前を捨てたわけじゃない」


「…………」


「死んだんだ。……ただ、それだけだ」


 彼の声が、震えた。


「捨てたのは、俺だ」


 彼は言った。


「――あれを、恨まないでやってくれ」




 リヴィアは、しばらく動けなかった。


 夕陽が、沈んだ。


 海が、藍色に変わっていく。手すりの温かさが、指の下から抜けていった。


 やがて、彼女は言った。


「……許すも、何も」


 その声は、掠れていた。


「……知らないんです」


「…………」


「顔も、声も、何も知らない」


 彼女は、涙を拭った。


「――許すも、恨むも、できません」




 オルドは、応じなかった。


 彼は、ただ、海を見ていた。


「……すまん」


 やがて、彼は言った。


「――それも、俺のせいだ」


【去る】


 リヴィアは、バルコニーの手すりから、手を離した。


 ――何も、整理できていなかった。


 嬉しいのか。悲しいのか。怒っているのか。


 全部が、同時にあって、どれも形になっていなかった。


「……失礼します」


 彼女は言った。


「――待て」


 オルドが、呼び止めた。


 彼女は、振り返った。


「……なんですか」


 オルドは、何かを言おうとして――言葉を探して。


 ――言えなかった。


 彼は、口を開いて、閉じた。


 もう一度、開いた。


 それから、こう言った。


「――……いや」


 彼は、首を振った。


「なんでもない」


「…………」


「気をつけて帰れ。……夜道は暗い」


 リヴィアは、その言葉を聞いて。


 ――少しだけ、立ち止まった。


 この人は、二十八年、こういうことを言いたかったのかもしれない。


 「気をつけて帰れ」なんて、当たり前のことを。


 でも、言えなかった。


(……不器用ね)


「……はい」


 彼女は、頷いた。


「――おやすみなさい」




 彼女は、バルコニーを出た。


 ――背後で。


 オルドが、深く、長い息を吐いた。


 彼は、手すりに両手をついて、俯いた。


 しばらく、動かなかった。


 ――やがて。


 彼は、腰の酒瓶を取った。


 口元へ運びかけて。


 ――止めた。


 瓶を、手すりに置いた。


 置いた瓶の底が、石を軽く鳴らした。


「……ルシェリア」


 暗くなった海へ、彼はそう呼びかけた。


「――俺、間違えたかもしれん」


 海鳥が、一羽、鳴いた。


 それきり、彼の口は動かなかった。


 ――彼の周りで、風が凪いでいた。


 バルコニーの外では、確かに海風が吹いていた。手すりの上の瓶の周りだけ、空気が動いていなかった。




 ――同じ頃。


 リヴィアは、暗い廊下を歩いていた。


 足が、勝手に動いていた。


 どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。


 ――そして、階段の途中で、彼女は座り込んだ。


 誰もいない、暗い階段の踊り場で。


 窓が一つあって、そこから海の音だけが入ってきていた。


 彼女は、膝を抱えた。


(……お父さん)


 その言葉を、心の中で言ってみた。


 ――違和感しか、なかった。


 二十八年、一度も使わなかった言葉だ。


 使い方が、分からない。


(……お母さん)


 こちらは、もっと分からなかった。


 顔も知らない。声も知らない。


 ――なのに。


(――布団、掛け直してくれてたんだ)


 ――そこで、また涙が出た。


「……ずるい」


 彼女は、膝に顔を埋めた。


「……そんなの、ずるいでしょう」


 ――怒りたかった。


 二十八年、放っておかれて、顔さえ見せてもらえなかったのだ。怒っていい理由なら、両手で足りないほどあった。


 ――なのに。


 最後の言葉が、布団の心配だったなんて。


(……怒れないじゃない)


 彼女は、そこに座り続けた。


 ――どれくらい、経ったか。


「……隊長?」


 声がした。


 顔を上げると、ミーナレイが立っていた。手に、ミルクの入った杯を持っていた。


「……あれ、どうしたんですか。こんなところで」


「……なんでもない」


「泣いてます」


「……泣いてない」


「泣いてますよ」


 彼女は、あっさり言って、隣に座った。


 ――何も、聞かなかった。


 ただ、隣に座っていた。杯を、両手で持ったまま。


 しばらくして、リヴィアが言った。


「……ミーナレイ」


「はい」


「――お母さんのこと、覚えてる?」


 彼女は、少し驚いた顔をした。


「……はい。覚えてます」


「どんな人だった?」


「うーん」


 彼女は、少し考えた。


「……朝が弱かったです」


「え?」


「あたしより、起きるのが遅くて」


 彼女は、笑った。


「あたしが起こしに行くんです。……で、『あと五分』って言うんですよ、毎日」


「…………」


「剣術の家の娘なのに、朝が弱いってどうなんですか、って言ったら」


 彼女は、少し遠い目をした。


「『刀は夜も振れる』って」


 リヴィアは、思わず笑った。


「……変な理屈ね」


「でしょう」


 ミーナレイは、頷いた。


 ――そして、少し黙ってから、言った。


「……あたし、覚えてることが、そういうことばっかりなんです」


「…………」


「立派なこととか、教えとか、そういうのじゃなくて」


 彼女は、膝を抱えた。杯が、階段の板の上に置かれた。


「――朝が弱かったこととか、そういうのばっかり」


 彼女は、少し笑った。


「でも、それでいいのかなって、最近思うんです」


「……なんで」


「だって」


 彼女は、リヴィアを見た。


「――その人が、生きてた証拠って、たぶん、そういうことだから」


 リヴィアは、しばらく黙っていた。


 小さく、頷いた。


「……そうね」


(……布団を、掛け直してた人)


(――それが、私の母だ)


 初めて、その人が、少しだけ、輪郭を持った気がした。


 ――階段の窓から、海の音が入ってきていた。


 二人は、しばらく、そこに座っていた。




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