オルド・ノクス
【探す】
翌朝、リヴィアは、あの酒場へ行った。
朝の店内は、空だった。
昨夜の喧騒が嘘のように、椅子が机の上に上げられ、床が濡れている。開け放した戸から入る朝の光が、床の水たまりに反射して、天井の梁を下から白く照らしていた。
夜には気づかなかったが、壁の板が一枚だけ新しかった。他が煤で黒いのに、そこだけ木の色をしている。誰かが、いつか壊したのだろう。
「――ああ、昨日の」
店主が、モップを持ったまま顔を上げた。
「あの、昨日の男の人ですが」
「オルドさん?」
「――オルド」
リヴィアは、その名を、口の中で繰り返した。
どこかで聞いた気がした。
だが、思い出せなかった。
「あの人、どこに住んでるんですか」
「知らんよ」
店主は、あっさり言った。
「知らない?」
「三十年通ってるが、住所を聞いたことがない」
彼は、椅子を一脚、卓から下ろした。脚が床に当たる音が、無人の店に響いた。
「船で寝てるって話も聞くし、丘の上の空き家だって話も聞く」
「…………」
「まあ、飲みたくなったら来るさ」
彼は、笑った。
「――昨日みたいに、途中で帰るのは、初めて見たがね」
その日、リヴィアは島を歩いた。
港。市場。丘の上の道。
市場は、三ヶ月前の倍に膨らんでいた。島の商人の店の間に、避難民の売る品が並んでいる。売っているのは、彼らが持ってきたものだった。装身具。織物。銅の食器。
値をつけている女の指に、まだ砂が入っていた。
――どこにも、いなかった。
人に聞いても、答えは同じだった。
「オルドさん? 昨日、港で見たな」
「今朝、東の入り江にいたよ」
「いや、あれは三日前だ」
「――まあ、そのうち出てくるさ」
誰も、正確な居場所を知らなかった。
なのに、誰もが、彼を知っていた。
夕方、彼女は諦めて、宿へ戻った。
――階段を上がる途中で、リズに会った。
「あ、隊長。どこ行ってたの」
「……散歩」
「嘘つき」
「…………」
「あの酔っ払いでしょ」
リズは、あっさり言った。
「……なんで分かるの」
「昨日から、ずっと変な顔してるもの」
彼女は、階段の手すりにもたれた。木の手すりは、何十年も手が滑ってきたせいで、真ん中だけが窪んでいた。
「――ねえ、隊長」
「なに」
「あの人、誰だと思う?」
「……分からない」
「あたし、ちょっと調べたの」
リズは言った。
「島の人に聞いて回った」
「……なんて言ってた」
「みんな、笑うのよ」
彼女は、首を傾げた。
「『あれは、オルドさんだ』って。……それだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
彼女は、頷いた。
「――でもね」
彼女の顔が、少し真剣になった。
「一人だけ、変なこと言った人がいたの」
「なにを」
「――『あの人がいる限り、この島は沈まない』って」
【会議】
三日目の午前。
迎賓館の大広間で、合同会議が開かれた。
――アスレオン連合国、七島の代表。
――リバースオーダーの幹部。
――ネフィラの、生き残った高官たち。
――そして、黒翼とグレイ。
三十人ほどが、長机を囲んでいた。
部屋は、天井が高かった。壁の上半分が窓で、そこから海の光が入ってくる。反射が天井の漆喰に届いて、水面の模様が、そこで揺れ続けていた。
長机の上には、地図が三枚と、水差しが四つ。そして、末席の一つだけ、椅子が空いていた。
リヴィアは、その斜め向かいにいた。
――扉が開いた時。
彼女は、目を疑った。
入ってきたのは、あの男だった。
――昨日と、同じ格好だった。
豪奢な外套を、めちゃくちゃに着崩して。
髪も髭も、伸び放題で。
そして、明らかに、少し酔っていた。
「……よお」
彼は、そう言って、手を上げた。
――そして。
部屋の全員が、立ち上がった。
七島の代表が。
リバースオーダーの幹部が。
ネフィラの高官たちが。
椅子の脚が一斉に床を擦って、その音だけが、広間を一度、埋めた。
全員が、立ち上がって、頭を下げた。
――リヴィアは、動けなかった。
(……え?)
「――座れよ。堅苦しい」
男は、手を振った。
「そういうの、嫌いなんだ」
「――そうは参りません」
最年長らしい島の代表が言った。
「あなた様がおられなければ、この会議は成立しませんので」
「またそれか」
彼は、うんざりした顔をした。
「俺は何も決めねえぞ。……いつも通りだ」
「存じております」
「じゃあ、なんで待つんだよ」
「――あなた様が、聞いておられるかどうかで、我々の腹が決まりますので」
男は、天を仰いだ。
「……面倒くせえ島だな」
彼は、そう言って、空いていた一番端の椅子に、どさりと座った。
――足を、机に乗せた。
誰も、それを咎めなかった。
会議は、三時間続いた。
――ネフィラ陥落後の対応。
――帝国の次の標的の予測。
――避難民の受け入れ体制。
――そして、皇帝の処遇。
議論は、白熱した。
窓から入る光の角度が、机の上を少しずつ移動していった。地図の端に落ちていた影が、水差しの脚まで届いた頃、議題は五つ目に入っていた。
――その間、男は、一言も発しなかった。
足を机に乗せたまま、天井を見ていた。
時々、うとうとしていた。
――なのに。
議論が煮詰まるたびに。
――全員が、彼の方を見た。
彼が何も言わないと、また議論に戻った。
彼が、一度だけ、鼻を鳴らした時。
――議論の流れが、変わった。
それは、避難民の食糧配分についての議論だった。
島の代表の一人が、こう言った。
「――第三島への配分を、二割減らすべきです」
彼は、資料を掲げた。
「あそこは、既に人口比で最大の負担を負っております。……これ以上は、島の民が耐えられません」
――理にかなった意見だった。
何人かが、頷いた。
――そこへ。
「……ふん」
オルドが、鼻を鳴らした。
それだけだった。
目も開けていなかった。
――だが。
広間の全員が、その音を聞いた。
水差しに手を伸ばしかけていた者が、途中で手を止めた。頁をめくろうとしていた者の指が、紙の上で止まった。
提案した代表が、口をつぐんだ。
しばらくしてから、彼は言い直した。
「……いえ」
彼は、資料を置いた。
「――失礼しました」
彼は、頭を下げた。
「配分は、そのままで結構です。……代わりに、第一島から人を回します」
――誰も、オルドに理由を聞かなかった。
オルドの方も、口を開かなかった。
議論は、次の議題へ進んだ。
(……何なの、あの人)
リヴィアは、混乱していた。
役職も名乗らず、三時間で一言も発言せず、しかも酔っている。
――なのに、この部屋の全員が、絶えず彼の方を気にしていた。
彼女は、隣のグレイに、小声で聞いた。
「……ねえ」
「なんだ」
「あの人、誰?」
グレイは、しばらく黙っていた。
「……お前」
「なに」
「――知らないのか」
「知らないから聞いてるの」
グレイは、少し驚いた顔をした。
「……いや」
彼は、言葉を選ぶように言った。
「――俺の口から言うことじゃない」
「なにそれ」
「……悪い」
彼は、それきり、口を開かなかった。
【ペンダント】
会議が終わったのは、昼過ぎだった。
人々が、次々と広間を出ていく。椅子を戻す音、書類をまとめる音、二人か三人ずつ固まって話しながら扉へ向かう足音。
広間の空気が、少しずつ薄くなっていった。
――男は、最後まで座っていた。
誰もいなくなってから、ようやく立ち上がった。
――そして、扉へ向かう。
「――待ってください」
リヴィアが、その前に立った。
男の足が、止まった。
「…………」
「昨日、酒場で」
彼女は言った。
「私を見て、帰りましたよね」
「…………」
「あれは、なんですか」
男は、応じなかった。
彼女を、見なかった。
視線を、床に落としていた。
窓から入る光が、二人の間の床に、四角い模様を落としていた。
「――あの」
リヴィアは、胸元に手をやった。
鎖を、引き出した。
銀のペンダント。
黒い三日月を、荊の環が抱く紋様。
二十八年、彼女が身につけてきたもの。
銀は擦れて、三日月の縁の彫りが、一部分だけ浅くなっていた。彼女が指で触る癖のある場所だった。
「――このペンダントについて」
彼女は、それを掲げた。
「教えてください」
男の肩が、落ちた。
深く、長い息を吐いた。
――やがて。
「……あー」
彼は、髪を掻いた。
「……もう、逃げられねぇか」
その声は、昨日とはまったく違った。
酔っていなかった。
喚いてもいなかった。
――低くて、疲れた声だった。
「――すまない、リヴィア」
リヴィアの息が、止まった。
「…………」
「…………」
「――なんで」
彼女の声が、震えた。
「なんで、私の名前を」
「…………」
「言ってません。名乗ってません」
彼女は、一歩、前に出た。
「なんで、知ってるんですか」
男は、しばらく黙っていた。
それから、彼女の掲げたペンダントを見た。
「――それはな」
彼は言った。
「俺の妻の、家系の紋章だ」
リヴィアの視界が、揺れた。
「……え」
「そして、お前が持ってるそれは」
彼は続けた。
「――俺の妻の、ものだ」
部屋が、静まり返った。
窓の外で、海鳥が鳴いた。
天井の漆喰の上で、水面の反射が、まだ揺れ続けていた。
「……待って」
リヴィアの声が、掠れた。
「待ってください」
彼女は、後ずさった。
「なぜ……なぜ、あなたの妻の」
彼女の頭の中で、何かが、繋がりかけていた。
――ムラサメの声。
『血の線が、片方、どこにも繋がっておらん』
――ミラの声。
『それはね、あなたのお父さんが、いつか言うべきことなの』
――夢の中の、老人の声。
『私は、君の父上を知っている』
――もう一つ。
もっと古い、声。
孤児院の、院長のマーサ。
出発の朝、彼女の襟元を直しながら言った言葉。
――持っていきなさいね。
――あんたが、どこの誰であっても。それだけは、あんたのものだから。
(……マーサ院長)
(あなたは、知ってたの?)
(――知ってて、あの言い方を?)
彼女の指が、ペンダントを握りしめた。
「……まさか」
彼女の唇が、震えた。
「……まさか」
男は、彼女を見た。
――初めて、まっすぐに。
その目は、黒かった。
彼女と、同じ色だった。
「――俺の名は」
彼は言った。
「オルド・ノクス」
リヴィアの膝が、笑った。
「――風のセイクリッドルートと、呼ばれている者だ」
「……ノクス」
彼女は、その名を、口の中で繰り返した。
「ノクス……」
二十八年、名乗ってきた名前だった。
孤児院で適当につけられたものだと思い、誰のものでもない、ただの記号として使ってきた名前だった。工場の帳簿にも、軍の名簿にも、その四文字を何千回と書いてきた。書くたびに、自分の一部だとは、一度も思わなかった。
「……嘘」
「嘘じゃない」
「――嘘でしょう!?」
彼女は、叫んだ。
その声が、天井の高い広間に反響して、二度、戻ってきた。
「私は、孤児院で育ったんです! 親なんて、いません!」
「……ああ」
「名前だって、院長がつけたって聞きました!」
「――違う」
男は、低い声で言った。
「その名は、俺が置いてきた」
リヴィアの動きが、止まった。
「三歳のお前と、そのペンダントと、一枚の紙を置いた」
彼は言った。
「紙には、名前だけ書いた」
彼の声が、少し震えた。
「――リヴィア・ノクス、と」
リヴィアは、その場に、崩れそうになった。
壁に、手をついた。
「……お」
彼女の口が、動いた。
言葉が、出なかった。
二十八年間、一度も使ったことのない言葉だった。
「……お、父さん」
彼女は言った。
「――なの?」
男は、応じなかった。
しばらく、動かなかった。
――頷いた。
「……ああ」
その一言が、二十八年の空白を、埋めた。
いや。
――埋めなかった。
空白は、そこに、はっきりと形を持って、現れただけだった。
【バルコニー】
迎賓館の、西のバルコニー。
二人は、そこにいた。
――誰もいなかった。
石の手すりは、一日じゅう日を浴びていたせいで、掌を置くと人肌より温かかった。手すりの根元には、去年のまま残された鳥の巣が一つ、風に飛ばされもせずに乾いていた。
眼下に、群島の海が広がっていた。
夕陽が、海面を金色に染めている。
無数の島影が、その光の中に浮かんでいた。近いものは黒く、遠いものは金の中に溶けて、輪郭を失っていた。
――どこかで、避難民の子供たちの声がした。
同じ声が、三度、同じ調子で繰り返された。遊びの掛け声らしかった。
遠くで、船の汽笛が鳴った。
二人は、手すりにもたれていた。
――しばらく、どちらも喋らなかった。
海鳥が、二羽、目の前を横切った。
やがて、オルドが口を開いた。
「……お前とは」
彼は、海を見たまま言った。
「三歳の時に、別れた」
「…………」
「ルシェリアが……お前の母さんが、死んでからな」
リヴィアの手が、手すりを握った。
「……母は」
「ルシェリア・ノクティルム」
彼は言った。
「口が悪くて、気が強くて、無駄に美人な女だった」
彼は、少しだけ笑った。
――寂しい笑い方だった。
「……どんな人でしたか」
「……そうだな」
彼は、少し考えた。
「――お前に、似てた」
「え?」
「顔じゃない」
彼は、首を振った。
「なんつうかな。……人の話を、途中で遮る癖があった」
「…………」
「そのくせ、自分が話す時は、めちゃくちゃ回りくどい」
彼は言った。
「――そっくりだ」
リヴィアは、応じられなかった。
顔が、熱かった。
「……他には」
彼女は、小さく聞いた。
「……他?」
「他に、どんな人でしたか」
オルドは、少し驚いた顔をした。
それから、海を見て、考えた。
「……喧嘩っ早かった」
「え」
「市場で、店主と値切り交渉をしてな」
彼は言った。
「三十分、粘った。……で、結局、負けた」
「負けたんですか」
「負けた」
彼は、少し笑った。
「で、帰り道で『あの店主は絶対いつか痛い目に遭う』って、一時間文句を言い続けた」
「…………」
「翌週、また同じ店で買ってた」
リヴィアの口元が、ほんの少し動いた。
――笑ってしまった。
「……そういう人だったんですか」
「そういう人だった」
彼は、頷いた。
「あと、料理が壊滅的にまずかった」
「え」
「本人は、うまいと思ってた」
彼は言った。
「俺が『まずい』って言ったらな」
彼は、少し遠い目をした。
「――三日、口をきいてもらえなかった」
「……三日」
「三日だ」
彼は言った。
「で、四日目に、また同じものを作ってきた」
彼は、笑った。
「――挑戦的な女だった」
リヴィアは、その話を、黙って聞いていた。
――自分が、笑っていることに気づいた。
会ったこともない人の話で。
顔も知らない人の話で。
(……この人)
(――今、たぶん、思い出すのが辛いはずなのに)
(――私のために、話してる)
「……なんで」
やがて、彼女は言った。
「なんで、見捨てたの」
その声は、震えていた。
「三歳って……何も、覚えてない」
彼女は、海を見たまま言った。
「顔も。声も。……なんにも」
彼女の手が、震えた。
「――なんで、置いていったの」
オルドは、しばらく応じなかった。
夕陽が、彼の横顔を照らしていた。
その頬に、深い皺があった。
――五十代に見える顔。
だが、彼は、千年生きている。
「……俺は」
彼は、口を開いた。
「セイクリッドルートだ」
「…………」
「常に、この世の荒事の因果が、付きまとう」
彼は、海を見ていた。
「戦がある。国が滅ぶ。誰かが誰かを殺す。……そういうところに、必ず、名前が出る」
彼は言った。
「――お前を、巻き込むわけにはいかなかった」
「……それだけ?」
「それだけじゃない」
彼は、首を振った。
「――お前の存在は」
彼の声が、少し低くなった。
「世界の均衡を、壊しかねない」
リヴィアの背筋が、こわばった。
「……どういう」
「言葉通りだ」
彼は言った。
「お前の中には、二つある」
彼は、指を二本立てた。
「――理と、魔だ」
彼は、それを握った。
「混ざるはずのないものが、一つの体に入ってる」
彼の目が、細くなった。
「そんな人間は、千年で、一人もいなかった」
「……だから」
「だから、隠した」
彼は言った。
「名前を消して、血を消して、記録を消した」
彼は、手すりを撫でた。
「――誰にも、見つからないように」
彼は、そこで、言葉を切った。
「上にも、下にも、な」
リヴィアは、その意味を理解した。
天界と、魔界。
両方から、隠されていた。
「……あなたは」
リヴィアは、掠れた声で言った。
「私を、守ったつもりなんですか」
「…………」
「二十八年」
彼女の声が、大きくなった。
「一度も、会いに来なかった」
「……ああ」
「祖国が焼けても!」
彼女は、叫んだ。
「十年、工場で働いてても! 仲間が死んでも!」
彼女の目から、涙が落ちた。
「――あなたは、来なかった!」
オルドは、動かなかった。
彼は、海を見ていた。
やがて、低い声で言った。
「――そうだ」
「…………」
「一度も、行かなかった」
彼は言った。
「知ってた。全部な」
リヴィアの息が、止まった。
「……え」
「エルデナが焼けた日も」
彼は言った。
「お前が生き残ったことも。……十年、あの街で生きてたことも」
「…………」
「三年前、聖都で死にかけたことも」
彼の手が、手すりを握った。
「――全部、知ってた」
「……じゃあ、なんで」
リヴィアの声が、割れた。
「なんで、来なかったの」
「…………」
「一度でいい」
彼女は、泣いていた。
「一度でよかったのに」
彼女は、彼を見た。
「――なんで!!」
オルドは、しばらく黙っていた。
夕陽が、海に沈もうとしていた。
水平線に触れた縁が、平たく潰れて、横に広がっていた。
やがて、彼は言った。
「……行けば、戻れなくなるからだ」
「え?」
「一度でも顔を見たら」
彼は言った。
「――俺は、二度と、離れられなくなる」
彼の声が、初めて、震えた。
「そうなったら、俺はお前の傍にいる。……そして、俺の因果が、お前に付く」
「…………」
「――お前は、狙われる」
彼は、拳を握った。
「上からも、下からも」
「……だから」
「だから、逃げた」
彼は言った。
「守るために、捨てた。……そういうことにして、俺は逃げた」
彼は、初めて、彼女を見た。
「――二十八年、一度も会いに行かなかった」
彼の目が、赤かった。
「それが、答えだ」
リヴィアは、応じられなかった。
――怒りは、あった。
でも、それを、どこに向ければいいのか、分からなかった。
この人は、逃げたと言った。
守るためだったと、言い訳しなかった。
――「そういうことにして、逃げた」と言った。
(……ずるい)
(そんな言い方をされたら)
(――怒れないじゃない)
「――俺を、父親とは思わなくていい」
オルドは言った。
「…………」
「その資格はない。……分かってる」
彼は、海を見た。
夕陽が、水平線に触れていた。
「――ただ」
彼の声が、変わった。
「ただ、一つだけ、頼みがある」
「……なに」
「ルシェリアは」
彼は言った。
「――最後の一秒まで、お前の母だった」
リヴィアの動きが、止まった。
「……え」
「あれは、死ぬ時までな」
彼は言った。
「――お前のことしか、言わなかった」
彼の声が、掠れた。
「『リヴィアを頼む』でもない。『リヴィアを守れ』でもない」
彼は、目を閉じた。
「――『あの子、寝相が悪いから』」
「……え」
「『布団、蹴るから。……ちゃんと掛け直してやってね』」
彼は言った。
「――それが、最後の言葉だ」
リヴィアの視界が、白くなった。
「…………」
彼女は、口を押さえた。
――知らない人だった。
顔も、声も、何ひとつ知らない。二十八年間、一度も思い出したことのない人だった。思い出しようが、なかったからだ。
――その人の、最後の言葉。
(……布団)
(――布団の心配を、してた)
彼女の膝が、崩れた。
手すりに、しがみついた。
――そして、彼女は思い出した。
孤児院の、冬の夜。
八人で一部屋の、狭い寝床。窓の隙間から風が入り、明け方には床が凍るほど冷えた。
毎朝、彼女の布団だけが、床に落ちていた。
――「あんた、寝相が悪いねえ」
マーサ院長が、毎朝そう言って、笑っていた。
――「毎晩、掛け直してるんだよ、あたしゃ」
(……)
彼女の喉から、声が漏れた。
言葉にならない、獣のような音だった。
――誰かが、掛け直してくれていた。
母が死んだ後も。
名前も知らない誰かが、彼女の布団を、掛け直し続けていた。
「……あ」
彼女は、両手で顔を覆った。
「……ぁ、あ」
――涙が、止まらなかった。
顔も知らない人のために。
覚えてもいない人のために。
彼女は、初めて、泣いた。
「――許してやって欲しい」
オルドは言った。
「あれは、お前を捨てたわけじゃない」
「…………」
「死んだんだ。……ただ、それだけだ」
彼の声が、震えた。
「捨てたのは、俺だ」
彼は言った。
「――あれを、恨まないでやってくれ」
リヴィアは、しばらく動けなかった。
夕陽が、沈んだ。
海が、藍色に変わっていく。手すりの温かさが、指の下から抜けていった。
やがて、彼女は言った。
「……許すも、何も」
その声は、掠れていた。
「……知らないんです」
「…………」
「顔も、声も、何も知らない」
彼女は、涙を拭った。
「――許すも、恨むも、できません」
オルドは、応じなかった。
彼は、ただ、海を見ていた。
「……すまん」
やがて、彼は言った。
「――それも、俺のせいだ」
【去る】
リヴィアは、バルコニーの手すりから、手を離した。
――何も、整理できていなかった。
嬉しいのか。悲しいのか。怒っているのか。
全部が、同時にあって、どれも形になっていなかった。
「……失礼します」
彼女は言った。
「――待て」
オルドが、呼び止めた。
彼女は、振り返った。
「……なんですか」
オルドは、何かを言おうとして――言葉を探して。
――言えなかった。
彼は、口を開いて、閉じた。
もう一度、開いた。
それから、こう言った。
「――……いや」
彼は、首を振った。
「なんでもない」
「…………」
「気をつけて帰れ。……夜道は暗い」
リヴィアは、その言葉を聞いて。
――少しだけ、立ち止まった。
この人は、二十八年、こういうことを言いたかったのかもしれない。
「気をつけて帰れ」なんて、当たり前のことを。
でも、言えなかった。
(……不器用ね)
「……はい」
彼女は、頷いた。
「――おやすみなさい」
彼女は、バルコニーを出た。
――背後で。
オルドが、深く、長い息を吐いた。
彼は、手すりに両手をついて、俯いた。
しばらく、動かなかった。
――やがて。
彼は、腰の酒瓶を取った。
口元へ運びかけて。
――止めた。
瓶を、手すりに置いた。
置いた瓶の底が、石を軽く鳴らした。
「……ルシェリア」
暗くなった海へ、彼はそう呼びかけた。
「――俺、間違えたかもしれん」
海鳥が、一羽、鳴いた。
それきり、彼の口は動かなかった。
――彼の周りで、風が凪いでいた。
バルコニーの外では、確かに海風が吹いていた。手すりの上の瓶の周りだけ、空気が動いていなかった。
――同じ頃。
リヴィアは、暗い廊下を歩いていた。
足が、勝手に動いていた。
どこへ向かっているのか、自分でも分からなかった。
――そして、階段の途中で、彼女は座り込んだ。
誰もいない、暗い階段の踊り場で。
窓が一つあって、そこから海の音だけが入ってきていた。
彼女は、膝を抱えた。
(……お父さん)
その言葉を、心の中で言ってみた。
――違和感しか、なかった。
二十八年、一度も使わなかった言葉だ。
使い方が、分からない。
(……お母さん)
こちらは、もっと分からなかった。
顔も知らない。声も知らない。
――なのに。
(――布団、掛け直してくれてたんだ)
――そこで、また涙が出た。
「……ずるい」
彼女は、膝に顔を埋めた。
「……そんなの、ずるいでしょう」
――怒りたかった。
二十八年、放っておかれて、顔さえ見せてもらえなかったのだ。怒っていい理由なら、両手で足りないほどあった。
――なのに。
最後の言葉が、布団の心配だったなんて。
(……怒れないじゃない)
彼女は、そこに座り続けた。
――どれくらい、経ったか。
「……隊長?」
声がした。
顔を上げると、ミーナレイが立っていた。手に、ミルクの入った杯を持っていた。
「……あれ、どうしたんですか。こんなところで」
「……なんでもない」
「泣いてます」
「……泣いてない」
「泣いてますよ」
彼女は、あっさり言って、隣に座った。
――何も、聞かなかった。
ただ、隣に座っていた。杯を、両手で持ったまま。
しばらくして、リヴィアが言った。
「……ミーナレイ」
「はい」
「――お母さんのこと、覚えてる?」
彼女は、少し驚いた顔をした。
「……はい。覚えてます」
「どんな人だった?」
「うーん」
彼女は、少し考えた。
「……朝が弱かったです」
「え?」
「あたしより、起きるのが遅くて」
彼女は、笑った。
「あたしが起こしに行くんです。……で、『あと五分』って言うんですよ、毎日」
「…………」
「剣術の家の娘なのに、朝が弱いってどうなんですか、って言ったら」
彼女は、少し遠い目をした。
「『刀は夜も振れる』って」
リヴィアは、思わず笑った。
「……変な理屈ね」
「でしょう」
ミーナレイは、頷いた。
――そして、少し黙ってから、言った。
「……あたし、覚えてることが、そういうことばっかりなんです」
「…………」
「立派なこととか、教えとか、そういうのじゃなくて」
彼女は、膝を抱えた。杯が、階段の板の上に置かれた。
「――朝が弱かったこととか、そういうのばっかり」
彼女は、少し笑った。
「でも、それでいいのかなって、最近思うんです」
「……なんで」
「だって」
彼女は、リヴィアを見た。
「――その人が、生きてた証拠って、たぶん、そういうことだから」
リヴィアは、しばらく黙っていた。
小さく、頷いた。
「……そうね」
(……布団を、掛け直してた人)
(――それが、私の母だ)
初めて、その人が、少しだけ、輪郭を持った気がした。
――階段の窓から、海の音が入ってきていた。
二人は、しばらく、そこに座っていた。




