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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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43/53

群島

【島影】


 六日目の朝、島が見えた。


 ――一つではなかった。


 大小の島が、海に散らばっている。


 近いものは緑の稜線まで見え、遠いものは輪郭だけが灰色に霞んでいた。数えきれない数の島影が、朝靄の中に重なって浮かんでいる。


 海の色が、途中で変わっていた。外洋の濃い藍から、浅瀬の透けた翠へ。その境目が、島影の手前に一本、線になって走っていた。


「……綺麗」


 ミーナレイが、手すりから身を乗り出した。


「あんなに、いっぱい」


「――アスレオン連合国」


 グレイが、隣に立った。


「主要な島が七つ。……小さいものを入れると、二百を超える」


「二百!?」


「地図によって数が違う。……潮で沈む島があるからな」


 彼は言った。


「――誰も、正確な数を知らない」




 ――船が、本島の港へ近づいていく。


 ――リヴィアは、それを見た。


「……え」


 彼女の動きが、止まった。


 港が、人で埋まっていた。


 ――埠頭にも、丘の斜面にも、その上の街にも。


 人が、いた。


 埠頭の縁に沿って、幾重にも列ができている。丘の斜面は、白い点で埋まっていた。その白は、家の壁ではなかった。動いていた。


 何千人。いや。


「……何万人?」


 リズが、呆然と呟いた。


「ちょっと待って。……なにこれ」




 ――そして、彼らは気づいた。


 その人々の服装が、島の民のものではないことに。


 白い薄絹。


 褐色の肌。


 黄金の装身具は、なかった。


 だが、その衣装は――


「……砂漠の」


 リヴィアの喉が、鳴った。


「――ネフィラの民です」


 ミーナレイが、掠れた声で言った。




【四万二千】


 接岸すると、桟橋に、人が待っていた。


 カーキのジャケット。胸に、三日月と鍵の紋章。


 ――セリウス・クレイド。


 その隣に、白銀のマントの少女。


 巨躯の男。


 最後に、白磁の仮面の女。


「――よく来た」


 セリウスが言った。


 その顔は、少し痩せていた。頬の線が、三ヶ月前より鋭くなっている。


「……セリウス」


 リヴィアは、船を降りた。


 周囲を、見回した。


 ――どこを見ても、人がいた。


 桟橋の脇に、荷が積まれている。麻袋。木箱。鍋。子供の靴。それらの間に、人が座っていた。座る場所を、荷の隙間に見つけて。


「……これは」


「ネフィラの民だ」


「……何人」


「四万二千」


 彼は、あっさりと答えた。


 リヴィアの息が、止まった。


「――四万二千?」


「そうだ」


「どうやって」


「三ヶ月かけた」


 彼は言った。


「漁船と、商船と、あとは貨物船を借りた。……一度に運べるのは、二百人が限界だ」


 彼は、港の向こうを見た。


「――だから、二百回、往復した」




 リヴィアは、言葉を失った。


「……三ヶ月前って」


「ああ」


「三ヶ月前は、まだ、宣戦布告もされてなかった」


「そうだ」


「じゃあ、なんで」


「――分かってたからだ」


 セリウスは、低い声で言った。


「ネフェリスさんは、逃げない。……それは、最初から分かってた」


 彼は言った。


「あの人は、三百年かけて、砂を国にした人だ」


 彼の声が、少し掠れた。


「――逃げるわけがない」




「……ネフェリス殿は」


「知っていた」


 セリウスは答えた。


「俺たちが民を運んでいることは、知っていた」


「え?」


「知っていて、黙っていた」


 彼は、海を見た。


「……女王が『逃げろ』と言えば、統治が終わる。だから、言えない」


 彼は、少し笑った。


「――だから、あの人は、見て見ぬふりをした」


 リヴィアは、その意味を理解した。


 ――ネフェリスは、民を逃がしたのだ。


 自分の口からは、一言も言わずに。


 女王の誇りを守ったまま。


「…………」


「三ヶ月前、一度だけ、伝言が来た」


 セリウスは言った。


「なんて」


「――『船が小さい』と」


 彼は言った。


「それだけだ。……だから、もっと大きい船を借りた」


【空の都】


 ――同じ頃。ネフィラ王国、王都エレフィス。


 トビアス・レンは、黄金の都を歩いていた。


 占領から、六日が経っていた。


 ――街は、無傷だった。


 城壁の一角と、南門の周りだけが崩れている。それ以外は、彼が丘の上から初めて見た日と、同じ姿で建っていた。


 白い砂岩の壁。段になった街並み。水路。


 ――水路には、まだ水が流れていた。


 女王が死んでも、彼女の作ったものは、動き続けていた。




 彼の任務は、住居の確認だった。


 一軒ずつ入って、人がいるか調べ、番号札を扉に貼る。


 ――百四十軒を回って、人がいたのは、四軒だった。


 いずれも、動けない老人だった。三人は、一人で暮らしていた。一人は、隣家の女が世話をしに来ていた。


 残りの百三十六軒は、空だった。


 ――荒らされた形跡は、なかった。


 鍵がかかっていない家が、大半だった。中に入ると、食器が棚に並び、寝具が畳まれていた。


 ――ただ、人だけが、いなかった。




 六十八軒目の家で、彼は足を止めた。


 床に、敷物があった。


 厚い、織りの敷物だった。赤と、藍と、白。細かい幾何学の模様が、隅から隅まで続いている。


 ――一枚の中で、同じ模様が二度出てこなかった。


 彼は、しゃがんで、それを見た。


 角の一つが、繕われていた。別の色の糸で、丁寧に。


(……持っていけなかったのか)


 ――重いのだ。


 この大きさなら、大人一人が抱えるのがやっとだ。子供の手を引いて、水と食料を持って、その上でこれを担ぐことはできない。


 彼は、それを見ていた。


 ――そして、番号札を貼らずに、扉を閉めた。


 理由は、自分でも分からなかった。




 その夜、彼は野営地で、数えた。


 ――百四十軒のうち、百三十六軒。


 一軒に四人住んでいたとして、五百四十四人。


 この都には、一万軒近い家がある。


(……四万人)


 彼は、そこで数えるのをやめた。


 どこへ行ったのか、彼には分からなかった。


 誰も、教えてくれなかった。



【避難民】


 港から街へ入ると、光景は、さらに異様だった。


 ――街が、二重になっていた。


 石造りの家並みの隙間という隙間に、天幕が張られている。


 路地に、広場に、桟橋の下に。


 天幕は、どれも間に合わせだった。帆布。麻袋を裂いて縫い合わせたもの。船の古い帆。柱の代わりに、櫂が使われているものもあった。


 ――そして、その全てに、人がいた。


 匂いが、混ざっていた。潮と、煮炊きの煙と、香辛料。島の匂いではなかった。


「……これ」


 リズが、絶句した。


「島の人たちは、なんて言ってるの」


「最初は、揉めた」


 セリウスが答えた。


「当然だ。四万二千だぞ。……島の人口の、倍以上だ」


「じゃあ、なんで」


「――評議会が、通した」


 彼は言った。


「三人の代表が反対して、四人が賛成した。……一票差だ」


「一票……」


「その一票を入れたのが」


 彼は、少し笑った。


「――あの、飲んだくれだ」


「え?」


「……いや。今度、会わせる」




 街を歩くと、人々が、彼らを見た。


 ――そして、道を空けた。


 いや、正確には。


 セリウスに、道を空けたのだ。


 ――そして、頭を下げた。


 何人も。何十人も。


 老人が。母親が。子供が。


 彼が通るたびに、頭を下げていく。


 路地の奥で洗い物をしていた女が、手を止めて立ち上がり、濡れた手のまま頭を下げた。


 ――セリウスは、そのたびに、頷いた。


 一人一人に。


 目を合わせて。


「……セリウスさん」


 小さな女の子が、駆け寄ってきた。


「あのね、あのね、これ」


 彼女は、手に何かを持っていた。


 ――砂で作った、小さな人形だった。


 乾いた砂を、何かで固めたものだった。指の跡が、いくつも残っている。腕が、片方だけ短かった。


「ありがと。……船、乗せてくれて」


 セリウスは、膝をついた。


 それを、両手で受け取った。


「……ありがとう」


「あのね」


 女の子が言った。


「――おかあさんは、乗れなかったの」


 セリウスの動きが、止まった。


「……そうか」


「でもね、おとうさんは乗れたから。……だから、半分ありがと」


 彼女は、そう言って、走っていった。


 ――セリウスは、しばらく動かなかった。


 彼は、その人形を、じっと見ていた。


 短い方の腕に、指の腹が触れていた。


 それから、立ち上がった。


 その顔から、表情が消えていた。


「……セリウス」


「――行こう」


 彼は、それだけ言って、歩き出した。


 人形は、内ポケットへ入れた。




 リヴィアは、その背中を見ていた。


(……この人は)


 二年間。


 いや、十年間。


(――ずっと、こういうものを、抱えてきたのね)


 彼女は、三年前のことを思い出した。


 聖都で、この人は、感情のない目をしていた。


(――あれは)


(あれは、麻痺じゃなかった)


(抱えすぎて、外に出せなくなってただけだ)


【名前】


 その日の午後。


 皇帝アルディスは、天幕の間を歩いていた。


 ――一人で。


「陛下! お待ちください!」


 リヴィアが、慌てて追いかけた。


「陛下、危険です」


「危険?」


 彼は、振り返った。


「――ここには、誰も余を知る者はおらん」


 彼は言った。


 確かに、その通りだった。


 彼は、粗末な外套を着ている。髪は短く切られ、顔は日に焼けていた。この六日間の船旅で、手の甲にも色がついていた。


 ――誰も、彼を皇帝だとは思わない。




 彼は、天幕の一つの前で、足を止めた。


 老人が、座っていた。


 地面に直に胡座をかいて、膝の上に布を広げて。


 ――何かを、繕っていた。


 傍らに、糸が三色。針は、魚の骨を削ったものに見えた。


「……何を、しておられる」


 皇帝が、声をかけた。


 老人は、顔を上げた。


「……ん? ああ」


 彼は、布を持ち上げた。


「敷物だ。……古いのを、繋いでる」


「敷物」


「そう。……砂漠のはな、一枚一枚、模様が違う」


 彼は、布を撫でた。


 赤と、藍と、白。細かい幾何学の模様が、隅から隅まで続いていた。


「家ごとに、違う」


「…………」


「これは、うちのだ」


 彼は言った。


「――持ってこられたのは、これだけだ」


 皇帝は、その隣に、腰を下ろした。


 地面は、まだ昼の熱を残していた。


「……名を、伺っても」


「わしか?」


 老人は、少し驚いた顔をした。


「――ハルーンだ」


「ハルーン殿」


「殿はいらん」


 彼は、笑った。歯が、上に三本、抜けていた。


「ただの、じいさんだ」




 ――皇帝は、それから一時間、そこにいた。


 老人の話を、聞いていた。


 砂漠のこと。家族のこと。逃げた日のこと。


 ――そして、船に乗れなかった、次男のこと。


「……そうか」


 皇帝は言った。


「……名は」


「ん?」


「――ご次男の、お名前は」


 老人は、しばらく黙っていた。


 針が、布の上で止まっていた。


「……サミル、と」


「サミル殿」


 皇帝は、頷いた。


「――覚えておく」


「……なんで」


「余は」


 彼は、言い直した。


「――俺は、名前を集めている」


 老人は、意味が分からない顔をした。


「名前?」


「そうだ」


 彼は、立ち上がった。


「――誰かが、覚えていなければならん」




 その日、皇帝は、十七人と話した。


 全員の名前を、聞いた。


 その日の夜。


 彼は、宿の一室で、ノートを開いていた。


 ――十八冊目のノートだった。


 白い塔の机の上で、書きかけのまま置かれていたもの。表紙も綴じもない、紙束のままのそれを、彼は持ち出してきた。


 彼は、そこに、名前を書いていった。


 ハルーン。サミル。


 ヤスミン。カリード。


 ――十七人分。


 その全部を、彼は書いた。


「……陛下」


 リヴィアが、声をかけた。


「なんだ」


「――何を、されているんですか」


「記録だ」


 彼は答えた。


「……名前の、ですか」


「そうだ」


 彼は、ペンを止めた。


「余は、十四年、書類を読んできた」


 彼は言った。


「そこには、数字しか書いていない」


 彼の手が、震えた。


「死者、四千。負傷者、一万二千。……そういう書類だ」


「…………」


「余は、それに判を押してきた」


 彼は、顔を上げた。


「――名前を、一つも知らずに」




 リヴィアは、応じられなかった。


「だから、集める」


 皇帝は言った。


「余に、できることは、それだけだ」


 彼は、ペンを取り直した。


「軍は動かせん。金もない。……何の力もない」


 彼は、書き続けた。


「――だが、覚えることはできる」


 リヴィアは、その手元を見ていた。


 ――上着の内側に、手をやった。


 七十五人分の名前が書かれた手帳が、そこにあった。


 三ヶ月前、憲兵隊の記録室で、彼女は二時間かけてそれを書き写した。何にもならないと分かっていて。


 その三日前には、ミーナレイが一人分の名前を手帳に書いていた。


 ――三人が、同じことをしている。


 誰も、そのことを口にしなかった。



【水筒】


 その夜、リヴィアは埠頭にいた。


 ――一人で、海を見ていた。


 六日間、船に揺られ続けた体は、まだ地面が揺れているように感じた。石畳に立っているのに、足の裏が、次の傾きを予測して待っていた。


 港には、まだ灯りがあった。


 天幕の間に、油の皿がぽつぽつと点っている。数えれば、何百とあった。その全部が、三ヶ月前まで砂漠にあった灯りだった。


「…………」


 彼女は、深く息を吐いた。


 ――ネロのこと。


 ――ムラサメのこと。


 ――そして、四万二千人のこと。


 全部が、まだ、整理できていなかった。


 ――その時。


 背後から、足音がした。


 振り返ると、白銀のマントが立っていた。


「…………」


「…………」


 二人とも、口を開かなかった。


 ――そして。


 カリンが、無言で、何かを差し出した。


 水筒だった。


「……え?」


「……船、酔ったでしょ」


 彼女は、目を合わせずに言った。


「……ええ、まあ」


「これ、飲んで」


「……なに?」


「島の、薬草茶。……酔いに効く」


 リヴィアは、それを受け取った。


 まだ、温かかった。


「……ありがとう」


「…………」


 カリンは、応じなかった。


 そのまま去ろうとして――足を止めた。


「……あのさ」


「はい」


「……仲間が、死んだって聞いた」


 リヴィアの動きが、止まった。


「……ええ」


「……そう」


 カリンは、それきり黙った。


 波が、桟橋の脚に当たって、二度、音を立てた。


 しばらくして、彼女は言った。


「……私も、去年、一人失くした」


「…………」


「同じ孤児院の子」


 彼女は、海を見ていた。


「バルドアで。……あなたたちと、やり合った時じゃない。その後」


「…………」


「あの子、私より三つ下でね」


 彼女の声は、平坦だった。


「私が『氷は綺麗だね』って言ったら、次の日から、氷の細工を作り始めたの」


 彼女は、少し笑った。


「下手くそでね。……全部、溶けた」


「…………」


「でも、毎日作ってた」


 彼女は言った。


 それから、リヴィアを見た。


 ――初めて、目が合った。


「……仲間が死ぬのは、慣れない」


 彼女は言った。


「何回でも、慣れない」


 リヴィアは、頷いた。


「……ええ」


「……それだけ」


 カリンは、背を向けた。


「じゃあ」


「――カリン」


 リヴィアが、呼び止めた。


「……なに」


「ありがとう」


 カリンは、応じなかった。


 少しだけ、足を速めて、去っていった。


【酒場】


 三日目の夜。


 黒翼の四人は、港の酒場にいた。


 ――休息を、命じられていた。


 店は、狭かった。卓が六つ。天井が低く、梁に頭をぶつけそうになる。壁には、網と、櫂と、干した魚が吊るされていた。


 床は、こぼれた酒が何十年も染みて、黒く光っていた。


「……はぁ」


 リズが、テーブルに突っ伏した。


「疲れた……」


「まだ何もしてねえだろ」


 アシュが、酒を呷った。


「疲れたのは、心よ」


「そうかよ」


「そうよ」


 ――ミーナレイは、ミルクを飲んでいた。


「あたし、酒、飲めないんです」


「十八だもんな」


「そうじゃなくて、体質です」


 彼女は、真面目な顔で言った。


「一口で、真っ赤になります」


「試したのか」


「はい。……去年、こっそり」


「こっそりかよ」


 久しぶりに、笑い声が出た。


 ――四人の、久しぶりの笑いだった。


 卓に、椅子が一つ、余っていた。


 誰も、それを片付けなかった。




 ――そして、酒場の奥から、大声が聞こえてきた。


「――だからよォ!! あの時の波はな!!」


「うるせえぞ!」


「聞け! いいから聞け!」


 振り返ると、一人の男が、テーブルの上で歌っていた。


 ――いや、歌っているのか、喚いているのか、分からなかった。


 真っ黒に日焼けした男だった。


 黒い髪が、伸び放題に肩まで垂れている。白髪が混ざっていた。


 顎髭も、無造作に伸びている。


 着ているのは、金の刺繍が入った、豪奢な外套。


 ――なのに、着方が、めちゃくちゃだった。


 ボタンは半分外れ、袖はまくり上げられ、裾は椅子に踏まれている。首には、値のつかないほどの首飾りが三つ、絡まったまま下がっていた。


「……なんですか、あの人」


 ミーナレイが、呆れた顔で言った。


「酔っ払いよ」


「そうですけど」


 男は、周囲の客に囲まれていた。


 ――そして、なぜか、全員が笑っていた。


 彼が何か言うたびに、酒場が沸いた。


「……人気者ね」


「――島の名物だ」


 店主が、酒を持ってきながら言った。


「あの人、名物なんですか?」


「そりゃもう」


 店主は、笑った。


「三十年、あそこで飲んでる」


「三十年!?」


「そうさ。……で、金を払ったところを見たことがない」


「え」


「みんなが払うんだ」


 彼は言った。


「なんでか知らんが、みんな、あの人に払いたがる」




 リヴィアは、その男を、なんとなく見ていた。


 ――目が離せなかった。


 理由は、分からなかった。


 男が笑うと、店の空気が動いた。彼の周囲の卓だけ、酒の減りが速かった。


 そして、その笑い方が。


(……なんだろう)


(――なんか、見たことがある気がする)


 彼女は、立ち上がった。


「隊長?」


「……ちょっと」


 彼女は、その男の方へ歩いた。




「――なあ、あんた」


 男が、隣の客に絡んでいた。


「その酒はな、南のやつだろ。……分かるんだよ、匂いで」


「よく分かるな」


「三十年飲んでりゃ、分かる」


「三十年も何やってんだよ」


「飲んでた」


「威張るな」


 酒場が、また笑った。


 ――そこへ。


「――あの」


 リヴィアが、声をかけた。


 男が、振り返った。


「あん?」


 ――そして。


 彼の目が、彼女を捉えた。


 ――止まった。




 男の表情が、変わった。


 笑いが、消えた。


 ――酔いの色が、消えた。


 手にした杯が、傾いたまま止まった。中身が、卓に一滴だけ落ちた。


「…………」


「あの、すみません」


 リヴィアは、少し戸惑いながら言った。


「なんとなく、その、話しかけたくなって」


「…………」


「――変なこと言ってますよね。すみません」


 ――男は、応じなかった。


 彼は、じっと彼女を見ていた。


 いや。


 ――見ていたのは、彼女の顔ではなかった。


 その、首元だった。


 服の襟の、下。


 ――そこに、細い銀の鎖が覗いていた。




「…………」


 男は、酒を置いた。


 それから、立ち上がった。


 立ち上がる時、彼の周りの空気が、一度だけ動いた。窓は閉まっていた。天井から吊るされた干し魚が、三つ、同じ方向へ揺れた。


「……あー」


 彼は、髪を掻いた。


「――酔いが、覚めちまった」


「え?」


「悪いな。今日は帰る」


 彼は言った。


「おい、オルド! どうしたんだよ!」


 客の一人が、叫んだ。


「まだ夜は長いぞ!」


「今日はいい」


 彼は、手を振った。


 店を、出ていった。


 ――扉が閉まった後、揺れていた干し魚が、少しずつ止まった。




 ――リヴィアは、その場に立ち尽くしていた。


「……なに、今の」


「隊長?」


 リズが、駆け寄ってきた。


「どうしたの。あの人と、知り合い?」


「……知らない」


「じゃあ、なんで」


「……分からない」


 リヴィアは、扉の方を見ていた。


 ――そして、無意識に、胸元に手をやった。


 服の下の、銀のペンダント。


 黒い三日月を、荊の環が抱く紋様。三歳の時からずっと首にある、誰も読めない意匠。


 その紋様は、いつも通り、何も語らなかった。


 ――だが。


 なぜか、少しだけ。


 温かい気がした。



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