群島
【島影】
六日目の朝、島が見えた。
――一つではなかった。
大小の島が、海に散らばっている。
近いものは緑の稜線まで見え、遠いものは輪郭だけが灰色に霞んでいた。数えきれない数の島影が、朝靄の中に重なって浮かんでいる。
海の色が、途中で変わっていた。外洋の濃い藍から、浅瀬の透けた翠へ。その境目が、島影の手前に一本、線になって走っていた。
「……綺麗」
ミーナレイが、手すりから身を乗り出した。
「あんなに、いっぱい」
「――アスレオン連合国」
グレイが、隣に立った。
「主要な島が七つ。……小さいものを入れると、二百を超える」
「二百!?」
「地図によって数が違う。……潮で沈む島があるからな」
彼は言った。
「――誰も、正確な数を知らない」
――船が、本島の港へ近づいていく。
――リヴィアは、それを見た。
「……え」
彼女の動きが、止まった。
港が、人で埋まっていた。
――埠頭にも、丘の斜面にも、その上の街にも。
人が、いた。
埠頭の縁に沿って、幾重にも列ができている。丘の斜面は、白い点で埋まっていた。その白は、家の壁ではなかった。動いていた。
何千人。いや。
「……何万人?」
リズが、呆然と呟いた。
「ちょっと待って。……なにこれ」
――そして、彼らは気づいた。
その人々の服装が、島の民のものではないことに。
白い薄絹。
褐色の肌。
黄金の装身具は、なかった。
だが、その衣装は――
「……砂漠の」
リヴィアの喉が、鳴った。
「――ネフィラの民です」
ミーナレイが、掠れた声で言った。
【四万二千】
接岸すると、桟橋に、人が待っていた。
カーキのジャケット。胸に、三日月と鍵の紋章。
――セリウス・クレイド。
その隣に、白銀のマントの少女。
巨躯の男。
最後に、白磁の仮面の女。
「――よく来た」
セリウスが言った。
その顔は、少し痩せていた。頬の線が、三ヶ月前より鋭くなっている。
「……セリウス」
リヴィアは、船を降りた。
周囲を、見回した。
――どこを見ても、人がいた。
桟橋の脇に、荷が積まれている。麻袋。木箱。鍋。子供の靴。それらの間に、人が座っていた。座る場所を、荷の隙間に見つけて。
「……これは」
「ネフィラの民だ」
「……何人」
「四万二千」
彼は、あっさりと答えた。
リヴィアの息が、止まった。
「――四万二千?」
「そうだ」
「どうやって」
「三ヶ月かけた」
彼は言った。
「漁船と、商船と、あとは貨物船を借りた。……一度に運べるのは、二百人が限界だ」
彼は、港の向こうを見た。
「――だから、二百回、往復した」
リヴィアは、言葉を失った。
「……三ヶ月前って」
「ああ」
「三ヶ月前は、まだ、宣戦布告もされてなかった」
「そうだ」
「じゃあ、なんで」
「――分かってたからだ」
セリウスは、低い声で言った。
「ネフェリスさんは、逃げない。……それは、最初から分かってた」
彼は言った。
「あの人は、三百年かけて、砂を国にした人だ」
彼の声が、少し掠れた。
「――逃げるわけがない」
「……ネフェリス殿は」
「知っていた」
セリウスは答えた。
「俺たちが民を運んでいることは、知っていた」
「え?」
「知っていて、黙っていた」
彼は、海を見た。
「……女王が『逃げろ』と言えば、統治が終わる。だから、言えない」
彼は、少し笑った。
「――だから、あの人は、見て見ぬふりをした」
リヴィアは、その意味を理解した。
――ネフェリスは、民を逃がしたのだ。
自分の口からは、一言も言わずに。
女王の誇りを守ったまま。
「…………」
「三ヶ月前、一度だけ、伝言が来た」
セリウスは言った。
「なんて」
「――『船が小さい』と」
彼は言った。
「それだけだ。……だから、もっと大きい船を借りた」
【空の都】
――同じ頃。ネフィラ王国、王都エレフィス。
トビアス・レンは、黄金の都を歩いていた。
占領から、六日が経っていた。
――街は、無傷だった。
城壁の一角と、南門の周りだけが崩れている。それ以外は、彼が丘の上から初めて見た日と、同じ姿で建っていた。
白い砂岩の壁。段になった街並み。水路。
――水路には、まだ水が流れていた。
女王が死んでも、彼女の作ったものは、動き続けていた。
彼の任務は、住居の確認だった。
一軒ずつ入って、人がいるか調べ、番号札を扉に貼る。
――百四十軒を回って、人がいたのは、四軒だった。
いずれも、動けない老人だった。三人は、一人で暮らしていた。一人は、隣家の女が世話をしに来ていた。
残りの百三十六軒は、空だった。
――荒らされた形跡は、なかった。
鍵がかかっていない家が、大半だった。中に入ると、食器が棚に並び、寝具が畳まれていた。
――ただ、人だけが、いなかった。
六十八軒目の家で、彼は足を止めた。
床に、敷物があった。
厚い、織りの敷物だった。赤と、藍と、白。細かい幾何学の模様が、隅から隅まで続いている。
――一枚の中で、同じ模様が二度出てこなかった。
彼は、しゃがんで、それを見た。
角の一つが、繕われていた。別の色の糸で、丁寧に。
(……持っていけなかったのか)
――重いのだ。
この大きさなら、大人一人が抱えるのがやっとだ。子供の手を引いて、水と食料を持って、その上でこれを担ぐことはできない。
彼は、それを見ていた。
――そして、番号札を貼らずに、扉を閉めた。
理由は、自分でも分からなかった。
その夜、彼は野営地で、数えた。
――百四十軒のうち、百三十六軒。
一軒に四人住んでいたとして、五百四十四人。
この都には、一万軒近い家がある。
(……四万人)
彼は、そこで数えるのをやめた。
どこへ行ったのか、彼には分からなかった。
誰も、教えてくれなかった。
【避難民】
港から街へ入ると、光景は、さらに異様だった。
――街が、二重になっていた。
石造りの家並みの隙間という隙間に、天幕が張られている。
路地に、広場に、桟橋の下に。
天幕は、どれも間に合わせだった。帆布。麻袋を裂いて縫い合わせたもの。船の古い帆。柱の代わりに、櫂が使われているものもあった。
――そして、その全てに、人がいた。
匂いが、混ざっていた。潮と、煮炊きの煙と、香辛料。島の匂いではなかった。
「……これ」
リズが、絶句した。
「島の人たちは、なんて言ってるの」
「最初は、揉めた」
セリウスが答えた。
「当然だ。四万二千だぞ。……島の人口の、倍以上だ」
「じゃあ、なんで」
「――評議会が、通した」
彼は言った。
「三人の代表が反対して、四人が賛成した。……一票差だ」
「一票……」
「その一票を入れたのが」
彼は、少し笑った。
「――あの、飲んだくれだ」
「え?」
「……いや。今度、会わせる」
街を歩くと、人々が、彼らを見た。
――そして、道を空けた。
いや、正確には。
セリウスに、道を空けたのだ。
――そして、頭を下げた。
何人も。何十人も。
老人が。母親が。子供が。
彼が通るたびに、頭を下げていく。
路地の奥で洗い物をしていた女が、手を止めて立ち上がり、濡れた手のまま頭を下げた。
――セリウスは、そのたびに、頷いた。
一人一人に。
目を合わせて。
「……セリウスさん」
小さな女の子が、駆け寄ってきた。
「あのね、あのね、これ」
彼女は、手に何かを持っていた。
――砂で作った、小さな人形だった。
乾いた砂を、何かで固めたものだった。指の跡が、いくつも残っている。腕が、片方だけ短かった。
「ありがと。……船、乗せてくれて」
セリウスは、膝をついた。
それを、両手で受け取った。
「……ありがとう」
「あのね」
女の子が言った。
「――おかあさんは、乗れなかったの」
セリウスの動きが、止まった。
「……そうか」
「でもね、おとうさんは乗れたから。……だから、半分ありがと」
彼女は、そう言って、走っていった。
――セリウスは、しばらく動かなかった。
彼は、その人形を、じっと見ていた。
短い方の腕に、指の腹が触れていた。
それから、立ち上がった。
その顔から、表情が消えていた。
「……セリウス」
「――行こう」
彼は、それだけ言って、歩き出した。
人形は、内ポケットへ入れた。
リヴィアは、その背中を見ていた。
(……この人は)
二年間。
いや、十年間。
(――ずっと、こういうものを、抱えてきたのね)
彼女は、三年前のことを思い出した。
聖都で、この人は、感情のない目をしていた。
(――あれは)
(あれは、麻痺じゃなかった)
(抱えすぎて、外に出せなくなってただけだ)
【名前】
その日の午後。
皇帝アルディスは、天幕の間を歩いていた。
――一人で。
「陛下! お待ちください!」
リヴィアが、慌てて追いかけた。
「陛下、危険です」
「危険?」
彼は、振り返った。
「――ここには、誰も余を知る者はおらん」
彼は言った。
確かに、その通りだった。
彼は、粗末な外套を着ている。髪は短く切られ、顔は日に焼けていた。この六日間の船旅で、手の甲にも色がついていた。
――誰も、彼を皇帝だとは思わない。
彼は、天幕の一つの前で、足を止めた。
老人が、座っていた。
地面に直に胡座をかいて、膝の上に布を広げて。
――何かを、繕っていた。
傍らに、糸が三色。針は、魚の骨を削ったものに見えた。
「……何を、しておられる」
皇帝が、声をかけた。
老人は、顔を上げた。
「……ん? ああ」
彼は、布を持ち上げた。
「敷物だ。……古いのを、繋いでる」
「敷物」
「そう。……砂漠のはな、一枚一枚、模様が違う」
彼は、布を撫でた。
赤と、藍と、白。細かい幾何学の模様が、隅から隅まで続いていた。
「家ごとに、違う」
「…………」
「これは、うちのだ」
彼は言った。
「――持ってこられたのは、これだけだ」
皇帝は、その隣に、腰を下ろした。
地面は、まだ昼の熱を残していた。
「……名を、伺っても」
「わしか?」
老人は、少し驚いた顔をした。
「――ハルーンだ」
「ハルーン殿」
「殿はいらん」
彼は、笑った。歯が、上に三本、抜けていた。
「ただの、じいさんだ」
――皇帝は、それから一時間、そこにいた。
老人の話を、聞いていた。
砂漠のこと。家族のこと。逃げた日のこと。
――そして、船に乗れなかった、次男のこと。
「……そうか」
皇帝は言った。
「……名は」
「ん?」
「――ご次男の、お名前は」
老人は、しばらく黙っていた。
針が、布の上で止まっていた。
「……サミル、と」
「サミル殿」
皇帝は、頷いた。
「――覚えておく」
「……なんで」
「余は」
彼は、言い直した。
「――俺は、名前を集めている」
老人は、意味が分からない顔をした。
「名前?」
「そうだ」
彼は、立ち上がった。
「――誰かが、覚えていなければならん」
その日、皇帝は、十七人と話した。
全員の名前を、聞いた。
その日の夜。
彼は、宿の一室で、ノートを開いていた。
――十八冊目のノートだった。
白い塔の机の上で、書きかけのまま置かれていたもの。表紙も綴じもない、紙束のままのそれを、彼は持ち出してきた。
彼は、そこに、名前を書いていった。
ハルーン。サミル。
ヤスミン。カリード。
――十七人分。
その全部を、彼は書いた。
「……陛下」
リヴィアが、声をかけた。
「なんだ」
「――何を、されているんですか」
「記録だ」
彼は答えた。
「……名前の、ですか」
「そうだ」
彼は、ペンを止めた。
「余は、十四年、書類を読んできた」
彼は言った。
「そこには、数字しか書いていない」
彼の手が、震えた。
「死者、四千。負傷者、一万二千。……そういう書類だ」
「…………」
「余は、それに判を押してきた」
彼は、顔を上げた。
「――名前を、一つも知らずに」
リヴィアは、応じられなかった。
「だから、集める」
皇帝は言った。
「余に、できることは、それだけだ」
彼は、ペンを取り直した。
「軍は動かせん。金もない。……何の力もない」
彼は、書き続けた。
「――だが、覚えることはできる」
リヴィアは、その手元を見ていた。
――上着の内側に、手をやった。
七十五人分の名前が書かれた手帳が、そこにあった。
三ヶ月前、憲兵隊の記録室で、彼女は二時間かけてそれを書き写した。何にもならないと分かっていて。
その三日前には、ミーナレイが一人分の名前を手帳に書いていた。
――三人が、同じことをしている。
誰も、そのことを口にしなかった。
【水筒】
その夜、リヴィアは埠頭にいた。
――一人で、海を見ていた。
六日間、船に揺られ続けた体は、まだ地面が揺れているように感じた。石畳に立っているのに、足の裏が、次の傾きを予測して待っていた。
港には、まだ灯りがあった。
天幕の間に、油の皿がぽつぽつと点っている。数えれば、何百とあった。その全部が、三ヶ月前まで砂漠にあった灯りだった。
「…………」
彼女は、深く息を吐いた。
――ネロのこと。
――ムラサメのこと。
――そして、四万二千人のこと。
全部が、まだ、整理できていなかった。
――その時。
背後から、足音がした。
振り返ると、白銀のマントが立っていた。
「…………」
「…………」
二人とも、口を開かなかった。
――そして。
カリンが、無言で、何かを差し出した。
水筒だった。
「……え?」
「……船、酔ったでしょ」
彼女は、目を合わせずに言った。
「……ええ、まあ」
「これ、飲んで」
「……なに?」
「島の、薬草茶。……酔いに効く」
リヴィアは、それを受け取った。
まだ、温かかった。
「……ありがとう」
「…………」
カリンは、応じなかった。
そのまま去ろうとして――足を止めた。
「……あのさ」
「はい」
「……仲間が、死んだって聞いた」
リヴィアの動きが、止まった。
「……ええ」
「……そう」
カリンは、それきり黙った。
波が、桟橋の脚に当たって、二度、音を立てた。
しばらくして、彼女は言った。
「……私も、去年、一人失くした」
「…………」
「同じ孤児院の子」
彼女は、海を見ていた。
「バルドアで。……あなたたちと、やり合った時じゃない。その後」
「…………」
「あの子、私より三つ下でね」
彼女の声は、平坦だった。
「私が『氷は綺麗だね』って言ったら、次の日から、氷の細工を作り始めたの」
彼女は、少し笑った。
「下手くそでね。……全部、溶けた」
「…………」
「でも、毎日作ってた」
彼女は言った。
それから、リヴィアを見た。
――初めて、目が合った。
「……仲間が死ぬのは、慣れない」
彼女は言った。
「何回でも、慣れない」
リヴィアは、頷いた。
「……ええ」
「……それだけ」
カリンは、背を向けた。
「じゃあ」
「――カリン」
リヴィアが、呼び止めた。
「……なに」
「ありがとう」
カリンは、応じなかった。
少しだけ、足を速めて、去っていった。
【酒場】
三日目の夜。
黒翼の四人は、港の酒場にいた。
――休息を、命じられていた。
店は、狭かった。卓が六つ。天井が低く、梁に頭をぶつけそうになる。壁には、網と、櫂と、干した魚が吊るされていた。
床は、こぼれた酒が何十年も染みて、黒く光っていた。
「……はぁ」
リズが、テーブルに突っ伏した。
「疲れた……」
「まだ何もしてねえだろ」
アシュが、酒を呷った。
「疲れたのは、心よ」
「そうかよ」
「そうよ」
――ミーナレイは、ミルクを飲んでいた。
「あたし、酒、飲めないんです」
「十八だもんな」
「そうじゃなくて、体質です」
彼女は、真面目な顔で言った。
「一口で、真っ赤になります」
「試したのか」
「はい。……去年、こっそり」
「こっそりかよ」
久しぶりに、笑い声が出た。
――四人の、久しぶりの笑いだった。
卓に、椅子が一つ、余っていた。
誰も、それを片付けなかった。
――そして、酒場の奥から、大声が聞こえてきた。
「――だからよォ!! あの時の波はな!!」
「うるせえぞ!」
「聞け! いいから聞け!」
振り返ると、一人の男が、テーブルの上で歌っていた。
――いや、歌っているのか、喚いているのか、分からなかった。
真っ黒に日焼けした男だった。
黒い髪が、伸び放題に肩まで垂れている。白髪が混ざっていた。
顎髭も、無造作に伸びている。
着ているのは、金の刺繍が入った、豪奢な外套。
――なのに、着方が、めちゃくちゃだった。
ボタンは半分外れ、袖はまくり上げられ、裾は椅子に踏まれている。首には、値のつかないほどの首飾りが三つ、絡まったまま下がっていた。
「……なんですか、あの人」
ミーナレイが、呆れた顔で言った。
「酔っ払いよ」
「そうですけど」
男は、周囲の客に囲まれていた。
――そして、なぜか、全員が笑っていた。
彼が何か言うたびに、酒場が沸いた。
「……人気者ね」
「――島の名物だ」
店主が、酒を持ってきながら言った。
「あの人、名物なんですか?」
「そりゃもう」
店主は、笑った。
「三十年、あそこで飲んでる」
「三十年!?」
「そうさ。……で、金を払ったところを見たことがない」
「え」
「みんなが払うんだ」
彼は言った。
「なんでか知らんが、みんな、あの人に払いたがる」
リヴィアは、その男を、なんとなく見ていた。
――目が離せなかった。
理由は、分からなかった。
男が笑うと、店の空気が動いた。彼の周囲の卓だけ、酒の減りが速かった。
そして、その笑い方が。
(……なんだろう)
(――なんか、見たことがある気がする)
彼女は、立ち上がった。
「隊長?」
「……ちょっと」
彼女は、その男の方へ歩いた。
「――なあ、あんた」
男が、隣の客に絡んでいた。
「その酒はな、南のやつだろ。……分かるんだよ、匂いで」
「よく分かるな」
「三十年飲んでりゃ、分かる」
「三十年も何やってんだよ」
「飲んでた」
「威張るな」
酒場が、また笑った。
――そこへ。
「――あの」
リヴィアが、声をかけた。
男が、振り返った。
「あん?」
――そして。
彼の目が、彼女を捉えた。
――止まった。
男の表情が、変わった。
笑いが、消えた。
――酔いの色が、消えた。
手にした杯が、傾いたまま止まった。中身が、卓に一滴だけ落ちた。
「…………」
「あの、すみません」
リヴィアは、少し戸惑いながら言った。
「なんとなく、その、話しかけたくなって」
「…………」
「――変なこと言ってますよね。すみません」
――男は、応じなかった。
彼は、じっと彼女を見ていた。
いや。
――見ていたのは、彼女の顔ではなかった。
その、首元だった。
服の襟の、下。
――そこに、細い銀の鎖が覗いていた。
「…………」
男は、酒を置いた。
それから、立ち上がった。
立ち上がる時、彼の周りの空気が、一度だけ動いた。窓は閉まっていた。天井から吊るされた干し魚が、三つ、同じ方向へ揺れた。
「……あー」
彼は、髪を掻いた。
「――酔いが、覚めちまった」
「え?」
「悪いな。今日は帰る」
彼は言った。
「おい、オルド! どうしたんだよ!」
客の一人が、叫んだ。
「まだ夜は長いぞ!」
「今日はいい」
彼は、手を振った。
店を、出ていった。
――扉が閉まった後、揺れていた干し魚が、少しずつ止まった。
――リヴィアは、その場に立ち尽くしていた。
「……なに、今の」
「隊長?」
リズが、駆け寄ってきた。
「どうしたの。あの人と、知り合い?」
「……知らない」
「じゃあ、なんで」
「……分からない」
リヴィアは、扉の方を見ていた。
――そして、無意識に、胸元に手をやった。
服の下の、銀のペンダント。
黒い三日月を、荊の環が抱く紋様。三歳の時からずっと首にある、誰も読めない意匠。
その紋様は、いつも通り、何も語らなかった。
――だが。
なぜか、少しだけ。
温かい気がした。




