檻
【八つの光】
その朝、シキナの空は、晴れていた。
港の漁師たちが、網を繕っていた。破れた目に麻糸を通し、指を口で湿らせては、また通す。
子供が、桟橋を走っていた。板の継ぎ目を跳んで、跳ぶたびに音が変わるのを面白がっていた。
女たちが、井戸端で洗濯をしていた。石に叩きつける音が、三つ、少しずつずれて重なっている。
――いつも通りの、朝だった。
最初に気づいたのは、丘の上で山羊を追っていた少年だった。
「……なんだ?」
彼は、空を見上げた。
――北西の空に、点があった。
黒い点が、八つ。
鳥にしては、大きすぎた。
雲にしては、動きが速すぎた。
――そして、八つの間隔が、変わらなかった。
「……とうちゃん」
彼は、山を降りながら叫んだ。
「とうちゃん! なんか、来る!」
それは、飛空艇だった。
八隻。
――だが、兵は乗っていなかった。
艇の腹に、それぞれ一つずつ、巨大な柱が吊るされていた。
高さ、二十メートル。
鋼の枠に、黒い鉱石が幾層にも嵌め込まれている。
――光を、返さない石だった。朝日を浴びているのに、そこだけが夜のままだった。
その表面には――びっしりと、術式が刻まれていた。
一本あたり、数万文字。刻んだ人間が何人いたのか、想像もつかない密度だった。
午前七時十二分。
八隻の飛空艇が、禁足地の上空に到達した。
――ぴたりと、止まった。
八隻の間隔が、そこで、一度、完全に揃った。
同時に、吊索を切った。
――八本の柱が、落ちた。
落下は、二十秒近く続いた。
地面に、深く突き刺さる。
――音は、ばらばらに届いた。
いちばん近い柱の音が、麓の村を叩き、遅れて残り七つの音が重なった。犬が、いっせいに吠えた。
禁足地を囲む、正八角形の頂点に。
直径、三キロ。
その中心に――老人の小屋があった。
【最初の音】
ムラサメは、囲炉裏の前にいた。
朝の茶を、飲んでいるところだった。網の上には、餅が二つ載っている。片方は、もう焦げ始めていた。
――彼は、それを感じた。
「……む」
湯呑みを、置く。
彼は、外へ出た。
餅は、そのままにした。
――そして、空を見上げた。
「……ほう」
八本の柱が、森の上に突き立っていた。
彼は、それを一つずつ、目で辿った。
――正八角形。
完璧な配置だった。
誤差は、たぶん、一メートル未満。
彼は、少しだけ、感心した。
「……よく、測ったな」
――同じ頃、麓の村では。
人々が、家から飛び出していた。
「なんだ! なんの音だ!」
「山だ! 山の方だ!」
村長の老人が、杖をついて外に出た。
北西の空を、見上げた。
――八本の柱が、朝日を弾いていた。
「……ああ」
その一言だけが、口から出た。
膝から、力が抜けた。
「――翁が」
彼は、地面に膝をついた。
「翁が、閉じ込められた」
周囲の村人が、ざわめいた。
「村長! どういうことです!」
「あれは、何なんですか!」
老人は、応じなかった。
――応じられなかった。
彼は、六十年前から知っていた。
この島に、翁がいる限り、帝国は本気で手を出さない。
――誰も、口には出さなかった。
だが、島の年寄りは、全員、そう思っていた。
それが、今日。
終わった。
「……逃げろ」
彼は、掠れた声で言った。
「え?」
「逃げるんだ。……船を出せ。動ける者から、島を出ろ」
「そんな、村長――」
「――早くしろ!!」
老人が、叫んだ。
六十年、静かに生きてきた男が、初めて叫んだ。
「翁がおられんなら、この島は」
彼の声が、震えた。
「――ただの、鉱山だ」
――八本の柱が、同時に、光った。
音は、なかった。
だが、ムラサメには、それが分かった。
空気の底で、いつも鳴っていた音。
――魔素の唸り。
それが、消えた。
三キロ四方から、根こそぎ。
「……ふむ」
彼は、右手を上げた。
軽く、振った。
――何も、起きなかった。
いつもなら、その動きだけで、空間が斬れる。
繋がりを断ち、道を繋ぎ直し、山全体を迷宮にできる。
――今は。
「……ほう」
彼は、自分の掌を見た。
力が、出ない。
いや――出ないのではない。
(……細い)
彼の理は、消えていなかった。
理は、魔素で動いていない。
――だが、この場所では、あまりに細くなっていた。
十分の一。
いや――もっと、下だ。
(……百分の一か)
彼は、少し驚いた。
(ネフィラのところより、強いな)
――彼は知らなかったが、正しい推測だった。
ネフィラの「静寂の鐘」は、広域を薄く覆う設計だった。
これは、狭い範囲を、極限まで濃く潰す設計である。
――彼一人を、殺すために作られていた。
【壁】
――次が、来た。
八本の柱の間に――光の壁が、立ち上がった。
地面から、天へ。
高さ、五十メートル。
――一枚目。
その内側に、二枚目。
三枚目。四枚目。
――六枚。
六重の光壁が、三キロの円を、完全に閉ざした。
壁は、透けていた。向こうの山も、空も、見えた。ただ、光の膜が六枚重なっている分だけ、外の色が、わずかに白んで見えた。
ムラサメは、それを見上げた。
それから、腰の刀に手をかけた。
「――ふん」
彼は、抜いた。
抜いて、振った。
――音は、なかった。
一枚目の壁が、斬れた。
断面が、鏡のように滑らかだった。
――そして。
斬れた壁が、修復された。
斬れた線の両側から、光が寄ってきて、縁で噛み合った。継ぎ目は残らなかった。
三つ数えるかどうかの間だった。
「……む」
もう一度、振った。
斬れる。修復される。
もう一度。斬れる。修復される。
「……なるほど」
彼は、刀を下ろした。
――理解した。
この壁は、彼が斬ることを、前提に作られている。
斬れないものを作るのではなく、斬られる速さより速く直るものを作った。
(……儂の速さを、測ったな)
彼は、少しだけ笑った。
(――丁寧な仕事だ)
彼は、しばらく壁を見ていた。
――全力なら、どうか。
彼は、刀を鞘に収めた。
――そして、目を閉じた。
息を、深く吸う。
千年、彼が磨いてきた技だ。
斬るのではない。線を引く。
――この壁と、この世との間に。
⸻
彼が息を吸い切った時。
禁足地の空気が、止まった。
小屋の煙突から立っていた煙が、上へ行くのをやめた。まっすぐな灰色の柱になって、そのまま静止した。
地面の落ち葉が、動かなくなった。
三キロの円の中で、風が消えた。
――そして。
彼は、抜いた。
音は、しなかった。
最初に動いたのは、木だった。
小屋の裏の杉が、三本、根元から傾いだ。
斬られたのではない。
――斬られた「壁」があった場所へ、空気が一度に流れ込んだからだ。
その風が、木を押した。
次に、鋼が鳴いた。
三キロ先の柱の一本で、枠が内側から膨らみ、鋲が二本、弾け飛んだ。
――そして、見えた。
一枚目の壁が、消えていた。
消えた、のではない。
――最初から、無かったことになっていた。
斬られた跡が、ない。断面もない。「そこに壁があった」という痕跡が、どこにもなかった。
二枚目。
三枚目。
四枚目に、亀裂が入った。上から下まで、まっすぐに。
五枚目が、歪んだ。円が、卵の形になった。
六枚目が――
――止まった。
亀裂が、六枚目の表面で、一寸ほど進んで、そこで消えた。
⸻
音が、届いたのは、その後だった。
三キロの円が、一度に鳴った。
八本の柱が同時に軋んだ音が、内側へ集まり、中心で重なって、また外へ広がっていった。
麓の村では、その音を地震だと思った者が多かった。
実際、皿が三枚割れた家があった。
「…………」
ムラサメは、刀を下ろした。
息が、上がっていた。
千年生きた男が、初めて、荒い息をついていた。
刀を持つ手の、人差し指と中指の間が、痺れていた。
(……届かん)
彼の理は、百分の一に細っている。
全力で、五枚。
六枚目には、届かなかった。
――消した三枚は、既に修復が始まっていた。
何もなかった空間に、光の膜が、下から水が満ちるように立ち上がってきていた。
彼は、しばらく立っていた。
止まっていた煙が、また上へ流れ始めた。
それから、小屋へ戻った。
囲炉裏の前に、座った。
網の上の餅は、片方が真っ黒になっていた。
彼は、湯呑みを取った。
――茶は、まだ温かかった。
彼は、それを一口飲んだ。
それから、言った。
「……ネロとか、言うたか」
誰もいない小屋で、彼は呟いた。
「あの、目の悪い、若いのは」
彼は、火を見た。
「――上手く、やりおったな」
彼は、そこで、少し考えた。
(……いや)
(違うか)
彼は、三ヶ月前のことを思い出した。
あの若者は、遺品の環を見て、指を震わせていた。
「分かりません」と言った。
――嘘だった。
あの目は、読めていた目だ。
(……あれは)
彼は、茶を飲んだ。
(――あれは、儂を殺したくなかった目だ)
――そういう目だった。
(だから、位置だけを知らせた)
(殺せる情報は、送らなかった)
――彼の理は、繋がりを視る。
あの若者と、あの隊の間にあった繋がりを、彼は視ていた。
切れかけていた。
――だが、切れてはいなかった。
「……不器用な奴だ」
声に出してから、彼は湯呑みを取り直した。
湯呑みを、置いた。
「――だが、悪くはない」
棚の上に、折り畳んだ紙が、まだあった。
三日前、あの娘が来た時、彼が出して、開かずに戻したものだ。
彼は、それを手に取った。
――今度は、開いた。
『あの島の禁足地の座標は、既に軍の記録にあります。私が上げました』
『どうか、ご無事で』
彼は、その二行を、二度読んだ。
それから、紙を畳んで、懐に入れた。
「……間に合わなんだな、娘」
彼は、そう呟いた。
声に、責める色はなかった。
【同時刻】
同じ朝。
イルドレナ大森林。
――八本の柱が、森に落ちた。
巨木を薙ぎ倒しながら。
一本の柱が、樹齢数百年の杉を三本まとめて倒した。倒れた幹が、地面を叩いて、二度跳ねた。
地面に突き刺さり、正八角形を描く。
その中心に、小さな庵があった。
ミラは、庵の前で、洗濯物を干していた。
薄茶の麻の衣を、竿にかける。皺を手で伸ばして、端を揃える。
――そして、彼女は空を見上げた。
「……あら」
干しかけの衣が、彼女の手から竿へ落ちた。
八本の柱が、光った。
森の魔素が、消えた。
――彼女の周囲の草花が、一斉に萎れた。
音がした。乾いた紙を握り潰す音を、何万枚分も同時に聞いたような音だった。
彼女の理が、細ったのだ。
彼女の存在だけで生きていた、小さな命たちが、支えを失った。
「……ごめんね」
彼女は、しゃがみ込んだ。
萎れた花を、指で撫でた。
――花は、戻らなかった。
彼女は、しばらくそこに座っていた。
――そして、周囲を見回した。
庵の周りの草が、次々と枯れていく。
軒下の蔦が、色を失っていく。
泉のほとりの苔が、乾いて剥がれていく。剥がれた苔が、風もないのに、少しずつ縁から丸まっていった。
――全部、彼女が育てたものだった。
千年、この森で。
一本ずつ、名前を覚えて。
「……あなたたち」
彼女の指が、一本の枯れた茎に触れた。
「――ごめんね」
彼女は、一本ずつ、触れて回った。
枯れた草。萎れた花。乾いた苔。
――全部に、触れた。
二時間かかった。
最後に、大きな木の根元で立ち止まった。
その木は、まだ枯れていなかった。
「……あなたは、大丈夫ね」
彼女は、幹を撫でた。
「わたしがいなくても、生きていける」
彼女は、少し笑った。
「――そう育てたもの」
六重の壁が、立ち上がった。
ミラは、それを見上げた。
――彼女は、斬れない。
彼女の理は、育てることだ。
壁を斬る技を、彼女は持っていない。
――だが。
「……そうねえ」
彼女は、杖を突いた。
それから、地面に手を当てた。
――地面から、蔓が伸びた。
太い蔓が、光の壁へ向かって、這い上がっていく。先端が、生き物のように空中を探っていた。
――壁に触れた瞬間、灰になった。
燃えたのではない。灰になった。触れた先端から、根元へ向かって、色が抜けていった。
「……あら」
彼女は、もう一度やった。
もう一度、灰になった。
「……なるほどね」
彼女は、手を離した。
立ち上がった。
「――生きているものを、通さない壁ね」
彼女は、庵へ戻った。
囲炉裏に、火を入れた。
それから、茶を淹れた。
――二人分。
彼女は、その一つを、誰もいない場所に置いた。
板間の、右手側。三ヶ月前、そこに座っていた者がいた。
微笑んだ。
「……あの子ね」
湯呑みの縁を、指でなぞる。
「――ちゃんと、伝わったわ」
彼女は、茶を飲んだ。
それから、天井を見上げた。
「……ねえ、聞こえてる?」
誰にともなく、彼女は言った。
「あなた、最後まで、外そうとしなかったでしょう」
彼女は、少し笑った。
「――だから、締まらなかったのよ」
彼女は、湯呑みを置いた。
「よくやったわ」
――誰も、聞いていなかった。
誰もいない場所に置かれた湯呑みからは、しばらく湯気が上がっていた。
やがて、それも止まった。
【報告】
同日、夕刻。
帝国統合作戦本部。
執務室は、広かった。壁の一面が窓で、そこから帝都が見下ろせる。机は、大人が四人並んで座れる長さがあった。
その机の上に、置かれているものは、三つだけだった。
書類の束と、羽根ペンと、地球儀。
ヴァルグレイス・ルシオンは、報告書に目を通していた。
「――作戦『静寂の檻』、両地点で成功」
参謀が、報告した。
「東方シキナ、および西方イルドレナ。……両地点とも、封鎖を確認」
「対象の状況は」
「シキナの対象は、封鎖直後、壁への攻撃を試みました」
参謀は、書類をめくった。
「六枚のうち、三枚が一時的に消失。……ですが、修復されました」
「三枚か」
ヴァルグレイスは、微笑んだ。
「……予測は」
「四枚でした」
「――ふむ」
彼は、少しだけ、目を細めた。
「歳を取ったな、あの男も」
「西方イルドレナの対象は」
「植物系の干渉を、二度。……いずれも無効化されました」
「そうか」
彼は、書類を置いた。
「あれは、戦う女ではない」
彼は、椅子に背を預けた。
「――だが、一番厄介だ」
「……なぜでしょうか」
参謀が、思わず聞いた。
「戦闘能力は、五人の中で最下位と評価されておりますが」
「そうだな」
ヴァルグレイスは、頷いた。
「――だが、あれは『視る』」
彼は、窓の外を見た。
夕陽が、帝都の屋根を一つずつ橙に染めていくところだった。
「五百年前、私を封じる案を出したのは、あの女だ」
「…………」
「私が油断する相手を選び、その相手に何をさせるか決めたのも、あの女だ」
彼は、低い声で言った。
「――剣を持たん者ほど、恐ろしい」
「では、次は」
参謀が、地図を広げた。
「北方グラルド、および南東アスレオン。……どちらを先に」
「――北だ」
ヴァルグレイスは、即答した。
「雷は、動く。……あれは、守るものが少ない」
「山岳の村落が、いくつか」
「そうだ。あれは、村を捨てられる男だ」
彼は、地図を指した。
「捨てて、動く。……動かれる前に、押さえる」
「了解しました」
「――そして」
彼は、南東を指した。
「風は、後だ」
「なぜでしょう」
「あれは、動かん」
彼の指が、地図の南東で止まったままだった。
「五百年、あの男は一度も、自分から動いたことがない」
彼は、微笑んだ。
「――酒を飲んでいるだけの男だ」
参謀が、退出した後。
ヴァルグレイスは、一人で窓辺に立った。
夕陽が、帝都を染めていた。
彼は、しばらくそれを見ていた。
やがて、低い声で言った。
「――五百年か」
誰も、聞いていなかった。
「長かったな。……ネフェリス」
彼の指が、窓枠に触れた。
「お前が最初だったのは」
彼の声が、少しだけ、変わった。
「――偶然では、ないぞ」
【檻の中で】
同じ日の午後、帝都の軍務省で。
イグナ・ヴェルドは、報告書を提出していた。
「――峠道での追跡について、以上です」
「うむ」
受け取ったのは、灰色の背広の男だった。
ハルヴァ・ゼーレン。
「――逃走を許した、と」
「はい」
「なぜです」
「殿を務めた者が、想定以上に粘りました」
イグナは、平坦に答えた。
「三十一分。……予測は、十二分でした」
「ほう」
ゼーレンは、書類をめくった。
「――誰でしたか」
「フェイン准尉です」
――ゼーレンの手が、止まった。
ほんの、一秒。
彼の指は、めくりかけた紙の角を摘まんだまま、動かなかった。
「……そうですか」
指が、また動き出した。
「――それは、残念です」
彼は、書類を閉じた。
「有能な男でした」
その言い方が、イグナの気に障った。
「――監察官」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしいですか」
「どうぞ」
「あの男は」
彼女は、まっすぐに彼を見た。
「――何を、抱えていましたか」
ゼーレンは、微笑んだ。
「さあ」
その微笑みは、崩れなかった。
「人が何を抱えているかなど、私には分かりません」
「…………」
「私は、書類を扱うだけですので」
彼は、頭を下げて、退出した。
――残されたイグナは、しばらく動かなかった。
(……嘘だ)
――彼女は、そう見た。
(この男は、知っている)
(――あの男に、何を背負わせたか)
彼女は、拳を握った。
――その夜も、彼女は眠れなかった。
――シキナの禁足地。
夜。
ムラサメは、小屋の外に出て、星を見ていた。
――六重の壁の向こうに、星が見える。
光壁は、透けていた。
外は見える。
――出られないだけだ。
彼は、切り株に腰を下ろした。
切り株は、三十年前に彼自身が倒した木のものだった。座り慣れた場所だった。
「……ふん」
彼は、鼻を鳴らした。
千年、彼は自由だった。
どこへでも行けた。何でも斬れた。
――初めて、閉じ込められた。
(……歳を取ったな)
(五百年前なら、六枚とも消せた)
彼は、自分の掌を見た。
(――いや)
(そうでもないか)
彼は、少し笑った。
(あの男が、そのぶん強くなっただけかもしれん)
彼は、空を見上げた。
星が、変わらず出ていた。
六枚の壁を透かして見る星は、いつもより少しだけ、白かった。
――そして、彼は思った。
(――あの娘)
三ヶ月前、この小屋に来た、黒髪の娘。
落ち葉を六十回、断ち切って、地面に突っ伏した娘。
(……三日前、また来おった)
断面が、薄くなっていた。
(――近い)
――近い、と彼は見た。
(あと、少しだ)
彼は、懐の紙に触れた。
――どうか、ご無事で。
(……余計な心配をする娘だ)
彼は、目を閉じた。
(儂は、ここから出られん)
(だがな)
彼の口元が、わずかに動いた。
(――お主が、線を引けるようになれば)
(この檻など、外から斬れる)
彼は、目を開けた。
「……早く来い」
彼は、誰もいない檻の中で、そう呟いた。
星が、六枚の壁の向こうで、瞬いていた。
【そして、四人】
――この日を境に、セイクリッドルートは、実質的に二人になった。
ネフェリス、死亡。
ムラサメ、封鎖。
ミラ、封鎖。
残るは――
北の山に、雷。
南東の海に、風。
その二人だけだった。
――五人揃わなければ、封印はできない。
五百年前、五人がかりで封じた男を、二人で止める術は、この世に存在しない。
――誰も、まだ、そのことを知らなかった。
リヴィアたちの船は、その頃、南東の海を進んでいた。
アスレオンまで、あと二日だった。




