↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/53

檻

【八つの光】


 その朝、シキナの空は、晴れていた。


 港の漁師たちが、網を繕っていた。破れた目に麻糸を通し、指を口で湿らせては、また通す。


 子供が、桟橋を走っていた。板の継ぎ目を跳んで、跳ぶたびに音が変わるのを面白がっていた。


 女たちが、井戸端で洗濯をしていた。石に叩きつける音が、三つ、少しずつずれて重なっている。


 ――いつも通りの、朝だった。


 最初に気づいたのは、丘の上で山羊を追っていた少年だった。


「……なんだ?」


 彼は、空を見上げた。


 ――北西の空に、点があった。


 黒い点が、八つ。


 鳥にしては、大きすぎた。


 雲にしては、動きが速すぎた。


 ――そして、八つの間隔が、変わらなかった。


「……とうちゃん」


 彼は、山を降りながら叫んだ。


「とうちゃん! なんか、来る!」




 それは、飛空艇だった。


 八隻。


 ――だが、兵は乗っていなかった。


 艇の腹に、それぞれ一つずつ、巨大な柱が吊るされていた。


 高さ、二十メートル。


 鋼の枠に、黒い鉱石が幾層にも嵌め込まれている。


 ――光を、返さない石だった。朝日を浴びているのに、そこだけが夜のままだった。


 その表面には――びっしりと、術式が刻まれていた。


 一本あたり、数万文字。刻んだ人間が何人いたのか、想像もつかない密度だった。




 午前七時十二分。


 八隻の飛空艇が、禁足地の上空に到達した。


 ――ぴたりと、止まった。


 八隻の間隔が、そこで、一度、完全に揃った。


 同時に、吊索を切った。


 ――八本の柱が、落ちた。


 落下は、二十秒近く続いた。


 地面に、深く突き刺さる。


 ――音は、ばらばらに届いた。


 いちばん近い柱の音が、麓の村を叩き、遅れて残り七つの音が重なった。犬が、いっせいに吠えた。


 禁足地を囲む、正八角形の頂点に。


 直径、三キロ。


 その中心に――老人の小屋があった。


【最初の音】


 ムラサメは、囲炉裏の前にいた。


 朝の茶を、飲んでいるところだった。網の上には、餅が二つ載っている。片方は、もう焦げ始めていた。


 ――彼は、それを感じた。


「……む」


 湯呑みを、置く。


 彼は、外へ出た。


 餅は、そのままにした。


 ――そして、空を見上げた。


「……ほう」


 八本の柱が、森の上に突き立っていた。


 彼は、それを一つずつ、目で辿った。


 ――正八角形。


 完璧な配置だった。


 誤差は、たぶん、一メートル未満。


 彼は、少しだけ、感心した。


「……よく、測ったな」




 ――同じ頃、麓の村では。


 人々が、家から飛び出していた。


「なんだ! なんの音だ!」


「山だ! 山の方だ!」


 村長の老人が、杖をついて外に出た。


 北西の空を、見上げた。


 ――八本の柱が、朝日を弾いていた。


「……ああ」


 その一言だけが、口から出た。


 膝から、力が抜けた。


「――翁が」


 彼は、地面に膝をついた。


「翁が、閉じ込められた」


 周囲の村人が、ざわめいた。


「村長! どういうことです!」


「あれは、何なんですか!」


 老人は、応じなかった。


 ――応じられなかった。


 彼は、六十年前から知っていた。


 この島に、翁がいる限り、帝国は本気で手を出さない。


 ――誰も、口には出さなかった。


 だが、島の年寄りは、全員、そう思っていた。


 それが、今日。


 終わった。


「……逃げろ」


 彼は、掠れた声で言った。


「え?」


「逃げるんだ。……船を出せ。動ける者から、島を出ろ」


「そんな、村長――」


「――早くしろ!!」


 老人が、叫んだ。


 六十年、静かに生きてきた男が、初めて叫んだ。


「翁がおられんなら、この島は」


 彼の声が、震えた。


「――ただの、鉱山だ」




 ――八本の柱が、同時に、光った。


 音は、なかった。


 だが、ムラサメには、それが分かった。


 空気の底で、いつも鳴っていた音。


 ――魔素の唸り。


 それが、消えた。


 三キロ四方から、根こそぎ。


「……ふむ」


 彼は、右手を上げた。


 軽く、振った。


 ――何も、起きなかった。


 いつもなら、その動きだけで、空間が斬れる。


 繋がりを断ち、道を繋ぎ直し、山全体を迷宮にできる。


 ――今は。


「……ほう」


 彼は、自分の掌を見た。


 力が、出ない。


 いや――出ないのではない。


(……細い)


 彼の理は、消えていなかった。


 理は、魔素で動いていない。


 ――だが、この場所では、あまりに細くなっていた。


 十分の一。


 いや――もっと、下だ。


(……百分の一か)


 彼は、少し驚いた。


(ネフィラのところより、強いな)


 ――彼は知らなかったが、正しい推測だった。


 ネフィラの「静寂の鐘」は、広域を薄く覆う設計だった。


 これは、狭い範囲を、極限まで濃く潰す設計である。


 ――彼一人を、殺すために作られていた。



【壁】


 ――次が、来た。


 八本の柱の間に――光の壁が、立ち上がった。


 地面から、天へ。


 高さ、五十メートル。


 ――一枚目。


 その内側に、二枚目。


 三枚目。四枚目。


 ――六枚。


 六重の光壁が、三キロの円を、完全に閉ざした。


 壁は、透けていた。向こうの山も、空も、見えた。ただ、光の膜が六枚重なっている分だけ、外の色が、わずかに白んで見えた。


 ムラサメは、それを見上げた。


 それから、腰の刀に手をかけた。


「――ふん」


 彼は、抜いた。


 抜いて、振った。


 ――音は、なかった。


 一枚目の壁が、斬れた。


 断面が、鏡のように滑らかだった。


 ――そして。


 斬れた壁が、修復された。


 斬れた線の両側から、光が寄ってきて、縁で噛み合った。継ぎ目は残らなかった。


 三つ数えるかどうかの間だった。


「……む」


 もう一度、振った。


 斬れる。修復される。


 もう一度。斬れる。修復される。


「……なるほど」


 彼は、刀を下ろした。


 ――理解した。


 この壁は、彼が斬ることを、前提に作られている。


 斬れないものを作るのではなく、斬られる速さより速く直るものを作った。


(……儂の速さを、測ったな)


 彼は、少しだけ笑った。


(――丁寧な仕事だ)




 彼は、しばらく壁を見ていた。


 ――全力なら、どうか。


 彼は、刀を鞘に収めた。


 ――そして、目を閉じた。


 息を、深く吸う。


 千年、彼が磨いてきた技だ。


 斬るのではない。線を引く。


 ――この壁と、この世との間に。


⸻


 彼が息を吸い切った時。


 禁足地の空気が、止まった。


 小屋の煙突から立っていた煙が、上へ行くのをやめた。まっすぐな灰色の柱になって、そのまま静止した。


 地面の落ち葉が、動かなくなった。


 三キロの円の中で、風が消えた。


 ――そして。


 彼は、抜いた。




 音は、しなかった。


 最初に動いたのは、木だった。


 小屋の裏の杉が、三本、根元から傾いだ。


 斬られたのではない。


 ――斬られた「壁」があった場所へ、空気が一度に流れ込んだからだ。


 その風が、木を押した。


 次に、鋼が鳴いた。


 三キロ先の柱の一本で、枠が内側から膨らみ、鋲が二本、弾け飛んだ。


 ――そして、見えた。


 一枚目の壁が、消えていた。


 消えた、のではない。


 ――最初から、無かったことになっていた。


 斬られた跡が、ない。断面もない。「そこに壁があった」という痕跡が、どこにもなかった。


 二枚目。


 三枚目。


 四枚目に、亀裂が入った。上から下まで、まっすぐに。


 五枚目が、歪んだ。円が、卵の形になった。


 六枚目が――


 ――止まった。


 亀裂が、六枚目の表面で、一寸ほど進んで、そこで消えた。


⸻


 音が、届いたのは、その後だった。


 三キロの円が、一度に鳴った。


 八本の柱が同時に軋んだ音が、内側へ集まり、中心で重なって、また外へ広がっていった。


 麓の村では、その音を地震だと思った者が多かった。


 実際、皿が三枚割れた家があった。




「…………」


 ムラサメは、刀を下ろした。


 息が、上がっていた。


 千年生きた男が、初めて、荒い息をついていた。


 刀を持つ手の、人差し指と中指の間が、痺れていた。


(……届かん)


 彼の理は、百分の一に細っている。


 全力で、五枚。


 六枚目には、届かなかった。


 ――消した三枚は、既に修復が始まっていた。


 何もなかった空間に、光の膜が、下から水が満ちるように立ち上がってきていた。




 彼は、しばらく立っていた。


 止まっていた煙が、また上へ流れ始めた。


 それから、小屋へ戻った。


 囲炉裏の前に、座った。


 網の上の餅は、片方が真っ黒になっていた。


 彼は、湯呑みを取った。


 ――茶は、まだ温かかった。


 彼は、それを一口飲んだ。


 それから、言った。


「……ネロとか、言うたか」


 誰もいない小屋で、彼は呟いた。


「あの、目の悪い、若いのは」


 彼は、火を見た。


「――上手く、やりおったな」




 彼は、そこで、少し考えた。


(……いや)


(違うか)


 彼は、三ヶ月前のことを思い出した。


 あの若者は、遺品の環を見て、指を震わせていた。


 「分かりません」と言った。


 ――嘘だった。


 あの目は、読めていた目だ。


(……あれは)


 彼は、茶を飲んだ。


(――あれは、儂を殺したくなかった目だ)


 ――そういう目だった。


(だから、位置だけを知らせた)


(殺せる情報は、送らなかった)


 ――彼の理は、繋がりを視る。


 あの若者と、あの隊の間にあった繋がりを、彼は視ていた。


 切れかけていた。


 ――だが、切れてはいなかった。


「……不器用な奴だ」


 声に出してから、彼は湯呑みを取り直した。


 湯呑みを、置いた。


「――だが、悪くはない」




 棚の上に、折り畳んだ紙が、まだあった。


 三日前、あの娘が来た時、彼が出して、開かずに戻したものだ。


 彼は、それを手に取った。


 ――今度は、開いた。


『あの島の禁足地の座標は、既に軍の記録にあります。私が上げました』


『どうか、ご無事で』


 彼は、その二行を、二度読んだ。


 それから、紙を畳んで、懐に入れた。


「……間に合わなんだな、娘」


 彼は、そう呟いた。


 声に、責める色はなかった。


【同時刻】


 同じ朝。


 イルドレナ大森林。


 ――八本の柱が、森に落ちた。


 巨木を薙ぎ倒しながら。


 一本の柱が、樹齢数百年の杉を三本まとめて倒した。倒れた幹が、地面を叩いて、二度跳ねた。


 地面に突き刺さり、正八角形を描く。


 その中心に、小さな庵があった。




 ミラは、庵の前で、洗濯物を干していた。


 薄茶の麻の衣を、竿にかける。皺を手で伸ばして、端を揃える。


 ――そして、彼女は空を見上げた。


「……あら」


 干しかけの衣が、彼女の手から竿へ落ちた。


 八本の柱が、光った。


 森の魔素が、消えた。


 ――彼女の周囲の草花が、一斉に萎れた。


 音がした。乾いた紙を握り潰す音を、何万枚分も同時に聞いたような音だった。


 彼女の理が、細ったのだ。


 彼女の存在だけで生きていた、小さな命たちが、支えを失った。


「……ごめんね」


 彼女は、しゃがみ込んだ。


 萎れた花を、指で撫でた。


 ――花は、戻らなかった。


 彼女は、しばらくそこに座っていた。


 ――そして、周囲を見回した。


 庵の周りの草が、次々と枯れていく。


 軒下の蔦が、色を失っていく。


 泉のほとりの苔が、乾いて剥がれていく。剥がれた苔が、風もないのに、少しずつ縁から丸まっていった。


 ――全部、彼女が育てたものだった。


 千年、この森で。


 一本ずつ、名前を覚えて。


「……あなたたち」


 彼女の指が、一本の枯れた茎に触れた。


「――ごめんね」


 彼女は、一本ずつ、触れて回った。


 枯れた草。萎れた花。乾いた苔。


 ――全部に、触れた。


 二時間かかった。


 最後に、大きな木の根元で立ち止まった。


 その木は、まだ枯れていなかった。


「……あなたは、大丈夫ね」


 彼女は、幹を撫でた。


「わたしがいなくても、生きていける」


 彼女は、少し笑った。


「――そう育てたもの」




 六重の壁が、立ち上がった。


 ミラは、それを見上げた。


 ――彼女は、斬れない。


 彼女の理は、育てることだ。


 壁を斬る技を、彼女は持っていない。


 ――だが。


「……そうねえ」


 彼女は、杖を突いた。


 それから、地面に手を当てた。


 ――地面から、蔓が伸びた。


 太い蔓が、光の壁へ向かって、這い上がっていく。先端が、生き物のように空中を探っていた。


 ――壁に触れた瞬間、灰になった。


 燃えたのではない。灰になった。触れた先端から、根元へ向かって、色が抜けていった。


「……あら」


 彼女は、もう一度やった。


 もう一度、灰になった。


「……なるほどね」


 彼女は、手を離した。


 立ち上がった。


「――生きているものを、通さない壁ね」




 彼女は、庵へ戻った。


 囲炉裏に、火を入れた。


 それから、茶を淹れた。


 ――二人分。


 彼女は、その一つを、誰もいない場所に置いた。


 板間の、右手側。三ヶ月前、そこに座っていた者がいた。


 微笑んだ。


「……あの子ね」


 湯呑みの縁を、指でなぞる。


「――ちゃんと、伝わったわ」




 彼女は、茶を飲んだ。


 それから、天井を見上げた。


「……ねえ、聞こえてる?」


 誰にともなく、彼女は言った。


「あなた、最後まで、外そうとしなかったでしょう」


 彼女は、少し笑った。


「――だから、締まらなかったのよ」


 彼女は、湯呑みを置いた。


「よくやったわ」


 ――誰も、聞いていなかった。


 誰もいない場所に置かれた湯呑みからは、しばらく湯気が上がっていた。


 やがて、それも止まった。



【報告】


 同日、夕刻。


 帝国統合作戦本部。


 執務室は、広かった。壁の一面が窓で、そこから帝都が見下ろせる。机は、大人が四人並んで座れる長さがあった。


 その机の上に、置かれているものは、三つだけだった。


 書類の束と、羽根ペンと、地球儀。


 ヴァルグレイス・ルシオンは、報告書に目を通していた。


「――作戦『静寂の檻』、両地点で成功」


 参謀が、報告した。


「東方シキナ、および西方イルドレナ。……両地点とも、封鎖を確認」


「対象の状況は」


「シキナの対象は、封鎖直後、壁への攻撃を試みました」


 参謀は、書類をめくった。


「六枚のうち、三枚が一時的に消失。……ですが、修復されました」


「三枚か」


 ヴァルグレイスは、微笑んだ。


「……予測は」


「四枚でした」


「――ふむ」


 彼は、少しだけ、目を細めた。


「歳を取ったな、あの男も」




「西方イルドレナの対象は」


「植物系の干渉を、二度。……いずれも無効化されました」


「そうか」


 彼は、書類を置いた。


「あれは、戦う女ではない」


 彼は、椅子に背を預けた。


「――だが、一番厄介だ」


「……なぜでしょうか」


 参謀が、思わず聞いた。


「戦闘能力は、五人の中で最下位と評価されておりますが」


「そうだな」


 ヴァルグレイスは、頷いた。


「――だが、あれは『視る』」


 彼は、窓の外を見た。


 夕陽が、帝都の屋根を一つずつ橙に染めていくところだった。


「五百年前、私を封じる案を出したのは、あの女だ」


「…………」


「私が油断する相手を選び、その相手に何をさせるか決めたのも、あの女だ」


 彼は、低い声で言った。


「――剣を持たん者ほど、恐ろしい」




「では、次は」


 参謀が、地図を広げた。


「北方グラルド、および南東アスレオン。……どちらを先に」


「――北だ」


 ヴァルグレイスは、即答した。


「雷は、動く。……あれは、守るものが少ない」


「山岳の村落が、いくつか」


「そうだ。あれは、村を捨てられる男だ」


 彼は、地図を指した。


「捨てて、動く。……動かれる前に、押さえる」


「了解しました」


「――そして」


 彼は、南東を指した。


「風は、後だ」


「なぜでしょう」


「あれは、動かん」


 彼の指が、地図の南東で止まったままだった。


「五百年、あの男は一度も、自分から動いたことがない」


 彼は、微笑んだ。


「――酒を飲んでいるだけの男だ」




 参謀が、退出した後。


 ヴァルグレイスは、一人で窓辺に立った。


 夕陽が、帝都を染めていた。


 彼は、しばらくそれを見ていた。


 やがて、低い声で言った。


「――五百年か」


 誰も、聞いていなかった。


「長かったな。……ネフェリス」


 彼の指が、窓枠に触れた。


「お前が最初だったのは」


 彼の声が、少しだけ、変わった。


「――偶然では、ないぞ」


【檻の中で】


 同じ日の午後、帝都の軍務省で。


 イグナ・ヴェルドは、報告書を提出していた。


「――峠道での追跡について、以上です」


「うむ」


 受け取ったのは、灰色の背広の男だった。


 ハルヴァ・ゼーレン。


「――逃走を許した、と」


「はい」


「なぜです」


「殿を務めた者が、想定以上に粘りました」


 イグナは、平坦に答えた。


「三十一分。……予測は、十二分でした」


「ほう」


 ゼーレンは、書類をめくった。


「――誰でしたか」


「フェイン准尉です」


 ――ゼーレンの手が、止まった。


 ほんの、一秒。


 彼の指は、めくりかけた紙の角を摘まんだまま、動かなかった。


「……そうですか」


 指が、また動き出した。


「――それは、残念です」


 彼は、書類を閉じた。


「有能な男でした」


 その言い方が、イグナの気に障った。


「――監察官」


「はい」


「一つ、伺ってもよろしいですか」


「どうぞ」


「あの男は」


 彼女は、まっすぐに彼を見た。


「――何を、抱えていましたか」


 ゼーレンは、微笑んだ。


「さあ」


 その微笑みは、崩れなかった。


「人が何を抱えているかなど、私には分かりません」


「…………」


「私は、書類を扱うだけですので」


 彼は、頭を下げて、退出した。


 ――残されたイグナは、しばらく動かなかった。


(……嘘だ)


 ――彼女は、そう見た。


(この男は、知っている)


(――あの男に、何を背負わせたか)


 彼女は、拳を握った。


 ――その夜も、彼女は眠れなかった。




 ――シキナの禁足地。


 夜。


 ムラサメは、小屋の外に出て、星を見ていた。


 ――六重の壁の向こうに、星が見える。


 光壁は、透けていた。


 外は見える。


 ――出られないだけだ。


 彼は、切り株に腰を下ろした。


 切り株は、三十年前に彼自身が倒した木のものだった。座り慣れた場所だった。


「……ふん」


 彼は、鼻を鳴らした。


 千年、彼は自由だった。


 どこへでも行けた。何でも斬れた。


 ――初めて、閉じ込められた。


(……歳を取ったな)


(五百年前なら、六枚とも消せた)


 彼は、自分の掌を見た。


(――いや)


(そうでもないか)


 彼は、少し笑った。


(あの男が、そのぶん強くなっただけかもしれん)




 彼は、空を見上げた。


 星が、変わらず出ていた。


 六枚の壁を透かして見る星は、いつもより少しだけ、白かった。


 ――そして、彼は思った。


(――あの娘)


 三ヶ月前、この小屋に来た、黒髪の娘。


 落ち葉を六十回、断ち切って、地面に突っ伏した娘。


(……三日前、また来おった)


 断面が、薄くなっていた。


(――近い)


 ――近い、と彼は見た。


(あと、少しだ)



 彼は、懐の紙に触れた。


 ――どうか、ご無事で。


(……余計な心配をする娘だ)


 彼は、目を閉じた。


(儂は、ここから出られん)


(だがな)


 彼の口元が、わずかに動いた。


(――お主が、線を引けるようになれば)


(この檻など、外から斬れる)


 彼は、目を開けた。


「……早く来い」


 彼は、誰もいない檻の中で、そう呟いた。


 星が、六枚の壁の向こうで、瞬いていた。


【そして、四人】


 ――この日を境に、セイクリッドルートは、実質的に二人になった。


 ネフェリス、死亡。


 ムラサメ、封鎖。


 ミラ、封鎖。


 残るは――


 北の山に、雷。


 南東の海に、風。


 その二人だけだった。


 ――五人揃わなければ、封印はできない。


 五百年前、五人がかりで封じた男を、二人で止める術は、この世に存在しない。


 ――誰も、まだ、そのことを知らなかった。


 リヴィアたちの船は、その頃、南東の海を進んでいた。


 アスレオンまで、あと二日だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。