東への航路
【国境】
オズホルン公国の国境を越えたのは、翌日の昼だった。
――誰も、口をきかなかった。
六人は、荷車を捨てて、徒歩で山道を越えた。荷車は前輪が折れていたし、そもそも押す人手が一人足りなかった。
国境の峠は、風が強かった。灌木が全部、同じ方向へ曲がって生えている。その灌木の間を、五つの影が縦に並んで歩いた。
国境警備隊は、既に買収されていた。二年前から、グレイが手を回していた。
――だが。
「……五人か」
国境で待っていた男の、第一声だった。
リバースオーダーの、連絡員だった。荷馬車の御者の格好をして、道の脇で待っていた。
「六人と、聞いていたが」
――誰も、応じなかった。
男は、それ以上、聞かなかった。
彼は黙って荷台の帆布をめくり、五人が乗るのを待った。
オズホルンの港町で、彼らは二日待った。
船の手配のためだった。
宿は、港から三本奥の路地にあった。二階建ての、傾いた木造。窓を開けると、隣家の壁が手を伸ばせば届く距離にあった。潮の匂いより、干した魚の匂いの方が強かった。
――その二日間、隊は静かだった。
リズは、宿の窓辺に座って、外を見ていた。窓の下では、朝から晩まで、荷を積む男たちが同じ掛け声を繰り返していた。
アシュは、部屋から出てこなかった。食事は、リズが運んだ。二度とも、皿は空になっていた。
ミーナレイは、埠頭で、ずっと海を見ていた。二日目の夕方、彼女は係留柱の一つに腰かけて、鞄の底から折り畳んだ紙を出した。開いて、しばらく見て、また折り畳んで、しまった。
――そして、リヴィアは。
彼女は、ネロの端末を、何度も開いた。
二年分の記録。
送られなかった、最後の下書き。
――読むたびに、何かが胸を刺した。
なのに、読むのをやめられなかった。
「……リヴィア」
二日目の夜、グレイが部屋に来た。
彼は、扉を閉めてから、卓の上の蝋燭の芯を一度、指で摘まんで短くした。炎が、小さくなった。
「まだ、見てるのか」
「……ええ」
「やめておけ」
「無理よ」
彼女は、端末を閉じなかった。
「――これしか、残ってないの」
彼女は言った。
「墓も、立てられなかった。遺体も、置いてきた」
「…………」
「私たちが持ってるのは、これだけよ」
グレイは、口を開かなかった。
しばらくして、彼は椅子に腰を下ろした。椅子の脚が一本短くて、彼が体重をかけるたび、床を叩く音がした。
「……ひとつ、いいか」
「なに」
「あいつが二年前、俺に相談していたら」
彼は言った。
「――俺は、助けられたと思うか」
リヴィアは、顔を上げた。
蝋燭の光が、下から彼を照らしていた。目が、赤かった。
「……分からない」
「そうか」
「でも」
彼女は続けた。
「あの子は、相談しない子よ」
「…………」
「あなたに似てる」
グレイの動きが、止まった。
「一人で背負って、一人で潰れて、それで格好つけたつもりでいる」
彼女は、三ヶ月前にセリウスが言った言葉を、そのまま繰り返した。
「――馬鹿なのよ、あなたたち」
グレイは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「……そうだな」
【船】
三日目の朝、船が出た。
小さな商船だった。全長二十メートルほど。帆は一枚で、継ぎが三箇所当たっている。
積荷は、干し魚と、羊毛と、五人の乗客。
船倉の一角に、荷物のように詰め込まれて、彼らは東へ向かった。
羊毛の梱が壁になって、通路から見えないようになっていた。梱と梱の間が、ちょうど五人分の寝床だった。
――昼も夜も、薄暗かった。天井の隙間から差す光の筋の角度だけで、時間を測った。
――皇帝は、船に弱かった。
出航して二時間で、彼は青くなった。
「……陛下」
「……問題、ない」
「顔色が」
「……問題、ない」
彼は、そう言い張った。
三十分後、彼は船縁で吐いた。
「……陛下」
「――言うな」
彼は言った。
「余は、帝国の皇帝である」
「はい」
「皇帝は、船で吐かん」
「……吐いてましたが」
「吐いておらん」
リズが、初めて、少しだけ笑った。
その日から、皇帝は、少しずつ変わっていった。
――正確には、隊が、彼への態度を変えていった。
最初は、誰も彼に話しかけなかった。
皇帝だからだ。
――だが、船倉は狭かった。
五人が、四日間、同じ場所で寝起きする。手を伸ばせば誰かに当たり、寝返りを打てば誰かが起きる。
距離は、勝手に縮まった。
二日目の夜。
ミーナレイが、干し魚を齧りながら言った。
「陛下って、好きな食べ物とかあるんですか」
――船倉が、凍った。
「ミーナレイ!」
リズが、慌てて彼女の口を塞いだ。
「陛下に、なんてこと聞くの!」
「え、駄目でしたか!?」
「駄目に決まってるでしょ!」
「――いや」
皇帝が言った。
「……よい」
「陛下」
「聞かれたことがない」
彼は言った。
「――一度も、な」
彼は、少し考えた。
「……好きなものは、分からん」
「え?」
「出されたものを、食べてきた」
彼は、干し魚を見た。
塩を吹いて白くなった、細い魚だった。頭も尾も、そのままついている。
「毎日、決められた献立だ。……余の好みを聞く者は、いなかった」
誰も、何か言えなかった。
「――だが」
彼は、干し魚を齧った。
それから、顔をしかめた。
「……これは、まずい」
「まずいですよね!?」
ミーナレイが、思わず言った。
「あたし、さっきから思ってました!」
「うむ。まずい」
「でしょう!?」
「――だが」
彼は、もう一口齧った。
「……まずいと言えるのは、よいものだな」
彼は言った。
「十四年、まずいと言ったことがない」
三日目。
アシュが、甲板で銃の手入れをしていた。
――ネロが磨いていた、あの銃ではない。
あれは、四日前に失った。代替の量産型だった。
彼は、それを黙々と磨いていた。分解して、部品を油布の上に並べ、一つずつ拭いて、組み直す。それを、朝から三度繰り返していた。
――そこへ、皇帝が来た。
甲板は、風が強かった。彼は、手すりを掴みながら歩いてきた。
「……よいか」
「……どうぞ」
皇帝は、隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。船の舳先が波を切る音と、帆の鳴る音だけがしていた。
「……それは」
やがて、皇帝が言った。
「銃、というものか」
「……知らないんですか」
「見たことはある。書類の絵で」
彼は、正直に言った。
「触ったことは、ない」
アシュは、しばらく黙っていた。
それから、無言で、銃を差し出した。
「……よいのか」
「弾は抜いてます」
皇帝は、それを受け取った。
両手で、恐る恐る。手首が、重さで少し下がった。
「……重い」
「二・八キロです」
「そうか」
彼は、それをじっと見ていた。
銃身の側面に、細かい傷が無数についていた。使われてきた道具の傷だった。
「……これで、人が死ぬのか」
「死にます」
「……そうか」
彼は、それを返した。
「――ありがとう」
アシュは、受け取って、また磨き始めた。
しばらくして、彼はぼそりと言った。
「……あいつが」
「うむ?」
「――俺の前の銃、こいつが磨いてたんです」
皇帝は、口を挟まなかった。
「二年、勝手に」
アシュの手が、止まった。
「聞いたら、『ついでです』って」
「…………」
「――ついでで、二年も磨きますかね」
彼の声が、掠れた。
皇帝は、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「――磨くだろうな」
「え?」
「そういう者は、そうする」
彼は、海を見た。
水平線には、何もなかった。四日間、何も見えない日が続いていた。
「余は、そういう者を、一人知っていた」
「…………」
「老いた侍従だ。四十年、余の父と、余に仕えた」
彼は、遠くを見ていた。
「あの男も、余に何も言わなかった。……ただ、書物の頁に、紙を挟むだけだ」
彼は、少しだけ笑った。
「――言えばよいのにな。『助けに来ますよ』と」
アシュは、応じなかった。
応じられなかった。
【第二十日】
――同じ頃。ネフィラの砂漠。
トビアス・レンの中隊は、十九人から、七人になっていた。
二十日目の朝、彼は水を配る側に回された。人手が足りなくなったからだ。
彼は、樽から柄杓で一杯ずつ、兵の水筒へ注いだ。
その日、彼が数えたのは、柄杓の回数だった。
――四百三十一。
中隊三つ分の兵に配って、それだけだった。前は、一つの中隊で百二十七人いた。
配り終えた樽の底に、砂が三センチ溜まっていた。
その日の午後、都の方角で、白い光が上がった。
これまでのどれとも、違う光だった。
黄金の都の輪郭が、一度だけ、内側から透けた。
――音は、四十秒後に来た。
地面ではなく、空気が鳴った。トビアスは、耳を押さえた。押さえた掌の中で、鼓膜が二度、震えた。
周りの兵が、次々に伏せた。
彼は、伏せなかった。
伏せずに、その光を見ていた。
――光は、二十秒ほどで消えた。
消えた後、都の輪郭は、まだそこにあった。
その夜、城壁の上の灯りは、消えなかった。
二十日目も、消えなかった。
【シキナ】
四日目の夕方、島影が見えた。
深い緑の山が、海から直接せり上がっている。
――シキナ。
三ヶ月前、彼らが来た島だった。
「……変わってない」
リズが言った。
「三ヶ月しか経ってないもの」
「そうだけど」
彼女は、手すりにもたれた。
「――なんか、十年くらい前に来た気がする」
港には、帝国旗が、まだ翻っていた。
だが、以前より、兵の数が増えていた。
桟橋は、二本増えていた。木造だった旧桟橋の隣に、コンクリートの新しいものが並んでいる。倉庫の数も増えていた。屋根が、まだ雨に晒されていない色をしていた。
「……駐留規模、拡大されてますね」
ミーナレイが、小声で言った。
「あたしたちが起こした戦闘のせいで」
「…………」
「あれで、『治安維持能力の欠如』って言われて」
彼女は、俯いた。
「……あたし、あの時、何も分かってませんでした」
「――ミーナレイ」
「はい」
「今は、分かってる?」
「……少しだけ」
彼女は答えた。
「少しだけ、分かって。……その分だけ、苦しいです」
リヴィアは、彼女の頭に手を置いた。
「――それでいい」
彼らは、港には入らなかった。
島の東側、無人の入り江に、小舟で上陸した。
入り江は、両側を岩壁に挟まれた細い切れ込みだった。砂浜は、二十歩ぶんしかない。潮が満ちれば、その半分が沈む。
そこで、二日、身を潜める。
次の船を待つためだった。
【山へ】
その二日目。
リヴィアは、単独で、山へ向かった。
「――一人で?」
リズが、心配そうに言った。
「一人で行く」
「危なくない?」
「大丈夫よ」
彼女は答えた。
「――挨拶に行くだけ」
灰色の鳥居は、三ヶ月前と同じ場所に立っていた。
苔の生え方も、同じだった。柱の根元に積もった落ち葉だけが、少し厚くなっている。
――だが。
彼女がくぐった瞬間、気づいた。
(……道が、ある)
三ヶ月前は、何時間も彷徨わされた。同じ倒木を、六度越えた。
今は、まっすぐな道が、山の奥へ伸びている。
下草が左右に分かれ、その分かれ目に、彼女の足がちょうど収まる幅の土が出ていた。
――通されている。
彼女は、その道を歩いた。
鳥の声が、していた。三ヶ月前は、鳥居を境に音が切れていた。
小屋は、変わっていなかった。
畑の大根が、前より育っていた。壁際の鍬の柄が、前より少しだけ黒くなっていた。
囲炉裏に、火が入っている。
老人は、その前に座っていた。
「――来たか」
彼は、顔も上げずに言った。
「……ムラサメ殿」
「茶は、ぬるい」
「……はい」
彼女は、腰を下ろした。
湯呑みが、既に二つ、置かれていた。
――彼女が来ることを、知っていたのだ。
「――ネフェリスが、死んだ」
しばらくして、老人が言った。
リヴィアの手が、止まった。
「……ご存じ、ですか」
「知っておる」
彼は、火を見ていた。
「繋がりが、一本、消えた」
彼は言った。
「十二日前だ。……昼過ぎだった」
リヴィアは、応じられなかった。
――彼らは、まだ知らなかった。
ネフィラ陥落の報せは、まだ、この島に届いていない。
「……どうやって、死んだんですか」
「知らん」
彼は、あっさりと言った。
「儂に視えるのは、繋がりだけだ。……切れたことは分かる。理由は分からん」
彼は、茶を啜った。
「――ただ」
「はい」
「あれは、逃げなかったのだろうな」
彼は言った。
「五百年、あの女は、一度も逃げたことがない」
「――ああ、それと」
彼は、囲炉裏の脇の棚に手を伸ばした。
折り畳んだ紙を、一枚。
リヴィアの息が、止まった。
――自分の字だった。
「三月前に、届いた」
「……届いたんですか」
「妙な連中が置いていった。三日月と、鍵の印のついた男だ」
彼は、それを開かなかった。開かずに、棚へ戻した。折り目が四つ、深くついていた。何度も開いた紙だった。
「読んだ」
「…………」
「礼は言わん」
彼は言った。
「――だが、覚えておる」
リヴィアは、俯いた。
あの夜、彼女は時計店の二階に二通を置いた。署名もせず、届くかどうかも分からないまま。
届いていた。
【線】
「――ところで」
しばらくして、老人が言った。
「お主、あれからどうだ」
「あれ、とは」
「線だ」
「…………」
「やってみろ」
彼は、そう言って、外を指した。
小屋の外は、杉の森だった。
夕方に近く、木漏れ日が斜めに落ちていた。地面の落ち葉の上に、細長い光の帯が何本も並んでいる。
――ムラサメが、落ち葉を一枚、拾った。
それを、放り上げた。
葉は、光の帯を一本、横切った。
リヴィアは、レイピアを抜いた。
息を、整える。
(――ここまでが、自分)
(ここから先が、外)
彼女は、振った。
――落ち葉が、二つに分かれて、落ちた。
二枚は、ほとんど同じ速さで沈んでいった。地面に着くまでの間、二枚の間隔は、指一本ぶんしか開かなかった。
彼女は、それを拾った。
断面を、見る。
――残っていた。
だが。
「……薄い」
三ヶ月前の断面は、明らかに「斬られた」形をしていた。縁が毛羽立ち、繊維が引き千切れていた。
今の断面は――ほとんど、分からなかった。
目を凝らして、やっと見える程度の、細い線。
「……ふむ」
ムラサメが、それを覗き込んだ。
「――近いな」
「近い、ですか」
「ああ」
彼は、頷いた。
「三月で、ここまで来たのは、大したものだ」
彼は、少し考えた。
「……何かあったな」
「え?」
「線を、引く機会があったろう」
リヴィアの動きが、止まった。
――三ヶ月前。
中央広場で、彼女は命令を拒否した。
――撃たない。それが、私の線よ。
「……ありました」
「そうか」
彼は、それ以上、聞かなかった。
「――技ではないと、言うたろう」
彼は、火の方へ戻りながら言った。
「線を引くのはな、生き方だ」
彼は、囲炉裏の前に座った。
「――剣は、後からついてくる」
【動かぬ】
「――ムラサメ殿」
リヴィアは、意を決して言った。
「はい」
「一つ、お願いがあります」
「言うてみろ」
「――一緒に、来ていただけませんか」
老人の手が、止まった。
「……ほう」
「アスレオン連合国へ。……あそこに、皇帝陛下がいます」
彼女は続けた。
「ヴァルグレイス元帥は、帝国の全軍を握りました。ネフェリス殿も、死にました」
「…………」
「あなた方が、五人揃わなければ、あの人を止められない」
彼女は、床に手をついた。
「――お願いします」
長い沈黙が、落ちた。
薪が、爆ぜた。火の粉が三つ、天井へ上って消えた。
やがて、ムラサメが言った。
「――駄目だ」
「……なぜですか」
「儂が、この山を離れれば」
彼は、火を見たまま言った。
「――この島が、焼ける」
「……え?」
「儂がここにおるから、帝国は手加減しておる」
彼は言った。
「島の連中は知らん。……だが、上の連中は知っておるはずだ」
リヴィアの背筋が、冷たくなった。
「――儂を、恐れておるからな」
彼は、湯呑みを置いた。
「儂が消えれば、明日にでも、この島は掘り返される」
彼は、外を見た。
「山も、村も、全部だ」
「……そんな」
「儂だけではない」
彼は続けた。
「西の婆も同じだ。あれが森を離れれば、森が焼かれる」
「…………」
「北の雷も、あの山を離れられん」
彼は、火に薪をくべた。
「――そういう風に、なっておる」
リヴィアは、その意味を理解した。
――セイクリッドルートは、動けない。
彼らが守っているものが、そのまま、彼らの鎖になっている。
千年、動かなかったのではない。動けなくされていた。
(……こんなの)
(――最初から、そう仕組まれてる?)
彼女の背筋が、凍った。
「――だがな」
ムラサメが言った。
「一つ、伝えておく」
「……はい」
「儂は、いつでも動ける」
彼は言った。
「――島が、焼かれた後ならな」
リヴィアは、顔を上げた。
「守るものが無くなれば、儂は自由だ」
老人の目が、細くなった。
「その時は、儂は帝都へ行く」
「……ムラサメ殿」
「――そして、あの男の首を、斬る」
彼の声は、低かった。
低すぎて、恐ろしかった。
囲炉裏の火が、その一言の間だけ、動かなかった。
【出立】
帰り際。
リヴィアは、鳥居の手前で、振り返った。
「――ムラサメ殿」
「うむ」
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「言うてみろ」
「……私の隊員が、死にました」
彼女は言った。
「四日前です」
「……そうか」
「その子は、二年間、帝国に情報を流していました」
彼女は続けた。
「あなたの居場所も、流していました」
――ムラサメは、驚かなかった。
「知っておる」
「……え?」
「先週、妙な連中が、山を測っておった」
彼は、あっさり言った。
「距離を測り、風を測り、地面を叩いておった。……何かを、置く準備だな」
リヴィアの喉が、鳴った。
「……追い払わなかったんですか」
「追い払っても、また来る」
彼は言った。
「――それに」
彼は、リヴィアを見た。
「その若いのは、儂を殺そうとしたのではあるまい」
「…………」
「儂の場所を知らせただけだ。……知られたところで、儂は困らん」
彼は言った。
「――困るのは、あちらだ」
リヴィアは、しばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない」
「――言わせてください」
彼女は、頭を下げたまま言った。
「あの子は、二年間、自分を許さずに死にました」
彼女の声が、震えた。
「誰か一人でも、『お前は悪くない』と言ってくれていれば」
彼女は、顔を上げた。
「……あの子は、たぶん、生きてました」
ムラサメは、しばらく彼女を見ていた。
やがて、言った。
「――お主が言えばよかったのだ」
「……はい」
「言えなかったのか」
「……はい」
「なぜ」
「……怖かったからです」
彼女は、正直に答えた。
「聞いてしまえば、何かが終わると思って」
「そうか」
老人は、頷いた。
「――ならば、覚えておけ」
彼は言った。
「線を引くとはな。……切り離すことではない」
彼は、彼女を見た。
「――どこまでが自分の責任か、決めることだ」
「…………」
「お主は、あの若いのの分まで背負おうとしておる」
彼の声が、少しだけ、優しくなった。
「――それは、線ではない。ただの、飲み込みだ」
リヴィアは、応じられなかった。
「もう一度、聞く」
ムラサメは言った。
「――あの若いのは、誰のために死んだ」
「……私たちのため、です」
「そうだ」
彼は、頷いた。
「では、それを無駄にせん方法は、なんだ」
「…………」
「背負うことか」
「……違います」
「では、なんだ」
リヴィアは、しばらく考えた。
それから、答えた。
「――生きて、進むことです」
「――そうだ」
老人は、初めて、微笑んだ。
「行け」
彼は、手を振った。
「――儂は、ここで待っておる」
リヴィアは、鳥居をくぐった。
振り返ると、老人はもう、小屋の中に戻っていた。
――杉の森が、風に鳴っていた。
彼女は、山を降りた。
降りる道は、来た時と同じように、まっすぐだった。
その夜、船が出た。
――目指すは、南東。
群島国家、アスレオン連合国。
――彼らが出航した、翌朝。
シキナの空に、八つの光が降りた。




