殿
【断崖】
七日目の午後。
オズホルン公国国境まで、あと半日。
――そこは、断崖の縁を這う細い道だった。
右手は、切り立った岩壁。層になった砂岩が、上へ行くほど白く、下へ行くほど赤い。ところどころ、崩れて剥き出しになった面が、鉄錆の色をしていた。
左手は、三十メートル下の谷川。
水は細く、白かった。落差のせいで、音だけが常に上がってくる。話し声が、その音に半分喰われた。
道幅は、荷車一台分しかない。谷側の縁は、石が積んであるだけで、その石も三箇所で崩れていた。
「……嫌な道ね」
リズが、下を覗き込んだ。
「落ちたら、死ぬわね」
「落ちるな」
アシュが、短く言った。
――皇帝は、既に限界だった。
七日間、歩き通しだった。
借り物の靴が合わず、両足の踵が破れていた。二日目に巻いた布は、もう血で固まって色が変わっている。
十四年、十歩の部屋で暮らしていた男には、あまりに過酷だった。
「陛下、休憩を」
「……いや」
彼は、荒い息をつきながら首を振った。
「先を、急ごう」
「無理をされては」
「無理は、しておらん」
彼の膝は、明らかに笑っていた。
「――ただ、遅い。それだけだ」
――そこへ。
「――上ッ!!」
ネロが叫んだ。
彼の端末が、警報を鳴らしていた。
「魔力反応! 真上です! 五――いえ、五!」
「――散開!!」
リヴィアが叫んだ、その上で。
断崖の縁が、白く光った。
【挟撃】
最初の落雷は、隊列の前方に落ちた。
岩壁が砕けた。
崩れた岩は、大きいもので人の背丈ほどあった。それが三つ、道を斜めに塞いだ。
――音は、後から来た。
二撃目は、後方に落ちた。
同じだけの岩が、同じように積み上がる。
――退路も、塞がれた。
「――挟まれた!!」
「陛下を守って!」
ミーナレイが、水膜を張った。
三撃目が、その膜を叩く。
膜の表面に、白い蜘蛛の巣が走った。破れる寸前で、リズの風が雷の軌道を横へ押した。逸れた青白い光が、谷側の石積みを砕いて落ちていった。
「ぐ……っ!」
――上を見上げる。
断崖の縁に、五つの影があった。
濃紺の軍服。逆光で、顔は見えない。
――雷牙隊。
「――ノクス!」
イグナ・ヴェルドの声が、降ってきた。
三十メートル上からの声が、谷川の音を貫いて届いた。
「そこは、逃げ場がない」
「…………」
「投降しろ」
リヴィアは、応じなかった。
――彼女は、状況を測っていた。
前方は、崩落で塞がれている。岩をどけるのに、最低でも十分。
後方も、同じ。
上は、断崖。三十メートル。取りつく場所がない。
下は、谷川。三十メートル。飛び降りれば、皇帝が死ぬ。
(――詰んでる)
いや。
一つだけ、道があった。
「――リズ」
リヴィアは、小声で言った。
「前方の崩落。……風で、どかせる?」
「無理。岩が大きすぎる」
「じゃあ、飛べる?」
「……何人?」
「六人」
「――無理」
リズは、即答した。
「三人が限界。それも、上まで届かない」
「…………」
「隊長」
彼女の声が、震えた。
「時間があれば、いける。……岩をどけるだけの、時間があれば」
リヴィアは、崩落を見た。
それから、上を見た。
雷牙隊は、動いていない。
――待っている。
こちらが動くのを、待っている。
(……誰かが、残る)
リヴィアは、その結論に達した。
誰かが、雷牙隊を足止めする。
その間に、残りが岩をどけて、皇帝を通す。
(――誰が)
彼女は、隊を見た。
アシュ。攻撃力はある。だが、防御はない。
リズ。機動力はある。だが、正面から受けられない。
ミーナレイ。まだ若すぎる。
グレイ。彼が残れば、確実に足止めできる。
(――でも)
グレイは、皇帝の計画そのものだ。
彼がいなければ、アスレオンでの交渉が成立しない。
(じゃあ、私が)
彼女が、そう考えた――そこへ。
「――僕が、残ります」
声が、した。
全員が、振り返った。
ネロ・フェインが、立っていた。
⸻
## 【志願】
「……ネロ?」
「僕が、残ります」
彼は、もう一度、はっきりと言った。
「駄目よ」
リヴィアが、即答した。
「あなた、戦闘は――」
「専門外です」
彼は頷いた。
「知ってます。……でも」
彼は、上を見た。
「あの人たちの雷を、一番長く止められるのは、僕です」
――誰も、反論できなかった。
事実だった。
彼の障壁は、隊で最も厚く、最も広い。
絶空でも、風でも、火でも、雷は「止められない」。
――受け止められるのは、彼だけだ。
「三十分、稼ぎます」
彼は言った。
「その間に、岩をどけて、陛下を通してください」
「ネロ」
「三十分あれば、足ります」
彼は、端末を閉じた。
「――計算しました」
リヴィアは、動けなかった。
――二年前と、同じだった。
地下の聖堂で、彼女が「先に行って」と言った時。
カラムは、一秒迷って、そして頷いた。
――そして、三十分後、彼は死んだ。
(……また)
彼女の喉が、詰まった。
(また、私は、置いていくの)
「――隊長」
ネロが、彼女を見た。
「……ネロ」
「大丈夫です」
彼は、少しだけ笑った。
二年ぶりに見る、彼の笑顔だった。
「――僕、防御専門ですから」
リヴィアは、拳を握った。
爪が、掌に食い込んだ。
――そして。
「……三十分よ」
彼女は言った。
「三十分で、必ず戻る」
――二年前、カラムが言ったのと、同じ言葉だった。
「はい」
「ネロ」
「……はい」
「あなた、覚えてる?」
彼女は、彼を見た。
「バルドアの夜。……パルスの中で、あなたが息継ぎを見つけた」
ネロの顔が、上がった。
「あの時、あなた、震えながら報告してきたの」
彼女は、少しだけ笑った。
「『あの、まだ一回分のデータしかないので』って。……前置きが長すぎて、リーダーに『落ち着け』って言われてた」
「……覚えて、ますか」
「覚えてるわよ」
彼女は言った。
「あの三秒がなかったら、私たちは全員、あの稜線で死んでた」
「…………」
「あなたは、二年前から、ずっとそう」
彼女の声が、少し掠れた。
「一番後ろで、一番小さい声で、一番大事なことを言う」
ネロは、口を開かなかった。
「――だから、待ってる」
彼女は言った。
「三十分後、あなたが小さい声で報告に来るのを、待ってる」
「……はい」
彼は、頷いた。
――その頷きが、少しだけ遅かったことに。
リヴィアは、気づかなかった。
「――ネロ先輩!」
ミーナレイが駆け寄った。
「あの、あたしも残ります! 水膜なら――」
「駄目です」
ネロは、即答した。
「あなたは、陛下を守ってください」
「でも!」
「――ミーナレイ」
彼は、初めて、彼女を名前で呼んだ。
「え……」
「あなた、着任した日に、報告書を三十分で書き直しましたよね」
彼女の動きが、止まった。
「え……あ、はい」
「あれ、僕、驚いたんです」
彼は、少しだけ笑った。
「僕が同じことを言われたのは、入隊二年目でした。……で、三日かかりました」
「…………」
「あなたは、三十分でやった」
彼は、彼女の頭に、軽く手を置いた。
「僕は、賢いと言われてきました。……でも、僕の賢さは、遅いんです」
彼の手が、少し震えていた。
「怖いから、確かめて、計算して、それから動く。……だから、遅い」
「先輩……」
「あなたは、違う」
彼は言った。
「あなたは、間違えながら、走れる人だ」
彼は、手を離した。
「――だから、生きてください」
彼は、上を見上げた。
「僕が二年かけて分からなかったことに、あなたなら、たぶん一週間で気づく」
「……なんですか、それ」
「秘密です」
彼はそう言って、背を向けた。
「――行ってください」
【一人】
四人が、崩落の岩に取りついた。
リズの風が、砂と小石を吹き飛ばす。
アシュが、岩の割れ目に火を押し込む。熱が入って、内側から石が弾ける。
ミーナレイが、水で岩の隙間を洗い、噛み合った面を滑らせる。
グレイが、炎で岩の一面を焼き、そこへリズが冷たい風を当てる。急に冷えた石は、乾いた音を立てて割れた。
――そして、リヴィアは。
一度だけ、後ろを振り返った。
道の反対側で、黒い軍服の背中が、一人。
ネロは、振り返らなかった。
ただ、上を見上げていた。
――彼は、落ち着いていた。
不思議なほど、落ち着いていた。
谷川の音が、下から上がってくる。彼はそれを、初めてちゃんと聞いた気がした。
(……ああ)
(そうか)
(もう、売るものがないんだ)
黒翼は、指名手配された。
帝国の地位は、消えた。
――つまり。
彼が「守っていた」ものは、もう存在しない。
二年間、彼が報告を続けた理由は。
――黒翼の解体を防ぐこと、だった。
その黒翼が、既に解体されている。
(……もう、僕は要らない)
(誰にとっても)
ミラの声が、蘇った。
――首輪はね、外そうとした瞬間に、締まるようにできてるの。
――だから、外そうとしちゃ駄目。
――首を差し出す相手を、変えなさい。
(……変えられた)
(あの日、僕は変えられた)
白い塔の屋上で。
端末を開いて、三分間、何も打たずに閉じた、あの夜。
(――変えたはずだった)
でも。
(それで、赦されるのか)
二年分の報告。
首輪の術式。侵攻の日程。ムラサメの居場所。ミラの居場所。
――そして、ネフィラの砂漠で死んでいる、何万という人間。
(……赦されるわけ、ないだろ)
彼は、自分の掌を見た。
解析用の胼胝が、右手の指の付け根に三つ。二年で、そこだけ皮が厚くなった。
(僕は、この手で)
――そして、彼は上を見た。
断崖の縁に、五つの影。
彼は、両手を、地面についた。
砂利の粒が、掌に食い込んだ。
「――行きます」
誰も聞いていない声だった。
――光の天蓋が、道を覆った。
【三十分】
最初の一撃は、四本同時だった。
四人の隊員が、それぞれ雷を放つ。
――天蓋が、それを受けた。
音は、四つ、ずれて届いた。
ガッ。ガッ。ガガッ。
天蓋の表面に、白い亀裂が四本、走った。
「……っ」
ネロは、歯を食いしばった。
(――思ったより、重い)
雷は、彼が二年前に受けた氷槍とは、質が違った。
氷槍は、面で殴ってきた。だから、面で受ければよかった。
雷は――刺してくる。
速く、鋭く、そして障壁の「点」だけを狙ってくる。
「――第二射」
イグナの声。
四本が、同じ一点を撃った。
――天蓋が、そこから割れた。
割れた穴の縁が、内側へめくれた。硝子の破片が、内向きに反り返るように。
「くっ……!」
彼は、破れた部分を、瞬時に張り直した。
――間に合った。
指先が、痺れていた。二射で、その痺れが来た。
(……このままだと、十分ももたない)
彼は、目を閉じた。
(……ミラ殿)
(あなたに、課題をもらえなかった)
(『もう十分、賢いわ』って、言われた)
彼は、あの時、傷ついた。
自分だけ、必要とされなかったと思った。
――でも、今、分かる。
(あなたは、待ってた)
(僕が、自分で気づくのを)
彼は、目を開けた。
(――魔法は、消費じゃない)
(創造だ)
彼は、天蓋の構造を、組み替えた。
――これまでの障壁は、単層だった。
厚く、広く、一枚で受ける。
だから、一点を突かれると割れる。
――だが。
(生み出した魔法を、次の材料にする)
彼は、天蓋を、二枚にした。
一枚目が受けた衝撃を――二枚目の材料にした。
次の雷が、来た。
一枚目に当たる。当たった場所が、白く灼ける。
――そして、その白が、下へ落ちた。
灼けた光が、二枚目の表面へ流れ落ちて、そこで層になった。
二枚目が、その分だけ、厚くなった。
「――なっ!?」
断崖の上で、隊員が声を上げた。
「隊長! 障壁が、増えてます!」
「……ほう」
イグナの目が、細くなった。
「――面白い」
三枚。四枚。
撃たれるたびに、彼の障壁は増えていった。
上から見れば、それは水面に浮かんだ薄い氷が、雨で厚くなっていくように見えたはずだった。
十分が経過した時、天蓋は七枚になっていた。
――ネロは、笑っていた。
(……できてる)
(僕にも、できるんだ)
二年間、彼は解析しかしてこなかった。
人の魔法を測り、数値化し、報告することしか。
――今、彼は、自分の魔法を作っていた。
(隊長)
(見てますか)
(僕、ちゃんと、戦ってますよ)
背後で、岩の割れる音がした。
振り返らなかった。
【削られる】
十五分を過ぎた頃から、状況が変わった。
「――散開。四方から」
イグナが、指示を出した。
四人が、断崖の上で位置を変えた。
崖の縁に沿って、四人が二十メートルずつ離れる。
――そして、別々の方向から、同時に撃った。
七枚の天蓋は、正面には強い。
側面と背面は、薄い。
「――っ!」
背面が、破れた。
雷が、彼の左肩を掠めた。
肉が焼ける音がした。音の方が、痛みより先だった。
「あ……っ」
彼は、膝をついた。
天蓋だけは、維持した。
左腕が、動かなかった。指を曲げようとしたが、指がどこにあるのか分からなかった。
(――まだ)
彼は、立ち上がった。
右手だけで、術式を組み直した。
――今度は、球形にした。
全方位。
厚さは、半分になる。
その代わり、隙間がない。
道の上に、光の球が生まれた。中に、一人。
「……なるほど」
イグナが呟いた。
「――良い判断だ」
二十分。
球形の障壁は、四方から撃たれ続けた。
一枚割れるたびに、次が厚くなる。
だが――増える速度より、割られる速度が上回り始めた。
六枚。五枚。四枚。
ネロの膝が、震えていた。
右腕から、血が流れていた。手首を伝って、指先から地面へ落ちている。
その血が、砂利の上で丸くなって、少しずつ砂に吸われていった。
どこを撃たれたのか、もう分からなかった。
(……あと、十分)
彼は、時計を見なかった。
見る余裕が、なかった。
――ただ、数えていた。
心臓の音を。
訓練所で習った。安静時の脈は、一分で七十から八十。今は、たぶん百四十を超えている。
だから、二千四百拍を数えれば、十分になる。
(――あと、十分)
二十五分。
障壁は、二枚になっていた。
彼は、片膝をついて、両手を地面についていた。
――もう、立てなかった。
球の中で、彼の吐く息だけが白く曇った。外は暖かいはずなのに、球の内側だけが冷えていた。
「……フェイン准尉」
断崖の上から、声がした。
イグナが、彼を見下ろしていた。
「一つ、聞く」
「……なん、ですか」
「なぜ、一人で残った」
――ネロは、応じなかった。
「隊を守るためか」
「…………」
「それとも」
彼女の声が、少しだけ変わった。
「――贖罪か」
ネロの体が、こわばった。
「……なぜ」
「知っている」
イグナは、あっさりと言った。
「ゼーレン監察官から、聞いていた。……黒翼に、協力者がいると」
ネロの視界が、白くなった。
「――名前は、聞いていない」
彼女は続けた。
「だが、今、分かった」
彼女は、手を上げた。
「一人で残る奴は、たいてい、そういう理由だ」
「……そう、ですか」
ネロは、掠れた声で言った。
「――無意味だ」
イグナが言った。
「お前が死んでも、お前がやったことは消えない」
「……知ってます」
彼は答えた。
「知ってます」
「なら、なぜ」
「――他に」
彼は、顔を上げた。
その顔は、血だらけだった。左目が、腫れて開かなくなっていた。
なのに、右目だけが、はっきりしていた。
「他に、思いつかなかったんです」
イグナの手が、止まった。
――ほんの、一瞬。
「……そうか」
彼女は言った。
「――では、送ろう」
【追雷・極】
彼女の右手に、光が集まった。
これまでの雷とは、質が違った。
青白い光が、彼女の腕を這い、渦を巻き、螺旋になる。
――音が、変わった。
それまで、雷は「落ちる」音だった。
今、彼女の腕の周りで鳴っているのは、細く、高く、途切れない音だった。硝子の縁を濡れた指でなぞる時の、あの音に近い。
断崖の岩が、震え始めた。
崖の縁の小石が、地面から一センチほど浮いて、そのまま止まった。
彼女の髪が、逆立った。四人の部下が、無言で三歩下がった。
「――追雷・極」
彼女は、放った。
――それは、直進しなかった。
空中で折れ、回り込み、球形の障壁の継ぎ目を、正確に辿った。
ネロが、二枚目を張り直そうとした、その一瞬の隙間を。
――雷が、通った。
衝撃は、なかった。
音も、しなかった。
――ただ、胸が、熱かった。
ネロは、自分の胸を見下ろした。
黒い軍服に、穴が開いていた。
穴の縁が、赤く灼けて、細い煙を上げていた。
その穴から、光が漏れていた。
「……あ」
その一音だけが、出た。
膝が、崩れた。
地面に、崩れ落ちた。
球形の障壁が、音もなく霧散した。
――そして。
音が、届いた。
彼が倒れた後で、雷の音が谷を渡っていった。谷川の音を一瞬押しのけて、岩壁に当たり、三度跳ね返って、消えた。
――倒れた彼の視界に、空が見えた。
夕暮れだった。
オレンジ色の空に、雲が三つ。細く、長く、同じ方向へ流れていた。
(……綺麗だな)
浮かんだのは、それだけだった。
――胸は、まだ熱かった。
でも、痛くはなかった。
(……終わった)
(やっと)
二年間、彼は苦しんできた。
毎晩、眠れなかった。
焼却炉の前で吐き、隊の顔を見られなくなり、鏡の中の自分を「誰だ」と思った。
――ずっと、逃げ場がなかった。
死ぬこともできなかった。
死ねば、隊が解体されると思っていたから。
(……でも、もう)
(もう、大丈夫だ)
黒翼は、既に指名手配された。
彼が守るべきものは、もう、この国のどこにもない。
(……やっと、終われる)
彼は、目を閉じかけて――
最後に、こう思った。
(隊長)
(――僕、一度だけ、正しいことをしましたよ)
白い塔の屋上。
端末を開いて、三分間、何も打たなかった夜。
(皇帝陛下のことだけは、書きませんでした)
(それだけです)
(それだけ、ですけど)
――そして。
彼の口元が、わずかに動いた。
微笑んだのだ。
安堵したように。
やっと、荷を下ろせた人のように。
それきり、彼は動かなかった。
――断崖の上で。
イグナ・ヴェルドの手が、止まっていた。
彼女は、その顔を見ていた。
「…………」
二十年、彼女は人を殺してきた。
様々な顔を見た。
恐怖。憎悪。無念。絶望。
――だが。
(……なぜ)
彼女の眉が、寄った。
(――なぜ、笑った)
「隊長」
部下が、声をかけた。
「追撃しますか」
「……いや」
彼女は、応じなかった。
いや――応じられなかった。
彼女は、まだ、その顔を見ていた。
「隊長?」
「――退く」
「え?」
「退くと言った」
彼女は、背を向けた。
――その足取りが、いつもより、少しだけ遅かった。
【三十分後】
崩落の岩をどけ終えたのは、三十一分後だった。
「――ネロ!」
リヴィアが、真っ先に走った。
道の反対側へ。
――そして。
彼女は、足を止めた。
夕陽の中に、黒い軍服が、倒れていた。
仰向けに。
胸に、焼けた穴。
――目は、閉じていた。
――口元が。
わずかに、微笑んでいた。
「……ネロ?」
リヴィアの声が、掠れた。
「――ネロ!!」
彼女は、駆け寄って、膝をついた。
彼の肩を、揺すった。
「ネロ! 起きて! ネロ!!」
――冷たかった。
まだ、少しだけ温かかった。
でも、確実に、冷たくなっていた。
「……嘘」
リズが、後ろで立ち尽くしていた。
「嘘でしょ……」
「ネロ先輩!!」
ミーナレイが、駆け寄った。
「先輩! ねえ、先輩!!」
彼女は、彼の手を握った。
「起きてください! ねえ!! 水膜、五日でできたって、褒めてくれたじゃないですか!!」
「……ミーナレイ」
「なんで! なんで笑ってるんですか!!」
彼女は、泣き叫んだ。
「痛かったでしょう!? 怖かったでしょう!? なんで、笑って――」
彼女の言葉が、途切れた。
――アシュが、拳を岩壁に叩きつけていた。
一度。二度。三度。
拳から、血が流れていた。
「……くそ」
彼は、額を岩に押しつけた。
「……くそが」
――グレイは、動かなかった。
少し離れた場所で、皇帝を支えたまま、立っていた。
その顔が、蒼白だった。
「……アークライト」
皇帝が、低い声で言った。
「……はい」
「――余のために、死んだのか」
「…………」
「答えよ」
「――はい」
グレイは、そう答えた。
皇帝は、しばらく黙っていた。
それから、彼は、リヴィアの元へ歩いた。
膝が笑っていた。それでも、歩いた。
――倒れたネロの傍らに、跪いた。
「陛下……!」
「よい」
彼は言った。
それから、深く頭を下げた。
地面に、額をつけて。
「――申し訳ない」
彼は言った。
「余の命は、そなたの命より、重くはない」
彼の声が、震えた。
「――だが、そなたは、そう思ってくれたのだな」
【端末】
――そして。
リヴィアが、彼の遺品を集めていた時。
彼女の手が、止まった。
――端末があった。
右手から半歩離れた砂利の上に、落ちていた。
外装に血が付いて、指の形に乾いていた。それでも、まだ動いていた。
画面が、点いていた。
「……なに、これ」
彼女は、それを開いた。
――そして。
息が、止まった。
通信記録が、並んでいた。
二年分。
『黒翼分隊、行動記録』
『特務課内、人員異動』
『禁足地座標、別添』
『遺留品の環、術式写し、照会を求む』
――日付が、二年前から続いていた。
「……嘘」
彼女は、頁を送った。
送るたびに、記録が増えていく。
バルドアの。セルバの。シキナの。イルドレナの。
――全部。
「……嘘でしょ」
「隊長?」
リズが、覗き込んだ。
画面を、見た。
「……え」
彼女の顔から、血の気が引いた。
「……なにこれ」
「…………」
「隊長、これ、なに」
⸻
リヴィアは、応じられなかった。
彼女は、記録を最後まで送った。
――そして。
最後の送信は、三ヶ月前で止まっていた。
イルドレナから戻った直後の、あの日以来。
彼は、一度も、送っていなかった。
――三ヶ月。
彼女の指が、止まった。
二日目の渡し場。四日目の分岐。六日目の峠。そして今日。
四度、先回りされた。
彼が三ヶ月、何も送っていないのに。
――彼女は、手の中のものを見た。
血で汚れた、黒い箱。
彼は、これを毎日、三度は開いていた。地図を確かめるために。位置を確かめるために。
(……これ、自体が)
彼女の背中を、冷たいものが伝った。
(あなた、何も送ってなかったのに)
(――持ってただけで)
彼女は、それを両手で握りしめた。
――ネロは、たぶん、最後まで知らなかった。
自分が三ヶ月前にやめたことが、何の役にも立たなかったことを。
――そして。
その先に、一つ、下書きが残っていた。
送信されなかった、文書。
彼女は、それを開いた。
『――申し訳ありませんでした』
『全部、僕がやりました』
『二年前、偽の証拠を突きつけられました。カラムさんの死は、僕の情報漏洩のせいだと言われました』
『嘘だと、後から分かりました。でも、その時には、もう遅かった』
『僕が報告をやめれば、黒翼は解体されると言われました。だから、続けました』
『それが、隊を守ることだと思っていました』
『違いました』
『僕が送った術式で、人が兵器にされました』
『僕が送った日程で、戦争が始まりました』
『僕が送った座標で、ムラサメ殿とミラ殿が閉じ込められました』
『全部、僕です』
『――でも』
『皇帝陛下のことだけは、書きませんでした』
『それだけが、僕が二年で、唯一やった正しいことです』
『隊長』
『言えなくて、すみませんでした』
『森で、聞いてくれたのに』
『――言えば、よかった』
――そこで、下書きは終わっていた。
日付は、三日前だった。
彼は、この文章を書いて。
――送らずに、持っていた。
【誰も、気づかなかった】
沈黙が、断崖に落ちた。
夕陽が、沈もうとしていた。谷の影が、対岸の岩壁を下から順に登っていく。
「……なんで」
リズが、震える声で言った。
「なんで、言わなかったの」
彼女は、その場に崩れ落ちた。
――しばらく、言葉が出なかった。
やがて、彼女は、掠れた声で言った。
「……あんた、覚えてる?」
誰に言っているのか、分からなかった。
たぶん、倒れている男に、言っていた。
「二年前……リーダーが死んだ後さ」
彼女は、膝を抱えた。
「あたし、夜中に何回も泣いてたの。壁、薄いから、たぶんバレてた」
彼女の肩が、震えた。
「そしたら、あんた、いつも廊下にいたのよ」
――誰も、それを知らなかった。
「入ってこないの。声もかけないの。……ただ、廊下に座ってるだけ」
彼女は、顔を上げた。
「一回、聞いたのよ。『なにしてるの』って」
彼女の顔が、涙でぐしゃぐしゃになった。
「そしたら、あんた、なんて言ったと思う?」
誰も、応じられなかった。
「――『通りかかっただけです』って」
彼女は、笑おうとして、失敗した。
「毎晩通りかかるわけ、ないでしょうが」
彼女は、地面に額をつけた。
「……なんで、それを、自分の時はしないのよ」
彼女の背中が、震えた。
「あたし、二年、あんたの廊下で助けられてたのに」
彼女は、泣き叫んだ。
「――なんで、一人で座ってたのよ!!」
「……くそっ」
アシュが、呟いた。
彼は、拳を岩に押しつけたまま、動かなかった。
「……俺は」
彼の声が、低かった。
「あいつ、俺の銃の整備、勝手にやってたんだ」
全員が、彼を見た。
「二年前からだ。……気づいたのは、去年」
彼は、岩に額を押しつけた。
「俺、整備が雑でな。ジンにもよく怒られる」
彼の拳が、握りしめられた。
「でも、ある時から、薬室が妙に綺麗になってた。……最初、ジンかと思ったんだ」
「…………」
「違った。あいつだった」
彼は、笑った。
ひどい笑い方だった。
「聞いたら、なんて言ったと思う」
彼は、顔を上げた。
「――『データを取るついでです』だとよ」
彼の目から、涙が落ちた。
「ついでで、二年も他人の銃を磨くか、普通」
彼は、また拳を叩きつけた。
「……俺は、それを『助かる』とだけ思ってた」
血が、岩を汚した。
「あいつが、なんでそうしてたのか」
彼の声が、割れた。
「――一回も、考えなかった」
「……あたし」
ミーナレイが、ぽつりと言った。
彼女は、彼の手を握ったまま、座り込んでいた。
「あたし、ネロ先輩に、報告書を突き返されました」
涙が、彼女の顎から落ちた。
「『その書き方、非効率です』って」
「…………」
「あたし、あの時、ちょっと傷ついたんです」
彼女は、洟をすすった。
「でも、その日の夜」
彼女の声が、震えた。
「あたしの机に、紙が置いてあったんです」
全員が、彼女を見た。
「報告書の、書き方の見本でした」
彼女は、俯いた。
「――手書きで。全部」
「…………」
「結論を先に書いて、根拠を後ろに。数字はここに入れる。……全部、書いてありました」
彼女は、彼の手を、強く握った。
「……先輩」
彼女の声が、崩れた。
彼女は、泣き叫んだ。
「あたし、まだちゃんとお礼を――!」
――そして、リヴィアは。
彼女は、端末を握りしめたまま、動かなかった。
――思い出していたのは、二年前だった。
カラムの葬儀の夜。格納庫での、七人だけの弔い。
あの時、ネロは言った。
――入隊した日に、辞めますって言ったんです。僕なんかいても、迷惑だから、って。
――そしたら、あの人、『お前の目が、俺の隊の命綱だ』って……。
あの夜、彼は泣いていた。
途中で「なんでも、ないです」と言って、口を閉じた。
(……あの時)
(あの時、既に)
彼は、もう脅されていた。
脅されて、隊を売り始めていて、そして――カラムの言葉を、思い出して泣いていた。
(……お前の目が、俺の隊の命綱だ)
その言葉を、彼は二年間、どんな気持ちで抱えていたのか。
――そして、彼女は、もう一つ思い出した。
三ヶ月前。格納庫。
セリウスとの同盟を、隊に打ち明けた夜。
最後に口を開いたのは、彼だった。
――報告書には、どう書きますか。
――書かなくていい。
――……はい。
あの一往復が、何だったのか。
今なら、分かる。
彼は、あの夜、確かめたのだ。
書かなくていいと言われることを。書かない理由を、隊長の口からもらうことを。
(……あなた、あの時)
(もう、決めてたのね)
それから、森のことを思い出した。
ミラの庵の裏。
課題をもらえずに、一人で座っていた彼に、彼女は言った。
――何かあるなら、言いなさい。
――隊長として、じゃなくていい。ただの、私に。
彼は、口を開いて。
言おうと、した。
言おうとして、俯いて。
「なんでもありません」と、言った。
――彼女は。
(……私は)
(――聞かなかった)
彼女は、拳を握った。
――あの時、なぜ聞かなかったのか。
答えは、分かっていた。
彼女は、怖かったのだ。
聞いてしまえば、何かが壊れると分かっていた。
だから、彼が「なんでもありません」と言った時。
――安心したのだ。
(……最低だ)
彼女の目から、涙が落ちた。
二年ぶりの涙だった。
「……ごめん」
彼女は、彼の頬に触れた。
「あなたは、二年間、一人で、私たちを守ってた」
彼女の声が、震えた。
「私は、二年間、それを見なかったふりをしてた」
夕陽が、断崖を赤く染めていた。
「……ごめんなさい」
彼女は、その冷たい額に、自分の額を押し当てた。
「――ごめん、ネロ」
彼らは、その場に、彼を埋めた。
道の谷側、石積みの崩れた場所の下に、四人で穴を掘った。
土は浅く、すぐに岩に当たった。それ以上は掘れなかったので、上に石を積んだ。
墓標は、立てなかった。
――帝国の追っ手に、荒らされるからだ。
代わりに、ミーナレイが、石を一つだけ他と違う向きに置いた。
誰にも分からない印だった。彼女だけが、覚えている置き方だった。
リヴィアは、彼の端末を持ち帰った。
二年分の記録と、送られなかった下書きが入った、それを。
――彼女は、電池を抜いた。
抜いてから、外套の一番内側の隠しに、それを入れた。
(……この記録は、消さない)
(あなたがやったことも、あなたが守ったことも、全部)
(――私が、覚えてる)
夕陽が、沈んだ。
断崖に、夜が来た。
谷川の音だけが、下から上がり続けていた。
――同じ夜。
帝国軍の野営地で、イグナ・ヴェルドは、一人で座っていた。
部下たちは、既に眠っている。
彼女は、焚き火を見ていた。
「……隊長」
副長が、毛布を持ってきた。
「まだ起きておられるのですか」
「ああ」
「……お疲れでは」
「疲れてはいない」
彼女はそう答えた。
――嘘だった。
彼女の頭から、あの顔が離れなかった。
貫かれた瞬間、あの男は。
――笑った。
安堵したように。
やっと荷を下ろせた人のように。
(……なぜだ)
二十年、彼女は人を殺してきた。
命令に従い、正確に、無駄なく。
――そして、一度も、迷ったことがなかった。
(あの男は、何から解放された)
(――誰が、あれを背負わせた)
答えは、分かっていた。
分かっていて、彼女はそれを、考えないようにしてきた。
「……隊長?」
「――なんでもない」
彼女は、立ち上がった。
「寝る」
彼女は、天幕へ入った。
――だが、その夜。
彼女は、朝まで眠れなかった。




