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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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殿

【断崖】


 七日目の午後。


 オズホルン公国国境まで、あと半日。


 ――そこは、断崖の縁を這う細い道だった。


 右手は、切り立った岩壁。層になった砂岩が、上へ行くほど白く、下へ行くほど赤い。ところどころ、崩れて剥き出しになった面が、鉄錆の色をしていた。


 左手は、三十メートル下の谷川。


 水は細く、白かった。落差のせいで、音だけが常に上がってくる。話し声が、その音に半分喰われた。


 道幅は、荷車一台分しかない。谷側の縁は、石が積んであるだけで、その石も三箇所で崩れていた。


「……嫌な道ね」


 リズが、下を覗き込んだ。


「落ちたら、死ぬわね」


「落ちるな」


 アシュが、短く言った。


 ――皇帝は、既に限界だった。


 七日間、歩き通しだった。


 借り物の靴が合わず、両足の踵が破れていた。二日目に巻いた布は、もう血で固まって色が変わっている。


 十四年、十歩の部屋で暮らしていた男には、あまりに過酷だった。


「陛下、休憩を」


「……いや」


 彼は、荒い息をつきながら首を振った。


「先を、急ごう」


「無理をされては」


「無理は、しておらん」


 彼の膝は、明らかに笑っていた。


「――ただ、遅い。それだけだ」




 ――そこへ。


「――上ッ!!」


 ネロが叫んだ。


 彼の端末が、警報を鳴らしていた。


「魔力反応! 真上です! 五――いえ、五!」


「――散開!!」


 リヴィアが叫んだ、その上で。


 断崖の縁が、白く光った。


【挟撃】


 最初の落雷は、隊列の前方に落ちた。


 岩壁が砕けた。


 崩れた岩は、大きいもので人の背丈ほどあった。それが三つ、道を斜めに塞いだ。


 ――音は、後から来た。


 二撃目は、後方に落ちた。


 同じだけの岩が、同じように積み上がる。


 ――退路も、塞がれた。


「――挟まれた!!」


「陛下を守って!」


 ミーナレイが、水膜を張った。


 三撃目が、その膜を叩く。


 膜の表面に、白い蜘蛛の巣が走った。破れる寸前で、リズの風が雷の軌道を横へ押した。逸れた青白い光が、谷側の石積みを砕いて落ちていった。


「ぐ……っ!」


 ――上を見上げる。


 断崖の縁に、五つの影があった。


 濃紺の軍服。逆光で、顔は見えない。


 ――雷牙隊。


「――ノクス!」


 イグナ・ヴェルドの声が、降ってきた。


 三十メートル上からの声が、谷川の音を貫いて届いた。


「そこは、逃げ場がない」


「…………」


「投降しろ」


 リヴィアは、応じなかった。


 ――彼女は、状況を測っていた。


 前方は、崩落で塞がれている。岩をどけるのに、最低でも十分。


 後方も、同じ。


 上は、断崖。三十メートル。取りつく場所がない。


 下は、谷川。三十メートル。飛び降りれば、皇帝が死ぬ。


(――詰んでる)


 いや。


 一つだけ、道があった。




「――リズ」


 リヴィアは、小声で言った。


「前方の崩落。……風で、どかせる?」


「無理。岩が大きすぎる」


「じゃあ、飛べる?」


「……何人?」


「六人」


「――無理」


 リズは、即答した。


「三人が限界。それも、上まで届かない」


「…………」


「隊長」


 彼女の声が、震えた。


「時間があれば、いける。……岩をどけるだけの、時間があれば」


 リヴィアは、崩落を見た。


 それから、上を見た。


 雷牙隊は、動いていない。


 ――待っている。


 こちらが動くのを、待っている。




(……誰かが、残る)


 リヴィアは、その結論に達した。


 誰かが、雷牙隊を足止めする。


 その間に、残りが岩をどけて、皇帝を通す。


(――誰が)


 彼女は、隊を見た。


 アシュ。攻撃力はある。だが、防御はない。


 リズ。機動力はある。だが、正面から受けられない。


 ミーナレイ。まだ若すぎる。


 グレイ。彼が残れば、確実に足止めできる。


(――でも)


 グレイは、皇帝の計画そのものだ。


 彼がいなければ、アスレオンでの交渉が成立しない。


(じゃあ、私が)


 彼女が、そう考えた――そこへ。




「――僕が、残ります」


 声が、した。


 全員が、振り返った。


 ネロ・フェインが、立っていた。


⸻


## 【志願】


「……ネロ?」


「僕が、残ります」


 彼は、もう一度、はっきりと言った。


「駄目よ」


 リヴィアが、即答した。


「あなた、戦闘は――」


「専門外です」


 彼は頷いた。


「知ってます。……でも」


 彼は、上を見た。


「あの人たちの雷を、一番長く止められるのは、僕です」


 ――誰も、反論できなかった。


 事実だった。


 彼の障壁は、隊で最も厚く、最も広い。


 絶空でも、風でも、火でも、雷は「止められない」。


 ――受け止められるのは、彼だけだ。


「三十分、稼ぎます」


 彼は言った。


「その間に、岩をどけて、陛下を通してください」


「ネロ」


「三十分あれば、足ります」


 彼は、端末を閉じた。


「――計算しました」




 リヴィアは、動けなかった。


 ――二年前と、同じだった。


 地下の聖堂で、彼女が「先に行って」と言った時。


 カラムは、一秒迷って、そして頷いた。


 ――そして、三十分後、彼は死んだ。


(……また)


 彼女の喉が、詰まった。


(また、私は、置いていくの)


「――隊長」


 ネロが、彼女を見た。


「……ネロ」


「大丈夫です」


 彼は、少しだけ笑った。


 二年ぶりに見る、彼の笑顔だった。


「――僕、防御専門ですから」




 リヴィアは、拳を握った。


 爪が、掌に食い込んだ。


 ――そして。


「……三十分よ」


 彼女は言った。


「三十分で、必ず戻る」


 ――二年前、カラムが言ったのと、同じ言葉だった。


「はい」


「ネロ」


「……はい」


「あなた、覚えてる?」


 彼女は、彼を見た。


「バルドアの夜。……パルスの中で、あなたが息継ぎを見つけた」


 ネロの顔が、上がった。


「あの時、あなた、震えながら報告してきたの」


 彼女は、少しだけ笑った。


「『あの、まだ一回分のデータしかないので』って。……前置きが長すぎて、リーダーに『落ち着け』って言われてた」


「……覚えて、ますか」


「覚えてるわよ」


 彼女は言った。


「あの三秒がなかったら、私たちは全員、あの稜線で死んでた」


「…………」


「あなたは、二年前から、ずっとそう」


 彼女の声が、少し掠れた。


「一番後ろで、一番小さい声で、一番大事なことを言う」


 ネロは、口を開かなかった。


「――だから、待ってる」


 彼女は言った。


「三十分後、あなたが小さい声で報告に来るのを、待ってる」


「……はい」


 彼は、頷いた。


 ――その頷きが、少しだけ遅かったことに。


 リヴィアは、気づかなかった。




「――ネロ先輩!」


 ミーナレイが駆け寄った。


「あの、あたしも残ります! 水膜なら――」


「駄目です」


 ネロは、即答した。


「あなたは、陛下を守ってください」


「でも!」


「――ミーナレイ」


 彼は、初めて、彼女を名前で呼んだ。


「え……」


「あなた、着任した日に、報告書を三十分で書き直しましたよね」


 彼女の動きが、止まった。


「え……あ、はい」


「あれ、僕、驚いたんです」


 彼は、少しだけ笑った。


「僕が同じことを言われたのは、入隊二年目でした。……で、三日かかりました」


「…………」


「あなたは、三十分でやった」


 彼は、彼女の頭に、軽く手を置いた。


「僕は、賢いと言われてきました。……でも、僕の賢さは、遅いんです」


 彼の手が、少し震えていた。


「怖いから、確かめて、計算して、それから動く。……だから、遅い」


「先輩……」


「あなたは、違う」


 彼は言った。


「あなたは、間違えながら、走れる人だ」


 彼は、手を離した。


「――だから、生きてください」


 彼は、上を見上げた。


「僕が二年かけて分からなかったことに、あなたなら、たぶん一週間で気づく」


「……なんですか、それ」


「秘密です」


 彼はそう言って、背を向けた。


「――行ってください」



【一人】


 四人が、崩落の岩に取りついた。


 リズの風が、砂と小石を吹き飛ばす。


 アシュが、岩の割れ目に火を押し込む。熱が入って、内側から石が弾ける。


 ミーナレイが、水で岩の隙間を洗い、噛み合った面を滑らせる。


 グレイが、炎で岩の一面を焼き、そこへリズが冷たい風を当てる。急に冷えた石は、乾いた音を立てて割れた。


 ――そして、リヴィアは。


 一度だけ、後ろを振り返った。


 道の反対側で、黒い軍服の背中が、一人。


 ネロは、振り返らなかった。


 ただ、上を見上げていた。




 ――彼は、落ち着いていた。


 不思議なほど、落ち着いていた。


 谷川の音が、下から上がってくる。彼はそれを、初めてちゃんと聞いた気がした。


(……ああ)


(そうか)


(もう、売るものがないんだ)


 黒翼は、指名手配された。


 帝国の地位は、消えた。


 ――つまり。


 彼が「守っていた」ものは、もう存在しない。


 二年間、彼が報告を続けた理由は。


 ――黒翼の解体を防ぐこと、だった。


 その黒翼が、既に解体されている。


(……もう、僕は要らない)


(誰にとっても)




 ミラの声が、蘇った。


 ――首輪はね、外そうとした瞬間に、締まるようにできてるの。


 ――だから、外そうとしちゃ駄目。


 ――首を差し出す相手を、変えなさい。


(……変えられた)


(あの日、僕は変えられた)


 白い塔の屋上で。


 端末を開いて、三分間、何も打たずに閉じた、あの夜。


(――変えたはずだった)


 でも。


(それで、赦されるのか)


 二年分の報告。


 首輪の術式。侵攻の日程。ムラサメの居場所。ミラの居場所。


 ――そして、ネフィラの砂漠で死んでいる、何万という人間。


(……赦されるわけ、ないだろ)


 彼は、自分の掌を見た。


 解析用の胼胝が、右手の指の付け根に三つ。二年で、そこだけ皮が厚くなった。


(僕は、この手で)




 ――そして、彼は上を見た。


 断崖の縁に、五つの影。


 彼は、両手を、地面についた。


 砂利の粒が、掌に食い込んだ。


「――行きます」


 誰も聞いていない声だった。


 ――光の天蓋が、道を覆った。


【三十分】


 最初の一撃は、四本同時だった。


 四人の隊員が、それぞれ雷を放つ。


 ――天蓋が、それを受けた。


 音は、四つ、ずれて届いた。


 ガッ。ガッ。ガガッ。


 天蓋の表面に、白い亀裂が四本、走った。


「……っ」


 ネロは、歯を食いしばった。


(――思ったより、重い)


 雷は、彼が二年前に受けた氷槍とは、質が違った。


 氷槍は、面で殴ってきた。だから、面で受ければよかった。


 雷は――刺してくる。


 速く、鋭く、そして障壁の「点」だけを狙ってくる。


「――第二射」


 イグナの声。


 四本が、同じ一点を撃った。


 ――天蓋が、そこから割れた。


 割れた穴の縁が、内側へめくれた。硝子の破片が、内向きに反り返るように。


「くっ……!」


 彼は、破れた部分を、瞬時に張り直した。


 ――間に合った。


 指先が、痺れていた。二射で、その痺れが来た。


(……このままだと、十分ももたない)


 彼は、目を閉じた。


(……ミラ殿)


(あなたに、課題をもらえなかった)


(『もう十分、賢いわ』って、言われた)


 彼は、あの時、傷ついた。


 自分だけ、必要とされなかったと思った。


 ――でも、今、分かる。


(あなたは、待ってた)


(僕が、自分で気づくのを)


 彼は、目を開けた。


(――魔法は、消費じゃない)


(創造だ)




 彼は、天蓋の構造を、組み替えた。


 ――これまでの障壁は、単層だった。


 厚く、広く、一枚で受ける。


 だから、一点を突かれると割れる。


 ――だが。


(生み出した魔法を、次の材料にする)


 彼は、天蓋を、二枚にした。


 一枚目が受けた衝撃を――二枚目の材料にした。


 次の雷が、来た。


 一枚目に当たる。当たった場所が、白く灼ける。


 ――そして、その白が、下へ落ちた。


 灼けた光が、二枚目の表面へ流れ落ちて、そこで層になった。


 二枚目が、その分だけ、厚くなった。


「――なっ!?」


 断崖の上で、隊員が声を上げた。


「隊長! 障壁が、増えてます!」


「……ほう」


 イグナの目が、細くなった。


「――面白い」




 三枚。四枚。


 撃たれるたびに、彼の障壁は増えていった。


 上から見れば、それは水面に浮かんだ薄い氷が、雨で厚くなっていくように見えたはずだった。


 十分が経過した時、天蓋は七枚になっていた。


 ――ネロは、笑っていた。


(……できてる)


(僕にも、できるんだ)


 二年間、彼は解析しかしてこなかった。


 人の魔法を測り、数値化し、報告することしか。


 ――今、彼は、自分の魔法を作っていた。


(隊長)


(見てますか)


(僕、ちゃんと、戦ってますよ)


 背後で、岩の割れる音がした。


 振り返らなかった。


【削られる】


 十五分を過ぎた頃から、状況が変わった。


「――散開。四方から」


 イグナが、指示を出した。


 四人が、断崖の上で位置を変えた。


 崖の縁に沿って、四人が二十メートルずつ離れる。


 ――そして、別々の方向から、同時に撃った。


 七枚の天蓋は、正面には強い。


 側面と背面は、薄い。


「――っ!」


 背面が、破れた。


 雷が、彼の左肩を掠めた。


 肉が焼ける音がした。音の方が、痛みより先だった。


「あ……っ」


 彼は、膝をついた。


 天蓋だけは、維持した。


 左腕が、動かなかった。指を曲げようとしたが、指がどこにあるのか分からなかった。


(――まだ)


 彼は、立ち上がった。


 右手だけで、術式を組み直した。


 ――今度は、球形にした。


 全方位。


 厚さは、半分になる。


 その代わり、隙間がない。


 道の上に、光の球が生まれた。中に、一人。


「……なるほど」


 イグナが呟いた。


「――良い判断だ」




 二十分。


 球形の障壁は、四方から撃たれ続けた。


 一枚割れるたびに、次が厚くなる。


 だが――増える速度より、割られる速度が上回り始めた。


 六枚。五枚。四枚。


 ネロの膝が、震えていた。


 右腕から、血が流れていた。手首を伝って、指先から地面へ落ちている。


 その血が、砂利の上で丸くなって、少しずつ砂に吸われていった。


 どこを撃たれたのか、もう分からなかった。


(……あと、十分)


 彼は、時計を見なかった。


 見る余裕が、なかった。


 ――ただ、数えていた。


 心臓の音を。


 訓練所で習った。安静時の脈は、一分で七十から八十。今は、たぶん百四十を超えている。


 だから、二千四百拍を数えれば、十分になる。


(――あと、十分)




 二十五分。


 障壁は、二枚になっていた。


 彼は、片膝をついて、両手を地面についていた。


 ――もう、立てなかった。


 球の中で、彼の吐く息だけが白く曇った。外は暖かいはずなのに、球の内側だけが冷えていた。


「……フェイン准尉」


 断崖の上から、声がした。


 イグナが、彼を見下ろしていた。


「一つ、聞く」


「……なん、ですか」


「なぜ、一人で残った」


 ――ネロは、応じなかった。


「隊を守るためか」


「…………」


「それとも」


 彼女の声が、少しだけ変わった。


「――贖罪か」


 ネロの体が、こわばった。


「……なぜ」


「知っている」


 イグナは、あっさりと言った。


「ゼーレン監察官から、聞いていた。……黒翼に、協力者がいると」


 ネロの視界が、白くなった。


「――名前は、聞いていない」


 彼女は続けた。


「だが、今、分かった」


 彼女は、手を上げた。


「一人で残る奴は、たいてい、そういう理由だ」




「……そう、ですか」


 ネロは、掠れた声で言った。


「――無意味だ」


 イグナが言った。


「お前が死んでも、お前がやったことは消えない」


「……知ってます」


 彼は答えた。


「知ってます」


「なら、なぜ」


「――他に」


 彼は、顔を上げた。


 その顔は、血だらけだった。左目が、腫れて開かなくなっていた。


 なのに、右目だけが、はっきりしていた。


「他に、思いつかなかったんです」




 イグナの手が、止まった。


 ――ほんの、一瞬。


「……そうか」


 彼女は言った。


「――では、送ろう」


【追雷・極】


 彼女の右手に、光が集まった。


 これまでの雷とは、質が違った。


 青白い光が、彼女の腕を這い、渦を巻き、螺旋になる。


 ――音が、変わった。


 それまで、雷は「落ちる」音だった。


 今、彼女の腕の周りで鳴っているのは、細く、高く、途切れない音だった。硝子の縁を濡れた指でなぞる時の、あの音に近い。


 断崖の岩が、震え始めた。


 崖の縁の小石が、地面から一センチほど浮いて、そのまま止まった。


 彼女の髪が、逆立った。四人の部下が、無言で三歩下がった。


「――追雷・極」


 彼女は、放った。


 ――それは、直進しなかった。


 空中で折れ、回り込み、球形の障壁の継ぎ目を、正確に辿った。


 ネロが、二枚目を張り直そうとした、その一瞬の隙間を。


 ――雷が、通った。




 衝撃は、なかった。


 音も、しなかった。


 ――ただ、胸が、熱かった。


 ネロは、自分の胸を見下ろした。


 黒い軍服に、穴が開いていた。


 穴の縁が、赤く灼けて、細い煙を上げていた。


 その穴から、光が漏れていた。


「……あ」


 その一音だけが、出た。


 膝が、崩れた。


 地面に、崩れ落ちた。


 球形の障壁が、音もなく霧散した。


 ――そして。


 音が、届いた。


 彼が倒れた後で、雷の音が谷を渡っていった。谷川の音を一瞬押しのけて、岩壁に当たり、三度跳ね返って、消えた。




 ――倒れた彼の視界に、空が見えた。


 夕暮れだった。


 オレンジ色の空に、雲が三つ。細く、長く、同じ方向へ流れていた。


(……綺麗だな)


 浮かんだのは、それだけだった。


 ――胸は、まだ熱かった。


 でも、痛くはなかった。


(……終わった)


(やっと)




 二年間、彼は苦しんできた。


 毎晩、眠れなかった。


 焼却炉の前で吐き、隊の顔を見られなくなり、鏡の中の自分を「誰だ」と思った。


 ――ずっと、逃げ場がなかった。


 死ぬこともできなかった。


 死ねば、隊が解体されると思っていたから。


(……でも、もう)


(もう、大丈夫だ)


 黒翼は、既に指名手配された。


 彼が守るべきものは、もう、この国のどこにもない。


(……やっと、終われる)




 彼は、目を閉じかけて――


 最後に、こう思った。


(隊長)


(――僕、一度だけ、正しいことをしましたよ)


 白い塔の屋上。


 端末を開いて、三分間、何も打たなかった夜。


(皇帝陛下のことだけは、書きませんでした)


(それだけです)


(それだけ、ですけど)




 ――そして。


 彼の口元が、わずかに動いた。


 微笑んだのだ。


 安堵したように。


 やっと、荷を下ろせた人のように。


 それきり、彼は動かなかった。




 ――断崖の上で。


 イグナ・ヴェルドの手が、止まっていた。


 彼女は、その顔を見ていた。


「…………」


 二十年、彼女は人を殺してきた。


 様々な顔を見た。


 恐怖。憎悪。無念。絶望。


 ――だが。


(……なぜ)


 彼女の眉が、寄った。


(――なぜ、笑った)




「隊長」


 部下が、声をかけた。


「追撃しますか」


「……いや」


 彼女は、応じなかった。


 いや――応じられなかった。


 彼女は、まだ、その顔を見ていた。


「隊長?」


「――退く」


「え?」


「退くと言った」


 彼女は、背を向けた。


 ――その足取りが、いつもより、少しだけ遅かった。


【三十分後】


 崩落の岩をどけ終えたのは、三十一分後だった。


「――ネロ!」


 リヴィアが、真っ先に走った。


 道の反対側へ。


 ――そして。


 彼女は、足を止めた。




 夕陽の中に、黒い軍服が、倒れていた。


 仰向けに。


 胸に、焼けた穴。


 ――目は、閉じていた。


 ――口元が。


 わずかに、微笑んでいた。


「……ネロ?」


 リヴィアの声が、掠れた。


「――ネロ!!」


 彼女は、駆け寄って、膝をついた。


 彼の肩を、揺すった。


「ネロ! 起きて! ネロ!!」


 ――冷たかった。


 まだ、少しだけ温かかった。


 でも、確実に、冷たくなっていた。




「……嘘」


 リズが、後ろで立ち尽くしていた。


「嘘でしょ……」


「ネロ先輩!!」


 ミーナレイが、駆け寄った。


「先輩! ねえ、先輩!!」


 彼女は、彼の手を握った。


「起きてください! ねえ!! 水膜、五日でできたって、褒めてくれたじゃないですか!!」


「……ミーナレイ」


「なんで! なんで笑ってるんですか!!」


 彼女は、泣き叫んだ。


「痛かったでしょう!? 怖かったでしょう!? なんで、笑って――」


 彼女の言葉が、途切れた。


 ――アシュが、拳を岩壁に叩きつけていた。


 一度。二度。三度。


 拳から、血が流れていた。


「……くそ」


 彼は、額を岩に押しつけた。


「……くそが」




 ――グレイは、動かなかった。


 少し離れた場所で、皇帝を支えたまま、立っていた。


 その顔が、蒼白だった。


「……アークライト」


 皇帝が、低い声で言った。


「……はい」


「――余のために、死んだのか」


「…………」


「答えよ」


「――はい」


 グレイは、そう答えた。


 皇帝は、しばらく黙っていた。


 それから、彼は、リヴィアの元へ歩いた。


 膝が笑っていた。それでも、歩いた。


 ――倒れたネロの傍らに、跪いた。


「陛下……!」


「よい」


 彼は言った。


 それから、深く頭を下げた。


 地面に、額をつけて。


「――申し訳ない」


 彼は言った。


「余の命は、そなたの命より、重くはない」


 彼の声が、震えた。


「――だが、そなたは、そう思ってくれたのだな」


【端末】


 ――そして。


 リヴィアが、彼の遺品を集めていた時。


 彼女の手が、止まった。


 ――端末があった。


 右手から半歩離れた砂利の上に、落ちていた。


 外装に血が付いて、指の形に乾いていた。それでも、まだ動いていた。


 画面が、点いていた。


「……なに、これ」


 彼女は、それを開いた。


 ――そして。


 息が、止まった。




 通信記録が、並んでいた。


 二年分。


『黒翼分隊、行動記録』


『特務課内、人員異動』


『禁足地座標、別添』


『遺留品の環、術式写し、照会を求む』


 ――日付が、二年前から続いていた。


「……嘘」


 彼女は、頁を送った。


 送るたびに、記録が増えていく。


 バルドアの。セルバの。シキナの。イルドレナの。


 ――全部。


「……嘘でしょ」


「隊長?」


 リズが、覗き込んだ。


 画面を、見た。


「……え」


 彼女の顔から、血の気が引いた。


「……なにこれ」


「…………」


「隊長、これ、なに」


⸻


 リヴィアは、応じられなかった。


 彼女は、記録を最後まで送った。


 ――そして。


 最後の送信は、三ヶ月前で止まっていた。


 イルドレナから戻った直後の、あの日以来。


 彼は、一度も、送っていなかった。


 ――三ヶ月。


 彼女の指が、止まった。


 二日目の渡し場。四日目の分岐。六日目の峠。そして今日。


 四度、先回りされた。


 彼が三ヶ月、何も送っていないのに。


 ――彼女は、手の中のものを見た。


 血で汚れた、黒い箱。


 彼は、これを毎日、三度は開いていた。地図を確かめるために。位置を確かめるために。


(……これ、自体が)


 彼女の背中を、冷たいものが伝った。


(あなた、何も送ってなかったのに)


(――持ってただけで)


 彼女は、それを両手で握りしめた。


 ――ネロは、たぶん、最後まで知らなかった。


 自分が三ヶ月前にやめたことが、何の役にも立たなかったことを。




 ――そして。


 その先に、一つ、下書きが残っていた。


 送信されなかった、文書。


 彼女は、それを開いた。




『――申し訳ありませんでした』


『全部、僕がやりました』


『二年前、偽の証拠を突きつけられました。カラムさんの死は、僕の情報漏洩のせいだと言われました』


『嘘だと、後から分かりました。でも、その時には、もう遅かった』


『僕が報告をやめれば、黒翼は解体されると言われました。だから、続けました』


『それが、隊を守ることだと思っていました』


『違いました』


『僕が送った術式で、人が兵器にされました』


『僕が送った日程で、戦争が始まりました』


『僕が送った座標で、ムラサメ殿とミラ殿が閉じ込められました』


『全部、僕です』


『――でも』


『皇帝陛下のことだけは、書きませんでした』


『それだけが、僕が二年で、唯一やった正しいことです』


『隊長』


『言えなくて、すみませんでした』


『森で、聞いてくれたのに』


『――言えば、よかった』




 ――そこで、下書きは終わっていた。


 日付は、三日前だった。


 彼は、この文章を書いて。


 ――送らずに、持っていた。


【誰も、気づかなかった】


 沈黙が、断崖に落ちた。


 夕陽が、沈もうとしていた。谷の影が、対岸の岩壁を下から順に登っていく。


「……なんで」


 リズが、震える声で言った。


「なんで、言わなかったの」


 彼女は、その場に崩れ落ちた。


 ――しばらく、言葉が出なかった。


 やがて、彼女は、掠れた声で言った。


「……あんた、覚えてる?」


 誰に言っているのか、分からなかった。


 たぶん、倒れている男に、言っていた。


「二年前……リーダーが死んだ後さ」


 彼女は、膝を抱えた。


「あたし、夜中に何回も泣いてたの。壁、薄いから、たぶんバレてた」


 彼女の肩が、震えた。


「そしたら、あんた、いつも廊下にいたのよ」


 ――誰も、それを知らなかった。


「入ってこないの。声もかけないの。……ただ、廊下に座ってるだけ」


 彼女は、顔を上げた。


「一回、聞いたのよ。『なにしてるの』って」


 彼女の顔が、涙でぐしゃぐしゃになった。


「そしたら、あんた、なんて言ったと思う?」


 誰も、応じられなかった。


「――『通りかかっただけです』って」


 彼女は、笑おうとして、失敗した。


「毎晩通りかかるわけ、ないでしょうが」


 彼女は、地面に額をつけた。


「……なんで、それを、自分の時はしないのよ」


 彼女の背中が、震えた。


「あたし、二年、あんたの廊下で助けられてたのに」


 彼女は、泣き叫んだ。


「――なんで、一人で座ってたのよ!!」




「……くそっ」


 アシュが、呟いた。


 彼は、拳を岩に押しつけたまま、動かなかった。


「……俺は」


 彼の声が、低かった。


「あいつ、俺の銃の整備、勝手にやってたんだ」


 全員が、彼を見た。


「二年前からだ。……気づいたのは、去年」


 彼は、岩に額を押しつけた。


「俺、整備が雑でな。ジンにもよく怒られる」


 彼の拳が、握りしめられた。


「でも、ある時から、薬室が妙に綺麗になってた。……最初、ジンかと思ったんだ」


「…………」


「違った。あいつだった」


 彼は、笑った。


 ひどい笑い方だった。


「聞いたら、なんて言ったと思う」


 彼は、顔を上げた。


「――『データを取るついでです』だとよ」


 彼の目から、涙が落ちた。


「ついでで、二年も他人の銃を磨くか、普通」


 彼は、また拳を叩きつけた。


「……俺は、それを『助かる』とだけ思ってた」


 血が、岩を汚した。


「あいつが、なんでそうしてたのか」


 彼の声が、割れた。


「――一回も、考えなかった」




「……あたし」


 ミーナレイが、ぽつりと言った。


 彼女は、彼の手を握ったまま、座り込んでいた。


「あたし、ネロ先輩に、報告書を突き返されました」


 涙が、彼女の顎から落ちた。


「『その書き方、非効率です』って」


「…………」


「あたし、あの時、ちょっと傷ついたんです」


 彼女は、洟をすすった。


「でも、その日の夜」


 彼女の声が、震えた。


「あたしの机に、紙が置いてあったんです」


 全員が、彼女を見た。


「報告書の、書き方の見本でした」


 彼女は、俯いた。


「――手書きで。全部」


「…………」


「結論を先に書いて、根拠を後ろに。数字はここに入れる。……全部、書いてありました」


 彼女は、彼の手を、強く握った。


「……先輩」


 彼女の声が、崩れた。


 彼女は、泣き叫んだ。


「あたし、まだちゃんとお礼を――!」




 ――そして、リヴィアは。


 彼女は、端末を握りしめたまま、動かなかった。


 ――思い出していたのは、二年前だった。


 カラムの葬儀の夜。格納庫での、七人だけの弔い。


 あの時、ネロは言った。


 ――入隊した日に、辞めますって言ったんです。僕なんかいても、迷惑だから、って。


 ――そしたら、あの人、『お前の目が、俺の隊の命綱だ』って……。


 あの夜、彼は泣いていた。


 途中で「なんでも、ないです」と言って、口を閉じた。


(……あの時)


(あの時、既に)


 彼は、もう脅されていた。


 脅されて、隊を売り始めていて、そして――カラムの言葉を、思い出して泣いていた。


(……お前の目が、俺の隊の命綱だ)


 その言葉を、彼は二年間、どんな気持ちで抱えていたのか。




 ――そして、彼女は、もう一つ思い出した。


 三ヶ月前。格納庫。


 セリウスとの同盟を、隊に打ち明けた夜。


 最後に口を開いたのは、彼だった。


 ――報告書には、どう書きますか。


 ――書かなくていい。


 ――……はい。


 あの一往復が、何だったのか。


 今なら、分かる。


 彼は、あの夜、確かめたのだ。


 書かなくていいと言われることを。書かない理由を、隊長の口からもらうことを。


(……あなた、あの時)


(もう、決めてたのね)




 それから、森のことを思い出した。


 ミラの庵の裏。


 課題をもらえずに、一人で座っていた彼に、彼女は言った。


 ――何かあるなら、言いなさい。


 ――隊長として、じゃなくていい。ただの、私に。


 彼は、口を開いて。


 言おうと、した。


 言おうとして、俯いて。


 「なんでもありません」と、言った。


 ――彼女は。


(……私は)


(――聞かなかった)


 彼女は、拳を握った。


 ――あの時、なぜ聞かなかったのか。


 答えは、分かっていた。


 彼女は、怖かったのだ。


 聞いてしまえば、何かが壊れると分かっていた。


 だから、彼が「なんでもありません」と言った時。


 ――安心したのだ。


(……最低だ)


 彼女の目から、涙が落ちた。


 二年ぶりの涙だった。


「……ごめん」


 彼女は、彼の頬に触れた。


「あなたは、二年間、一人で、私たちを守ってた」


 彼女の声が、震えた。


「私は、二年間、それを見なかったふりをしてた」


 夕陽が、断崖を赤く染めていた。


「……ごめんなさい」


 彼女は、その冷たい額に、自分の額を押し当てた。


「――ごめん、ネロ」




 彼らは、その場に、彼を埋めた。


 道の谷側、石積みの崩れた場所の下に、四人で穴を掘った。


 土は浅く、すぐに岩に当たった。それ以上は掘れなかったので、上に石を積んだ。


 墓標は、立てなかった。


 ――帝国の追っ手に、荒らされるからだ。


 代わりに、ミーナレイが、石を一つだけ他と違う向きに置いた。


 誰にも分からない印だった。彼女だけが、覚えている置き方だった。


 リヴィアは、彼の端末を持ち帰った。


 二年分の記録と、送られなかった下書きが入った、それを。


 ――彼女は、電池を抜いた。


 抜いてから、外套の一番内側の隠しに、それを入れた。


(……この記録は、消さない)


(あなたがやったことも、あなたが守ったことも、全部)


(――私が、覚えてる)


 夕陽が、沈んだ。


 断崖に、夜が来た。


 谷川の音だけが、下から上がり続けていた。




 ――同じ夜。


 帝国軍の野営地で、イグナ・ヴェルドは、一人で座っていた。


 部下たちは、既に眠っている。


 彼女は、焚き火を見ていた。


「……隊長」


 副長が、毛布を持ってきた。


「まだ起きておられるのですか」


「ああ」


「……お疲れでは」


「疲れてはいない」


 彼女はそう答えた。


 ――嘘だった。


 彼女の頭から、あの顔が離れなかった。


 貫かれた瞬間、あの男は。


 ――笑った。


 安堵したように。


 やっと荷を下ろせた人のように。


(……なぜだ)


 二十年、彼女は人を殺してきた。


 命令に従い、正確に、無駄なく。


 ――そして、一度も、迷ったことがなかった。


(あの男は、何から解放された)


(――誰が、あれを背負わせた)


 答えは、分かっていた。


 分かっていて、彼女はそれを、考えないようにしてきた。


「……隊長?」


「――なんでもない」


 彼女は、立ち上がった。


「寝る」


 彼女は、天幕へ入った。


 ――だが、その夜。


 彼女は、朝まで眠れなかった。




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