同じ血
【三十七人】
翌朝、埋葬が行われた。
三十七人。
だが、埋葬とは言えなかった。
地面が、凍っていたからだ。鶴嘴を入れても、十センチで岩に当たった。
だから、石を積んだ。
氷原の縁に、三十七の石塚が並んだ。どれも、人の膝ほどの高さしかなかった。石が、それだけしか集まらなかった。
リヴィアは、その前に立っていた。
名前を、読み上げていた。
「ヤルナ・ケルド。四十二歳。ネフィラ出身」
白い息が、言葉と一緒に出た。
「シム。八歳。ネフィラ出身。……家名は、分かりませんでした」
「トール・ハーヴィク。六十七歳。終灯の住人。十四年前から、ここにいた方です」
名前は、皇帝が集めていた。
彼は、その場にいた。
毛皮を着込んで、震えながら、立っていた。この寒さは、十四年を一部屋で過ごした体にはこたえるはずだった。
それでも、彼は最後まで動かなかった。
リヴィアが一人読み上げるたびに、彼の顎が、小さく動いていた。名前を、口の中で追っていた。
「以上、三十七名です」
彼女の頭が、下がった。
六千三百人が、それに倣った。
その動きが、後ろへ波のように伝わっていった。一番外側の者が頭を下げるまで、数秒かかった。
解散した後。
皇帝が、リヴィアの隣に来た。
「……ノクス。余は、この三十七人の名を、全部書いた」
彼の視線が、石塚に向いていた。
「昨夜、生存者を一人ずつ訪ねて、聞いて回った。……八歳の子の家名だけ、誰も知らなかったが」
「……そうですか」
「書きながら、思ったのだ。帝都では、これができなかった」
「できなかった、というのは」
「あそこには、名前が来なかったのだ。……数字しか、来なかった」
彼の口元が、歪んだ。
その視線が、三十七の石塚を辿った。
「ここでは、名前が分かる。顔を知っている者が、教えてくれるからな」
彼の指が、毛皮の袖を握った。
「それが……余には、少し、嬉しい」
言ってから、彼は少し首を振った。
「三十七人が死んだ日に、言うことではないな」
リヴィアは、応じられなかった。
三十七人が、死んだ。
だが、この人は、その名前を全部知っている。
帝都では、四万人が死んでも、一人も知らなかった。
(……この人は)
(こうやって、皇帝になっていくのね)
【冬】
それから、二十日が過ぎた。
冬は、深まっていった。
太陽は、二時間しか出なくなった。その二時間も、地平線の上に半分しか顔を出さない。影が、一日じゅう斜めのままだった。
備蓄も、減っていった。
「あと、三十日ね。三十日で、全部なくなる」
リズが、帳簿を閉じた。
「魚は、獲れないの?」
「氷が厚すぎて、穴が開かないの。……去年までは、二尺で届いたって」
「狩りは」
「獣が、いないのよ。ここ、北の果てだもの。……鳥も、渡ってこないって」
彼女の指が、外を差した。
会議は、重かった。
六千三百人が、三十日後に飢える。
卓の上に、地図と、帳簿と、空になった鍋が一つ置いてあった。鍋は、量を測るために持ち込まれたものだった。
「船を出すしかないな。……南へ」
グレイが、地図を広げた。
その指が、大陸の北東を叩いた。
「オズホルン公国だ。あそこは、まだ帝国の駐留が緩い。……港の役人も、金で動く」
「買えるの? 金は」
「ある。アスレオンから持ち出した分が、まだ残ってる」
彼は、懐を叩いた。
「あたし、行きます! 船なら乗れます!」
ミーナレイの手が、上がった。
「駄目だ。お前は若すぎる。……捕まったら、そこで終わりだ」
アシュが、腕を組んだ。
「でも、あたしだって!」
「俺が行く。顔が割れてないのは、俺とリズだけだからな」
彼の顎が、リズを示した。
「隊長と中佐は、人相書きが出回ってる。……港に入った瞬間だ」
「決まりね。二人で行くわ」
リズが、立ち上がった。
「大丈夫か。……二人だぞ」
「大丈夫よ。こいつと二人なら、大抵なんとかなるもの」
彼女の親指が、アシュを差した。
「どういう意味だ、それ」
「褒めてるの。……喧嘩になったら、あんたが撃つ前に、あたしが逃がすから」
「褒めてねえだろ、それ」
二人は、その翌朝、船で出発した。
残ったのは、リヴィアと、グレイと、ミーナレイ。
あとは、六千三百人。
【北へ】
二十五日目。
リヴィアは、北へ歩いていた。
一人で。
目的は、境界を探すことだった。
ゼルグが言っていた「足を滑らせた場所」。魔界との、繋ぎ目。
(……あるはず)
(ゼルグは、そこから落ちてきた)
彼女は、氷原を歩いた。
目印になるものが、何もなかった。地平線まで、白しかない。振り返れば、自分の足跡だけが、一本の線になって伸びていた。
歩きながら、彼女は感じていた。
自分の中の闇が。
引っ張られていた。
北へ。磁石のように。
歩くほど、その力が強くなった。
三時間、歩いた。
集落から、十キロ。
そこで、彼女は、それを見た。
氷原の中に、穴があった。
直径、二十メートルほど。
底が、見えなかった。
「……なに、これ」
彼女は、その縁に立った。
縁の氷は、垂直に切れていた。崩れた跡がない。もともと、そういう形で開いていたように見えた。
縁から、下を覗いた。
闇だった。
だが、ただの闇ではなかった。
その闇が、動いていた。
渦を巻いている。時計回りに、緩慢に。
匂いが、した。
彼女は、それを知っていた。
(……ゼルグと、同じ匂い)
淀んだ、濁った、重い匂い。
カイゼンの言葉が、蘇る。
魔界は、地獄ではない。沈殿層である。
(……ここが、繋ぎ目)
彼女は、しゃがみ込んだ。
それから、手を伸ばした。
右手を。黒い、手を。
穴の縁へ。
彼女の指が、闇に触れた瞬間。
懐かしい、と感じた。
「……っ」
手が、引かれた。
心臓が、跳ねていた。
(……今の、何)
彼女の視線が、自分の右手に落ちた。
黒い手が、少しだけ、震えていた。
理解した。
(……帰りたがってる)
彼女の中の、何かが。
この穴の向こうへ。
(嫌だ)
彼女は、立ち上がった。
背を、向けた。
走った。振り返らずに。
自分の足跡を、辿って。
【二体目】
集落に戻る途中だった。
氷原の途中で、彼女は、それに遭遇した。
影が、一つ。
立っていた。
「……っ」
剣の柄に、手がかかった。
だが。
その影は、動かなかった。
前回の彷徨いとは、違った。
背丈は、二メートルほど。
人の形をしていた。腕は二本で、正しい位置に付いていた。
顔が、あった。
女の顔だった。
角は、なかった。
だが、肌が、灰色だった。血の色が、どこにもなかった。
「……あなた、彷徨いですか」
影は、応じなかった。
ただ、彼女を見ていた。
その顔が、歪んだ。
驚愕の表情だった。
「…………」
彼女の足が、一歩、後ろへ引いた。
それから、また、リヴィアを見た。
目を、擦った。
もう一度、見た。
「……嘘。嘘、でしょう」
その唇が、震えた。
「……何がですか」
「その顔。……それに、その魔力」
彼女は、その場に膝をついた。
両手を、地面についた。
額を、氷につけた。
「ちょっと、待ってください。何をして――」
リヴィアが、慌てた。
「ノクティルム家の、御方」
リヴィアの息が、止まった。
「……今、なんて」
「ノクティルム家の力です。……間違えるはずが、ありません」
その額は、氷についたままだった。
「私の一族は、三百年、あの家に仕えました。……この魔力の匂いは、母から教わりました」
リヴィアは、動けなかった。
「仕えた、というのは。……あの家、というのは、何ですか」
「魔帝家です」
【魔帝】
リヴィアは、その場に座り込んだ。
膝が、笑っていた。
「……魔帝」
「はい。魔界の、王家です。ノクティルム家は、代々、魔帝を輩出してきました」
女が、ようやく顔を上げた。
「七つの種族の、頂点です。……いえ、頂点でした」
リヴィアの視界が、揺れた。
(……母が)
(魔帝の、家系?)
オルドは、言った。
ルシェリア・ノクティルム。
口が悪くて、気が強くて、無駄に美人な女だった。
それだけだった。
彼は、それ以上、言わなかった。
言わなかった理由が、今、分かった。
「……ルシェリア、という名を、知っていますか」
女の動きが、止まった。
それから、少しずつ、顔が上がった。
「……今、なんとおっしゃいました」
「ルシェリア・ノクティルム」
女の目が、大きく開いた。
「ルシェリア様。……先代の、魔帝陛下です」
リヴィアの息が、止まった。
「……先代の、魔帝」
「はい。三十年前まで、魔界を統べておられました」
その灰色の唇が、震えた。
「私は、三度だけ、お姿を見ました。……遠くからですが」
「三十年前に、何があったんですか」
女は、しばらく黙っていた。
「追放されました」
「……誰に」
「妹君に。ヴァルメリア様に」
彼女の視線が、地面に落ちた。
「七魔王制を廃止して、全てを一つにまとめられた方です。……あの方が、今の魔帝です」
「なぜ、追放を」
「分かりません。我々のような下位の者には、何も知らされませんでした」
その肩が、すくめられた。
「ある日、ルシェリア様が消えて。……次の日から、ヴァルメリア様が玉座におられました。それだけです」
「ルシェリアは、どうなったんですか」
リヴィアの声が、掠れた。
「行方不明です。……魔界のどこにも、おられません」
彼女の唇が、少し歪んだ。
「ですから、皆、こう思っておりました。……『殺された』と」
リヴィアは、応じなかった。
(……違う)
(母は、地上に来た)
(そして、父に会って)
(私を、産んだ)
「あなたは、なぜ、こちらに」
「落ちました。……二十年前です」
「帰り道は」
「知っています」
リヴィアの顔が、上がった。
「知ってるんですか。……じゃあ、なぜ帰らないんですか」
女は、しばらく黙っていた。
「帰りたくないのです」
【帰らない理由】
「……どういう意味ですか」
「向こうは、今、酷いのです。ヴァルメリア様の統治は」
彼女が、言葉を探した。
「厳しい、という言葉では、足りません」
「何が、あるんですか」
「淀みが、増えました。……この三十年で、急に」
「淀み、というのは」
「魔界は、元々、淀んだ場所です。それは、そういう場所ですから」
その指が、地面を差した。
「ですが、この三十年で、それが濃くなりすぎました。……昔は、澄んだ谷もあったんです」
「なぜ、濃くなったんですか」
「上から、落ちてくる量が、増えたからです」
リヴィアの背筋が、凍った。
(……上)
(人間界)
「三十年前から、地上で大きな戦が続いているのでしょう。……我々の間では、そう言われています」
女の視線が、上を向いた。
「使われた魔素が、大量に、落ちてきています。……雨のように」
何かが、繋がった。
(……三十年前)
(ディナシア帝国が、拡大を始めた時期)
(そして)
(ヴァルグレイスが、動き出した時期)
「その、淀みは、どうなるんですか」
「生き物に、なります。……彷徨いのようなものが、大量に生まれています」
彼女の肩が、震えた。
「そして、街を、襲います」
「魔界の街を、ですか。……同族なのに」
「同族では、ありません」
その声が、少しだけ、強くなった。
「あれは、魔素の塊です。……我々は、生き物です。そこが違います」
リヴィアは、その区別を、初めて理解した。
魔族と、彷徨い。
カイゼンは、両方を「沈殿物」と書いた。
だが、当事者は、それを分けている。
人間が、人間と、魔導兵器を分けるのと同じように。
「だから、私は、逃げてきました。……街が、襲われて」
彼女の指が、握られた。
「夫と、子供が、死にました。……三日、瓦礫を掘りました。出てきませんでした」
「……」
「それで、境界に、飛び込みました」
その唇が、少しだけ、歪んだ。
「こちらに落ちて、二十年です」
リヴィアは、応じられなかった。
目の前の女は。
難民だった。
彼女が、この二ヶ月、六千三百人を抱えてきたのと。
同じ、難民だった。
「あなたの、お名前は」
女の顔が、上がった。
「……名前、ですか。久しく、呼ばれておりません」
その灰色の唇が、動いた。
「ネイラ、と申します」
「ネイラさん。……集落に、来ませんか」
女の動きが、止まった。
「食糧は、足りません。暖もありません。……三十日後には、全員飢えます」
リヴィアの視線が、集落の方角へ向いた。
「でも、一人分くらいは、なんとかなります」
ネイラは、しばらく動かなかった。
彼女の灰色の顔が、歪んだ。
「なぜ、そんなことを言うのですか。……私は、魔族です」
その拳が、氷を握った。
「昨日、あなた方の仲間を殺した種族です。……三十七人と、聞きました」
「違います。昨日殺したのは、彷徨いです」
リヴィアの手が、彼女の肩に置かれた。
「あなたじゃない。……違いますか」
ネイラは、応じなかった。
彼女は、俯いた。
その肩が、震えた。
「二十年、誰にも会いませんでした。氷の下に穴を掘って、そこにいました」
その声が、割れた。
「見つかったら、殺されると思って。……二十年です」
「もう、隠れなくていいですよ」
【合流】
ネイラを連れて、集落へ戻った。
当然、騒ぎになった。
「魔族だ!!」
「逃げろ! 子供を中へ!」
「何を連れてきたんだ、あの人は!!」
六千三百人が、パニックになりかけた。
武器を取りに走る者と、天幕へ逃げ込む者が、広場でぶつかった。
「静かに!!」
リヴィアの声が、広場を貫いた。
「この人は、彷徨いじゃない! 昨日のあれとは、違います!」
「同じでしょう!? 肌が灰色だ!」
「違う!」
彼女の腕が、ネイラの肩を抱いた。
「この人は、難民です!」
「……難民?」
「そう。街を襲われて、家族を失って、逃げてきた人です」
その視線が、広場を巡った。
「皆さんと、同じです」
集落が、静まり返った。
誰も、口を開かなかった。
一人の老婆が、前へ出た。
終灯の住人だった。あの、配給の鍋を洗っていた老婆だった。
「……あんた、名前は」
「ネイラ、と申します」
「ネイラね。あたしは、ハンナだ」
老婆の顎が、動いた。
「で、あんた、粥は食えるのかい」
ネイラの動きが、止まった。
「……え」
「食えるのか、って聞いてんだよ。麦の粥だ。……あんたら、麦は食うのかい」
「食べ、られます。……たぶん」
「そうかい。なら、来な」
老婆の手が、彼女の袖を掴んだ。
「量は少ないよ。六千人分を割ってるからね。……あんたで、六千三百一人目だ」
ネイラは、動けなかった。
そのまま、その場に崩れ落ちた。
彼女は、両手で顔を覆った。
泣いた。
二十年ぶりの、声だった。
広場の誰も、それを止めなかった。
【北の穴】
その夜。
リヴィアは、グレイと皇帝に、報告した。
「境界を、見つけました。北へ十キロ。直径二十メートルの穴です」
彼女の指が、地図の空白を差した。
「穴、というのは」
「そのままの意味です。底が見えなくて、中で闇が渦を巻いてる」
「近づいたのか。……危険だろう」
「近づきました。危険でしたけど」
だが、それ以上は、言わなかった。
(……手が、懐かしがった)
(帰りたがった)
それを、言えなかった。
「そこから、魔族が落ちてくるわけか。……塞げるか」
「分かりません。そもそも、あれが『穴』なのかも、分からないんです」
彼女の指が、地図から離れた。
「繋ぎ目、としか言いようがない。……縁が切り立ってて、崩れた跡がないんです」
「ネイラ殿は、なんと」
皇帝が、身を乗り出した。
「『薄い場所は、動く』と申しておりました。……塞いでも、別の場所が薄くなる、と」
皇帝に向く時だけ、彼女の言葉が改まった。
グレイの拳が、握られた。
「……つまり、根本的な解決は」
「無理ですね。塞いでも、追いかけっこになる」
「……そうか」
「でも、一つ、分かったことがあります」
彼女の視線が、上がった。
「なんだ」
「淀みが、増えている。……そして、その原因は」
彼女の指が、地図の南を差した。
「地上の、戦争です」
部屋が、静まり返った。
「……なんだと」
「使われた魔素は、下へ落ちるんです。戦争が続けば、落ちる量が増える」
「……」
「そして、彷徨いが、増える」
皇帝が、椅子から立ち上がった。
「つまり、余の国が戦をするほど……下の世界が、壊れるということか」
その手が、机を掴んだ。
「……はい」
「知らなかった」
「誰も、知りませんでした。……たぶん、あの元帥も」
彼の膝が、震えた。
「余も、判を押していた。……何十枚も」
彼は、椅子に、座り込んだ。
「……昨日死んだ、三十七人だ」
「はい」
「あれは……余たちが、殺したのか」
その顔が、両手で覆われた。
誰も、応じなかった。
答えが、なかったからではない。
答えが、分かりきっていたからだった。
【帰還】
二十九日目。
船が、戻ってきた。
「アシュ先輩! リズ先輩!」
ミーナレイが、桟橋へ走った。
「おう。……生きてるか、お前ら」
「ただいま。……ちゃんと減らずに待ってた?」
二人は、疲れた顔をしていた。
だが。
船倉には、麦が、山と積まれていた。
「どうやって、これだけ」
「買った。金は全部使った。……一枚も残ってねえ」
「三十日ぶんには足りないけど、四十日は延びるわ。……値切ったのよ、あたしが」
「二時間な。……あれは、見てて疲れた」
「それと、もう一つ」
リズが、船室を親指で示した。
「なに」
「お客さんも、乗せてきたの。……二十人ほど」
船室の扉が、開いた。
中から、人が出てきた。
軍靴を履いていた。だが、上着は民間のものだった。
「……誰ですか、この人たち」
「オズホルンの、脱走兵よ。帝国の駐留部隊にいた子たち」
「なんで、こんな北まで」
「『北に、皇帝がいるらしい』って噂が、広まってるの。……それで、探しに来たって」
「噂?」
「そう。『本物の皇帝が、北にいる』って」
彼女の眉が、上がった。
リヴィアの背筋が、伸びた。
「……誰が、流したの」
「知らない。あたしたち、一言も言ってないわよ」
「じゃあ」
「でも、帝国中に広まってるらしいわよ。……港の酒場で、三回聞いた」
リズの口元が、緩んだ。
【灯り】
三十一日目。
北の海に、船影が現れた。
二十隻。
「帝国か!? 総員、配置につけ!」
見張りが、叫んだ。
「旗を見ろ! 旗だ!」
リヴィアは、望遠鏡を覗いた。
彼女の手が、止まった。
「……三日月と、鍵」
彼女は、桟橋へ走った。
氷の上を。
その先端に立って、待った。
待っている間、二度、船影を数え直した。二十隻だった。二十隻とも、来ていた。
船が、接岸した。
最初に降りてきたのは、カリンだった。
次に、ヴォルク。
最後に、カーキのジャケットが、降りてきた。
「セリウス」
「……ああ。遅くなった」
彼の視線が、彼女を捉えた。
それから、その手元へ落ちた。
長い手袋へ。
「……それ、手袋、変えたか」
リヴィアの心臓が、跳ねた。
「寒いから。……ここ、思ったより北なの」
「そうか」
彼は、それ以上、聞かなかった。
だが。
その目が、少しだけ、細くなった。
(……気づかれた?)
(いや)
(たぶん、まだ)
「リヴィア。四百三十七人、連れてきた」
「グラルドの人たちですね。……受け入れます」
即答だった。
「食糧は、あるのか」
「足りません。今日、麦が届いて、それで四十日ぶん」
彼女の視線が、集落へ向いた。
「でも、受け入れます。四十日が三十七日になるだけです」
セリウスは、しばらく彼女を見ていた。
口の端が、緩んだ。
「……変わらないな、お前は。そういうところが」
「褒めてます?」
「褒めてる」
彼の目が、止まった。
六千三百人。
その中に、灰色の肌の女が一人、混ざっていた。
配給の列に並んで、椀を両手で持っていた。
「……あれは」
「魔族です。……でも、難民です」
セリウスは、しばらく黙っていた。
「そうか」
それだけだった。
何も、聞かなかった。
その夜。
集落の中央で、火が焚かれた。
六千七百人と、一人が、その周りに集まった。
誰かが、歌い始めた。
ネフィラの歌。グラルドの歌。
そこへ、灰色の肌の女が、小さく、別の歌を歌った。
誰も知らない、旋律だった。音の並びが、人間の歌のどれとも違っていた。
だが、誰も、止めなかった。
やがて、隣に座っていた子供が、その旋律を、真似し始めた。
火の粉が、夜空へ舞い上がった。
北の空に、極光が揺れていた。
その光の下で。
リヴィアの右手が、握られた。
手袋の中で。
まだ、黒いままだった。




