開戦
【演説】
グランドアーカム前広場に、二十万人が集まっていた。
――帝国史上、最大の動員だった。
魔導中継の塔が、広場の四隅に立っている。この声は、帝国全土の街角に、同時に届く。
黒翼分隊は、演壇の右手、群衆との境界に配置されていた。
「……二十万」
ミーナレイが、呆然と呟いた。
「あたし、こんな人の数、初めて見ました」
「私もよ」
リヴィアは答えた。
――そして、彼女は演壇を見上げた。
まだ、誰もいない。
なのに、二十万人が、静かだった。誰も、私語をしていない。
――全員が、待っていた。
午前十時。
鐘が、一つ鳴った。
――そして、彼が現れた。
二十万人が、息を止めた。
誰も、声を上げなかった。拍手も、歓声もなかった。
――ただ、広場の底の何かが、入れ替わった。
リヴィアの背筋が粟立った。
(……また、これ)
魔素の底鳴りが、また、かき消されていた。
二十万人分の広場が、彼一人の下に沈んでいた。
「――諸君」
彼の声は、大きくなかった。
なのに、広場の隅まで、はっきりと届いた。
「私は、ヴァルグレイス・ルシオンだ」
彼は、群衆を見渡した。
「本日は、諸君に、謝罪をしにきた」
――ざわめきが、起きた。
誰も、予想していなかった言葉だった。
「我が国は、この二年で、十一の国に軍を置いた」
彼は、続けた。
「これを侵略と呼ぶ者がいる。……議会でも、街頭でも、そう言われた」
彼は、少し間を置いた。
「――正しい」
広場が、凍った。
「私は、侵略者だ」
彼は、はっきりと言った。
「否定しない。……そのように、命じたのは私だ」
――リヴィアは、動けなかった。
(……認めた)
誤魔化さない。言い訳もしない。
この男は、一番言われたくないことを、自分から言った。
――それが、恐ろしかった。
「なぜ、そうしたか」
彼は、続けた。
「話を聞いてほしい。……その上で、諸君が私を裁くのなら、それでいい」
二十万人が、聞いていた。
「この世界は、分かれすぎている」
彼は、空を指した。
「上に、天がある。下に、魔がある。……そう伝わっているだろう」
群衆から、微かなどよめき。
「そして、この地上は、数百の国に分かれている」
彼は、手を下ろした。
「国はさらに、民族に分かれ、民族は宗派に分かれ、宗派は派閥に分かれる」
彼の声が、少しだけ強くなった。
「そして、千年」
「我々は、殺し合ってきた」
彼は、群衆を見た。
「――理由は、たった一つだ」
間。
「境目が、あるからだ」
リヴィアの心臓が、大きく打った。
(……境目)
ムラサメの声が、蘇る。
――斬るとは、こちらとあちらの間に、線を引くことだ。
ミラの声も。
――世界は、そういう線でできてる。
「私は、その境目を無くす」
ヴァルグレイスは言った。
「一つになれば、争う相手が消える。……単純な話だ」
彼は、拳を握った。
「その過程で、血が流れる」
「――私が、流させる」
彼の声は、低かった。
「今日から、多くの人が死ぬ。他国の民も、我が国の兵も」
「その罪は、すべて私が背負う」
彼は、頭を下げた。
――二十万人の前で、帝国元帥が、頭を下げた。
「――許してほしい」
顔を上げた時、その目に、演技の色はなかった。
「私は、これから、多くを殺す」
――静寂。
そして。
誰かが、叫んだ。
「――閣下ァ!!」
一人の声が、二人になった。十人になった。
百人になり、千人になり――
二十万人が、爆発した。
「閣下!!」
「あなたのために!!」
「我々も背負います!!」
歓声が、地面を揺らした。
――リヴィアは、その中で立っていた。
周囲を、見回した。
隣に立っていた憲兵が、泣いていた。群衆の中の老人が、泣いていた。若い母親が、子供を抱えて、泣いていた。
――そして。
「……あ」
ミーナレイが、目を潤ませていた。
「……っ、違います! 違います、あたし!」
彼女は、慌てて首を振った。
「今、なんか、胸が……なんで!? なんであたし、感動して!?」
「――当たり前よ」
リヴィアは、低い声で言った。
「あの人、嘘を言ってないもの」
ミーナレイが、彼女を見た。
「え?」
「一言も、嘘を言ってない」
リヴィアは、演壇を見上げた。
(……全部、本当のことなのよ)
侵略者であること。血を流させること。罪を背負うこと。
全部、本当だ。
――ただ一つだけ、言っていないことがある。
(その先に、天界がある)
それだけを、彼は言わなかった。
だから、誰も、見抜けなかった。
「――明朝」
最後に、彼は言った。
「我が軍は、南東へ発つ」
広場が、静まった。
「目標は、ネフィラ王国」
――その名前に、リヴィアの背中がこわばった。
(……ネフェリス)
「理由は、彼の国が我らの通商を、三度拒んだことだ」
それだけだった。
――誰も、その理由の薄さを、気にしなかった。
【黄金の間】
同じ日。
ネフィラ王国、王都エレフィス。
――砂漠の中の、黄金の都だった。
白い砂岩の建物が、幾層にも重なって丘を覆っている。その頂に、宮殿があった。
王座の間は、天井が高かった。三十メートル。柱は、一本の岩を彫り出したものだ。
壁面には、精緻な浮彫。天窓から、金色の光が斜めに差している。
――すべて、魔法で作られたものだった。人の手は、一切、入っていない。
その間の隅で、一人の少女が震えていた。
――侍女のサラ、十六歳。
彼女の仕事は、茶を運ぶことだった。五人分の茶を。
(……なんで、あたしが)
彼女は、盆を持つ手が汗で滑るのを感じていた。
(なんで、よりにもよって、あたしが)
彼女は、王座の間の中央を見た。
――五つの椅子が、並んでいる。
そのうち、四つが埋まっていた。
【五人】
最初に目に入るのは、王座だった。
黄金の玉座に、女王が座っている。
――ネフェリス。
真っ黒な髪が、腰まで届いている。その上に、黄金の頭飾り。中央に、鮮やかな青の宝石。
纏っているのは、白い薄絹だった。その上に、幅の広い黄金の胸飾りが載っている。緑石と青石が、幾重にも嵌め込まれていた。
両腕に、金の腕輪。腰に、宝玉の帯。背に、深い藍の外套。
――肌は、赤みを帯びた褐色。
――その瞳。
水色。砂漠の民に、あり得ない色だった。
彼女が指先を軽く動かすと――
サラの足元の床が、ほんの少し盛り上がった。躓かないように、段差が消えたのだ。
誰も、それを気にしていなかった。この宮殿では、床が動くのは当たり前だった。
――彼女が、この国のすべてを造った。
その右手の椅子。
巨大な男が、酒を飲んでいた。
――ボルガンドラーク。
座っているのに、他の四人が立っているのと、目の高さが同じだった。肩幅は、椅子の幅を大きく超えている。腕は、サラの胴より太い。
肌は、深い赤褐色。日に焼けたのではない。生まれつきの色だった。
髪は、短く刈った白髪。顎に、白い無精髭。
纏っているのは、薄い麻の道着だった。
――だが、その縫い目が異様だった。
複雑な折り目が、幾何学的な紋様を描いている。どこが縫い目で、どこが折り目なのか、目で追えない。
――目。
金色だった。
彼が笑うと、その目が細くなった。
「――くぁー、うめえ」
彼は、酒を煽った。
その拍子に、サラの盆の上で、茶碗がカタカタと震えた。
――静電気だった。
彼の周囲一メートルの空気が、常に微かに帯電している。彼が動くたび、髪が逆立ちそうになる。
(……近づきたくない)
サラの足が、盆を持ったまま半歩下がった。
王座の左手。
――ムラサメ。
彼は、腕を組んで座っていた。
灰色の質素な着物。腰に、一振り。白髪を後ろで結び、長い顎髭。
――眉間に、深い皺。
サラが茶を出した時、彼は「うむ」とだけ言った。それだけだった。
――だが。
彼が座っている椅子の周囲だけ、空気が違った。
サラは、彼の前を通る時、なぜか足が止まりそうになった。目の前に、何かがある気がした。
――何もないのに。
(……壁?)
彼女は、恐る恐る手を伸ばした。
何もなかった。空気だった。
でも、その空気の向こうとこちら側が、違う場所のように感じた。
その隣。
――酔っ払いが、椅子に半分ずり落ちていた。
オルド。
黒い髪が、伸び放題に肩まで垂れている。白髪が混ざり、まったく櫛を入れていない。顎髭も、無造作に伸びていた。
着ているのは、金の刺繍が入った豪奢な外套。
――なのに、着方がめちゃくちゃだった。
ボタンは半分外れ、袖はまくり上げられ、裾は椅子の下に踏まれている。
首に、いくつもの首飾り。指に、指輪。耳に、輪。
全部、値が付かないほどの品だった。それを、酒場の常客のように雑に身につけていた。
腰に、反りのある剣。その反対側に、古い拳銃。三角の帽子が、後頭部に引っかかっている。
――そして、彼が動くたび。
風が、吹いた。室内なのに。
サラの髪が、彼の前を通るたびにふわりと持ち上がった。王座の間の天窓から差す光の中で、埃が、彼の周囲だけ渦を巻いていた。
「――おい、嬢ちゃん」
彼が、サラを呼んだ。
「ひ、はい!」
「酒はねえのか」
「え、あ、あの、お茶を」
「茶ぁ?」
彼は、心底がっかりした顔をした。
「なんだよ。せっかく来たのに」
「――オルド」
王座から、冷たい声が飛んだ。
「わたくしの宮殿で、昼から飲むのはおやめなさい」
「ケチだな、ネフェリス」
「三百年前から言っているでしょう」
「三百年、聞いてねえよ」
――最後の一人。
ミラは、椅子に座らず、立っていた。
薄茶の麻の衣を、何枚も重ねている。黒髪に銀が混ざり、腰まで垂れていた。
手には、蔦の絡んだ杖。
――サラが茶を出した時、彼女は微笑んだ。
「ありがとうね」
それだけだった。優しい声だった。
――なのに。
サラは、その場で動けなくなった。
(……なに)
彼女の掌に、汗が浮いた。
目の前の老女は、五人の中で最も小さく、最も痩せていた。武器も持っていない。威圧もしていない。
――なのに。
(この人が、一番)
(この人が、一番、怖い)
その理由は、後になって分かった。
彼女が立っていた床の、大理石の継ぎ目から。
――小さな草が、一本、生えていた。
石造りの宮殿の、床から。彼女が立っていた、その足元だけに。
サラは、盆を抱えて部屋を出た。
扉を閉めた瞬間、彼女はその場に座り込んだ。
全身が、汗だくだった。膝が、笑っていた。
(……何なの、あの人たち)
五人。たった五人が座っただけで。あの三十メートルの王座の間が――狭く、感じた。
――思い返すと、おかしなことばかりだった。
誰も、威圧していない。女王は優雅に扇を使い、巨漢は酒を飲み、老剣士は腕を組み、酔っ払いは椅子にずり落ち、老婆は微笑んでいた。
乱暴な言葉も、鋭い視線も、なかった。
――なのに。
(息が、できなかった)
部屋にいた三十分間、彼女は一度も、深く呼吸をしていなかった。
できなかったのだ。
五人分の「そこに在る」という圧が、部屋の空気の量を減らしていた。
彼女は、廊下の壁に背を預けた。
同僚の侍女が、慌てて駆け寄ってきた。
「サラ! 大丈夫!?」
「……うん」
「顔、真っ青よ」
「……ねえ」
サラは、掠れた声で聞いた。
「あの人たち、本当に、人間なの?」
同僚は、応じられなかった。
【流れ】
「――さて」
ネフェリスが、扇を閉じた。
「毎年、退屈な集まりだけれど。今年は、何かあるの?」
「――あるわ」
ミラが答えた。
その声で、四人の姿勢が変わった。
オルドが、酒瓶を置いた。ボルガンが、笑うのをやめた。ムラサメの眉間の皺が、深くなった。
「流れが、動いてる」
ミラは、低い声で言った。
「あの人の、流れが」
――誰も、その「あの人」が誰か、聞かなかった。
「五百年、止まっていたわ。凍った池みたいにね」
彼女は、掌を開いた。
「三年前から、少しずつ動き始めて。……今年に入って、はっきりと流れてる」
沈黙が、落ちた。
「――儂も、感じておる」
ムラサメが、初めて口を開いた。
「席の気配が、ある」
彼は、指を二本立てた。
「――二つ、な」
「二つ?」
ボルガンの声が、低くなった。
「爺さん、そりゃどういう意味だ」
「分からん」
ムラサメは、あっさり答えた。
「一つは、あれだ。……もう一つは、まだ椅子になっておらん」
「なりかけてる、ってことか」
「そうだ」
ボルガンが、頭を掻いた。その手から、青白い火花が散った。
「……面倒だな」
「――気のせいではなくて?」
ネフェリスが、扇を開いた。
「五百年、何も起きなかったのよ。……老いれば、誰でも幻を見るわ」
「あんた、俺らと同い年だろ」
「わたくしは、女ですから」
「関係あるか、それ」
――そこで。
「――俺も、感じてる」
オルドが、言った。
全員が、彼を見た。
彼は、椅子にずり落ちた姿勢のまま、天井を見ていた。
その目が――酔っていなかった。
「風が、変わった」
彼は、低い声で言った。
「三年前からだ」
「……オルド」
「空間の繋ぎ目が、緩んでる」
彼は、指を軽く動かした。
――王座の間の空気が、微かに歪んだ。柱の輪郭が、一瞬、ずれて見えた。
「俺の縛りが、解けかけてる」
部屋が、静まり返った。
――五百年前、五人で封じた。
風が、空間を閉じた。土が、檻を造った。木が、生命の流れを縛った。雷が、動きを止めた。斬が、この世との繋がりを断った。
五分の一ずつを、五人が担っていた。
――その二つが、緩んでいる。
「……儂の斬も、緩い」
ムラサメが言った。
ボルガンが、椅子から身を起こした。
「俺の縛りは、まだ効いてる。……たぶんな」
「わたくしの檻も、生きているわ」
ネフェリスが言った。
――ミラだけが、応じなかった。
「……ミラ?」
「――わたしの縛りは」
彼女は、低い声で言った。
「三年前に、切れたわ」
全員が、彼女を見た。
「……なぜ言わなかった」
「言ったわ」
ミラは、微笑んだ。
「手紙で。……あなたたち、誰も返事をくれなかったけれど」
【宣戦】
――王座の間の扉が、勢いよく開いた。
「――陛下!!」
伝令が、転がり込んできた。
「ご報告! ディナシア帝国が――」
彼は、息を切らしていた。
「――我が国に、宣戦布告を!!」
沈黙。完全な沈黙だった。
――ボルガンが、立ち上がった。
その動きだけで、床が微かに震えた。
「……来たか」
「陛下! 帝国軍、既に国境へ進発! 規模は――」
「規模は?」
「……概算で、二十万!!」
ネフェリスの扇が、止まった。
二十万。彼女の国の、全兵力の十倍だった。
「――ネフェリス」
ミラが言った。
「逃げなさい」
その声は、低く、有無を言わせなかった。
「わたくしに、逃げろと?」
「そうよ」
「――ミラ」
「あなたの命が要るの」
ミラの声が、鋭くなった。
「五人揃わなければ、二度目の封印はできないわ」
「…………」
「あなた一人欠けたら、もう永久に封じられない」
部屋が、静まり返った。
「――国は、また作れる」
ムラサメが言った。
「三百年かけて造ったなら、また三百年かければよい」
「あんたなら、できるだろ」
ボルガンが頷いた。
「俺の山に来い。北は寒いが、あそこなら守れる」
「船を出す」
オルドが、立ち上がった。
「風を使えば、三日だ。……お前と、逃げたい奴を全員、乗せてやる」
――四人が、同じことを言っていた。
五百年、大した会話もしなかった五人が、今日だけは、同じことを。
ネフェリスは、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は玉座から立ち上がった。黄金の装身具が、動きに合わせて鳴った。
「――ねえ、あなた方」
彼女は、四人を見た。
「わたくしが、この国を何から造ったか、覚えていて?」
誰も、応じなかった。
「砂よ」
彼女は、窓の外を指した。
「何もない砂漠。井戸一つなかったわ」
その水色の瞳が、細くなった。
「わたくしが、土を動かして水脈を掘った。石を起こして家を建てた。木を植える土を、一から造った」
「…………」
「三百年」
彼女は言った。
「三百年かけて、砂を、国にしたの」
彼女は、窓辺へ歩いた。
眼下に、黄金の都が広がっている。朝の市場。子供が走る通り。水を汲む女たち。
「――あそこにいる子たちは」
彼女は、低い声で言った。
「わたくしを、神と呼ぶわ」
「……ネフェリス」
「神が、逃げるの?」
彼女は、振り返った。微笑んでいた。
「――あなたは、神ではないわ」
ミラが言った。
「知っているわよ」
ネフェリスは、あっさりと頷いた。
「わたくしは、ただの人間。……千年生きただけの、女よ」
彼女は、扇を閉じた。
「でも」
その声が、初めて震えた。
「――あの子たちは、知らないの」
沈黙が、落ちた。
誰も、それ以上、説得できなかった。
――千年生きた四人が、全員、分かっていた。
この女は、動かない。
「……ふん」
ボルガンが、鼻を鳴らした。
「頑固なとこは、何百年経っても変わらねえな」
「あなたに言われたくないわ」
「へっ」
彼は、酒瓶を置いた。
「――帰るぞ、俺は」
「ボルガン!」
ミラが、彼を見た。
「――こいつの国だ」
彼は、それだけ言った。
「こいつが決めたなら、それでいい」
彼は、扉へ向かった。
「――だが、ネフェリス」
去り際、彼は振り返った。
「死ぬなよ」
「……あら」
彼女は微笑んだ。
「あなたに心配されるなんて、初めてよ」
「――あなた方は、帰りなさい」
ネフェリスは、四人に告げた。
「そして、備えなさい」
彼女は、玉座に戻った。
「――次は、あなた方の国よ」
【知らねえな】
宮殿の外。乾いた風が吹いていた。
オルドが、階段を降りていく。その後を、ミラが追った。
「――オルド」
「あ? なんだ婆さん」
「この前ね、面白い子に会ったわ」
彼は、振り返らずに歩き続けた。
「へえ」
「黒い髪の、目のきれいな子」
――その足が、止まった。
風が、止まった。オルドの周囲で常に渦を巻いていた埃が、ぱたりと落ちた。
「…………」
「闇を使うの」
ミラは、低い声で続けた。
「喰う闇よ。……あんな使い方をする子、わたし、千年で初めて見たわ」
オルドは、応じなかった。
「それにね」
ミラは、彼の背中を見ていた。
「血の線が、片方、地上のどこにも繋がってなかったわ」
――長い沈黙だった。
砂を含んだ風が、二人の間を流れた。
「――あなた」
ミラは言った。
「何か、知らない?」
オルドは、しばらく動かなかった。
彼の手が、腰の酒瓶に伸びた。
口元へ運びかけて――やめた。
瓶を、下ろした。
「……知らねえな」
振り返らなかった。
「――船を出す。じゃあな」
彼は、歩き出した。
――その足取りは、来た時より、ずっと速かった。
ミラだけが、それに気づいていた。
彼女は、その背中を見送って、呟いた。
「……不器用な人ね、昔から」
【三つの終わり】
――イルドレナ大森林。
無人の庵。囲炉裏の火は、消えていた。
床板の隙間に、十二本の芽が生えていた。
――全部、枯れていた。
茶色く縮れて、床の上で倒れている。一本残らず。
――帝都レグニア。
深夜、緊急招集。
作戦室に、五人が集まった。
リヴィアが、封蝋を割る。
パキ、と乾いた音がした。
「――特務課黒翼分隊。第二軍団に編入」
彼女は、読み上げた。
「進発、明朝〇五〇〇。……ネフィラ戦線」
沈黙。
「……あの」
ミーナレイの声が震えていた。
「二十万って、本当ですか」
「本当よ」
「あたしたち、その中の……五人ですか」
「そう」
「…………」
アシュが、舌を打った。
リズは、口を開かなかった。
――そして。
ネロだけが、動かなかった。
彼は、命令書の日付を見ていた。
進発、明朝〇五〇〇。
――その日付を、彼は知っていた。
(……嘘だ)
彼の背中に、氷が伝った。
イルドレナから帰った日、彼は報告した。森の位置。ミラの居所。そして――黒翼の帰還予定日。
あの報告に、彼はこう書いた。
『当隊、〇〇日に帰還予定。以後、通常任務に復帰』
その日から、逆算して。軍が動ける日程が、組まれている。
(……僕が)
彼の指が、震えた。
(僕が、日程を、決めた)
「――ネロ?」
リヴィアの声が飛んだ。
「どうしたの」
「……いえ」
彼は、顔を上げた。
「なんでもありません」
その顔から、表情が消えていた。
【二通】
解散したのは、深夜零時を回った頃だった。
リヴィアは、自室に戻って灯りを点けた。
――机の前に座って、しばらく動かなかった。
(……封じた五人)
五百年前、あの人を封じたのは五人。
その五人のうち二人に、自分は会っている。名前も、居場所も知っている。
――向こうも、それを知らないはずがない。
ネロが報告した。森の位置。庵の場所。禁足地の座標。
あれは、自分たちが正規の任務として提出した記録だ。誰の裏切りでもない。彼女自身が判を押して、上げたものだ。
(……私が、教えたのね)
彼女は、抽斗から便箋を出した。
二枚。
一通目は、短かった。
『ムラサメ殿
帝国軍二十万が、明朝、ネフィラへ発ちます。
元帥の名は、ヴァルグレイス・ルシオン。
――五百年前の、あれです。
封が緩んでいることを、向こうも知っている可能性があります。
あの島の禁足地の座標は、既に軍の記録にあります。私が上げました。
どうか、ご無事で。
リヴィア・ノクス』
二通目も、同じ長さだった。
『ミラ殿
(同文)
庵の位置も、記録に残っています。
――課題は、まだ一つもできていません。
どうか、ご無事で。』
最後の一行を書くのに、一番時間がかかった。
問題は、宛先だった。
あの二人に、住所はない。郵便が届く場所に、住んでいない。
軍の通信網を使えば、記録が残る。記録が残れば、あの二人は「帝国の軍人と接触した者」になる。
――それは、殺す口実になる。
彼女は、黒い外套を羽織って、部屋を出た。
中層区三番街、時計店ヴェスパー。
夜間外出の制限は二十時までだ。辻ごとの憲兵を三度、迂回した。
裏口の階段を上がると、二階は暗かった。
止まった時計が三十いくつ、それぞれ違う時刻を指したまま、闇の中に並んでいる。
彼女は、机の上に二通を置いた。
その上に、紙を一枚。
『山と、森へ。届けてほしい』
署名は、しなかった。
――これは、命令ではない。報告でもない。作戦でもない。
グレイにも、言っていない。隊にも、言っていない。
軍務省の記録にも、特務課の綴りにも、どこにも残らない。
残ってはいけない。
(……あの人たちに、返す義理はないのよね)
暗い部屋の中で、彼女は自分に確認するように、そう並べてみた。
餅を焦がした老人と、冷めた茶を出した老女。二人とも、頼まれもしないのに教えてくれた。
教えたせいで、居場所を軍に知られた。
(せめて、これくらいは)
彼女は、階段を降りた。
外に出ると、月が出ていた。
――半月だった。
彼女は、隊舎への道を歩いた。
もう三時間もしないうちに、二十万人が南東へ動き出す。その中の五人として、自分たちも動く。
止められない。止める力も、権限も、時間もない。
――それでも、今夜、二通は届く。
届いたところで、たぶん、何も変わらない。あの二人は千年生きている。今さら警告など要らないかもしれない。
(正しくて、無意味かもしれない)
彼女は、上着の内側に手をやった。
七十五人分の名前が書かれた手帳が、そこにあった。
――それでも、彼女は書いた。
部屋に戻ると、扉の下に、封筒が差し込まれていた。
差出人はない。中身は、暗号だった。
解読すると、こうあった。
『時間切れだ。前倒しする』
『次の満月。それが、最後の機会だ』
彼女は、それを暖炉にくべた。
紙が、燃えて縮れていく。
窓の外の半月を、彼女は見上げた。
満月まで、あと、七日。
――そして、ネフィラ国境。
夜明け。
砂漠の地平線に、土煙が上がった。
一本。二本。三本。
――数えきれなくなった。
城壁の上に、一人の女が立っていた。
黄金の装身具が、朝日を弾いている。真っ黒な髪が、砂の風に流れていた。
彼女は、その土煙をじっと見ていた。
やがて――微笑んだ。
「――いらっしゃい」
彼女は、両手を広げた。
砂漠が、鳴動を始めた。




