砂の女王
【第一日】
彼の名は、トビアス・レンといった。
十九歳。ディナシア帝国陸軍、第二軍団、第十四歩兵連隊、第三中隊。
徴兵されたのは、三ヶ月前だった。
実家は、帝国中部の麦農家だった。三男で、畑を継ぐ順番は回ってこない。徴兵の紙が来た時、父は「食い扶持が一つ減る」と言い、母は台所で三十分出てこなかった。
訓練は六週間。銃の撃ち方と、隊列の組み方と、上官への敬礼を習った。
それだけで、彼は砂漠にいた。
――トビアスには、癖があった。
数える癖だ。
麦袋を数え、畝を数え、荷馬車の板を数えて育った。数えている間は、余計なことを考えずに済む。訓練所でも、彼は毎晩、天井の板を数えてから眠った。
だから、行軍の四日目、彼は自分の中隊の人数を数え終えていた。
百二十七人。
「――うわ」
丘を越えた時、彼は思わず声を上げた。
地平線に、黄金の都があった。
白い砂岩の建物が、丘の斜面を幾層にも覆っている。層は下から数えて七つ、いや八つ。段のひとつひとつに水路が通っていて、朝日を受けた水面が、細い金の線になって街を横切っていた。屋根はどれも平らで、そこに干された布が風に揺れている。
その頂に、宮殿があった。
白い柱が、正面だけで十二本。柱の間に、深い藍の垂れ幕。
「……綺麗だな」
隣の兵が呟いた。
「あれ、全部魔法で造ったって聞いたぞ」
「まさか」
「本当らしい。女王が、一人で」
――トビアスは、ふと後ろを振り返った。
声を、失った。
軍が、いた。
地平線から地平線まで。
歩兵の列。騎兵。砲兵。輜重。砂に踏み固められた道が幅五十メートルほどあって、そこを埋め尽くした人間が、丘の向こうまで途切れずに続いている。土煙が、その上に一本の帯になって伸びていた。
彼は、数えようとした。
最前列の横幅を数え、列の間隔を測り、掛け算をしようとして――やめた。
数えられなかった。
(……二十万)
数字では聞いていた。
見るのは、まったく違うことだった。
(勝てるに、決まってる)
彼は、そう自分に言い聞かせた。
言い聞かせなければ、立っていられなかった。
【巌】
午前八時、第一波が動いた。
三万。
都の南門へ向かって、砂漠を歩き出す。
トビアスの中隊は、その第二列にいた。
――砂が、深かった。
一歩ごとに、膝の下まで沈む。抜くたびに、靴の中へ砂が流れ込んだ。三十分歩いただけで、全員が汗だくになり、水筒の中身が半分になった。
空気が、乾いていた。汗が出た端から蒸発して、軍服の脇に白い塩の輪ができ始めている。
「――止まれ!」
中隊長の声。
前方、二百メートル。
――門が、開いていた。
「……開いてる?」
誰かが言った。
開いた門の暗がりから、何かが出てくる。
――兵だった。
様子が、おかしかった。
「……なんだ、あれ」
トビアスは、目を細めた。
――大きい。
一人一人が、異様に大きかった。
身長は二メートル前後。だが、問題は横幅だった。肩が、常人の一・五倍ある。首が、太い。腰から下が、丸太のようだった。
纏っているのは、青銅の甲冑だ。
――旧式だった。呆れるほど、旧式だった。
二百年は前の様式で、魔導処理の光沢がまるでない。日に焼けた青銅が、鈍い緑を帯びていた。
手にしているのは、大盾と、長柄の鎚。
銃は、一挺もなかった。
「……なんだ、あいつら」
中隊長が笑った。
「青銅だぞ。……二百年前の骨董品だ」
周囲の兵から、笑いが漏れた。
――トビアスも、笑った。
笑って、少しだけ、安心した。
彼は、門から出てくる列を数え始めた。百。二百。五百。
千を超えたところで、また、数えるのをやめた。
――巌兵団。
彼らは、ネフェリスの精鋭三千である。
三百年、彼女の土の魔力が染みた大地で、代々暮らしてきた民の末裔だった。
彼らの骨は、常人より密度が高い。筋の付き方が、そもそも違う。
その青銅の甲冑は、常人なら立って歩けない重さがある。
彼らは、それを「軽い」と言う。
射撃が、開始された。
三万丁の銃が、火を吹いた。
――弾は、当たった。
当たって、跳ねた。
「……は?」
トビアスは、自分の目を疑った。
青銅の大盾に、火花が散る。散って、消える。あとには、白い擦り傷が一本残るだけだった。
――魔導弾でも、貫通しなかった。
橙の光が盾に触れて、そこで潰れて、砂の上へ落ちる。落ちた場所の砂が、じゅう、と鳴って黒く固まった。
「なんだあれ! 厚みがおかしい!」
「一枚で二十センチだ! 馬鹿げてる!」
――巌兵団は、盾を前に、歩き続けた。
銃火の中を、歩幅を変えずに。
一歩ずつ。
距離が、百五十メートル。
百メートル。
五十。
その頃には、砂の上に三十歩ぶんの足跡が、深く、等間隔に並んでいた。三千人が同じ場所を踏んで歩いた跡だった。
「――突撃!」
誰かが叫んだ。
――誰が、とは、後で誰も分からなかった。
帝国兵三万が、走り出した。
【砂】
衝突は、五秒で終わった。
――正確には、五秒で「勝敗が決まった」。
トビアスが見たのは、こういう光景だった。
最前列の兵が、大盾に触れた瞬間。
――消えた。
いや、消えたのではない。
盾で、押されたのだ。
人間が、盾の一振りで、十メートル飛んだ。落ちた場所で、砂が円く跳ね上がった。
鎚が振られる。三人が、まとめて宙を舞う。
巌兵団の一人が、三十人分の壁になっていた。
――音が、おかしかった。
トビアスは、後になって、それを思い出す。
人が斬られる音を、彼は聞かなかった。
聞こえたのは、重いものが、重いものにぶつかる音だけだった。
どん、という音。
その一発ごとに、味方が十人、宙に舞った。
悲鳴が上がるより先に、次の音が来る。
どん。
どん。
――規則正しい、太鼓のような音だった。
トビアスは、その間隔を数えていた。数えるつもりはなかった。体が勝手に数えた。
二拍。二拍。二拍。
彼らは、走っていなかった。走る必要が、なかった。
ただ歩いて、ただ盾を振っているだけで、三万が崩れていった。
「――退け!! 退けェ!!」
誰かが叫んだ。
その声は、届かなかった。
後ろから、味方が押していたからだ。
三万人の後列は、前で何が起きているか見えていない。だから、押した。
押された前列は、逃げられずに、青銅の壁に潰された。
トビアスは、砂の上に倒れていた。
誰かに押し倒され、背中を踏まれ、砂に顔を埋めていた。口の中が、砂でざらついた。
――だから、生きていた。
顔を上げた時。
――地面が、動いた。
「え」
砂漠が、隆起した。
彼の三十メートル先で、砂が盛り上がる。
盛り上がって、締まって、色が変わった。乾いた白から、湿った褐色へ。そして表面が硬化していく音が、乾いた紙をくしゃくしゃに丸めるような、細かい連続音になって届いた。
――形を、取った。
人の、形を。
五メートル。
いや、七メートル。
砂岩の巨人が、そこに立っていた。
――一体では、なかった。
二体。五体。十体。
都の城壁の内側から、次々と、砂が起き上がる。地面が波打ち、そのたびに新しい影が空へ伸びていった。
百体。
トビアスは、腰が抜けた。
(……なんだ、あれ)
(あんなの、どうやって)
巨人が、歩き出した。
一歩で、五メートル進む。
その足が持ち上がるたび、下の砂が漏斗のように吸い込まれて、また埋まった。
踏み下ろされるたび、地面が跳ねた。
トビアスの正面、五十メートル。
巨人の足が、味方の隊列の上に落ちた。
――音は、しなかった。
いや、しなかったのではない。砂が、全部吸ったのだ。
足が持ち上がった後には、褐色の凹みが一つ、残っているだけだった。
【玉座】
同時刻。宮殿の最上階。
バルコニーに、女王が立っていた。
黄金の頭飾り。白い薄絹。緑石と青石の胸飾り。真っ黒な髪が、砂の風に流れている。
その水色の瞳が、眼下の戦場を見下ろしていた。
バルコニーの手すりは、継ぎ目のない一枚の砂岩だった。彼女が三百年前、砂から起こしたものだ。角の丸みは、この三百年、彼女の手が同じ場所に置かれ続けたことでできている。
「――ミリア」
「はい、陛下」
背後に、侍女長が控えている。
「第一波の規模は」
「およそ三万かと」
「そう」
ネフェリスは、扇を開いた。
「――で、あちらの本隊は?」
「……二十万、と」
「あら」
彼女は笑った。
「随分と、わたくしを買ってくれているのね」
彼女は、右手を上げた。
指を、軽く曲げる。
――それだけで。
戦場の砂岩の巨人たちが、一斉に、動きを変えた。
――彼女は、指揮していなかった。
命じてもいなかった。
百体のゴーレムが、彼女の指の動き一つで、完璧に連動していた。
包囲。分断。掃討。
それは戦術ではなく、彼女の手の動きだった。
「……陛下」
侍女長の声が震えていた。
「お疲れではありませんか」
「疲れる?」
ネフェリスは、可笑しそうに言った。
「わたくしの足元は、砂よ」
彼女は、手すりに手を置いた。三百年、同じ場所に。
「三百年、この砂と一緒に生きてきたの」
その手が、少しだけ、石を撫でた。
「――疲れるわけがないでしょう」
【第二日】
帝国軍の第一波は、壊滅した。
死者、九千。負傷者、一万二千。
――たった一日で。
同じ夜。帝国軍本営、司令部天幕。
天幕の中は、油と汗と、砂の匂いがした。
中央の卓は、輜重の木箱を四つ並べて、その上に板を渡したものだ。板には、砂漠の地図が広げられている。四隅を押さえているのは、水筒と、双眼鏡と、砂を詰めた革袋が二つだった。
天井から吊るされた魔導灯が一つ。その光が、二十人ほどの将官の顔を、下から半分だけ照らしていた。
「――損害、二万一千」
参謀の報告に、天幕がざわめいた。
「一日で、二万……」
「第一波が、丸ごと消えたということか」
「ゴーレムには、通常火器が通じません。巌兵団の装甲も、魔導弾を弾きます」
「魔導砲は」
「撃ちました。……効きましたが、修復されます」
参謀は、書類をめくった。指先が、震えていた。
「砕いた側から、砂が寄り集まって、元に戻ります」
沈黙が落ちた。
天幕の外で、風が油布を叩いた。誰かの咳が、遠くで二度した。
「――で?」
上座から、声がした。
ドルガ・ヴァレンティン中将。
五十代。がっしりとした体格。日焼けした顔に、白い歯。将官のくせに、襟のボタンを二つ外している。
彼は、地図に肘をついていた。
「損害は分かった。……で、明日はどうする」
「は。……第二波の投入を」
「馬鹿」
彼は、あっさり言った。
「同じことをやって、同じ結果になるだけだろうが」
彼は、地図を叩いた。革袋が一つ、倒れて砂をこぼした。
「――技術部を呼べ」
「は?」
「例のやつだ。……試作でも構わん、持ってこい」
参謀の顔がこわばった。
「あれは……その、まだ実戦での運用実績が」
「実績は今日作る」
彼は、身を起こした。
「二万一千だ」
その声は、初めて低くなった。
「二万一千、俺の部下が死んだ。……明日も同じ数を死なせる気か」
「……いえ」
「なら、持ってこい」
彼は、椅子に背を預けた。
――ドルガ・ヴァレンティンは、部下に慕われる男だった。
兵の名前を覚え、負傷兵を見舞い、戦死者の家族に自筆で手紙を書く。この砂漠へ来る前、彼は三日かけて二万一千通目までの雛形を書き直していた。
だから、彼の指揮する軍団は、士気が高い。
――そして、だからこそ。
彼は、迷わなかった。
「死ぬのは、少ない方がいい」
彼は言った。
「――こちらの、な」
トビアスは、生き残った。
夜、後方の野営地で、彼は震えていた。
毛布にくるまっても、震えが止まらなかった。砂漠の夜は、昼と二十度違う。汗を吸った軍服が、そのまま体を冷やしていた。
「……なあ」
隣の兵が言った。
「勝てるのか、俺たち」
「…………」
「二十万いても、あんなの……」
トビアスは、応じられなかった。
彼は、毛布の下で、中隊の生き残りを数えていた。
――三十四人。
朝は、百二十七人だった。
――だが。
第二日の朝、状況が変わった。
夜のうちに、後方から、何かが運ばれてきていた。
巨大な、鐘のような形の装置。高さは人の背の三倍。鋼の枠が籠のように組まれていて、その中心に、黒い塊が据えられている。
――光を、返さない塊だった。
朝日が当たっているのに、そこだけ影のように沈んでいた。
――八基。
都を遠巻きに囲むように、配置されていく。運んできた技術者たちは、白い防護服を着ていた。
「……なんだ、あれ」
「知らねえ。技術部の連中だ」
やがて、命令が下った。
『全軍、魔法の使用を禁止する』
「――は?」
トビアスの中隊で、ざわめきが起きた。
「魔法禁止? なんでだよ」
「知るか」
『繰り返す。全軍、魔法の使用を禁止。……以後の指示があるまで』
午前七時。
八基の装置が、同時に起動した。
――音は、しなかった。
それでも、トビアスには分かった。
空気の底で、いつも鳴っていた音。
――魔素の唸り。
それが、消えた。
「……あ」
彼は、思わず声を上げた。
体の中の何かが、抜けていく感じがした。
(……なんだ、これ)
彼は魔導兵ではない。魔刻も一刻だ。生まれてから一度も、魔法らしい魔法を使ったことはない。
分かった。
――世界から、何かが、無くなった。
彼は、無意識に耳に指を入れた。詰まっているわけではなかった。詰まっているのは、世界の方だった。
――都の方角で。
――砂岩の巨人が、崩れた。
一体目が、膝から砕けた。
二体目が、腕から崩れ落ちた。
三体目が。四体目が。
百体の巨人が、支えを失って、次々と砂に還っていく。
巨大な砂煙が、朝の砂漠に立ち上った。煙は五十メートルの高さまで昇り、上端で朝日を受けて金色になった。
――帝国兵から、歓声が上がった。
「うおおおおお!!」
「やった! やったぞ!!」
「あの化け物どもが!!」
トビアスも、叫んだ。
叫びながら、涙が出た。
――助かった、と思った。
【立っていた】
だが。
砂煙が晴れた時。
――城壁の上に、一人の女が立っていた。
黄金の装身具が、朝日を弾いている。黒髪が、風に流れている。
――そして、彼女の周囲だけ。
砂が、宙に浮いていた。
拳ほどの砂の塊が、七つ。彼女の周りを、一定の速さで回り続けていた。
「……え」
トビアスの声が掠れた。
「……なんで」
魔法は、死んだはずだった。全部、消えたはずだった。
なのに。
女王の足元で、砂が渦を巻いていた。
城壁の上で、ネフェリスは笑っていた。
「……なるほど」
彼女は、自分の掌を見た。
――重い。
いつもの、十分の一も出ない。
三百年、一度も感じたことのない鈍さだった。指先で砂を呼ぶだけで、掌の底に沈殿が溜まっていくような感触がある。
(……これが、あの人の道具ね)
魔素を殺す装置。人の魔法を、完全に無力化する。
――だが。
(残念だったわね)
彼女は、掌を握った。
(わたくしのこれは――魔法じゃないの)
理は、魔素で動いていない。
彼女は、砂を「動かして」いるのではない。砂が動くという「決めごと」に、触れているだけだ。
だから、消えない。
――ただ、細くなる。
十分の一。
それでも。
「――十分よ」
彼女は、右手を上げた。
【第四日】
三日目の朝、砂漠が立ち上がった。
トビアスの位置からは、遠かった。
彼が見たのは、左翼の方角に褐色の壁が生えて、それが少しずつ動いていく光景だった。高さは、彼の指を伸ばして横にした幅くらい。実際には四十メートルあったと、後で聞いた。
壁が通った後には、何も残らなかった。
――音は、届かなかった。遠すぎた。
彼は、その日、四千という数字を聞いた。数字は、砂粒のようなものだった。触っても、何も分からない。
四日目は、違った。
その朝、風向きが変わった。
トビアスが最初に気づいたのは、頬だった。三日間ずっと右から来ていた風が、正面から来た。
都の方角から。
「……おい」
誰かが言った。
「あれ、雲か?」
地平線が、黄色くなっていた。
黄色い帯が、地面から空へ立ち上がっている。
それが、太くなっていた。
――速かった。
「伏せろォ!! 伏せろ!!」
命令が飛んだ時には、もう来ていた。
最初に届いたのは、音だった。何万枚もの紙を同時に擦り合わせるような、途切れない音。
次に、砂粒。
――痛かった。
顔の皮膚を、細かい針でまとめて叩かれるような痛みだった。トビアスは慌てて外套の襟を引き上げ、地面に伏せた。
次に、世界が消えた。
黄色い。
右も左も、上も下も、黄色い。
自分の伸ばした腕の、肘から先が見えなかった。
息を吸うと、砂が入った。喉に貼りついて、咳をすると、また入った。トビアスは口を布で覆い、その布ごと砂を吸った。
――三日、続いた。
三日間で、彼が数えたのは三つだった。
一つ。水筒の残量。二日目の夜に、半分を切った。
二つ。銃の分解回数。四回。分解するたび、遊底の隙間から砂が出た。出しても、次の日にはまた詰まっていた。
三つ。隣の穴の兵の、咳の回数。
三日目の夜、その咳が止まった。
トビアスは、砂の中を這って隣まで行った。
――穴が、埋まっていた。
彼は、素手で掘った。掘って、掘って、砂が指の間から流れ込むのを、何度も掻き出した。
届いた時、その兵は、口を開けていた。
口の中も、鼻の穴も、砂で満ちていた。
トビアスは、そこで初めて、この砂漠が誰の砂漠なのかを理解した。
四日目の朝、風が止んだ。
止んだ瞬間、砂漠は嘘のように静かで、抜けるように青かった。
――脱走兵が、六百出た。
彼らは、都と反対の方角へ歩いていった。追う者は、いなかった。
【第七日】
七日目の午後、砂漠が暗くなった。
雲ではなかった。
トビアスが顔を上げると、太陽の位置に、影があった。
輪郭が、丸い。縁が、ぎざぎざしている。
それが、少しずつ大きくなっていた。
――速さは、分からなかった。
真上から来るものの速さを測る方法を、彼は知らなかった。
誰も、走らなかった。
走って間に合う速さではないと、二千人が同時に理解したからだ。
最後の数秒、砂漠は静かだった。
トビアスの耳が拾ったのは、砲兵の一人が「あ」と言った声だけだった。
――落ちた。
音は、後から来た。
地面が跳ね、彼の体が浮いた。
浮いている間に、視界が横へ回った。空が見えて、砂が見えて、また空が見えた。
落ちた時、口の中が砂でいっぱいだった。
――耳が、鳴っていた。
高い音が、頭の中で一本、まっすぐに伸びている。その音以外、何も聞こえなかった。
彼は、両手をついて起き上がった。
振り返った。
陣地が、なかった。
砲も、天幕も、二千人も。
抉れた赤黒い穴が、そこにあるだけだった。
直径は、彼の中隊が全員入っても余るだろう。深さは、底が見えなかった。
穴の縁で、砂が、まだ少しずつ崩れ落ちていた。
さらさらと。
その音だけが、耳鳴りの向こうから届いた。
トビアスは、しばらく動けなかった。
やがて、彼は自分の手を見た。
右の掌に、砂が食い込んでいた。落ちる時に、地面を掴んだのだ。掌の皮が擦れて、砂が肉に埋まっている。
彼は、それを一粒ずつ、爪で掘り出した。
七粒あった。
――数えている間だけは、何も考えずに済んだ。
その岩は、その日、十六回落ちた。
トビアスは、十七回目を待っていた。
来なかった。
なぜ来なかったのかは、分からなかった。分からないまま、彼は夜になるまで空を見上げ続けた。
【第八日】
八日目の夜、夜襲が命じられた。
三方向から、三千人。
トビアスの中隊にも、割当が来た。三十四人のうち、十二人。
選ばれたのは、名簿の上から順だった。彼の名は、レン。
――十三番目だった。
彼は、選ばれなかった。
出発は、月のない夜だった。
彼は、天幕の外で、十二人が装備を締めるのを見ていた。誰も、大した話はしなかった。一人が水筒を振って、中身が少ないのを気にしていた。
三千人は、砂の上を、音もなく都へ向かった。
――そして、帰ってこなかった。
銃声は、しなかった。悲鳴も、しなかった。
トビアスは、夜通し起きていた。何も、聞こえなかった。
翌朝、彼は志願して、捜索に出た。
地図の座標まで歩いて、彼は立ち止まった。
――平らだった。
砂漠が、平らだった。
足跡もなかった。装備の破片も、血も、布の切れ端も、なかった。
風で消えたのではない。風は、昨夜、ほとんど吹いていない。
彼は、そこに膝をついて、砂を掘った。
三十センチ。五十センチ。一メートル。
砂は、砂だった。
――どこまで掘っても、砂だった。
一緒に来た兵が、途中で掘るのをやめた。トビアスは、やめなかった。
肘まで潜って、彼の指が、何かに触れた。
引き上げると、革のベルトの、留め具だった。
黄銅の、ありふれた留め具。番号も、名前も、彫られていない。
彼は、それを握って、しばらく座り込んでいた。
――誰の物か、分からなかった。
三千人のうちの、誰か。
【第九日】
九日目の夜、トビアスは、再び前へ出された。
偵察だった。城壁の三百メートル手前まで這って、砲座の位置を数えてくる任務。
彼は、数えるのが得意だった。だから、選ばれた。
――そして、五十メートルまで近づいた。
近づきすぎた。
砂の窪みに伏せて、彼は動けなくなった。前にも後ろにも行けない。夜が明ければ、撃たれる。
彼は、そこで一晩を過ごした。
――だから、見た。
城壁の上に、彼女がいた。
距離、五十メートル。
――彼女は、寝ていなかった。
九日間、一度も。
髪は乱れ、黄金の装身具は砂で曇り、白い薄絹は裾が破れていた。頬が、こけていた。目の下に、影があった。
風が吹くたび、彼女の髪が顔にかかった。彼女は、それを払わなかった。
――だが。
その背筋は、まっすぐだった。
両足は、肩幅に開かれ、動かなかった。彼女は、城壁の上に立ったまま、二十万を見下ろしていた。
トビアスは、そこで数えるのをやめた。
砲座の数も、城壁の高さも、どうでもよくなった。
彼は、その姿を見ていた。夜明けまで、ずっと見ていた。
――そして、泣いた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
(……勝てない)
この人には、勝てない。
二十万でも、五十万でも、勝てない。
勝てない、と彼は思った。
――もう一つ、浮かんだことがあった。
(あの人、たった一人だ)
城壁の上には、彼女しかいなかった。
九日間、一人だった。
――第九日の終わり、帝国軍の損害は、四万二千に達していた。
【投入】
第十日。
帝国本営に、命令が下った。
――特務課、全部隊投入。
最初に到着したのは、雷牙隊だった。
五人。
イグナ・ヴェルドを先頭に、彼らは砂漠に降り立った。
その日のうちに、城壁の一角が落ちた。
――追雷。
彼女の雷は、まっすぐ飛ばなかった。
放たれた青白い線は、空中で二度折れ、城壁を回り込み、ネフェリスの纏う魔力の流れを辿った。
どれだけ細くなっても、理の流れは消えない。
消えないから、辿れる。
初めて、ネフェリスに傷がついた。
左肩を、雷が抉った。
――トビアスは、それを見ていた。
彼女は、声を上げなかった。
膝もつかなかった。ただ、左手が一度、下がった。それだけだった。
二日後、紅蓮掌が到着した。
黒い軍服に、赤いマント。
五人。
「……隊長」
ミン・シアが、砂漠を見渡した。
地平線まで続く陣地。焼けた砲。埋め切れずに並べられた布の列。
その顔に、いつもの明るさがなかった。
「なんだ」
「あの国、なんかしましたか」
リュウ・ファンは、応じなかった。
「通商を三度断ったって、聞きました」
彼女は続けた。
「……それだけ、ですよね」
「――ミン」
シェン・レイリンが、彼女の肩を掴んだ。
「言うな」
「でも」
「言うな」
レイリンの声は硬かった。
「……あたしたちの国も、同じだったのよ」
ミン・シアの顔が、上がった。
「三十年前」
レイリンは、砂漠を見た。
「焔華も、同じ理由で滅ぼされたわ」
――ミン・シアは、それきり、口を開かなかった。
リュウ・ファンは、その間、一言も発しなかった。
ただ、東の空を見ていた。
――故郷の方角を。
――三日後。
もう一つの部隊が、到着した。
誰も、その部隊のことを知らなかった。
編成の記録がない。所属も、部隊名も、公示されていない。
――兵員は、四十名。
全員が、顔を覆う仮面をつけていた。
鉄と革でできた、無表情な面。目の部分に、細い隙間があるだけ。
そして。
――全員の首に、金属の環がはめられていた。
継ぎ目のない、鈍い灰色の輪。留め具は、なかった。
「……なんだ、あいつら」
トビアスは、それを遠くから見ていた。
彼らは、命令を受けても返事をしなかった。
整列も、行進も、完璧だった。
――完璧すぎた。
四十人が、一切の誤差なく、同じ歩幅で歩く。
トビアスは、数える癖で、その歩幅を数えた。
――砂の上の足跡が、全員、同じ間隔だった。
深さも、同じだった。体重も、歩き方も、全部同じ人間が四十人並んでいるような跡だった。
「……気味が悪いな」
隣の兵が呟いた。
「捕虜か? 罪人部隊か?」
「知らねえ」
――ある夜、トビアスは、彼らの野営地の脇を通った。
四十人が、地面に座っていた。
火も焚かず、天幕も張らず。ただ、砂の上に、等間隔で座っていた。
仮面を、つけたまま。
――誰も、喋っていなかった。誰も、動いていなかった。
砂漠の夜は、氷点下近くまで落ちる。
誰一人、震えていなかった。
トビアスは、その一人と、目が合った。
仮面の隙間の、細い暗がりと。
――何も、感じなかった。
憎しみも、悲しみも、恐怖も。
ただ、そこに、何もなかった。
彼は、走ってその場を離れた。
――その夜、彼は初めて、吐いた。
――そして、彼らが投入された時。
トビアスは、二度と、その光景を忘れられなくなった。
彼らは、死を恐れなかった。
仲間が倒れても、振り向かなかった。
自分の腕が吹き飛んでも、歩き続けた。
――叫び声を、一度も上げなかった。
一人が、ゴーレムの拳に潰された。その隣の一人は、歩幅を変えなかった。
一人が、火に包まれた。燃えながら、前進した。目標に到達して、そこで倒れた。
――倒れる時も、音を立てなかった。
彼らは、四十人で、城壁の一角を落とした。
生き残ったのは、十一人だった。
その十一人は、報告もせずに、次の命令を待って立っていた。
――誰も、彼らを称えなかった。
誰も、彼らの名を知らなかった。
城壁の上で、ネフェリスは、その部隊を見下ろした。
――彼女は、初めて、表情を歪めた。
「…………」
彼女の水色の瞳が、細くなった。
視えていたのだ。
彼女の理は、土と、そこに立つものを視る。
だから、分かった。
あの四十人の中に――生きている魂が、まだ残っていることが。
彼らは、死んでいなかった。
意識が、あった。
――ただ、体を、動かせないだけだった。
自分の腕が飛ぶのを見て。
自分が燃えるのを感じて。
叫びたくて、叫べずに。
――そのまま、死んでいった。
「……ルシオン」
彼女は、初めて、その名を呼んだ。
声が震えていた。
「――あなた」
彼女の指が、握りしめられた。金の腕輪が、腕の骨に当たって鳴った。
「そこまで、堕ちたの」
――彼女の頬を、一筋、伝った。
乾いた砂漠の風が、それをすぐに乾かした。
九日間、一度も泣かなかった女王が。
敵の兵のために、泣いた。
【いない】
――同じ頃。
帝国、南部の街道。
一台の荷馬車が、夜の道を走っていた。
幌は、継ぎ接ぎだった。麻布に、色の違う布が三箇所、縫い当ててある。荷台には、藁と、空の木箱と、麦の袋が六つ積んであった。
その袋の間に、六人が座っていた。
黒い軍服を脱ぎ、粗末な旅装に着替えている。
「……いま、どのへん?」
リズが小声で聞いた。
「オズホルン公国まで、あと二日」
ネロが、覆いをかけた灯りで地図を照らした。
「……追っ手は」
「今のところ、なし」
「そう」
――幌の奥に、一人の男が座っていた。
痩せた三十代。粗末な外套。顔を隠すように、深く頭巾を被っている。
彼は、揺れる荷台の中で、ずっと外を見ていた。
窓もない幌の、縫い目の隙間から。
――十四年ぶりに見る、外の景色を。
「……陛下」
リヴィアが声をかけた。
「体調は」
「……問題ない」
男は答えた。
「揺れが、少し」
「すみません。道が悪くて」
「――いや」
彼は、首を振った。
それから、少しだけ笑った。
「……揺れているのが、嬉しい」
誰も、意味が分からなかった。
「十四年、同じ椅子に座っていた」
彼は言った。
「揺れないのだ、あの椅子は」
――リヴィアは、その言葉を聞きながら、南の空を見ていた。
幌の隙間から見える、夜空。
南東の方角。
――何かが、そこで起きている。
彼女は、そう感じていた。
根拠は、なかった。
ただ、腹の底が落ち着かなかった。二年前、聖都へ向かう船の上でも、同じ感覚があった。
「……隊長」
ミーナレイが、小声で言った。
「どうかしましたか」
「……いえ」
リヴィアは、幌を閉じた。
「なんでもない」
嘘だった。
彼女は、知っていた。
――今、砂漠で、誰かが戦っている。
自分たちが、そこにいない間に。
――その頃。
ネフィラの砂漠では、二十万が、一人の女王と戦っていた。
特務課の三部隊が、投入されていた。
黒翼分隊は、そこにいなかった。
出陣命令は、確かに出ていた。
――だが、彼らは、戦場にいなかった。
誰も、まだ、そのことに気づいていなかった。




