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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
世界大戦編

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37/53

砂の女王

【第一日】


 彼の名は、トビアス・レンといった。


 十九歳。ディナシア帝国陸軍、第二軍団、第十四歩兵連隊、第三中隊。


 徴兵されたのは、三ヶ月前だった。


 実家は、帝国中部の麦農家だった。三男で、畑を継ぐ順番は回ってこない。徴兵の紙が来た時、父は「食い扶持が一つ減る」と言い、母は台所で三十分出てこなかった。


 訓練は六週間。銃の撃ち方と、隊列の組み方と、上官への敬礼を習った。


 それだけで、彼は砂漠にいた。


 ――トビアスには、癖があった。


 数える癖だ。


 麦袋を数え、畝を数え、荷馬車の板を数えて育った。数えている間は、余計なことを考えずに済む。訓練所でも、彼は毎晩、天井の板を数えてから眠った。


 だから、行軍の四日目、彼は自分の中隊の人数を数え終えていた。


 百二十七人。




「――うわ」


 丘を越えた時、彼は思わず声を上げた。


 地平線に、黄金の都があった。


 白い砂岩の建物が、丘の斜面を幾層にも覆っている。層は下から数えて七つ、いや八つ。段のひとつひとつに水路が通っていて、朝日を受けた水面が、細い金の線になって街を横切っていた。屋根はどれも平らで、そこに干された布が風に揺れている。


 その頂に、宮殿があった。


 白い柱が、正面だけで十二本。柱の間に、深い藍の垂れ幕。


「……綺麗だな」


 隣の兵が呟いた。


「あれ、全部魔法で造ったって聞いたぞ」


「まさか」


「本当らしい。女王が、一人で」


 ――トビアスは、ふと後ろを振り返った。


 声を、失った。


 軍が、いた。


 地平線から地平線まで。


 歩兵の列。騎兵。砲兵。輜重。砂に踏み固められた道が幅五十メートルほどあって、そこを埋め尽くした人間が、丘の向こうまで途切れずに続いている。土煙が、その上に一本の帯になって伸びていた。


 彼は、数えようとした。


 最前列の横幅を数え、列の間隔を測り、掛け算をしようとして――やめた。


 数えられなかった。


(……二十万)


 数字では聞いていた。


 見るのは、まったく違うことだった。


(勝てるに、決まってる)


 彼は、そう自分に言い聞かせた。


 言い聞かせなければ、立っていられなかった。


【巌】


 午前八時、第一波が動いた。


 三万。


 都の南門へ向かって、砂漠を歩き出す。


 トビアスの中隊は、その第二列にいた。


 ――砂が、深かった。


 一歩ごとに、膝の下まで沈む。抜くたびに、靴の中へ砂が流れ込んだ。三十分歩いただけで、全員が汗だくになり、水筒の中身が半分になった。


 空気が、乾いていた。汗が出た端から蒸発して、軍服の脇に白い塩の輪ができ始めている。


「――止まれ!」


 中隊長の声。


 前方、二百メートル。


 ――門が、開いていた。


「……開いてる?」


 誰かが言った。


 開いた門の暗がりから、何かが出てくる。


 ――兵だった。


 様子が、おかしかった。


「……なんだ、あれ」


 トビアスは、目を細めた。


 ――大きい。


 一人一人が、異様に大きかった。


 身長は二メートル前後。だが、問題は横幅だった。肩が、常人の一・五倍ある。首が、太い。腰から下が、丸太のようだった。


 纏っているのは、青銅の甲冑だ。


 ――旧式だった。呆れるほど、旧式だった。


 二百年は前の様式で、魔導処理の光沢がまるでない。日に焼けた青銅が、鈍い緑を帯びていた。


 手にしているのは、大盾と、長柄の鎚。


 銃は、一挺もなかった。


「……なんだ、あいつら」


 中隊長が笑った。


「青銅だぞ。……二百年前の骨董品だ」


 周囲の兵から、笑いが漏れた。


 ――トビアスも、笑った。


 笑って、少しだけ、安心した。


 彼は、門から出てくる列を数え始めた。百。二百。五百。


 千を超えたところで、また、数えるのをやめた。




 ――巌兵団。


 彼らは、ネフェリスの精鋭三千である。


 三百年、彼女の土の魔力が染みた大地で、代々暮らしてきた民の末裔だった。


 彼らの骨は、常人より密度が高い。筋の付き方が、そもそも違う。


 その青銅の甲冑は、常人なら立って歩けない重さがある。


 彼らは、それを「軽い」と言う。




 射撃が、開始された。


 三万丁の銃が、火を吹いた。


 ――弾は、当たった。


 当たって、跳ねた。


「……は?」


 トビアスは、自分の目を疑った。


 青銅の大盾に、火花が散る。散って、消える。あとには、白い擦り傷が一本残るだけだった。


 ――魔導弾でも、貫通しなかった。


 橙の光が盾に触れて、そこで潰れて、砂の上へ落ちる。落ちた場所の砂が、じゅう、と鳴って黒く固まった。


「なんだあれ! 厚みがおかしい!」


「一枚で二十センチだ! 馬鹿げてる!」


 ――巌兵団は、盾を前に、歩き続けた。


 銃火の中を、歩幅を変えずに。


 一歩ずつ。


 距離が、百五十メートル。


 百メートル。


 五十。


 その頃には、砂の上に三十歩ぶんの足跡が、深く、等間隔に並んでいた。三千人が同じ場所を踏んで歩いた跡だった。


「――突撃!」


 誰かが叫んだ。


 ――誰が、とは、後で誰も分からなかった。


 帝国兵三万が、走り出した。


【砂】


 衝突は、五秒で終わった。


 ――正確には、五秒で「勝敗が決まった」。


 トビアスが見たのは、こういう光景だった。


 最前列の兵が、大盾に触れた瞬間。


 ――消えた。


 いや、消えたのではない。


 盾で、押されたのだ。


 人間が、盾の一振りで、十メートル飛んだ。落ちた場所で、砂が円く跳ね上がった。


 鎚が振られる。三人が、まとめて宙を舞う。


 巌兵団の一人が、三十人分の壁になっていた。


 ――音が、おかしかった。


 トビアスは、後になって、それを思い出す。


 人が斬られる音を、彼は聞かなかった。


 聞こえたのは、重いものが、重いものにぶつかる音だけだった。


 どん、という音。


 その一発ごとに、味方が十人、宙に舞った。


 悲鳴が上がるより先に、次の音が来る。


 どん。


 どん。


 ――規則正しい、太鼓のような音だった。


 トビアスは、その間隔を数えていた。数えるつもりはなかった。体が勝手に数えた。


 二拍。二拍。二拍。


 彼らは、走っていなかった。走る必要が、なかった。


 ただ歩いて、ただ盾を振っているだけで、三万が崩れていった。


「――退け!! 退けェ!!」


 誰かが叫んだ。


 その声は、届かなかった。


 後ろから、味方が押していたからだ。


 三万人の後列は、前で何が起きているか見えていない。だから、押した。


 押された前列は、逃げられずに、青銅の壁に潰された。




 トビアスは、砂の上に倒れていた。


 誰かに押し倒され、背中を踏まれ、砂に顔を埋めていた。口の中が、砂でざらついた。


 ――だから、生きていた。


 顔を上げた時。


 ――地面が、動いた。


「え」


 砂漠が、隆起した。


 彼の三十メートル先で、砂が盛り上がる。


 盛り上がって、締まって、色が変わった。乾いた白から、湿った褐色へ。そして表面が硬化していく音が、乾いた紙をくしゃくしゃに丸めるような、細かい連続音になって届いた。


 ――形を、取った。


 人の、形を。


 五メートル。


 いや、七メートル。


 砂岩の巨人が、そこに立っていた。


 ――一体では、なかった。


 二体。五体。十体。


 都の城壁の内側から、次々と、砂が起き上がる。地面が波打ち、そのたびに新しい影が空へ伸びていった。


 百体。


 トビアスは、腰が抜けた。


(……なんだ、あれ)


(あんなの、どうやって)


 巨人が、歩き出した。


 一歩で、五メートル進む。


 その足が持ち上がるたび、下の砂が漏斗のように吸い込まれて、また埋まった。


 踏み下ろされるたび、地面が跳ねた。


 トビアスの正面、五十メートル。


 巨人の足が、味方の隊列の上に落ちた。


 ――音は、しなかった。


 いや、しなかったのではない。砂が、全部吸ったのだ。


 足が持ち上がった後には、褐色の凹みが一つ、残っているだけだった。


【玉座】


 同時刻。宮殿の最上階。


 バルコニーに、女王が立っていた。


 黄金の頭飾り。白い薄絹。緑石と青石の胸飾り。真っ黒な髪が、砂の風に流れている。


 その水色の瞳が、眼下の戦場を見下ろしていた。


 バルコニーの手すりは、継ぎ目のない一枚の砂岩だった。彼女が三百年前、砂から起こしたものだ。角の丸みは、この三百年、彼女の手が同じ場所に置かれ続けたことでできている。


「――ミリア」


「はい、陛下」


 背後に、侍女長が控えている。


「第一波の規模は」


「およそ三万かと」


「そう」


 ネフェリスは、扇を開いた。


「――で、あちらの本隊は?」


「……二十万、と」


「あら」


 彼女は笑った。


「随分と、わたくしを買ってくれているのね」


 彼女は、右手を上げた。


 指を、軽く曲げる。


 ――それだけで。


 戦場の砂岩の巨人たちが、一斉に、動きを変えた。




 ――彼女は、指揮していなかった。


 命じてもいなかった。


 百体のゴーレムが、彼女の指の動き一つで、完璧に連動していた。


 包囲。分断。掃討。


 それは戦術ではなく、彼女の手の動きだった。


「……陛下」


 侍女長の声が震えていた。


「お疲れではありませんか」


「疲れる?」


 ネフェリスは、可笑しそうに言った。


「わたくしの足元は、砂よ」


 彼女は、手すりに手を置いた。三百年、同じ場所に。


「三百年、この砂と一緒に生きてきたの」


 その手が、少しだけ、石を撫でた。


「――疲れるわけがないでしょう」


【第二日】


 帝国軍の第一波は、壊滅した。


 死者、九千。負傷者、一万二千。


 ――たった一日で。




 同じ夜。帝国軍本営、司令部天幕。


 天幕の中は、油と汗と、砂の匂いがした。


 中央の卓は、輜重の木箱を四つ並べて、その上に板を渡したものだ。板には、砂漠の地図が広げられている。四隅を押さえているのは、水筒と、双眼鏡と、砂を詰めた革袋が二つだった。


 天井から吊るされた魔導灯が一つ。その光が、二十人ほどの将官の顔を、下から半分だけ照らしていた。


「――損害、二万一千」


 参謀の報告に、天幕がざわめいた。


「一日で、二万……」


「第一波が、丸ごと消えたということか」


「ゴーレムには、通常火器が通じません。巌兵団の装甲も、魔導弾を弾きます」


「魔導砲は」


「撃ちました。……効きましたが、修復されます」


 参謀は、書類をめくった。指先が、震えていた。


「砕いた側から、砂が寄り集まって、元に戻ります」


 沈黙が落ちた。


 天幕の外で、風が油布を叩いた。誰かの咳が、遠くで二度した。


「――で?」


 上座から、声がした。


 ドルガ・ヴァレンティン中将。


 五十代。がっしりとした体格。日焼けした顔に、白い歯。将官のくせに、襟のボタンを二つ外している。


 彼は、地図に肘をついていた。


「損害は分かった。……で、明日はどうする」


「は。……第二波の投入を」


「馬鹿」


 彼は、あっさり言った。


「同じことをやって、同じ結果になるだけだろうが」


 彼は、地図を叩いた。革袋が一つ、倒れて砂をこぼした。


「――技術部を呼べ」


「は?」


「例のやつだ。……試作でも構わん、持ってこい」


 参謀の顔がこわばった。


「あれは……その、まだ実戦での運用実績が」


「実績は今日作る」


 彼は、身を起こした。


「二万一千だ」


 その声は、初めて低くなった。


「二万一千、俺の部下が死んだ。……明日も同じ数を死なせる気か」


「……いえ」


「なら、持ってこい」


 彼は、椅子に背を預けた。


 ――ドルガ・ヴァレンティンは、部下に慕われる男だった。


 兵の名前を覚え、負傷兵を見舞い、戦死者の家族に自筆で手紙を書く。この砂漠へ来る前、彼は三日かけて二万一千通目までの雛形を書き直していた。


 だから、彼の指揮する軍団は、士気が高い。


 ――そして、だからこそ。


 彼は、迷わなかった。


「死ぬのは、少ない方がいい」


 彼は言った。


「――こちらの、な」




 トビアスは、生き残った。


 夜、後方の野営地で、彼は震えていた。


 毛布にくるまっても、震えが止まらなかった。砂漠の夜は、昼と二十度違う。汗を吸った軍服が、そのまま体を冷やしていた。


「……なあ」


 隣の兵が言った。


「勝てるのか、俺たち」


「…………」


「二十万いても、あんなの……」


 トビアスは、応じられなかった。


 彼は、毛布の下で、中隊の生き残りを数えていた。


 ――三十四人。


 朝は、百二十七人だった。




 ――だが。


 第二日の朝、状況が変わった。


 夜のうちに、後方から、何かが運ばれてきていた。


 巨大な、鐘のような形の装置。高さは人の背の三倍。鋼の枠が籠のように組まれていて、その中心に、黒い塊が据えられている。


 ――光を、返さない塊だった。


 朝日が当たっているのに、そこだけ影のように沈んでいた。


 ――八基。


 都を遠巻きに囲むように、配置されていく。運んできた技術者たちは、白い防護服を着ていた。


「……なんだ、あれ」


「知らねえ。技術部の連中だ」


 やがて、命令が下った。


『全軍、魔法の使用を禁止する』


「――は?」


 トビアスの中隊で、ざわめきが起きた。


「魔法禁止? なんでだよ」


「知るか」


『繰り返す。全軍、魔法の使用を禁止。……以後の指示があるまで』




 午前七時。


 八基の装置が、同時に起動した。


 ――音は、しなかった。


 それでも、トビアスには分かった。


 空気の底で、いつも鳴っていた音。


 ――魔素の唸り。


 それが、消えた。


「……あ」


 彼は、思わず声を上げた。


 体の中の何かが、抜けていく感じがした。


(……なんだ、これ)


 彼は魔導兵ではない。魔刻も一刻だ。生まれてから一度も、魔法らしい魔法を使ったことはない。


 分かった。


 ――世界から、何かが、無くなった。


 彼は、無意識に耳に指を入れた。詰まっているわけではなかった。詰まっているのは、世界の方だった。




 ――都の方角で。


 ――砂岩の巨人が、崩れた。


 一体目が、膝から砕けた。


 二体目が、腕から崩れ落ちた。


 三体目が。四体目が。


 百体の巨人が、支えを失って、次々と砂に還っていく。


 巨大な砂煙が、朝の砂漠に立ち上った。煙は五十メートルの高さまで昇り、上端で朝日を受けて金色になった。


 ――帝国兵から、歓声が上がった。


「うおおおおお!!」


「やった! やったぞ!!」


「あの化け物どもが!!」


 トビアスも、叫んだ。


 叫びながら、涙が出た。


 ――助かった、と思った。


【立っていた】


 だが。


 砂煙が晴れた時。


 ――城壁の上に、一人の女が立っていた。


 黄金の装身具が、朝日を弾いている。黒髪が、風に流れている。


 ――そして、彼女の周囲だけ。


 砂が、宙に浮いていた。


 拳ほどの砂の塊が、七つ。彼女の周りを、一定の速さで回り続けていた。


「……え」


 トビアスの声が掠れた。


「……なんで」


 魔法は、死んだはずだった。全部、消えたはずだった。


 なのに。


 女王の足元で、砂が渦を巻いていた。




 城壁の上で、ネフェリスは笑っていた。


「……なるほど」


 彼女は、自分の掌を見た。


 ――重い。


 いつもの、十分の一も出ない。


 三百年、一度も感じたことのない鈍さだった。指先で砂を呼ぶだけで、掌の底に沈殿が溜まっていくような感触がある。


(……これが、あの人の道具ね)


 魔素を殺す装置。人の魔法を、完全に無力化する。


 ――だが。


(残念だったわね)


 彼女は、掌を握った。


(わたくしのこれは――魔法じゃないの)


 理は、魔素で動いていない。


 彼女は、砂を「動かして」いるのではない。砂が動くという「決めごと」に、触れているだけだ。


 だから、消えない。


 ――ただ、細くなる。


 十分の一。


 それでも。


「――十分よ」


 彼女は、右手を上げた。



【第四日】


 三日目の朝、砂漠が立ち上がった。


 トビアスの位置からは、遠かった。


 彼が見たのは、左翼の方角に褐色の壁が生えて、それが少しずつ動いていく光景だった。高さは、彼の指を伸ばして横にした幅くらい。実際には四十メートルあったと、後で聞いた。


 壁が通った後には、何も残らなかった。


 ――音は、届かなかった。遠すぎた。


 彼は、その日、四千という数字を聞いた。数字は、砂粒のようなものだった。触っても、何も分からない。




 四日目は、違った。


 その朝、風向きが変わった。


 トビアスが最初に気づいたのは、頬だった。三日間ずっと右から来ていた風が、正面から来た。


 都の方角から。


「……おい」


 誰かが言った。


「あれ、雲か?」


 地平線が、黄色くなっていた。


 黄色い帯が、地面から空へ立ち上がっている。


 それが、太くなっていた。


 ――速かった。


「伏せろォ!! 伏せろ!!」


 命令が飛んだ時には、もう来ていた。


 最初に届いたのは、音だった。何万枚もの紙を同時に擦り合わせるような、途切れない音。


 次に、砂粒。


 ――痛かった。


 顔の皮膚を、細かい針でまとめて叩かれるような痛みだった。トビアスは慌てて外套の襟を引き上げ、地面に伏せた。


 次に、世界が消えた。


 黄色い。


 右も左も、上も下も、黄色い。


 自分の伸ばした腕の、肘から先が見えなかった。


 息を吸うと、砂が入った。喉に貼りついて、咳をすると、また入った。トビアスは口を布で覆い、その布ごと砂を吸った。


 ――三日、続いた。




 三日間で、彼が数えたのは三つだった。


 一つ。水筒の残量。二日目の夜に、半分を切った。


 二つ。銃の分解回数。四回。分解するたび、遊底の隙間から砂が出た。出しても、次の日にはまた詰まっていた。


 三つ。隣の穴の兵の、咳の回数。


 三日目の夜、その咳が止まった。


 トビアスは、砂の中を這って隣まで行った。


 ――穴が、埋まっていた。


 彼は、素手で掘った。掘って、掘って、砂が指の間から流れ込むのを、何度も掻き出した。


 届いた時、その兵は、口を開けていた。


 口の中も、鼻の穴も、砂で満ちていた。


 トビアスは、そこで初めて、この砂漠が誰の砂漠なのかを理解した。




 四日目の朝、風が止んだ。


 止んだ瞬間、砂漠は嘘のように静かで、抜けるように青かった。


 ――脱走兵が、六百出た。


 彼らは、都と反対の方角へ歩いていった。追う者は、いなかった。


【第七日】


 七日目の午後、砂漠が暗くなった。


 雲ではなかった。


 トビアスが顔を上げると、太陽の位置に、影があった。


 輪郭が、丸い。縁が、ぎざぎざしている。


 それが、少しずつ大きくなっていた。


 ――速さは、分からなかった。


 真上から来るものの速さを測る方法を、彼は知らなかった。


 誰も、走らなかった。


 走って間に合う速さではないと、二千人が同時に理解したからだ。


 最後の数秒、砂漠は静かだった。


 トビアスの耳が拾ったのは、砲兵の一人が「あ」と言った声だけだった。


 ――落ちた。


 音は、後から来た。


 地面が跳ね、彼の体が浮いた。


 浮いている間に、視界が横へ回った。空が見えて、砂が見えて、また空が見えた。


 落ちた時、口の中が砂でいっぱいだった。


 ――耳が、鳴っていた。


 高い音が、頭の中で一本、まっすぐに伸びている。その音以外、何も聞こえなかった。


 彼は、両手をついて起き上がった。


 振り返った。


 陣地が、なかった。


 砲も、天幕も、二千人も。


 抉れた赤黒い穴が、そこにあるだけだった。


 直径は、彼の中隊が全員入っても余るだろう。深さは、底が見えなかった。


 穴の縁で、砂が、まだ少しずつ崩れ落ちていた。


 さらさらと。


 その音だけが、耳鳴りの向こうから届いた。




 トビアスは、しばらく動けなかった。


 やがて、彼は自分の手を見た。


 右の掌に、砂が食い込んでいた。落ちる時に、地面を掴んだのだ。掌の皮が擦れて、砂が肉に埋まっている。


 彼は、それを一粒ずつ、爪で掘り出した。


 七粒あった。


 ――数えている間だけは、何も考えずに済んだ。




 その岩は、その日、十六回落ちた。


 トビアスは、十七回目を待っていた。


 来なかった。


 なぜ来なかったのかは、分からなかった。分からないまま、彼は夜になるまで空を見上げ続けた。


【第八日】


 八日目の夜、夜襲が命じられた。


 三方向から、三千人。


 トビアスの中隊にも、割当が来た。三十四人のうち、十二人。


 選ばれたのは、名簿の上から順だった。彼の名は、レン。


 ――十三番目だった。


 彼は、選ばれなかった。




 出発は、月のない夜だった。


 彼は、天幕の外で、十二人が装備を締めるのを見ていた。誰も、大した話はしなかった。一人が水筒を振って、中身が少ないのを気にしていた。


 三千人は、砂の上を、音もなく都へ向かった。


 ――そして、帰ってこなかった。


 銃声は、しなかった。悲鳴も、しなかった。


 トビアスは、夜通し起きていた。何も、聞こえなかった。




 翌朝、彼は志願して、捜索に出た。


 地図の座標まで歩いて、彼は立ち止まった。


 ――平らだった。


 砂漠が、平らだった。


 足跡もなかった。装備の破片も、血も、布の切れ端も、なかった。


 風で消えたのではない。風は、昨夜、ほとんど吹いていない。


 彼は、そこに膝をついて、砂を掘った。


 三十センチ。五十センチ。一メートル。


 砂は、砂だった。


 ――どこまで掘っても、砂だった。


 一緒に来た兵が、途中で掘るのをやめた。トビアスは、やめなかった。


 肘まで潜って、彼の指が、何かに触れた。


 引き上げると、革のベルトの、留め具だった。


 黄銅の、ありふれた留め具。番号も、名前も、彫られていない。


 彼は、それを握って、しばらく座り込んでいた。


 ――誰の物か、分からなかった。


 三千人のうちの、誰か。


【第九日】


 九日目の夜、トビアスは、再び前へ出された。


 偵察だった。城壁の三百メートル手前まで這って、砲座の位置を数えてくる任務。


 彼は、数えるのが得意だった。だから、選ばれた。


 ――そして、五十メートルまで近づいた。


 近づきすぎた。


 砂の窪みに伏せて、彼は動けなくなった。前にも後ろにも行けない。夜が明ければ、撃たれる。


 彼は、そこで一晩を過ごした。


 ――だから、見た。


 城壁の上に、彼女がいた。


 距離、五十メートル。


 ――彼女は、寝ていなかった。


 九日間、一度も。


 髪は乱れ、黄金の装身具は砂で曇り、白い薄絹は裾が破れていた。頬が、こけていた。目の下に、影があった。


 風が吹くたび、彼女の髪が顔にかかった。彼女は、それを払わなかった。


 ――だが。


 その背筋は、まっすぐだった。


 両足は、肩幅に開かれ、動かなかった。彼女は、城壁の上に立ったまま、二十万を見下ろしていた。


 トビアスは、そこで数えるのをやめた。


 砲座の数も、城壁の高さも、どうでもよくなった。


 彼は、その姿を見ていた。夜明けまで、ずっと見ていた。


 ――そして、泣いた。


 なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。


(……勝てない)


 この人には、勝てない。


 二十万でも、五十万でも、勝てない。


 勝てない、と彼は思った。


 ――もう一つ、浮かんだことがあった。


(あの人、たった一人だ)


 城壁の上には、彼女しかいなかった。


 九日間、一人だった。




 ――第九日の終わり、帝国軍の損害は、四万二千に達していた。




【投入】


 第十日。


 帝国本営に、命令が下った。


 ――特務課、全部隊投入。




 最初に到着したのは、雷牙隊だった。


 五人。


 イグナ・ヴェルドを先頭に、彼らは砂漠に降り立った。


 その日のうちに、城壁の一角が落ちた。


 ――追雷。


 彼女の雷は、まっすぐ飛ばなかった。


 放たれた青白い線は、空中で二度折れ、城壁を回り込み、ネフェリスの纏う魔力の流れを辿った。


 どれだけ細くなっても、理の流れは消えない。


 消えないから、辿れる。


 初めて、ネフェリスに傷がついた。


 左肩を、雷が抉った。


 ――トビアスは、それを見ていた。


 彼女は、声を上げなかった。


 膝もつかなかった。ただ、左手が一度、下がった。それだけだった。




 二日後、紅蓮掌が到着した。


 黒い軍服に、赤いマント。


 五人。


「……隊長」


 ミン・シアが、砂漠を見渡した。


 地平線まで続く陣地。焼けた砲。埋め切れずに並べられた布の列。


 その顔に、いつもの明るさがなかった。


「なんだ」


「あの国、なんかしましたか」


 リュウ・ファンは、応じなかった。


「通商を三度断ったって、聞きました」


 彼女は続けた。


「……それだけ、ですよね」


「――ミン」


 シェン・レイリンが、彼女の肩を掴んだ。


「言うな」


「でも」


「言うな」


 レイリンの声は硬かった。


「……あたしたちの国も、同じだったのよ」


 ミン・シアの顔が、上がった。


「三十年前」


 レイリンは、砂漠を見た。


「焔華も、同じ理由で滅ぼされたわ」


 ――ミン・シアは、それきり、口を開かなかった。


 リュウ・ファンは、その間、一言も発しなかった。


 ただ、東の空を見ていた。


 ――故郷の方角を。




 ――三日後。


 もう一つの部隊が、到着した。


 誰も、その部隊のことを知らなかった。


 編成の記録がない。所属も、部隊名も、公示されていない。


 ――兵員は、四十名。


 全員が、顔を覆う仮面をつけていた。


 鉄と革でできた、無表情な面。目の部分に、細い隙間があるだけ。


 そして。


 ――全員の首に、金属の環がはめられていた。


 継ぎ目のない、鈍い灰色の輪。留め具は、なかった。




「……なんだ、あいつら」


 トビアスは、それを遠くから見ていた。


 彼らは、命令を受けても返事をしなかった。


 整列も、行進も、完璧だった。


 ――完璧すぎた。


 四十人が、一切の誤差なく、同じ歩幅で歩く。


 トビアスは、数える癖で、その歩幅を数えた。


 ――砂の上の足跡が、全員、同じ間隔だった。


 深さも、同じだった。体重も、歩き方も、全部同じ人間が四十人並んでいるような跡だった。


「……気味が悪いな」


 隣の兵が呟いた。


「捕虜か? 罪人部隊か?」


「知らねえ」


 ――ある夜、トビアスは、彼らの野営地の脇を通った。


 四十人が、地面に座っていた。


 火も焚かず、天幕も張らず。ただ、砂の上に、等間隔で座っていた。


 仮面を、つけたまま。


 ――誰も、喋っていなかった。誰も、動いていなかった。


 砂漠の夜は、氷点下近くまで落ちる。


 誰一人、震えていなかった。


 トビアスは、その一人と、目が合った。


 仮面の隙間の、細い暗がりと。


 ――何も、感じなかった。


 憎しみも、悲しみも、恐怖も。


 ただ、そこに、何もなかった。


 彼は、走ってその場を離れた。


 ――その夜、彼は初めて、吐いた。




 ――そして、彼らが投入された時。


 トビアスは、二度と、その光景を忘れられなくなった。


 彼らは、死を恐れなかった。


 仲間が倒れても、振り向かなかった。


 自分の腕が吹き飛んでも、歩き続けた。


 ――叫び声を、一度も上げなかった。


 一人が、ゴーレムの拳に潰された。その隣の一人は、歩幅を変えなかった。


 一人が、火に包まれた。燃えながら、前進した。目標に到達して、そこで倒れた。


 ――倒れる時も、音を立てなかった。


 彼らは、四十人で、城壁の一角を落とした。


 生き残ったのは、十一人だった。


 その十一人は、報告もせずに、次の命令を待って立っていた。


 ――誰も、彼らを称えなかった。


 誰も、彼らの名を知らなかった。




 城壁の上で、ネフェリスは、その部隊を見下ろした。


 ――彼女は、初めて、表情を歪めた。


「…………」


 彼女の水色の瞳が、細くなった。


 視えていたのだ。


 彼女の理は、土と、そこに立つものを視る。


 だから、分かった。


 あの四十人の中に――生きている魂が、まだ残っていることが。


 彼らは、死んでいなかった。


 意識が、あった。


 ――ただ、体を、動かせないだけだった。


 自分の腕が飛ぶのを見て。


 自分が燃えるのを感じて。


 叫びたくて、叫べずに。


 ――そのまま、死んでいった。


「……ルシオン」


 彼女は、初めて、その名を呼んだ。


 声が震えていた。


「――あなた」


 彼女の指が、握りしめられた。金の腕輪が、腕の骨に当たって鳴った。


「そこまで、堕ちたの」


 ――彼女の頬を、一筋、伝った。


 乾いた砂漠の風が、それをすぐに乾かした。


 九日間、一度も泣かなかった女王が。


 敵の兵のために、泣いた。


【いない】


 ――同じ頃。


 帝国、南部の街道。


 一台の荷馬車が、夜の道を走っていた。


 幌は、継ぎ接ぎだった。麻布に、色の違う布が三箇所、縫い当ててある。荷台には、藁と、空の木箱と、麦の袋が六つ積んであった。


 その袋の間に、六人が座っていた。


 黒い軍服を脱ぎ、粗末な旅装に着替えている。


「……いま、どのへん?」


 リズが小声で聞いた。


「オズホルン公国まで、あと二日」


 ネロが、覆いをかけた灯りで地図を照らした。


「……追っ手は」


「今のところ、なし」


「そう」


 ――幌の奥に、一人の男が座っていた。


 痩せた三十代。粗末な外套。顔を隠すように、深く頭巾を被っている。


 彼は、揺れる荷台の中で、ずっと外を見ていた。


 窓もない幌の、縫い目の隙間から。


 ――十四年ぶりに見る、外の景色を。


「……陛下」


 リヴィアが声をかけた。


「体調は」


「……問題ない」


 男は答えた。


「揺れが、少し」


「すみません。道が悪くて」


「――いや」


 彼は、首を振った。


 それから、少しだけ笑った。


「……揺れているのが、嬉しい」


 誰も、意味が分からなかった。


「十四年、同じ椅子に座っていた」


 彼は言った。


「揺れないのだ、あの椅子は」


 ――リヴィアは、その言葉を聞きながら、南の空を見ていた。


 幌の隙間から見える、夜空。


 南東の方角。


 ――何かが、そこで起きている。


 彼女は、そう感じていた。


 根拠は、なかった。


 ただ、腹の底が落ち着かなかった。二年前、聖都へ向かう船の上でも、同じ感覚があった。


「……隊長」


 ミーナレイが、小声で言った。


「どうかしましたか」


「……いえ」


 リヴィアは、幌を閉じた。


「なんでもない」


 嘘だった。


 彼女は、知っていた。


 ――今、砂漠で、誰かが戦っている。


 自分たちが、そこにいない間に。




 ――その頃。


 ネフィラの砂漠では、二十万が、一人の女王と戦っていた。


 特務課の三部隊が、投入されていた。


 黒翼分隊は、そこにいなかった。


 出陣命令は、確かに出ていた。


 ――だが、彼らは、戦場にいなかった。


 誰も、まだ、そのことに気づいていなかった。



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