粛清
【名簿】
最初の一人は、質疑の四日後だった。
――ドルマン議員、六十七歳。
自宅の階段から転落。首の骨を折って即死。
葬儀の記事は、新聞の四面の隅に、三行で載った。
二人目は、その六日後。
――ケルナー議員、五十八歳。
夜、書斎で心臓発作。発見は翌朝。
健康診断の記録では、心臓に問題はなかった。
――記録は、その日のうちに紛失した。
三人目と四人目は、同じ日だった。
――ハーヴィ議員、六十二歳。乗っていた船が沈没。
――アルベール議員、五十四歳。失踪。以後、発見されず。
新聞は、両方を「相次ぐ不幸」と書いた。
五人目は、質疑から二十二日後。
――八十二歳の、議長役の老議員。
彼は、自宅の寝室で、朝、死んでいた。
死因は、老衰。
――八十二歳。誰も、疑わなかった。
彼の枕元には、書きかけの手紙があった。
『――もし、これを誰かが読むなら』
そこで、途切れていた。
その手紙は、遺品整理の際に紛失した。
二ヶ月で、九人のうち、六人が死んだ。
残った三人は、議会に来なくなった。
一人は病気を理由に。一人は地方の領地へ。
そして一人は――
ある朝、議場に現れて、賛成票を投じた。軍拡予算の、追加分に。
彼は、それ以来、一言も発言していない。
【書けない】
その間、新聞の紙面が変わっていった。
――最初は、記事が短くなった。
次に、見出しの言葉が変わった。
『元帥閣下への疑惑』が、『一部議員による中傷』になった。
三週目、一つの新聞社が営業停止になった。
理由は「用紙の配給規定違反」。
――印刷用紙は、戦時徴収の対象品目だった。
その社は、二日後に廃刊した。
残った新聞社は、書くのをやめた。
誰も、脅されていなかった。
――ただ、紙が来なくなるのが、怖かった。
街には、憲兵が溢れた。
辻ごとに、二人。広場には十人。駅には常駐所ができた。
夜間外出の制限が、二十二時から二十時に繰り上げられた。
「五人以上の集会は届出を要す」の告示が、帝都にも貼られた。
――二年前、シキナの集落の掲示板で見たものと、一字一句、同じ文面だった。
黒翼分隊は、その全期間、動員され続けた。
「――今日で、十九日連続だ」
朝の点呼で、アシュが言った。
「休みなしかよ」
「命令書は、毎朝来るわ」
リヴィアは、封蝋を割った。
その音が、以前より乾いて聞こえた。
「本日の任務。中央広場の警備。……人員配置は、憲兵隊の指揮下に入る」
「憲兵の下に!?」
「そう書いてある」
「うちは特務課だぞ!」
「そう書いてあるの」
彼女は、命令書を畳んだ。
――特務課の部隊が、憲兵隊の指揮下に入る。
制度上、あり得ないことだった。
誰かが、意図的に、指揮系統を混ぜている。そうすれば、誰が命じたか、記録に残らなくなる。
【広場】
その日の午後。
中央広場には、三千人が集まっていた。
――デモだった。
だが、二ヶ月前とは違った。
布看板の文字が、変わっていた。
『議員を返せ』
『六人はどこへ行った』
『我々を殺すな』
掲げられていたのは――白い花だった。
死んだ議員たちへの、弔いの花。
――静かなデモだった。
罵声はなかった。誰も叫んでいなかった。
三千人が、白い花を持って、ただ立っていた。
その静けさが、逆に恐ろしかった。
黒翼は、広場の東側に配置されていた。
西側には――別の部隊がいた。
濃紺の軍服。
「……あれ」
リズが、目を細めた。
「特務課? うち以外にも来てるの?」
「――雷牙隊よ」
リヴィアが答えた。
シキナで、カリンを撃退した五人だ。
その先頭に、短く切り揃えた黒髪の女が立っている。
イグナ・ヴェルド。
彼女は、こちらに気づいて、軽く頷いた。
――それだけだった。
午後三時、状況が動いた。
群衆の一部が、議事堂へ向かって歩き出したのだ。
暴力的ではなかった。ただ、歩き出した。白い花を持って。
『――止まれ』
拡声魔導具の声が、広場に響いた。
『行進は許可されていない。ただちに解散せよ』
群衆は、止まらなかった。黙って、歩き続けた。
『止まれ! ただちに止まれ!』
――止まらなかった。
リヴィアの耳の通信機に、声が入った。
『――黒翼分隊、応答せよ』
憲兵隊の指揮官の声だった。
「黒翼、ノクスです」
『貴隊は東側から前進し、群衆を制圧せよ』
「制圧の方法を、具体的に指示してください」
『――武力による制圧である』
リヴィアの背中がこわばった。
「……確認します。相手は非武装の市民です」
『暴徒である』
「白い花を持っています」
『暴徒である』
同じ言葉が、繰り返された。
「……武器の使用は」
『許可する』
リヴィアの喉が鳴った。
『繰り返す。武器の使用を許可する。……ただちに実行せよ』
【線】
――リヴィアは、応じなかった。
通信機を握ったまま、広場を見ていた。
三千人。白い花。
その中に、老人がいた。若い母親がいた。子供がいた。
『黒翼分隊、応答せよ』
彼女が通信機を口元へ持ち上げようとした、その前に。
「――あたしは、撃ちません」
小さい声だった。震えていた。
全員が、その声の方を見た。
ミーナレイだった。刀の柄に手をかけたまま、広場を見ている。
「ミーナレイ」
「すみません、隊長。命令だって、分かってます。……でも、あたし、撃ちません」
彼女は、群衆の一点を見ていた。
二ヶ月前、彼女の手を振り払った少女が、そこにいた。今日は看板を持っていない。白い花を、両手で持っていた。
「あそこに、あの子がいます」
「…………」
「名前、知ってるんです」
リヴィアは、彼女を見た。
いつ調べたのか、なぜ調べたのか、何も聞いていない。
――だが、この子は、あの日から今日まで、その名前を持ち歩いていた。
「……そう」
彼女は、通信機を口元に持ち上げた。
「――拒否します」
通信が、一瞬、途切れた。
『……なんと言った』
「拒否します」
彼女は、はっきりと言った。
「非武装の市民に対する武力行使は、実行できません」
『命令である』
「命令の正当性に、疑義があります」
『貴官――』
「特務課服務規程、第十二条」
彼女は、遮った。
「『明白に違法な命令に対しては、指揮官の判断で執行を留保できる』」
『それは戦時における――』
「今は戦時ではありません」
リヴィアは、言い切った。
「――ここは、帝都です」
通信が、切れた。
――隊の四人が、彼女を見ていた。
「……隊長」
リズの声が掠れていた。
「今の、まずいやつでは」
「まずいわ」
「軍法会議ですよ、たぶん」
「たぶんね」
リヴィアは、平然と答えた。
「――でも」
彼女は、広場を見た。
「線を引くって、こういうことでしょう」
「え?」
「ムラサメ殿に、教わったの」
彼女は、低い声で言った。
「ここまでは自分。ここから先は、外。……その線を、自分で引け、って」
彼女は、剣の柄に手を置いた。
「――撃たない。それが、私の線よ」
アシュが、鼻を鳴らした。
「……上等だ」
彼は、銃を鞘に納めた。
リズが、短剣を仕舞った。
ミーナレイは、涙を拭って、頷いた。
――ネロだけが、俯いていた。
【雷】
三分後。
広場の西側で、光が走った。
「――え?」
青白い雷が、群衆の前方の石畳に落ちた。
爆音。悲鳴。人波が、後ろへ崩れる。
「な、なに!?」
「雷牙隊……!」
リヴィアは、西側を見た。
イグナ・ヴェルドが、右手を上げていた。その背後で、四人が同時に構えている。
――二撃目。三撃目。
落雷は、正確に群衆の足元だけを狙っていた。人には、当てていない。
だが――衝撃波と石畳の破片で、次々と人が倒れていく。
「――やめて!!」
リヴィアが、駆け出した。
「イグナ中尉!! やめなさい!!」
彼女は、広場を横切った。逃げ惑う群衆の中を、逆走して。
「――ノクス大尉」
イグナは、手を止めなかった。
四撃目。五撃目。
「命令だ」
「非武装よ!」
「暴徒だ」
「花を持ってるだけでしょう!」
「――暴徒だ」
彼女の声は平坦だった。感情が、まったくなかった。
「やめなさい!!」
リヴィアは、彼女の前に立った。
――イグナの手が、止まった。
二人は、至近距離で睨み合った。群衆の悲鳴が、背後で響いている。
「……どけ」
「どかない」
「二度は言わない」
「私も」
――イグナの目が、細くなった。
その瞳に、初めて、感情のようなものが浮かんだ。
軽蔑だった。
「……お前は」
彼女は、低い声で言った。
「――撃たなければ、綺麗な手のままだと思っているのか」
「…………」
「今日、私が撃った」
彼女は、群衆を顎で示した。
「明日は、誰が撃つ」
「…………」
「明後日は? 来週は?」
彼女は、手を下ろした。
「――誰かが撃つんだ」
その一言が、リヴィアの胸を刺した。
「お前が拒んだ命令は、消えない。……別の誰かに、回るだけだ」
イグナは、背を向けた。
「――撤収」
雷牙隊が、動いた。
彼女は、去り際に、一言だけ言った。
「お前は、正しい」
「…………」
「正しくて、無意味だ」
リヴィアは、言い返さなかった。
言い返す言葉を、持っていなかった。
――広場には、七十三人の負傷者が出た。
死者は、二人。
石畳の破片が、頭に当たった老人。
もう一人は、逃げる人波に踏まれた、六歳の子供だった。
――イグナは、人には当てていない。
彼女の雷は、一発も、人体に触れていない。
それでも、二人が死んだ。
新聞は、翌日こう書いた。
『暴徒、混乱の中で自ら二名の死者を出す』
【聴取】
その夜、リヴィアは軍務省の一室に呼ばれた。
――軍法会議の、事前聴取だった。
尋問官は、二人。
「――ノクス大尉。命令拒否の事実を認めますか」
「認めます」
「理由は」
「先に申し上げた通りです」
彼女は、淀みなく答えた。
――一時間の聴取だった。
最後に、尋問官が書類を閉じた。
「……以上です。お帰りください」
「処分は」
「追って通知します」
彼女は、部屋を出た。
そして――処分は、来なかった。
三日待った。一週間待った。
何も、来なかった。
軍法会議は、開かれなかった。彼女の記録には、何も残らなかった。
――そのことが、何より恐ろしかった。
「……なんで」
彼女は、グレイに聞いた。
「なんで、処分がないの」
「必要ないと判断されたんだろう」
「必要ない?」
「――お前を罰しても、意味がないからだ」
グレイの声は、低かった。
「お前が拒んでも、命令は実行された。……つまり、お前は障害にならなかった」
「…………」
「障害にならないものを、わざわざ罰する必要はない」
リヴィアは、拳を握った。
イグナの言葉が、耳から離れなかった。
――正しくて、無意味だ。
【七十五】
その夜、リヴィアは憲兵隊の記録室にいた。
「――負傷者名簿の、閲覧?」
当直の書記官が、怪訝な顔をした。
「はい」
「なんのために」
「報告書の作成のため、です」
嘘だった。書く報告書など、どこにもない。
特務課の記章と大尉の階級章を見て、書記官は綴りを二冊持ってきた。負傷者と、死亡者。
「一時間で閉めますよ」
「はい」
彼女は、机に手帳を開いた。
――七十三人。
名前。年齢。住所。負傷の部位。
一人ずつ、書き写していった。
六十四歳の女性。右腕骨折。中層区。
二十二歳の男性。頭部裂傷。下層区。
十六歳の少女。左足首の骨折。同じく、下層区。
――四十一人目で、彼女の指が止まった。
二ヶ月前、ミーナレイの手を振り払った少女の名前だった。三日前、あの子の手帳に書かれた名前と、同じ字。
打撲。左肩。全治二週間。
――生きている。
リヴィアは、その一行を書き写して、次へ進んだ。
書記官が、二度、時計を見に来た。
一時間では、終わらなかった。
「……あと少しです」
「……ああ、はい」
彼は、それきり何も言わずに、部屋の隅で待っていた。
最後の二人は、別の綴りだった。
――七十一歳、男性。頭蓋骨陥没。中層区。妻あり。
――六歳、女児。窒息および圧迫。下層区。
六歳の欄には、父母の名前も書かれていた。父は、二年前に南方で戦死。
リヴィアは、その三人分の名前を、全部書き写した。
書き終えて、手帳を閉じた。
記録室を出ると、外は夜半だった。
街灯が、等間隔に灯っている。辻には、憲兵が二人。
彼女は、手帳を上着の内側に入れた。
――何にもならない。
この手帳で、誰も生き返らない。誰の骨も繋がらない。あの母親のところへ子供は帰ってこない。
イグナの言う通りだ。正しくて、無意味だ。
それでも、彼女は書いた。
新聞は、「二名の死者」と書いた。二名。数字だった。負傷者は、七十三名。これも数字だ。
――カラム・ディートも、そうだった。
三面の隅の三行。国葬の壇上の名前。募兵ポスター。石碑に彫られた、いもしない十二人。
あの人がどんな声で笑って、何を口癖にしていたかは、どこにも残らなかった。
――数字にされる前に、名前がある。
それだけは、誰にも消させたくなかった。
彼女は、隊舎への道を歩いた。
上着の内側で、手帳の角が、歩くたびに肋骨に当たっていた。
【老侍従】
同じ頃。
グレイは、別の場所で動いていた。
グランドアーカムの、裏手の勝手口。
深夜、そこに一人の老人が現れた。
白髪。皇室の紋のついた古い上着。
――皇帝アルディスの、老侍従だった。
「……お待たせいたしました」
「いえ」
「あまり、時間がありません」
老人は、周囲を気にしていた。
「陛下は、ご無事ですか」
「――ご無事です。ただ」
彼は、声を落とした。
「先月から、お部屋を出られません」
グレイの目が、細くなった。
「……幽閉ですか」
「そういう言葉は、使われておりません」
老人は、苦しそうに言った。
「『ご体調を考慮して』と」
「…………」
「食事も、書類も、私が運びます。……面会は、許可制です」
「誰の許可で」
「――大本営です」
グレイの喉が鳴った。
「宮内省ではなく?」
「先月、宮内省の権限が、大本営に移管されました」
老人の声が震えた。
「陛下の身辺警護を、軍が担うという名目で」
「――ヴェイン翁の件を、伺いたい」
グレイは、話を変えた。
「あの方から、何か預かっていませんか」
「……いえ」
「本当に」
「本当に、何も」
老人は、首を振った。
「ただ」
「ただ?」
「亡くなる少し前、こう申されました」
彼は、記憶を辿るように言った。
「――『鞄の中身は、鞄には入っておらん』と」
グレイの動きが、止まった。
「……なんですって」
「意味は、分かりません。……ただ、そう」
老人は、困った顔をした。
「あの方は、時々、謎めいた言い方をされる方でしたので」
グレイは、その言葉を持ち帰った。
――鞄の中身は、鞄には入っておらん。
(……知ってたのか)
セドリック・ヴェインは、レイリットの鞄のことを知っていた。そして、中身が別の場所にあることも。
(――繋がってたのか、あの二人)
議会の反戦派の頭と、ヴァルグレイスの手駒が。どこかで、繋がっていた。
(……何を、していた)
答えは、二人とも死んで、分からなくなった。
その話を聞いた時、リヴィアは口を挟まなかった。
言わずに、自室に戻ってから、引き出しの奥の真鍮の札を出した。
『六』
――ヴェイン翁は、知っていた。
レイリットは、二枚の札を作った。
一枚は、自分の胸ポケットに。もう一枚は、誰かに。
その誰かが、五十分後に六番を引き出した。
その三日後、三日月と鍵の印を押した封筒が届いた。
(……もう一枚の札を持っていたのは)
答えは、たぶん、もう出ている。
彼女は、札を引き出しに戻して、鍵をかけた。
【エレナ】
執務室に戻ると、灯りがついていた。
エレナ・ファルネが、書類を整理していた。
「……まだいたのか」
「はい」
「帰れ」
「帰ります」
彼女はそう言って、動かなかった。
グレイは、椅子に腰を下ろした。
しばらく、二人とも黙っていた。
「――少佐」
やがて、彼女が言った。
「中佐だ」
「……中佐」
彼女は、書類を置いた。
「もし、あなたが捕まったら」
グレイの手が、止まった。
「……何の話だ」
「近いうちに、そうなるでしょう」
彼女は、低い声で言った。
「議員が六人死にました。次は、動いている軍人です」
「…………」
「あなたは、動きすぎています」
グレイは、応じなかった。
「――捕まった時」
エレナは、眼鏡を押し上げた。
「あなたは、自白しません」
「…………」
「絶対に、しません。……そういう方です」
彼女の声が、少しだけ震えた。
「拷問されても、薬を使われても、あなたは黙る」
「…………」
「そして、死ぬまで黙る」
彼女は、顔を上げた。
その目が、赤かった。
「だから――その前に、助けてください」
「……エレナ」
「私では、助けられません」
彼女は、頭を下げた。
「私は、書類しか動かせない。……だから、お願いします」
「…………」
「その前に、逃げてください」
彼女は、それだけ言って部屋を出ていった。
扉が閉まる音がした。
グレイは、しばらく動かなかった。
――机の上に、彼女が整理していった書類が積まれている。
その一番下に、薄い綴りが一冊、置き忘れられていた。
角が擦り切れるほど持ち歩かれた、名簿だった。
彼は、それを開かなかった。
翌朝、綴りは、なくなっていた。
【掌握】
その週の金曜日。
大本営で、人事が発令された。
『参謀本部作戦部長 更迭』
『軍務省人事局長 更迭』
『陸軍第一軍団長 異動』
『空挺部総括隊長 新任』
――四つの、大きな椅子が、一日で入れ替わった。
空挺部総括隊長の後任は、レイリットの死から二ヶ月、空席だった。
そこに座ったのは、大本営付の、無名の少将だった。
誰も、その男の経歴を知らなかった。
同じ日。
新たな組織図が、公示された。
これまで、大本営と参謀本部と軍務省は、三つに分かれていた。互いを、牽制するためだった。
――それが、一つになった。
『帝国統合作戦本部』
その頂点に、一人の名前があった。
『総司令官 ヴァルグレイス・ルシオン元帥』
――帝国の全軍が、一人の男の下に入った。
誰も、反対しなかった。
反対する者は、既に、誰も残っていなかった。
【焼却炉】
その夜。
隊舎の裏で、ネロは焼却炉の前に立っていた。
――今月は、報告を出していなかった。
出せなかった。
あの日、ゼーレンの言葉を聞いてから、彼は端末を開いていなかった。
――貴官の報告が、役に立ちました。
――おかげで、適合率が上がりました。
彼が送った術式の写しが、人を道具にするために使われた。
その事実を知って、彼は初めて、手を止めた。
――だが。
「……こんばんは」
声が、した。
闇の中から、灰色の背広が現れた。
「……ゼーレン、監察官」
「今月分は、まだですね」
「…………」
「お忘れですか」
「……忘れていません」
ネロは、俯いた。
「では、なぜ」
「…………」
「フェイン准尉」
ゼーレンの声は、いつも通り穏やかだった。
「先週、貴官の隊長が、命令を拒否しましたね」
ネロの背中がこわばった。
「……はい」
「軍法会議は、開かれませんでした」
「…………」
「なぜだと思いますか」
ネロは、応じられなかった。
「――私が、止めました」
男は、微笑んだ。
「上に、こう報告しました。『当該部隊は依然として有用であり、指揮官の交代は損失である』と」
ネロの手が震えた。
「――貴官の報告が、あればこそです」
男の声には、恩を着せる響きすらなかった。事実を述べているだけの調子だった。
「貴官が黒翼の有用性を記録し続けているから、私はそれを根拠に、上を説得できる」
「…………」
「今月分が、ないと」
彼は、低い声で言った。
「――来月、説得の材料がありません」
ネロは、両手で顔を覆った。
「……卑怯だ」
「はい」
ゼーレンは、あっさりと認めた。
「卑怯です」
彼は、手を差し出した。
「――では、明日までに」
男が去った後、ネロは焼却炉の前に座り込んだ。
――二年前、この炎の前に初めて立った時、彼は吐いた。
あの頃は、こう唱えていた。
(……僕は、隊を守ってる。それだけだ)
去年から、言い方が変わった。
(誰も死んでいない。……まだ、誰も)
今は。
「……もう、どこで戻ればよかったのか、分からない」
声に出して、初めて分かった。
――言い訳が、作れなくなっている。
二年間、彼は毎回、新しい言い訳を用意してきた。用意できる限りは、まだ人間でいられる気がしていた。
今夜、それが尽きた。
――ミラの声が、蘇る。
――首輪はね、外そうとした瞬間に、締まるようにできてるの。
――だから、外そうとしちゃ駄目。
――首を差し出す相手を、変えなさい。
(……意味が、分からない)
彼は、膝を抱えた。
(誰に、差し出せばいいんですか)
答えは、返ってこなかった。
焼却炉の火が、彼の顔を、下から照らしていた。




