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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
セイクリッドルート編

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33/53

証拠

【九人】


 議員会館の、小さな一室だった。


 窓のない部屋に、九人の男女が座っている。最年少で五十代。最高齢は八十を超えていた。


 ――元老評議会、反戦派の残り全員である。


「――アークライト中佐」


 議長役の老議員が、口を開いた。


「用件を、伺おう」


 彼の手は震えていた。老齢のせいではない。


 この部屋に集まること自体が既に危険だと、全員が知っていた。


「これを」


 グレイは、机の上に革の鞄を置いた。


 開くと、中には書類の束。黄ばんだもの。写真。輸出記録の写し。命令書の複写。


 一番上に、十四年前の日付があった。


「――何だね、これは」


「エルデナ王国滅亡に関する、一次資料です」


 部屋の空気が、重くなった。


「開戦前、レムナス国内で起きた一連の事件。……聖堂放火、要人暗殺、そして使者の殺害」


 グレイの声は、低かった。


「これらすべてに、我が国の関与を示す記録があります」


 誰も、書類に手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。


「……中佐」


 老議員が、掠れた声で言った。


「君は、これがどういう意味か、分かっているのか」


「はい」


「これを議会に出せば――」


「私は、死にます」


 あっさりと、彼は言った。


「そして、あなた方も、たぶん」


 沈黙が落ちた。


 ――誰も、否定しなかった。


 二ヶ月前、彼らの中心にいた老人が、馬車の事故で死んでいる。


「……なぜ、君は」


 一人が、聞いた。


「なぜ、我々に持ってきた」


 グレイは、少し黙った。


 それから、言った。


「――セドリック・ヴェイン議員に、頼まれました」


 部屋が、凍りついた。


「翁に……?」


「亡くなる、一週間前です」


 嘘だった。


 あの夜、老人が彼に頼んだのは、皇帝のことだけだ。


 ――だが、効いた。


 九人の顔が、変わった。


「翁が……」


「あの人が、そう言ったのか」


 老議員が、震える手で書類の一枚を取った。


 しばらく、それを読んでいた。


 やがて、彼は書類を置いた。その手は、もう震えていなかった。


「……調査委員会の設置動議を、出す」


「議長」


「わしはもう八十二だ」


 彼は、低い声で言った。


「――あと何年、生きられると思う」



【割れる街】


 動議は、四日後に採決された。


 賛成、三十八。反対、五十一。棄権、三十一。


 ――否決である。


 だが、その日の夕刊が、こう書いた。


『元老評議会、エルデナ戦争の再調査を動議』


『賛成三十八票――帝国は、何を隠しているのか』


 そこから、街が動き始めた。


⸻


 最初のデモは、五日後だった。


 中央広場に、二千人が集まった。


 掲げられたのは、手作りの布看板だった。板に釘で打ちつけただけのものもあれば、シーツを裂いて棒に結んだものもあった。字の大きさが、一枚ごとに違う。


『真実を』


『息子を返せ』


『これ以上、誰を殺すのか』


 集まったのは、若者と、戦死者の家族だった。


 ――そして、その三日後。


 同じ広場に、別の群衆が集まった。


『祖国を貶めるな』


『帝国万歳』


『裏切り者を許すな』


 五千人。デモの倍以上だった。


 こちらの旗は、全部が同じ寸法だった。同じ布地で、同じ書体で、同じ棒に留められている。その旗が、整然と並んでいた。


 誰かが、金を出している。それは明らかだった。


 ――そして、黒翼は、その日、動員された。




 群衆整理。


 黒い軍服の五人が、二つの人波の間に立たされた。


「……最悪ね、この任務」


 リズが、小声で言った。


 左には、二千人。右には、五千人。双方が、罵声を投げ合っている。


「人殺し!」


「非国民!」


「あんたたちの息子は死んでない!」


「戦争屋!」


「――押さないでください! 下がって!」


 ミーナレイが、必死に叫んでいた。


 彼女の目の前に、十八くらいの少女がいた。


 布看板を持っている。


『兄を返して』


 その少女が、ミーナレイを見た。


 ――同じ年頃だった。背格好も、髪の色も、少し似ていた。


「……あんた」


 少女が言った。


「軍人でしょ」


「……はい」


「兄も、軍人だった」


 彼女の目から、涙がこぼれた。


「南で死んだ。……なんの戦争だったのか、今も分からない」


 ミーナレイは、応じられなかった。


「教えてよ」


 少女が叫んだ。


「なんで死んだの!? 誰のために死んだの!?」


 ――後ろから、群衆が押した。


 少女が、押し倒される。


 ミーナレイが、咄嗟に水の膜を張った。彼女の周囲だけ、圧力が横へ逸れる。


「大丈夫ですか! 立てますか!」


「……触らないで」


 少女は、彼女の手を振り払った。


「あんたたちに、助けられたくない」


 彼女は、人波の中に消えていった。


 ミーナレイは、その場に立ち尽くしていた。


 ――手を、伸ばしたまま。




 その反対側では、リヴィアが立っていた。


 愛国集会の側だ。


 演壇が組まれ、拡声魔導具から声が響いている。


「――我々は、この国を守るために戦っているのだ!」


 群衆が、喝采を上げた。


 リヴィアは、その演壇の上を見上げた。


 ――背後に掲げられた横断幕を、見た。


『英雄カラム・ディートを忘れるな』


 彼女の視界が、白くなった。


(……まだ)


 二年だ。


 二年経っても、あの人の名前は、まだ、あそこにある。誰かの声を大きくするための道具として。


 ――聖都の広場の碑には、いもしない十二人と交戦したと彫られている。ここでは、名前だけが横断幕になっている。


「……隊長」


 アシュが、隣に来ていた。


「見んな」


「…………」


「見ても、なんにもならねえ」


「……ええ」


 彼女は、目を逸らした。


 逸らしたが――もう、遅かった。


 演壇の上の男が、こう言ったのだ。


「――英雄の死を、無駄にするな!!」


 喝采。


 五千人の喝采が、広場を揺らした。




 その日の夜、隊舎で。


 ミーナレイは、食事に手をつけなかった。


「……食べなさい」


 リズが言った。


「はい」


 返事だけして、彼女は箸を持たなかった。


「ミーナレイ」


「……あの」


 彼女は、俯いたまま言った。


「あたし、間違ってますか」


「なにが」


「軍人になったこと」


 テーブルが、静かになった。


「あたし、ポスター見て、入ったんです」


 彼女の声が震えた。


「『河を制した英雄たちに、続け』って書いてあって。……かっこいいなって、思って」


「…………」


「でも、今日、あの子に言われました。『あんたたちに、助けられたくない』って」


 彼女は、顔を上げた。目が赤かった。


「あたし、何のために、ここにいるんですか」


 ――四人とも、すぐには口を開かなかった。


 リズが、少し考えてから言った。


「……分かんない」


「え」


「あたしも、分かんないの」


 彼女は、正直に言った。


「入った時は、分かってたつもりだった。……でも、二年前から、分かんなくなった」


「…………」


「たぶん、分かんないまま、やってる人の方が多いわよ」


 その時、アシュが口を挟んだ。


「――新人」


「はい」


「今日、お前、あの女の子に膜を張ったろ」


「……はい」


「押し倒されて、踏まれるところだった」


 彼は、パンをちぎった。


「――お前が張らなきゃ、あの子、死んでたかもな」


 ミーナレイの顔が、跳ね上がった。


「感謝されなかったのが、そんなに大事か」


「…………」


「助けたのは、事実だろ」


 彼は、それだけ言って食事に戻った。


 ミーナレイは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いて――箸を、取った。


 ――少し離れた席で、ネロが、それを見ていた。


 彼は、口を挟まなかった。ただ、自分の皿をじっと見ていた。


【名前】


 三日後、ミーナレイは憲兵隊の詰所にいた。


「――拘束記録の閲覧?」


 当直の下士官が、怪訝な顔をした。


「はい。先日の中央広場の、二千人の側の分です」


「なんのために」


「……その、確認したいことが」


 彼女は、うまく説明できなかった。


 特務課の記章と、大尉の裏書きのある閲覧願を出すと、下士官はしぶしぶ綴りを持ってきた。


 薄い綴りだった。あの日、拘束されたのは十九人。全員、その日のうちに釈放されている。


 ミーナレイは、頁をめくった。


 十九人分の名前と、年齢と、住所と、職業。


 ――十八歳。女性。中層区。縫製工。


 彼女の指が、そこで止まった。


 その名前を、彼女は三度、読んだ。


「……この人」


「なんだ」


「あの、この人の、お兄さんのことは、分かりますか」


「兄?」


「南方で、戦死されたと」


 下士官は、面倒くさそうに別の綴りを引っ張り出した。しばらくめくって、首を振った。


「……この管区の戦死者名簿には、載ってないな」


「え」


「所属が違うんだろ。別の管区か、あるいは」


 彼は、そこで言葉を切った。


「……あるいは?」


「載らない部隊もある」


 それだけだった。それ以上は、言わなかった。


 ミーナレイは、綴りを返した。


 詰所を出て、通りの端で、彼女は手帳を開いた。


 鉛筆で、一行だけ書いた。


 名前と、年齢と、それだけ。


 ――書いて、しばらく、その一行を見ていた。


 何かができるわけではなかった。会いに行ける立場でもない。行けば、また同じことを言われるだけだ。


 それでも、彼女は書いた。


 手帳を閉じて、鞄の底へ入れた。


 ――底には、四つに折った紙が、まだ入っていた。


【グランドアーカム】


 その翌日。


 リヴィアは、グランドアーカムに呼ばれた。


 群衆整理の功績に対する、形式的な報告会だった。


 ――同行者は、グレイ。


 二人は、白亜の塔の三階、大理石の廊下を歩いていた。


「……なんで、こんなもののために呼ばれるの」


「体裁だ」


 グレイが答えた。


「軍が『市民の安全を守った』という記録が要る。……そのための報告会だ」


「馬鹿らしい」


「そうだな」


 廊下は、混雑していた。将校、文官、書記官。数十人が行き交っている。


 ――そこで、音が消えた。




 私語が、止まった。


 誰も、命じていない。なのに、廊下にいた全員が――同時に、話すのをやめた。


「……?」


 リヴィアは、周囲を見回した。


 ――全員が、壁際に寄っていた。


 文官が。書記官が。将官までもが。廊下の中央が、水の引くように空いていく。


 誰も、走っていない。慌ててもいない。ただ、当たり前のように道を空けていた。


 ――知っている。


 この光景を、知っている。


 二年前。入隊の日。案内の若い兵と歩いた、あの長い通路。


 文官たちが順に壁へ寄り、案内の兵が敬礼したまま動かなくなり、足音が一人分、通り過ぎた。あの時、彼女は意味が分からないまま、一拍遅れて壁に寄った。


 ――背中しか、見なかった。


 金の髪。きっちりと分けられた七三。


 誰も、名前を言わなかった。


「……グレイ」


「――黙って」


 彼の声が、鋭かった。


 リヴィアは、彼の横顔を見た。


 ――グレイの、顎の線がこわばっていた。


 この男がこんな顔をするのを、彼女は数えるほどしか見たことがない。


「……来る」


 彼は、それだけ言った。




 廊下の奥から、足音がした。


 一人分だ。規則正しい、落ち着いた足音。


 ――速くもなく、遅くもない。


 なのに、なぜか、耳から離れなかった。


 角を曲がって、その人が現れた。


 ――背が、高い。


 二メートル近い。だが、それだけなら他にもいる。肩幅が広く、軍服の下の体は、明らかに鍛えられていた。


 金色の髪を、きっちりと七三に分けている。肌は白く、皺は少ない。年齢は五十代に見えた。


 カーキの元帥服。金モールと飾緒。胸に、勲章の列。


 ――そして、氷のような、青い瞳。


 ――彼は、微笑んでいた。


 穏やかに。親しげに。


 その微笑みは、驚くほど自然だった。




「――おはよう、ヴィンス書記官」


 彼は、通りすがりの文官に声をかけた。


「ひっ……お、おはようございます、元帥閣下!」


「奥様の具合はどうかな。先月、伏せっておられたと聞いたが」


「あ、はい! おかげさまで、回復いたしまして……」


「それは良かった」


 彼は頷いて、歩き続けた。


 次の相手にも。


「モルダー大尉。この間の報告書、良い出来だった」


「あ、ありがとうございます!」


「三十七頁の図が特に良い。……あれは君が描いたのか」


「は、はい!」


「そうか。良い目をしている」


 ――彼は、全員の名前を知っていた。


 文官の。書記官の。若い大尉の。名前も、その家族のことも、書いた報告書の何頁目に何が描いてあるかも。


 声をかけられた者は、例外なく、顔を輝かせた。


 ――そして、彼が通り過ぎた後、全員が、詰めていた息を吐いていた。


 リヴィアは、それを見ていた。


 声をかけられた文官の顔。嬉しそうだった。心から、嬉しそうだった。


 ――なのに、彼が通り過ぎた瞬間、その男は壁に手をついた。


 膝が、笑っていた。


 嬉しかったのに、体が限界だったのだ。


(……何、これ)


 誰も、恐れていない。誰も、この男を嫌っていない。むしろ、慕っている。声をかけられることを、光栄に思っている。


 ――なのに、全員の体が、悲鳴を上げている。


(気づいてない)


 リヴィアは、悟った。


(この人たち、自分が怖がってることに、気づいてない)



【底】


 ――リヴィアは、動けなかった。


 最初に感じたのは、耳だった。


 空気の底で、いつも鳴っている音。魔素の唸り。生まれてからずっと聞いてきた、世界の底鳴り。


 ――それが、聞こえなかった。


 消されているのではない。バルドアの無効化パルスとは、まったく違う。あれは「音が止まる」感覚だった。


 これは――


(……かき消されてる)


 もっと大きな音に。人の耳では拾えない、遥かに低い、遥かに巨大な音に。世界の底鳴りが、その音の中に埋もれていた。


 リヴィアの膝が、笑った。




(……違う)


 彼女は、必死に自分の感覚を整理しようとした。


(この感じ、知ってる。……ムラサメ殿と、ミラ殿)


 二人と会った時も、同じような圧を感じた。


 でも――違う。決定的に、違う。


 ムラサメは、山だった。ただ、そこに在った。動かず、隠さず、剥き出しのまま。千年分の重さが、そのまま置いてあった。


 ミラは、森だった。こちらを包み込んでいた。彼女の理は庵の外の木々にまで滲み出していて、境目がなかった。


 ――どちらも、隠していなかった。隠す必要がなかったからだ。


 でも、この男は。


(……抑え込んでる)


 リヴィアの背中を、汗が伝った。


(全力で、抑え込んでる)


 ――堤防だ。


 最初に浮かんだのは、その言葉だった。


 目の前にあるのは、堤防だ。その向こうに、海がある。こちらが感じているのは、堤防の高さだけで、海の深さは視えない。


 いや。


 それも、正確ではなかった。


(……違う。堤防じゃない)


 堤防なら、水圧を感じるはずだ。押し寄せる圧を、こちら側からも測れるはずだ。


 でも、この男の周りには――圧が、ない。


 完璧に、静かだった。


 ――それが、恐ろしかった。


(魔力が漏れてない)


 ムラサメは、剥き出しだった。千年分の重さがそのまま置いてあったから、測れた。「勝てない」と、正確に理解できた。


 ミラは、滲み出ていた。庵の周りの木々に、地面に、空気に、彼女の理が染みていた。だから、境目が分からなかった。


 ――どちらも、外に出ていた。


 この男は、一滴も出していない。


(……どうやって)


 リヴィアは、循環を知っている。ミラに教わった。魔法が魔法を生み、増幅する。彼女ですら、五連撃で自分を喰いかけた。


 ――では、これはどうだ。


 五百年。


(……五百年、練り続けたら)


 その先に、何があるのか。


 想像しようとして――できなかった。


(……どれくらい)


 彼女は、必死に測ろうとした。測れなかった。


 二年前、セリウスと戦った時。あの光の物量に、彼女は絶望した。


 その絶望を物差しにして測ろうとして――物差しの方が、途中で消えた。


(……格が)


 彼女の喉が鳴った。


(格が、違う)




 ――彼女は、もう一つのことに気づいた。


 ――自分の中の闇が、動いていた。


 いつも、喰おうとする。黒閃を放てば喰う。黒葬を張れば喰う。絶空を振れば喰う。あの闇は、常に外へ手を伸ばしている。


 なのに、今。


(……逃げてる)


 闇が、彼女の内側の、いちばん奥へ縮こまっていた。獣が巣穴の底へ潜り込む時の、あの縮み方だった。


 ――喰う本能を持つものが、喰えないと悟った時の反応だった。


 いや、違う。もっと単純だ。


(……怖がってる)


 自分の中の化け物が、怯えている。


 その事実に、リヴィアは、本当の恐怖を感じた。


【君が】


 足音が、近づいてきた。


 リヴィアとグレイは、他の者と同じように、壁際に寄って立っていた。


 ――グレイが、直立した。


「元帥閣下」


「ああ、アークライト中佐」


 男は、足を止めた。


「――昇進したね。おめでとう」


「恐縮です」


「二年前だったか。……いや、一年と十ヶ月前だな」


 彼は、微笑んだ。


「南方の作戦での功績だ。良い判断だった」


「……ありがとうございます」


 グレイの声は、平坦だった。


 ――だが、リヴィアには分かった。


 彼の左手が、後ろで拳を握っていた。


「君の父上を、私は知っている」


 男は、穏やかに言った。


「エルデナの、アークライト家だったな。……惜しいことをした」


 グレイの肩が、わずかに動いた。


「――あの国は、良い国だった」


 その言い方には、社交辞令の角がなかった。心から惜しんでいる者の口調だった。


「……はい」


「学問を尊び、争わず、千年続いた。……そういう国が、なぜ滅びたのだろうな」


 リヴィアの心臓が、大きく打った。


(――なにを)


「世の中は、時々、理不尽だ」


 男は、低い声で言った。


「だからこそ、我々のような者が、秩序を守らねばならない」


「……仰る通りです」


「うむ」


 彼は、満足そうに頷いた。


 ――そこで。


 その視線が、動いた。


 ――リヴィアに。




 目が、合った。


 氷のような、青。


 全身の毛が、逆立った。


 ――視られている。


 顔ではない。輪郭でもない。もっと奥。


 ムラサメが視た場所と、同じところを。


 彼は、しばらく彼女を見ていた。


 二秒か、三秒。――永遠のように、長かった。


 そして。


「……ああ」


 彼は、言った。


「君が」


 ――それだけだった。


 何が「君が」なのか。何を知っていて、何を思ったのか。


 一切、分からなかった。


 彼は、視線を下げた。彼女の腰の――黒いレイピアへ。


「良い剣を持っているね」


 穏やかな声だった。


 ――そして、彼は歩き出した。


 何事もなかったように。


 規則正しい足音が、遠ざかっていく。角を曲がって、消えた。




 ――廊下の空気が、戻った。


 音が、戻った。魔素の底鳴りが、戻った。人々が、また歩き出し、話し始める。


 その中で、リヴィアだけが、動けなかった。


「……リヴィア」


「…………」


「――リヴィア」


 グレイの声で、彼女は我に返った。


 膝が、震えていた。立っていられないほどではない。だが、確実に、震えていた。


「……大丈夫か」


「……分からない」


 彼女は、壁に手をついた。


「……グレイ」


「なんだ」


「……あれ、なに」


 声が掠れていた。


「あれ、なんなの」


 グレイは、すぐには応じなかった。


 彼も、青ざめていた。


「――人類最強、だ」


 やがて、彼は言った。


「公式に、そう呼ばれてる」


「……人類最強」


「三十年間、彼が指揮した作戦は、一度も敗れていない」


 彼は、廊下の先を見た。


「そして、彼が個人で戦った記録は――一つもない」


 リヴィアは、顔を上げた。


「……ない?」


「ない」


 グレイは頷いた。


「三十年、大本営にいて、常に前線を指揮してきた。……だが、彼が剣を抜いた記録は、一つもない」


「……なぜ」


「必要が、なかったからだ」


 彼は、低い声で言った。


「彼が到着した戦線は、彼が何もしなくても勝つ」


「……そんな」


「本当だ。……北のグラルド国境紛争がそうだった」


 彼は、指を折った。


「二十二年前。三ヶ月膠着していた戦線に、彼が視察に来た。……その翌日、敵の司令官が降伏を申し出た」


「……戦わずに?」


「戦わずにだ」


「なぜ」


「分からん」


 グレイは首を振った。


「記録には『敵将、戦意喪失』とだけある」


 リヴィアの喉が鳴った。


「――だが、俺は思う」


 彼は、廊下の先を見た。


「その司令官も、たぶん、今日のお前と同じものを見たんだ」




 二人は、しばらく黙って歩いた。


「……グレイ」


「なんだ」


「勝てるの、あれに」


 彼は、応じなかった。


 長い間、応じなかった。


 やがて、階段の下で、彼は足を止めた。


「――勝てない」


 あっさりと、彼は言った。


「……え」


「正面からは、絶対に勝てない」


 彼は、振り返った。


「セイクリッドルート五人が、五百年前に一度、封じている。……五人がかりでだ」


「…………」


「今、俺たちの手元に、理は一人もいない」


 彼は、低い声で言った。


「――だから、戦っちゃ駄目なんだ」


「戦わずに、どうするの」


「引きずり下ろす」


 彼の目が、鋭くなった。


「あの男の力は、帝国の中にある。軍と、議会と、民の支持だ」


 彼は、拳を握った。


「――全部、剥がす」


【二枚】


 その夜。


 軍務省の執務室で、リヴィアはグレイに報告した。


「……全部、隠してた」


「隠してた?」


「そう。……あれは、蓋よ」


 彼女は、両手で自分の腕を抱えていた。まだ、鳥肌が引いていなかった。


「ムラサメ殿も、ミラ殿も、隠してなかった。……ただ、そこに在っただけ」


「…………」


「でも、あの人は違う。……全力で、抑え込んでる」


 彼女は、顔を上げた。


「抑え込んでるものが、どれくらいなのか――測れなかった」


 グレイは、黙って聞いていた。


「……もう一つ、いい?」


「なんだ」


「私の闇が」


 彼女は、自分の胸を押さえた。


「――怯えたの」


 グレイの目が、細くなった。


「怯えた?」


「あれ、いつも喰おうとするのよ。何でも」


 彼女の声が震えた。


「なのに、あの人の前で、逃げた。……奥に、隠れた」


 部屋が、静まり返った。


「……つまり」


 グレイが、掠れた声で言った。


「お前の中のそれは、あの男を『喰えない』と判断した」


「……それか」


 リヴィアは、俯いた。


「――『喰われる』と、判断した」




 同じ頃。


 隊舎の裏、焼却炉の前。


 ネロは、いつも通り、折り畳んだ紙を差し出していた。


「――先月分の報告です」


「ご苦労様です」


 ハルヴァ・ゼーレンは、それを受け取った。


 それから、内ポケットから紙を出した。


 ――ネロの手が、止まった。


「……二枚」


「ええ」


「なぜ、二枚なんですか」


「上が、満足しているようです」


 ゼーレンは、微笑んだ。


「何に」


「さあ」


 彼は、答えを言わなかった。


 ネロは、二枚の紙を受け取り、焼却炉に投げ入れた。炎が、それを舐めた。


「――ところで、フェイン准尉」


 ゼーレンが言った。


「近く、特務課に、新しい部隊が編成されます」


 ネロの背中がこわばった。


「……新しい」


「第八特殊部隊。……名は、まだありません」


 彼は、事もなげに言った。


「編成の指揮は、大本営直轄です」


「……人員は」


「戦傷者と、身寄りのない者から」


 ――ネロの視界が、白くなった。


 首輪。留め具のない、継ぎ目のない輪。四つ持たせて、三つ余った数え方。


 適合率、八十二。


 戦傷者の再利用に関する、認可書。


 全部が、一本の線で繋がった。


「……あの」


 彼の声が震えた。


「その部隊は、何をするんですか」


「命令されたことを」


 ゼーレンは、あっさりと答えた。


「――それだけです」


 彼は、背を向けた。


 去り際に、こう言った。


「ああ、そうだ」


「…………」


「貴官の報告が、役に立ちました」


 ――ネロは、動けなかった。


「東方の禁足地。あの遺留品の照会。……あれで、術式の欠陥が一つ、見つかったそうです」


 彼は、微笑んだ。


「おかげで、適合率が上がりました。……上が、たいそう喜んでおりました」


 男は、闇の中へ消えていった。




 ネロは、焼却炉の前に立ち尽くしていた。


 炎が、彼の顔を下から照らしている。


『案ズルナ』


 あの四文字が、頭の中で鳴っていた。


 ――療養用。戦傷者の痛覚遮断及び鎮静に用いる。


 あの日、船の甲板で、彼は三度読み返した。術式の構造は、意思決定を外部から上書きするものだった。読み違えるはずがなかった。


 自分でも、どこがおかしいのか、指を差せた。


 差せたのに、端末を閉じた。


 閉じて、その夜から、前より詳しく書いた。


 ――照会を求めたのは、自分だ。


 誰にも頼まれていない。ゼーレンに命じられてもいない。あれは、彼が二年間で唯一、自分の意思で送ったものだった。


 その一通が、術式の欠陥を一つ潰した。


(……僕が)


 膝が、折れた。


 彼は、その場に膝をつき、両手で口を押さえた。


 声を、出さないように。誰にも、聞こえないように。


 ――炎の音だけが、夜に響いていた。



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