証拠
【九人】
議員会館の、小さな一室だった。
窓のない部屋に、九人の男女が座っている。最年少で五十代。最高齢は八十を超えていた。
――元老評議会、反戦派の残り全員である。
「――アークライト中佐」
議長役の老議員が、口を開いた。
「用件を、伺おう」
彼の手は震えていた。老齢のせいではない。
この部屋に集まること自体が既に危険だと、全員が知っていた。
「これを」
グレイは、机の上に革の鞄を置いた。
開くと、中には書類の束。黄ばんだもの。写真。輸出記録の写し。命令書の複写。
一番上に、十四年前の日付があった。
「――何だね、これは」
「エルデナ王国滅亡に関する、一次資料です」
部屋の空気が、重くなった。
「開戦前、レムナス国内で起きた一連の事件。……聖堂放火、要人暗殺、そして使者の殺害」
グレイの声は、低かった。
「これらすべてに、我が国の関与を示す記録があります」
誰も、書類に手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。
「……中佐」
老議員が、掠れた声で言った。
「君は、これがどういう意味か、分かっているのか」
「はい」
「これを議会に出せば――」
「私は、死にます」
あっさりと、彼は言った。
「そして、あなた方も、たぶん」
沈黙が落ちた。
――誰も、否定しなかった。
二ヶ月前、彼らの中心にいた老人が、馬車の事故で死んでいる。
「……なぜ、君は」
一人が、聞いた。
「なぜ、我々に持ってきた」
グレイは、少し黙った。
それから、言った。
「――セドリック・ヴェイン議員に、頼まれました」
部屋が、凍りついた。
「翁に……?」
「亡くなる、一週間前です」
嘘だった。
あの夜、老人が彼に頼んだのは、皇帝のことだけだ。
――だが、効いた。
九人の顔が、変わった。
「翁が……」
「あの人が、そう言ったのか」
老議員が、震える手で書類の一枚を取った。
しばらく、それを読んでいた。
やがて、彼は書類を置いた。その手は、もう震えていなかった。
「……調査委員会の設置動議を、出す」
「議長」
「わしはもう八十二だ」
彼は、低い声で言った。
「――あと何年、生きられると思う」
【割れる街】
動議は、四日後に採決された。
賛成、三十八。反対、五十一。棄権、三十一。
――否決である。
だが、その日の夕刊が、こう書いた。
『元老評議会、エルデナ戦争の再調査を動議』
『賛成三十八票――帝国は、何を隠しているのか』
そこから、街が動き始めた。
⸻
最初のデモは、五日後だった。
中央広場に、二千人が集まった。
掲げられたのは、手作りの布看板だった。板に釘で打ちつけただけのものもあれば、シーツを裂いて棒に結んだものもあった。字の大きさが、一枚ごとに違う。
『真実を』
『息子を返せ』
『これ以上、誰を殺すのか』
集まったのは、若者と、戦死者の家族だった。
――そして、その三日後。
同じ広場に、別の群衆が集まった。
『祖国を貶めるな』
『帝国万歳』
『裏切り者を許すな』
五千人。デモの倍以上だった。
こちらの旗は、全部が同じ寸法だった。同じ布地で、同じ書体で、同じ棒に留められている。その旗が、整然と並んでいた。
誰かが、金を出している。それは明らかだった。
――そして、黒翼は、その日、動員された。
群衆整理。
黒い軍服の五人が、二つの人波の間に立たされた。
「……最悪ね、この任務」
リズが、小声で言った。
左には、二千人。右には、五千人。双方が、罵声を投げ合っている。
「人殺し!」
「非国民!」
「あんたたちの息子は死んでない!」
「戦争屋!」
「――押さないでください! 下がって!」
ミーナレイが、必死に叫んでいた。
彼女の目の前に、十八くらいの少女がいた。
布看板を持っている。
『兄を返して』
その少女が、ミーナレイを見た。
――同じ年頃だった。背格好も、髪の色も、少し似ていた。
「……あんた」
少女が言った。
「軍人でしょ」
「……はい」
「兄も、軍人だった」
彼女の目から、涙がこぼれた。
「南で死んだ。……なんの戦争だったのか、今も分からない」
ミーナレイは、応じられなかった。
「教えてよ」
少女が叫んだ。
「なんで死んだの!? 誰のために死んだの!?」
――後ろから、群衆が押した。
少女が、押し倒される。
ミーナレイが、咄嗟に水の膜を張った。彼女の周囲だけ、圧力が横へ逸れる。
「大丈夫ですか! 立てますか!」
「……触らないで」
少女は、彼女の手を振り払った。
「あんたたちに、助けられたくない」
彼女は、人波の中に消えていった。
ミーナレイは、その場に立ち尽くしていた。
――手を、伸ばしたまま。
その反対側では、リヴィアが立っていた。
愛国集会の側だ。
演壇が組まれ、拡声魔導具から声が響いている。
「――我々は、この国を守るために戦っているのだ!」
群衆が、喝采を上げた。
リヴィアは、その演壇の上を見上げた。
――背後に掲げられた横断幕を、見た。
『英雄カラム・ディートを忘れるな』
彼女の視界が、白くなった。
(……まだ)
二年だ。
二年経っても、あの人の名前は、まだ、あそこにある。誰かの声を大きくするための道具として。
――聖都の広場の碑には、いもしない十二人と交戦したと彫られている。ここでは、名前だけが横断幕になっている。
「……隊長」
アシュが、隣に来ていた。
「見んな」
「…………」
「見ても、なんにもならねえ」
「……ええ」
彼女は、目を逸らした。
逸らしたが――もう、遅かった。
演壇の上の男が、こう言ったのだ。
「――英雄の死を、無駄にするな!!」
喝采。
五千人の喝采が、広場を揺らした。
その日の夜、隊舎で。
ミーナレイは、食事に手をつけなかった。
「……食べなさい」
リズが言った。
「はい」
返事だけして、彼女は箸を持たなかった。
「ミーナレイ」
「……あの」
彼女は、俯いたまま言った。
「あたし、間違ってますか」
「なにが」
「軍人になったこと」
テーブルが、静かになった。
「あたし、ポスター見て、入ったんです」
彼女の声が震えた。
「『河を制した英雄たちに、続け』って書いてあって。……かっこいいなって、思って」
「…………」
「でも、今日、あの子に言われました。『あんたたちに、助けられたくない』って」
彼女は、顔を上げた。目が赤かった。
「あたし、何のために、ここにいるんですか」
――四人とも、すぐには口を開かなかった。
リズが、少し考えてから言った。
「……分かんない」
「え」
「あたしも、分かんないの」
彼女は、正直に言った。
「入った時は、分かってたつもりだった。……でも、二年前から、分かんなくなった」
「…………」
「たぶん、分かんないまま、やってる人の方が多いわよ」
その時、アシュが口を挟んだ。
「――新人」
「はい」
「今日、お前、あの女の子に膜を張ったろ」
「……はい」
「押し倒されて、踏まれるところだった」
彼は、パンをちぎった。
「――お前が張らなきゃ、あの子、死んでたかもな」
ミーナレイの顔が、跳ね上がった。
「感謝されなかったのが、そんなに大事か」
「…………」
「助けたのは、事実だろ」
彼は、それだけ言って食事に戻った。
ミーナレイは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いて――箸を、取った。
――少し離れた席で、ネロが、それを見ていた。
彼は、口を挟まなかった。ただ、自分の皿をじっと見ていた。
【名前】
三日後、ミーナレイは憲兵隊の詰所にいた。
「――拘束記録の閲覧?」
当直の下士官が、怪訝な顔をした。
「はい。先日の中央広場の、二千人の側の分です」
「なんのために」
「……その、確認したいことが」
彼女は、うまく説明できなかった。
特務課の記章と、大尉の裏書きのある閲覧願を出すと、下士官はしぶしぶ綴りを持ってきた。
薄い綴りだった。あの日、拘束されたのは十九人。全員、その日のうちに釈放されている。
ミーナレイは、頁をめくった。
十九人分の名前と、年齢と、住所と、職業。
――十八歳。女性。中層区。縫製工。
彼女の指が、そこで止まった。
その名前を、彼女は三度、読んだ。
「……この人」
「なんだ」
「あの、この人の、お兄さんのことは、分かりますか」
「兄?」
「南方で、戦死されたと」
下士官は、面倒くさそうに別の綴りを引っ張り出した。しばらくめくって、首を振った。
「……この管区の戦死者名簿には、載ってないな」
「え」
「所属が違うんだろ。別の管区か、あるいは」
彼は、そこで言葉を切った。
「……あるいは?」
「載らない部隊もある」
それだけだった。それ以上は、言わなかった。
ミーナレイは、綴りを返した。
詰所を出て、通りの端で、彼女は手帳を開いた。
鉛筆で、一行だけ書いた。
名前と、年齢と、それだけ。
――書いて、しばらく、その一行を見ていた。
何かができるわけではなかった。会いに行ける立場でもない。行けば、また同じことを言われるだけだ。
それでも、彼女は書いた。
手帳を閉じて、鞄の底へ入れた。
――底には、四つに折った紙が、まだ入っていた。
【グランドアーカム】
その翌日。
リヴィアは、グランドアーカムに呼ばれた。
群衆整理の功績に対する、形式的な報告会だった。
――同行者は、グレイ。
二人は、白亜の塔の三階、大理石の廊下を歩いていた。
「……なんで、こんなもののために呼ばれるの」
「体裁だ」
グレイが答えた。
「軍が『市民の安全を守った』という記録が要る。……そのための報告会だ」
「馬鹿らしい」
「そうだな」
廊下は、混雑していた。将校、文官、書記官。数十人が行き交っている。
――そこで、音が消えた。
私語が、止まった。
誰も、命じていない。なのに、廊下にいた全員が――同時に、話すのをやめた。
「……?」
リヴィアは、周囲を見回した。
――全員が、壁際に寄っていた。
文官が。書記官が。将官までもが。廊下の中央が、水の引くように空いていく。
誰も、走っていない。慌ててもいない。ただ、当たり前のように道を空けていた。
――知っている。
この光景を、知っている。
二年前。入隊の日。案内の若い兵と歩いた、あの長い通路。
文官たちが順に壁へ寄り、案内の兵が敬礼したまま動かなくなり、足音が一人分、通り過ぎた。あの時、彼女は意味が分からないまま、一拍遅れて壁に寄った。
――背中しか、見なかった。
金の髪。きっちりと分けられた七三。
誰も、名前を言わなかった。
「……グレイ」
「――黙って」
彼の声が、鋭かった。
リヴィアは、彼の横顔を見た。
――グレイの、顎の線がこわばっていた。
この男がこんな顔をするのを、彼女は数えるほどしか見たことがない。
「……来る」
彼は、それだけ言った。
廊下の奥から、足音がした。
一人分だ。規則正しい、落ち着いた足音。
――速くもなく、遅くもない。
なのに、なぜか、耳から離れなかった。
角を曲がって、その人が現れた。
――背が、高い。
二メートル近い。だが、それだけなら他にもいる。肩幅が広く、軍服の下の体は、明らかに鍛えられていた。
金色の髪を、きっちりと七三に分けている。肌は白く、皺は少ない。年齢は五十代に見えた。
カーキの元帥服。金モールと飾緒。胸に、勲章の列。
――そして、氷のような、青い瞳。
――彼は、微笑んでいた。
穏やかに。親しげに。
その微笑みは、驚くほど自然だった。
「――おはよう、ヴィンス書記官」
彼は、通りすがりの文官に声をかけた。
「ひっ……お、おはようございます、元帥閣下!」
「奥様の具合はどうかな。先月、伏せっておられたと聞いたが」
「あ、はい! おかげさまで、回復いたしまして……」
「それは良かった」
彼は頷いて、歩き続けた。
次の相手にも。
「モルダー大尉。この間の報告書、良い出来だった」
「あ、ありがとうございます!」
「三十七頁の図が特に良い。……あれは君が描いたのか」
「は、はい!」
「そうか。良い目をしている」
――彼は、全員の名前を知っていた。
文官の。書記官の。若い大尉の。名前も、その家族のことも、書いた報告書の何頁目に何が描いてあるかも。
声をかけられた者は、例外なく、顔を輝かせた。
――そして、彼が通り過ぎた後、全員が、詰めていた息を吐いていた。
リヴィアは、それを見ていた。
声をかけられた文官の顔。嬉しそうだった。心から、嬉しそうだった。
――なのに、彼が通り過ぎた瞬間、その男は壁に手をついた。
膝が、笑っていた。
嬉しかったのに、体が限界だったのだ。
(……何、これ)
誰も、恐れていない。誰も、この男を嫌っていない。むしろ、慕っている。声をかけられることを、光栄に思っている。
――なのに、全員の体が、悲鳴を上げている。
(気づいてない)
リヴィアは、悟った。
(この人たち、自分が怖がってることに、気づいてない)
【底】
――リヴィアは、動けなかった。
最初に感じたのは、耳だった。
空気の底で、いつも鳴っている音。魔素の唸り。生まれてからずっと聞いてきた、世界の底鳴り。
――それが、聞こえなかった。
消されているのではない。バルドアの無効化パルスとは、まったく違う。あれは「音が止まる」感覚だった。
これは――
(……かき消されてる)
もっと大きな音に。人の耳では拾えない、遥かに低い、遥かに巨大な音に。世界の底鳴りが、その音の中に埋もれていた。
リヴィアの膝が、笑った。
(……違う)
彼女は、必死に自分の感覚を整理しようとした。
(この感じ、知ってる。……ムラサメ殿と、ミラ殿)
二人と会った時も、同じような圧を感じた。
でも――違う。決定的に、違う。
ムラサメは、山だった。ただ、そこに在った。動かず、隠さず、剥き出しのまま。千年分の重さが、そのまま置いてあった。
ミラは、森だった。こちらを包み込んでいた。彼女の理は庵の外の木々にまで滲み出していて、境目がなかった。
――どちらも、隠していなかった。隠す必要がなかったからだ。
でも、この男は。
(……抑え込んでる)
リヴィアの背中を、汗が伝った。
(全力で、抑え込んでる)
――堤防だ。
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
目の前にあるのは、堤防だ。その向こうに、海がある。こちらが感じているのは、堤防の高さだけで、海の深さは視えない。
いや。
それも、正確ではなかった。
(……違う。堤防じゃない)
堤防なら、水圧を感じるはずだ。押し寄せる圧を、こちら側からも測れるはずだ。
でも、この男の周りには――圧が、ない。
完璧に、静かだった。
――それが、恐ろしかった。
(魔力が漏れてない)
ムラサメは、剥き出しだった。千年分の重さがそのまま置いてあったから、測れた。「勝てない」と、正確に理解できた。
ミラは、滲み出ていた。庵の周りの木々に、地面に、空気に、彼女の理が染みていた。だから、境目が分からなかった。
――どちらも、外に出ていた。
この男は、一滴も出していない。
(……どうやって)
リヴィアは、循環を知っている。ミラに教わった。魔法が魔法を生み、増幅する。彼女ですら、五連撃で自分を喰いかけた。
――では、これはどうだ。
五百年。
(……五百年、練り続けたら)
その先に、何があるのか。
想像しようとして――できなかった。
(……どれくらい)
彼女は、必死に測ろうとした。測れなかった。
二年前、セリウスと戦った時。あの光の物量に、彼女は絶望した。
その絶望を物差しにして測ろうとして――物差しの方が、途中で消えた。
(……格が)
彼女の喉が鳴った。
(格が、違う)
――彼女は、もう一つのことに気づいた。
――自分の中の闇が、動いていた。
いつも、喰おうとする。黒閃を放てば喰う。黒葬を張れば喰う。絶空を振れば喰う。あの闇は、常に外へ手を伸ばしている。
なのに、今。
(……逃げてる)
闇が、彼女の内側の、いちばん奥へ縮こまっていた。獣が巣穴の底へ潜り込む時の、あの縮み方だった。
――喰う本能を持つものが、喰えないと悟った時の反応だった。
いや、違う。もっと単純だ。
(……怖がってる)
自分の中の化け物が、怯えている。
その事実に、リヴィアは、本当の恐怖を感じた。
【君が】
足音が、近づいてきた。
リヴィアとグレイは、他の者と同じように、壁際に寄って立っていた。
――グレイが、直立した。
「元帥閣下」
「ああ、アークライト中佐」
男は、足を止めた。
「――昇進したね。おめでとう」
「恐縮です」
「二年前だったか。……いや、一年と十ヶ月前だな」
彼は、微笑んだ。
「南方の作戦での功績だ。良い判断だった」
「……ありがとうございます」
グレイの声は、平坦だった。
――だが、リヴィアには分かった。
彼の左手が、後ろで拳を握っていた。
「君の父上を、私は知っている」
男は、穏やかに言った。
「エルデナの、アークライト家だったな。……惜しいことをした」
グレイの肩が、わずかに動いた。
「――あの国は、良い国だった」
その言い方には、社交辞令の角がなかった。心から惜しんでいる者の口調だった。
「……はい」
「学問を尊び、争わず、千年続いた。……そういう国が、なぜ滅びたのだろうな」
リヴィアの心臓が、大きく打った。
(――なにを)
「世の中は、時々、理不尽だ」
男は、低い声で言った。
「だからこそ、我々のような者が、秩序を守らねばならない」
「……仰る通りです」
「うむ」
彼は、満足そうに頷いた。
――そこで。
その視線が、動いた。
――リヴィアに。
目が、合った。
氷のような、青。
全身の毛が、逆立った。
――視られている。
顔ではない。輪郭でもない。もっと奥。
ムラサメが視た場所と、同じところを。
彼は、しばらく彼女を見ていた。
二秒か、三秒。――永遠のように、長かった。
そして。
「……ああ」
彼は、言った。
「君が」
――それだけだった。
何が「君が」なのか。何を知っていて、何を思ったのか。
一切、分からなかった。
彼は、視線を下げた。彼女の腰の――黒いレイピアへ。
「良い剣を持っているね」
穏やかな声だった。
――そして、彼は歩き出した。
何事もなかったように。
規則正しい足音が、遠ざかっていく。角を曲がって、消えた。
――廊下の空気が、戻った。
音が、戻った。魔素の底鳴りが、戻った。人々が、また歩き出し、話し始める。
その中で、リヴィアだけが、動けなかった。
「……リヴィア」
「…………」
「――リヴィア」
グレイの声で、彼女は我に返った。
膝が、震えていた。立っていられないほどではない。だが、確実に、震えていた。
「……大丈夫か」
「……分からない」
彼女は、壁に手をついた。
「……グレイ」
「なんだ」
「……あれ、なに」
声が掠れていた。
「あれ、なんなの」
グレイは、すぐには応じなかった。
彼も、青ざめていた。
「――人類最強、だ」
やがて、彼は言った。
「公式に、そう呼ばれてる」
「……人類最強」
「三十年間、彼が指揮した作戦は、一度も敗れていない」
彼は、廊下の先を見た。
「そして、彼が個人で戦った記録は――一つもない」
リヴィアは、顔を上げた。
「……ない?」
「ない」
グレイは頷いた。
「三十年、大本営にいて、常に前線を指揮してきた。……だが、彼が剣を抜いた記録は、一つもない」
「……なぜ」
「必要が、なかったからだ」
彼は、低い声で言った。
「彼が到着した戦線は、彼が何もしなくても勝つ」
「……そんな」
「本当だ。……北のグラルド国境紛争がそうだった」
彼は、指を折った。
「二十二年前。三ヶ月膠着していた戦線に、彼が視察に来た。……その翌日、敵の司令官が降伏を申し出た」
「……戦わずに?」
「戦わずにだ」
「なぜ」
「分からん」
グレイは首を振った。
「記録には『敵将、戦意喪失』とだけある」
リヴィアの喉が鳴った。
「――だが、俺は思う」
彼は、廊下の先を見た。
「その司令官も、たぶん、今日のお前と同じものを見たんだ」
二人は、しばらく黙って歩いた。
「……グレイ」
「なんだ」
「勝てるの、あれに」
彼は、応じなかった。
長い間、応じなかった。
やがて、階段の下で、彼は足を止めた。
「――勝てない」
あっさりと、彼は言った。
「……え」
「正面からは、絶対に勝てない」
彼は、振り返った。
「セイクリッドルート五人が、五百年前に一度、封じている。……五人がかりでだ」
「…………」
「今、俺たちの手元に、理は一人もいない」
彼は、低い声で言った。
「――だから、戦っちゃ駄目なんだ」
「戦わずに、どうするの」
「引きずり下ろす」
彼の目が、鋭くなった。
「あの男の力は、帝国の中にある。軍と、議会と、民の支持だ」
彼は、拳を握った。
「――全部、剥がす」
【二枚】
その夜。
軍務省の執務室で、リヴィアはグレイに報告した。
「……全部、隠してた」
「隠してた?」
「そう。……あれは、蓋よ」
彼女は、両手で自分の腕を抱えていた。まだ、鳥肌が引いていなかった。
「ムラサメ殿も、ミラ殿も、隠してなかった。……ただ、そこに在っただけ」
「…………」
「でも、あの人は違う。……全力で、抑え込んでる」
彼女は、顔を上げた。
「抑え込んでるものが、どれくらいなのか――測れなかった」
グレイは、黙って聞いていた。
「……もう一つ、いい?」
「なんだ」
「私の闇が」
彼女は、自分の胸を押さえた。
「――怯えたの」
グレイの目が、細くなった。
「怯えた?」
「あれ、いつも喰おうとするのよ。何でも」
彼女の声が震えた。
「なのに、あの人の前で、逃げた。……奥に、隠れた」
部屋が、静まり返った。
「……つまり」
グレイが、掠れた声で言った。
「お前の中のそれは、あの男を『喰えない』と判断した」
「……それか」
リヴィアは、俯いた。
「――『喰われる』と、判断した」
同じ頃。
隊舎の裏、焼却炉の前。
ネロは、いつも通り、折り畳んだ紙を差し出していた。
「――先月分の報告です」
「ご苦労様です」
ハルヴァ・ゼーレンは、それを受け取った。
それから、内ポケットから紙を出した。
――ネロの手が、止まった。
「……二枚」
「ええ」
「なぜ、二枚なんですか」
「上が、満足しているようです」
ゼーレンは、微笑んだ。
「何に」
「さあ」
彼は、答えを言わなかった。
ネロは、二枚の紙を受け取り、焼却炉に投げ入れた。炎が、それを舐めた。
「――ところで、フェイン准尉」
ゼーレンが言った。
「近く、特務課に、新しい部隊が編成されます」
ネロの背中がこわばった。
「……新しい」
「第八特殊部隊。……名は、まだありません」
彼は、事もなげに言った。
「編成の指揮は、大本営直轄です」
「……人員は」
「戦傷者と、身寄りのない者から」
――ネロの視界が、白くなった。
首輪。留め具のない、継ぎ目のない輪。四つ持たせて、三つ余った数え方。
適合率、八十二。
戦傷者の再利用に関する、認可書。
全部が、一本の線で繋がった。
「……あの」
彼の声が震えた。
「その部隊は、何をするんですか」
「命令されたことを」
ゼーレンは、あっさりと答えた。
「――それだけです」
彼は、背を向けた。
去り際に、こう言った。
「ああ、そうだ」
「…………」
「貴官の報告が、役に立ちました」
――ネロは、動けなかった。
「東方の禁足地。あの遺留品の照会。……あれで、術式の欠陥が一つ、見つかったそうです」
彼は、微笑んだ。
「おかげで、適合率が上がりました。……上が、たいそう喜んでおりました」
男は、闇の中へ消えていった。
ネロは、焼却炉の前に立ち尽くしていた。
炎が、彼の顔を下から照らしている。
『案ズルナ』
あの四文字が、頭の中で鳴っていた。
――療養用。戦傷者の痛覚遮断及び鎮静に用いる。
あの日、船の甲板で、彼は三度読み返した。術式の構造は、意思決定を外部から上書きするものだった。読み違えるはずがなかった。
自分でも、どこがおかしいのか、指を差せた。
差せたのに、端末を閉じた。
閉じて、その夜から、前より詳しく書いた。
――照会を求めたのは、自分だ。
誰にも頼まれていない。ゼーレンに命じられてもいない。あれは、彼が二年間で唯一、自分の意思で送ったものだった。
その一通が、術式の欠陥を一つ潰した。
(……僕が)
膝が、折れた。
彼は、その場に膝をつき、両手で口を押さえた。
声を、出さないように。誰にも、聞こえないように。
――炎の音だけが、夜に響いていた。




