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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
セイクリッドルート編

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32/59

三つの椅子

【十一日】


 森を出た時、外は、まだ春だった。


 柵を越えて振り返ると、あの巨大な緑の壁は、何事もなかったように立っていた。


「……本当に、十一日しか経ってないんですかね」


 ミーナレイが、自分の髪を触った。


 入る時は肩までだった髪が、今は肩甲骨まで伸びている。


「あたし、三ヶ月生きた気がするんですけど」


「三ヶ月半よ」


 リズが訂正した。


「百六日。ちゃんと数えてたわ」


「先輩、数えてたんですか」


「そりゃ数えるでしょ。誕生日過ぎたもの」


 ――彼女たちは、確かに百六日分、年を取っていた。外の世界より、十一日分だけ早く。


 街道を歩きながら、リヴィアは何度か、自分の手を見た。


 あの窪地で百六日、剣を振り続けた手だ。なのに世界は、十一日しか進んでいない。


 ――なんだか、盗んだような気がした。




 帝都に戻り、報告を済ませたのは、その日の夕方だった。


『イルドレナ大森林、外縁部の異常繁茂を確認。原因は特定できず。継続観察を要す』


 三行の報告書。受け取った事務官は、中身も読まずに判を押した。


「……通ったわね」


「通るように書いたからな」


 軍務省の廊下で、グレイが言った。


「誰も、森の中身になんて興味がない」


 彼は、少しだけ疲れた顔をしていた。


 十一日。彼にとっては、十一日だ。


 ――だが、その十一日で、彼の目の下の隈は、明らかに濃くなっていた。


「……あなた、寝てないの」


「寝てる」


「嘘」


「……三時間は寝てる」


「それを寝てないって言うのよ」


 グレイは、応じなかった。


 代わりに、周囲を見回して、声を落とした。


「――リヴィア。今夜、時間を作れるか」


「……ええ」


「時計店だ。二十一時」


 彼は、それだけ言って歩き出した。


 三歩進んで、振り返った。


「……用件は、二つある」


「二つ?」


「一つは、俺の話だ」


 彼の顔が、少しだけこわばった。


「もう一つは――」


 彼は、そこで言葉を切った。


「会えることになった」


【告げられる】


 時計店ヴェスパーの二階。


 止まった時計に囲まれた部屋で、リヴィアは立ち尽くしていた。


「……もう一度、言って」


「会えることになった」


 グレイは、机の上に、一通の封書を置いた。


 封蝋はない。ただ、蜜蝋で雑に閉じられている。


「返事が来た」


「……いつ」


「六日前だ」


 六日前。


 ――自分が、森の中で落ち葉を斬っていた頃。


「三日後の夜。場所は、あちらが指定してきた」


「……本当に?」


「ああ」


「向こうが、応じたの?」


「二ヶ月かかった」


 グレイは、椅子に背を預けた。


「セドリック翁の夜から、ずっと手紙を置き続けてた。返事は来なかった」


「…………」


「十七通目で、返事が来た」


 リヴィアは、その封書を見つめた。


 ――十七通。


 彼が、たった一人で、宛先も分からない手紙を、十七回書いた。誰にも言わずに。


「……なんで、教えてくれなかったの」


「言えば、お前が動く」


 彼は、率直に答えた。


「動けば、隊が動く。隊が動けば、記録に残る」


「…………」


「一人でやるべきことだった」


 リヴィアは、応じられなかった。


 ――怒りが、こみ上げてきた。


 なぜ一人でやった。なぜ言わなかった。当面、時間が取れませんと書いてよこしたのは、その十七通を書いていた時期だったのか。


 でも、その怒りは、すぐに別のものに変わった。


(……この人、十七回、断られたのね)


 断られ続けて、なお書き続けた。


 自分が森で剣を振っている間、この人は帝都で、返事の来ない手紙を書いていた。


「……ありがとう」


 彼女は、それだけ言った。


 グレイは、少し驚いた顔をした。


「……礼を言われるとは、思わなかった」


「私も、言うとは思わなかった」


 彼女は、椅子に腰を下ろした。


 ――そして、そこで初めて、自分の手が震えていることに気づいた。


(……会える)


 二年ぶりだ。


 いや――違う。


 二年前、あの雨の中で会った。でもあれは、会ったとは言えない。その前は、聖都の焼けた広場。あれも、会ったとは言えない。


(じゃあ、いつ以来)


 答えは、すぐに出た。


 ――十年前の、あの朝。


 「終わったら、絶対に言う」と言った、あの朝以来だ。


「……リヴィア」


「……なに」


「大丈夫か」


「……分からない」


 彼女は、正直に答えた。


「嬉しい。……のは、確かなの」


 膝の上で、指を組んだ。


「でも、それと同じくらい、怖い」


「怖い?」


「……あの人が、私を見て、また『関わるな』って言ったら」


 声が掠れた。


「……そう思うと、行きたくない」


 グレイは、しばらく黙っていた。


 それから、低い声で言った。


「――それはない」


「なんで、そう言えるの」


「返事に、書いてあった」


 彼は、封書を指した。


 リヴィアは、それを手に取った。開くと、短い一文だけだった。


『リヴィアも、連れてきてくれ』


 ――リヴィアの視界が、滲んだ。


「…………ずるい」


 彼女は、封書を握りしめて俯いた。


「なんで、こういうのだけ、上手いのよ、あの人」


【五年前】


「――で。もう一つの用件だ」


 しばらくして、グレイが言った。


 彼の声は、さっきより硬かった。


「俺の話だ」


「……うん」


「先に、聞いてほしい」


 彼は、机の上で手を組んだ。


「三日後、あいつに会う前に。……お前だけには、言っておきたい」


 リヴィアは、姿勢を正した。


「五年前だ」


 グレイは、窓の外を見た。


「俺は、紅蓮掌にいた」


「……うん」


「南方の、小さな国だった。名前は、もう地図に載っていない」


 彼の声は、平坦だった。平坦にしようと努力している声だった。


「作戦は、破壊工作だ。橋を三本。貯水施設を一つ。通信塔を二つ」


「……軍事目標ね」


「そうだ。全部、正当な軍事目標だった」


 彼は頷いた。


「俺たちは、完璧に遂行した。……一人も殺さずに、だ」


「…………」


「三日後、その国に、暴動が起きた」


 部屋の空気が、重くなった。


「水が止まり、橋が落ち、通信が途絶えた街で、暴動が起きた。……当然だ」


 グレイの声が、少しだけ震えた。


「そして帝国軍が、『治安維持』のために入った」


「…………」


「――記録に残らない三日間があった」


 リヴィアの息が、詰まった。


「死者数は、公式には『暴徒、若干名』だ。……実際の数を、俺は知らない」


「……グレイ」


「知らない、というのは嘘だ」


 彼は、言い直した。


「知ろうとしなかった」


 机の上の指が、握りしめられた。


「――作戦から一週間後、俺は現場に戻った」


「……なぜ」


「分からない。何かが、引っかかってた」


 彼は、目を閉じた。


「俺が焼いた通信塔の、隣の建物だ。……付属棟があった」


 リヴィアは、その先を聞きたくないと思った。


「作戦の時、俺は『倉庫』だと聞いていた」


「…………」


「――救護所だった」


 部屋が、静まり返った。


「そして、孤児院が併設されてた」


 止まった時計たちの中で、グレイの声だけが響いた。


「延焼だ。俺の火が、直接焼いたわけじゃない。……でも、そんなことは、どうでもいい」


「……何人」


「分からない」


 彼は首を振った。


「瓦礫は、もう片付けられてた。……名簿も、なかった」


 リヴィアは、何も言えなかった。


「その一週間後、俺は前線を降りた」


 グレイは、目を開けた。


「リュウ隊長には、何も言わなかった」


「……なぜ」


「言えば、あの人が背負う」


 彼の声は、低かった。


「あの人は、同胞のために武勲を立ててきた人だ。焔華の民の扱いを、少しでもマシにするために」


「…………」


「その武勲の一つが、子供を焼いたと知ったら」


 彼は、そこで言葉を切った。


「――あの人は、たぶん、生きていられない」


 リヴィアは、五年間の沈黙の重さを、そこで初めて理解した。


 リュウ・ファンの「現場を捨てて、何年になる」。


 ――あいつが最後に立った戦場も、南だったな。


 あの言葉に、グレイが一度も反論しなかった理由を。


「……グレイ」


「言うな」


「言うわ」


 彼女は、まっすぐに彼を見た。


「あなたは、悪くない」


「悪い」


「…………」


「俺は、あの機械の中にいた」


 彼は、自嘲するように笑った。


「エルデナを滅ぼした機械と、同じ機械だ。……俺は、その歯車の一つだった」


 彼は、リヴィアを見た。


「だから、三日後――あいつに、それを言う」


【地下】


 三日後の夜。


 場所は、帝都西区の、閉鎖された地下駅だった。


 二十年前、路線変更で使われなくなったまま封鎖されている。


 湿った階段を降りると、かつてのホームが広がっていた。線路には水が溜まり、天井から水滴が落ちている。壁のタイルは半分剥がれ、剥がれた下から古い路線図が覗いていた。


 ――そこに、灯りが三つ、灯っていた。


 カンテラの光が、ホームの一角だけを照らしている。


 その光の中に。


 三つの椅子が、置かれていた。


 誰も、まだ座っていない。




 最初に見えたのは、大盾だった。


 ホームの端に、巨躯の男が立っている。ヴォルク・レムディア。


 その反対側の柱に、黒い衣の女がもたれていた。白磁の仮面。ノーチェ。


 階段の中ほどに――銀髪の少女が立っていた。


 カリン・ユエル。


 彼女の目は、リヴィアが階段を降りてくる瞬間から、一度も逸れなかった。まっすぐに、彼女だけを見ていた。


 リヴィアは、その視線を受け止めながら、階段を降りた。


 ――そして。


 ホームの中央に、影が一つ、立っていた。


 カンテラの光が、その輪郭を照らしている。


 金髪。


 ――伸びていた髪は、短く切り揃えられていた。


 前髪は、上げられている。額が、はっきりと見えていた。無精髭は、剃られていた。


 顎の線が、頬の輪郭が、二年前とは別人のようにはっきりしている。


 着ているのは、カーキのジャケット。胸に、三日月と鍵の紋章。


 ――そして。


 顔を上げた彼の、青い瞳の下に。


 あの、疲れ切った隈が、なかった。


「…………」


 リヴィアの足が、止まった。


 喉の奥が、詰まった。


(……あ)


 その顔を、知っていた。


(この、顔)


 十年前。白の塔の中庭で、芝生に寝転がって、太陽みたいに笑っていた少年。


 その面影が――そこに、あった。


 やつれてもいない。汚れてもいない。ただ、少し大人になった、あの人の顔が。


 ――二年前は、こうではなかった。


 雨に濡れて、髪は伸び放題で、目の下には濃い隈があった。あれは、夜を歩き続けてきた人間の顔だった。


 その前の、聖都の広場では。


 ――何もない目をしていた。人形のような。感情を全部、どこかに置いてきたような。


 なのに、今。


 目の前に立っている人は。


(……戻ってきてる)


 全部ではない。


 肩の線は、あの頃より広い。目つきも、鋭くなった。背負っているものが、顔つきに出てしまっている。


 それでも。


 ――この人は、あの人だ。


 リヴィアの目の縁に、熱が溜まった。


(……泣かない)


 彼女は、奥歯を噛んだ。


(絶対、泣かない)


 ――こぼれなかった。


 でも、目の縁で、光が揺れていた。


 その光を、セリウスも見ていた。


 彼の視線が、ほんの一瞬だけ逸れた。


 ――逸らした、というより。見ていられなかった、という逸らし方だった。


【沈黙】


 誰も、口を開かなかった。


 水滴の落ちる音だけが、地下に響いていた。


 三人は、ただ立っていた。


 ――言葉が、多すぎた。


 十年分。二年分。伝えたいこと、聞きたいこと、詫びたいこと、責めたいこと。


 多すぎて、どれから出せばいいのか、誰にも分からなかった。


 やがて。


 最初に口を開いたのは、グレイだった。


「――セリウス」


 その声は、少し掠れていた。


「会ってくれて、感謝する」


 セリウスは、動かなかった。


 ただ、まっすぐにグレイを見ていた。


「文で送った通りだ」


 グレイは続けた。


「俺たちは……同じ方向を、向いて動いていた」


 彼の口元が、わずかに歪んだ。


「方法や、手段は、違ったが」


 ――沈黙。


 長い、長い沈黙だった。


 カンテラの炎が、揺れた。


 ヴォルクは、動かなかった。ノーチェも、仮面の下で身じろぎ一つしなかった。


 カリンだけが、セリウスの背中をじっと見ていた。


 やがて。


 セリウスの喉が、動いた。


 彼が口を開くまで、さらに数秒かかった。


「……そうだな」


 その声は、二年前よりずっと落ち着いていた。


 落ち着いていて――そして、震えていた。


「グレイ……」


 彼は、そこで一度、言葉を切った。


 視線が、動く。


「リヴィア……」


 リヴィアの心臓が跳ねた。


 名前を呼ばれた。


 二年前、「関わるな」と言った口が。十年前、「絶対追いつく」と言った口が。


 彼は、深く息を吸って――言った。


「――会いたかった」




 その一言で。


 三人が、同時に俯いた。


 誰も、顔を上げられなかった。


 グレイは、拳を握って床を見ていた。――彼の指は、白くなっていた。


 十年前、燃える広場で拳を合わせた男が、目の前にいる。その男を、二年前まで「テロリスト」と呼び続けてきた。


 セリウスは、目を閉じて、天井を仰ぎかけて、やめた。


 ――仰げば、堪えているものがこぼれると分かっていた。


 十年間、この二人を殺したかったわけじゃない。ただ、二度と会えないと決めていただけだ。


 リヴィアは、両手で口を押さえていた。


 押さえていないと、何かが出てしまいそうだった。嗚咽か、叫びか、それとも十年分の何かか。


 ――喉が、痛かった。


 声を出さないことが、こんなに痛いとは知らなかった。


 誰も、泣かなかった。


 泣くには、三人とも、大人になりすぎていた。


 ただ、俯いて、堪えていた。


 水滴が、線路に落ちる音だけが続いた。


 ――どれくらい、そうしていたか。


 カリンが、目を伏せた。ノーチェが、仮面の下で小さく息を吐いた。


 ヴォルクだけが、最初から最後まで、まっすぐ三人を見ていた。


 ――葬式のようだ、と彼は思った。


 十年前に死んだ三人が、今日ようやく、自分たちの弔いをしている。


【道】


 しばらくして、セリウスが顔を上げた。


 その目は、赤かった。でも、乾いていた。


「……ずっと、模索していた」


 彼は言った。


「俺の、進むべき道を」


 リヴィアは、顔を上げた。


「エルデナが焼けた日から、ずっとだ」


 彼は、自分の掌を見た。


「――俺は、あの日、死ぬはずだった」


「…………」


「箱を二つ壊して、力が尽きて、倒れた。……そこを、拾われた」


 彼は、少しだけ笑った。


「拾ったのが、カイゼンさんだ」


 その名に、リヴィアの背筋が動いた。


「あの人は、俺に何も強要しなかった。ただ、いろんなものを見せた」


「……見せた?」


「帝国の記録。焼かれた国の名前。……名簿に載らなかった人間の数」


 彼の声が、低くなった。


「そして、言った。『君は、これを知った上で、何をする』と」


 地下駅の空気が、重くなった。


「俺は、選んだ」


 彼は、まっすぐに立った。


「止めると。……どんな手を使っても」


「…………」


「その結果が、これだ」


 彼は、自分の手を見た。


「列車を落とした。街を焼いた。……お前の隊長を、殺した」


 リヴィアの喉が鳴った。


「犠牲にした人たちの命は、戻らない」


 セリウスの声が震えた。


「やったことの罪は、償いきれない」


 彼は、リヴィアを見た。まっすぐに。逃げずに。


「――本当に、ごめん。リヴィア」


 リヴィアは、動けなかった。


 ――許す、とは言えなかった。


 カラムの顔が浮かんだ。エマの顔が浮かんだ。列車の五百人が浮かんだ。


 許せるはずがない。


 でも。


(……この人は、逃げなかった)


 二年前、感情を消した目で、彼は「敵だ」と言った。


 今、彼は目を逸らさずに、頭を下げている。


 リヴィアは、腰のベルトに手をやった。


 二十年、あの人が締めていた革。サイズを詰めて、二年、自分が締め続けている革。


「……あなたを許すかどうかは」


 声が、掠れた。


「――私が、決めることじゃない」


 セリウスは、その手元を見た。


 何のベルトかを、彼は知らないはずだった。


 それでも、彼は深く、頭を下げた。


「……ありがとう」




「――待て」


 その時、グレイが口を開いた。


「俺も、言わなければならないことがある」


 セリウスが、彼を見た。


「グレイ?」


「五年前だ」


 彼は、まっすぐに立った。


「俺は、紅蓮掌にいた」


 彼は、語った。


 三本の橋。貯水施設。二つの通信塔。三日後の暴動。記録に残らない三日間。そして、燃えた救護所と、孤児院。


 セリウスは、黙って聞いていた。


「――俺も、同じ機械の中にいた」


 グレイは、言い切った。


「お前を責める資格は、俺にはない」


 沈黙。


 ――セリウスは、しばらく彼を見つめていた。


 それから、低い声で言った。


「……なあ、グレイ」


「なんだ」


「お前、それ、誰かに言ったことあるか」


「……ない」


「五年、抱えてたのか」


「ああ」


 セリウスは、少しだけ笑った。


 ――哀しい笑い方だった。


「……俺たち、似た者同士だな」


「……そうかもしれん」


「馬鹿だよ、二人とも」


 彼は、天井を見上げた。


「一人で背負って、一人で潰れて、それで格好つけたつもりでいる」


「…………」


「――リヴィア」


 彼は、突然、彼女を見た。


「え?」


「こいつら、二人とも馬鹿だ。……見ててやってくれ」


 リヴィアは、思わず吹き出した。


 ――そして、その拍子に。


 目の縁に溜まっていたものが、一粒だけ、こぼれた。


「……あ」


 彼女は、慌てて拭った。


 セリウスは、それを見て――


 初めて、笑った。


 困ったような、それでいて、あの頃と同じ顔で。


「……変わってないな、お前」


「……うるさい」


【ヴァルルシオン】


「その上で」


 セリウスは、顔を上げた。


 その表情が、変わっていた。


 ――組織を率いる者の顔だった。


「やり遂げないといけないことがある」


 彼は、一歩、前に出た。


「ディナシア帝国には――」


「――セイクリッドルート、ヴァルルシオン」


 グレイの声が、それを遮った。


 セリウスの動きが、止まった。


「暗躍し、帝国を牛耳っている」


 グレイは続けた。


「……五百年前に封じられた、光の理だ」


 ホームが、静まり返った。


 ――ヴォルクは、動かなかった。


 ――ノーチェも、驚かなかった。


 ――カリンも、表情を変えなかった。


 セリウスも、頷いただけだった。


 全員が、知っていた。


 ――たった一人を、除いて。


「……え」


 リヴィアの声が震えた。


「……待って」


 彼女は、グレイを見た。


「今、なんて」


「……言ってなかったな」


 グレイは、少しだけ気まずそうに言った。


「三日前に確定した。……お前が森から戻る前だ」


「――五百年前の!?」


 リヴィアの声が、地下に響いた。


「ムラサメ殿が言ってた、封じた人が!? あれが、ヴァルグレイス元帥なの!?」


「そうだ」


「そんな……」


 彼女は、後ずさった。


 ――ムラサメの声が蘇る。


 ――五百年、あの席は空いておった。


 ――近ごろ、そこに、何かが座っておる気配がする。


 ――そして、ミラの声。


 ――三年前から、少しずつ、動いてる。今年に入ってから、はっきりと。


「……本当に」


「本当だ」


 グレイは頷いた。


「カイゼン・アドラーが、十四年前から警告していた」


 彼は、懐から、あの色褪せた紙を出した。


 十四年前の、宛先不明の警告文。


「――その中心にいる者は、人の姿をしているが、人ではない」


 彼は、読み上げた。


「これを書いたのは、カイゼンだ。……そして、これを受け取った者の中に、俺たちは含まれていなかった」


 リヴィアは、震える手でその紙を受け取った。


 二年前、グレイが見せてくれた紙だ。


 あの時は、意味が分からなかった。


 今は――全部、分かってしまった。




「――だから」


 グレイは、三つの椅子を見た。


「俺たちがこれからやることは、革命じゃない」


 彼の声が、低くなった。


「――生きる伝説から、世界を守る戦いだ」


 地下駅の空気が、張り詰めた。


「相手は、五百年生きている。理外の魔力を持ち、帝国の全軍を握っている」


 彼は、一人ずつ顔を見た。


「勝てる見込みは、正直、薄い」


「…………」


「だからこそ――俺たちの協力は、不可欠だ」


 彼は、セリウスを見た。


「帝国の内側からしか、できないことがある」


 それから、リヴィアを見た。


「軍の中でしか、動かせないものがある」


 最後に、もう一度セリウスを見た。


「そして、外からしか、見えないものがある」


 カンテラの炎が揺れた。


「これからすることは――失敗が、許されない」


 セリウスは、しばらく黙っていた。


 そして。


 その表情が、固くなった。迷いのない、鋭い顔になった。


 彼は――強く、頷いた。


「……ああ」


 彼は、言った。


「やろう」


【仮面】


 同盟が成立した瞬間、柱の陰で、小さな音がした。


 ――ぱき、と。


 白磁の仮面が、外される音だった。


「……あら」


 ノーチェが、素顔を晒していた。


 黒髪の下に、思いのほか整った顔立ちがあった。三十代後半。疲れた、けれど美しい目。


 ――額の右上に、黒い痣があった。


 彼女は、前髪でそれを隠すこともせず、微笑んだ。


「これを外すの、何年ぶりかしら」


 誰も、痣に触れなかった。


 彼女は、それが嬉しかったようだった。


「――これで、同じ側ね」




 会合が終わり、帰り際。


 リヴィアが階段へ向かうと、カリンがその前を横切った。


 二人は、一瞬、目を合わせた。


「……あの人」


 カリンが、ぽつりと言った。


「二年前より、少し眠れるようになったの」


「……え」


「あなたが生きてるって、知ってからよ」


 彼女は、それだけ言って行ってしまった。


 リヴィアは、その背中を見送った。


 ――憎まれているのか、それとも。


 分からなかった。分からないまま、彼女は階段を上った。


【格納庫】


 その夜、リヴィアは隊舎の格納庫に四人を集めた。


 中央に、木箱を並べただけの卓。二年前、カラムを送った時と同じ場所だった。


 誰も、そのことに触れなかった。触れなくても、全員が分かっていた。


 グレイは、来なかった。呼ばなかった。


 ――これは、自分の責任だ。


「――全員、聞いて」


 彼女は、卓の前に立った。


「今夜、話すことは、報告書にも、記録にも残らない。……知りたくない人は、今、出ていって」


 誰も、動かなかった。


「……分かった」


 彼女は、息を吸った。


「セリウス・クレイドは、生きてる。……三日前、会った」


 リズの肩が跳ねた。


「リバースオーダーと、同盟を結んだ。グレイと、私と、あの人たちで。目的は、ヴァルグレイス元帥。……この国を、五百年前から動かしてる人間よ」


 言葉が、多すぎた。


 説明の順番を、彼女は間違えたと思った。順番を整えていたら、一番言いにくいことを最後まで言えない気がした。


「――そして」


 彼女は、卓の上に手を置いた。


「二年前、カラムさんを殺したのは、セリウス・クレイドよ」


 格納庫の空気が、止まった。




「……おい」


 アシュが、椅子を鳴らして立ち上がった。


「今、なんつった」


「聞こえたでしょう」


「聞こえたよ! 聞こえたから聞いてんだ!」


 彼の声が、格納庫の天井に反響した。


「あんた、あの人を殺した奴と、手ェ組んだのか」


「組んだ」


「……ふざけんな」


 彼は、卓の縁を掴んだ。


「あんた、あの人の名前で飯食ってんだぞ」


 リヴィアは、応じなかった。


「隊長になったのも、この隊が残ってんのも、全部あの人が死んだからだ。俺らはその上に立ってんだよ。……分かってんのか」


「分かってる」


「分かってねえよ!」


 彼は、卓を叩いた。


 木箱が鳴って、その音が消えるまで、誰も動かなかった。


 やがて、アシュは椅子に座り直した。乱暴に。


「……で」


「え」


「作戦は、どうなってんだ」


 リヴィアが、顔を上げた。


「……アシュ」


「言っとくがな」


 彼は、そっぽを向いた。


「納得したわけじゃねえ。一生しねえよ、たぶん」


「…………」


「――だが、俺は、俺が認めたやつの下でしか動かねえ。それだけだ」




 リズは、一言も喋らなかった。


 話が終わると、彼女は椅子を戻して、格納庫を出ていった。足音が、遠ざかった。


 翌朝、彼女はいつも通り食堂にいた。いつも通り笑って、揚げパンの列に並んでいた。


 目の下の隈だけが、化粧の上から浮いていた。


 リヴィアは、何も聞かなかった。




「……あの」


 ミーナレイが、手を挙げた。声が、小さかった。


「前の隊長さんって」


「……ええ」


「その人に、殺されたんですか」


「そう」


 彼女は、しばらく黙っていた。


 二年前の食堂で、彼女が「前の隊長さんって、どんな人だったんですか」と聞いた時、誰も答えられなかった。


 あの沈黙の中身が、今、全部出てきた。


「……はい」


 彼女は、それだけ言った。


「分かりました」


「分かった?」


「分かってません」


 彼女は、正直に言った。


「でも、隊長が決めたんですよね」


「……そう」


「じゃあ、あたしは、それでいいです」


 ――その返事が、一番、リヴィアには重かった。




 最後に、ネロが口を開いた。


「……隊長」


「なに」


「報告書には、どう書きますか」


 リヴィアは、彼を見た。


 その顔は、いつも通りだった。情報担当が、手続きを確認しているだけの顔。


「書かなくていい」


「……はい」


 彼は、頷いた。


 それだけだった。


 端末を開かず、鞄も出さず、ただ頷いて、卓の前を離れた。




 全員が出ていった後、リヴィアは一人、卓の前に立っていた。


 二年前、ここに、擦り切れた革のベルトと、封蝋の押し型が置かれていた。


 彼女は、腰のベルトに手をやった。


(……割りました)


(あなたの隊を)


 格納庫の灯りを消して、彼女は外へ出た。


【三の路】


 数日後。


 リヴィアの部屋に、一通の手紙が届いた。


 差出人はない。中身は、暗号だった。


 グレイに渡された鍵表で解くと、短い文章が現れた。


『三の路が最善。北の門番は買収不可。南に変更を求む』


 リヴィアは、それを読み、暖炉にくべた。


 紙が、燃えて縮れていく。


「……本当に、できると思う?」


 彼女は、背後のグレイに聞いた。


「やるしかない」


「……そうね」


「今、動かなければ、機会は二度と来ない」


 グレイは、灰を見つめた。


「あの方が生きているうちに、やらなければならない」


 リヴィアは、頷いた。


 ――炎が、最後の一片を舐めて、消えた。


 窓の外では、帝都の灯りが、いつも通り瞬いている。


 その中心に、白い塔が立っていた。


 グランドアーカム。


 ――その最上階に、二年前から、一人の男が閉じ込められている。


 誰も、そのことを知らなかった。



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