授業
【半分、間違ってる】
朝の泉のほとりに、五人が並んでいた。
水面から霧が薄く立って、対岸の木立の根元を白く隠している。訓練用に踏み固められた地面は、昨夜の露でまだ湿っていた。
ミラは、杖を突いて彼らの前に立った。
「――さて。始める前に、一つ聞かせて」
彼女は、五人を見回した。
「魔法って、何かしら」
最初に答えたのは、ネロだった。
「体内に蓄えられた魔素を消費し、術式を媒介として現象化する。……それが魔法です」
淀みない答えだった。士官学校の教科書、第一章の一行目。
「よくできました」
ミラは、微笑んだ。
「――半分、間違ってるけどね」
ネロの表情が、固まった。
「……間違って、いません」
「間違ってるわ」
「僕の答えは、帝国魔導理論の基礎です」
「そうね。基礎としては、正しいわ」
彼女は頷いた。
「でも、あなたたちが習ったのは『魔法の使い方』であって、『魔法そのもの』じゃないの」
「…………」
「見てなさい」
ミラは、指先を立てた。
――そこに、小さな火が灯った。
豆粒ほどの、頼りない火だった。風が吹けば消えそうな、揺れ方をしていた。
「これが、一。……わたしが使った魔力は、これだけ」
「はい」
「じゃあ、次ね」
彼女は、その火に、もう片方の指を近づけた。
――そして。
小さな火が、ふわりと膨れた。
豆粒が、拳ほどの火球になった。
「……え?」
「二つ目」
ミラは、また指を近づけた。
火球が、頭ほどに膨れた。
「三つ目」
人の胴ほどに。
「四つ目」
庵の屋根ほどに。
「五つ目」
――泉のほとりが、真昼になった。
巨大な光球が、木々の梢まで照らし出す。泉の水面に、それが丸ごと映った。庵の壁に、五人分の影が長く伸びて、木立の奥まで届いている。
熱はなかった。ただ、光だけが圧倒的だった。
「わ……っ!」
ミーナレイが、尻餅をついた。
「うわ、うわ、なんですかこれ!?」
「五つ目」
ミラは、あっさりと言った。
「はい、おしまい」
彼女が指を閉じると、光球は音もなく消えた。
泉のほとりに、朝の光が戻ってきた。目が慣れるまで、しばらく誰も動けなかった。
「……ミラ殿」
リヴィアの声が掠れていた。
「今、魔力を、どれだけ使われましたか」
「言ったでしょう」
老女は、最初に立てた指を、もう一度立てた。
「――一だけよ」
【循環】
沈黙が落ちた。
――そして。
「……ちょっと待ってください」
リズが手を挙げた。
「今の、おかしくないですか」
「おかしいわね」
「認めるんですか!?」
「おかしく見えるものね」
ミラは笑った。
「じゃあ、種明かしをしましょうか」
彼女は、杖で地面に円を描いた。乾いた土に、線がはっきりと残る。
「みんな、こう習ったはずよ。魔法は、自分の中の魔力を消費して使う、って」
「はい」
「その考え方だとね、魔力は、使えば減るものになる」
彼女は、円の中に矢印を描いた。内から、外へ。
「――でも」
彼女は、もう一本、矢印を描き足した。
今度は、外から、内へ。
二本の矢印が、円をぐるりと一周する形になった。
「生み出した魔法は、そこに『在る』でしょう?」
「……在ります」
「じゃあ、それを材料にできるわ」
地面の円を、五人が見下ろしていた。
「魔法が、次の魔法の材料になる。……そうすると、どうなるかしら」
全員が、黙った。
最初に理解したのは――アシュだった。
「…………増える」
「そうよ」
「増えるのか」
彼は、自分の掌を見た。
「……増えるのかよ」
「増えるの」
「利子だ」
彼は、天を仰いだ。
「利子付きの借金みてえだな、それ」
「うまいこと言うわねえ」
ミラが、可笑しそうに笑った。
「あの!」
ミーナレイが手を挙げた。
「なあに」
「それ、じゃあ、無限に増えるってことですか!?」
「理屈の上ではね」
「無限!?」
「でも、実際には無理」
彼女は、あっさりと否定した。
「なぜかというと――大きくなった魔法は、扱いが難しくなるから」
彼女は、消えた光球のあった場所を指した。
「さっきのを、もう一段大きくしたら、たぶんこの森が焼けるわ」
「…………」
「そして、それを止められるかどうかは、術者の技量次第」
ミラは、杖で地面を突いた。描かれた円が、その振動で少し崩れた。
「――止められなかったら?」
「……焼けます」
「そう。自分ごとね」
「……あの、ミラ殿」
ネロが口を開いた。その声は、少し掠れていた。
「なあに」
「……なぜ、これが、教科書に載っていないんですか」
彼の顔は、青ざめていた。
「これほど基礎的な原理なら、真っ先に教えるべきです。……なぜ、誰も知らないんですか」
「教えられないのよ」
ミラは、低い声で答えた。
「これは、技術じゃないの」
「では、何ですか」
「――世界の、見方」
彼女は、泉の水面を指した。
「あなたたちは、こう教わってきた。魔力は自分の中にある、って」
「はい」
「でもね。……本当は、外にもあるの」
水面が、朝の光を反射している。
「空気にも、水にも、木にも、石にも。……あなたたちが放った魔法の中にも」
彼女は、微笑んだ。
「『自分の中だけ』と思っている限り、外のものは使えない。……教科書でそう教えた瞬間に、その子は一生、それしか使えなくなるのよ」
ネロは、動けなかった。
彼の頭の中で、十年分の教科書が音を立てて崩れていた。第一章の一行目から、全部だ。
十四で士官学校に入って、そこから解析だけで生きてきた。数字と術式が、彼の武器で、逃げ場で、存在理由だった。前線に出られない人間が隊にいていい理由は、それしかなかった。
その根本が、山の中の老婆に、豆粒の火一つで否定された。
【森の時間】
最初の異変に気づいたのは、三日目だった。
――正確には、三日目だと思っていた日。
「……ねえ」
リズが、木を見上げた。
「あの木、実がなってなかった?」
「昨日はまだ、花でした」
ミーナレイが答えた。
二人が見上げた枝には、赤い実が五つ、しっかりと色づいて下がっていた。花弁の落ちた跡が、その根元にまだ残っている。
「……一日で?」
「一日で」
二人は、顔を見合わせた。
その日の夕方、アシュが自分の顎を撫でて、動きを止めた。
「……おい」
「なによ」
「俺、髭剃ったの、いつだ」
「三日前じゃない?」
「三日でこれか?」
彼の顎には、明らかに二週間分の無精髭が生えていた。
「――ああ、それね」
夕食の席で、ミラはあっさりと言った。
「言い忘れてたわ」
「言い忘れ!?」
「この窪地はね、少し、時間が速いの」
全員の箸が止まった。
「……速い、とは」
「そうねえ」
彼女は、空を見上げた。
「ここで十日過ごすと、外は一日くらいかしら」
「――は?」
リズの声が裏返った。
「じゅ、十日で一日!?」
「そうよ」
「え、待って。それって、あたしたち」
「今、ここに四日いるから……外は、まだ半日も経ってないわね」
沈黙。
そして、悲鳴。
「ええええ!?」
「なんだそれ! どうなってんだ!」
「あ、あの、それって、あたしたちが年を取るのは!?」
「取るわよ。ここの時間の分だけ」
ミラは、平然と言った。
「十日いれば、十日分。……外の人より、少し先に年を取るわね」
「うわぁ……」
ミーナレイが、頭を抱えた。
「そんな……あたし、まだ十八なのに……」
「十日で気にすることじゃないでしょう」
「そうですけど!」
「――ミラ殿」
リヴィアが言った。
「村で聞きました。四十年ぶりに戻った男の話を」
ミラの手が止まった。
「……ああ」
「あの人は、逆でした。中では短く、外では四十年」
「そうね」
老女は、少しだけ目を伏せた。
「あれは、わたしの森じゃないの」
「……え?」
「この窪地の外。……森の、深いところ」
彼女は、暗い森の方を見た。
「あそこは、わたしの手が届かないの。時間が、勝手に流れてる。速くなったり、遅くなったり」
「……なぜ」
「森が、大きくなりすぎたから」
ミラは、湯呑みを置いた。
「三年前から、勝手に育ち始めたのよ。……わたしが押さえていたものが、緩んでる」
リヴィアの背筋が冷たくなった。
――三年前。
封の中の流れが動き始めたのも、三年前だと、彼女は言った。
「――封印が、ですか」
ミラは、応じなかった。
ただ、低い声で言った。
「……あの男の人はね。助けられなかったわ」
彼女の声は、初めて、老人のものだった。
「見つけた時には、もう、戻れないところにいたの」
【五つの課題】
「――さて。時間の話は終わり」
翌朝、ミラは五人を並ばせた。
「ここは、外の十倍。つまり、あなたたちには十倍の時間があるわ」
「十倍……」
「使いなさい」
彼女は、杖を突いた。
「では、課題を出します」
アシュの前に立って、彼女は言った。
「あなたは、火を消しなさい」
「……あ?」
「火を、消すの」
「消すって……水かけりゃいいだろ」
「あなたの火を、あなたの魔力で」
彼女は、地面に小さな火を灯した。
「これを、魔力で消してごらんなさい」
アシュは、しばらく火を睨んでいた。
それから、手を伸ばした。
――火が、大きくなった。
「……あ?」
もう一度。
――もっと大きくなった。
「なんで!?」
「あなた、放つことしか知らないもの」
ミラは微笑んだ。
「魔力を向けると、増える。……戻す感覚を、覚えなさい」
「戻すって、どうやって」
「それを、十倍の時間で考えなさい」
彼女は、あっさり去っていった。
「おい! 説明! 説明しろ!」
リズの前で。
「あなたは、目を閉じなさい」
「え?」
「そして、風を聞くの」
「……風を、聞く?」
「そう。あなたが起こす風じゃなくて、そこにある風を」
リズは、目を閉じた。
しばらくして、目を開けた。
「……なんも聞こえません」
「そうでしょうね」
「え」
「あなた、二十年間、自分の風しか聞いてこなかったもの」
ミラは、彼女の肩を軽く叩いた。
「風はね、いつも吹いてるのよ。あなたが起こさなくても」
ミーナレイの前で。
「あなたは、泉の水に触りなさい」
「はい! 触ります!」
「――ただし、一滴も動かさずに」
「え?」
「触るだけ。動かしちゃ駄目」
「……無理では?」
「無理じゃないわ」
ミラは、泉に指を入れた。
水面が、まったく揺れなかった。波紋一つ、立たなかった。
指は確かに水の中にある。なのに、水は、そこに何もないかのように静まっていた。
「うわっ!?」
「あなたのお母さんが、教えてくれたでしょう」
老女は、指を抜いた。抜いた時も、水は動かなかった。
「斬らずに済ませられるなら、それが一番強い、って」
ミーナレイの動きが止まった。
「な、なんでそれを」
「あなたの刀が、そう言ってるもの」
最後に、ネロの前に立った時。
ミラは、しばらく黙っていた。
「……あの」
「あなたはね」
彼女は、微笑んだ。
「もう十分、賢いわ」
「……え」
「教えることが、ないの」
彼女は、それだけ言って去っていった。
ネロは、その場に立ち尽くした。
泉のほとりでは、アシュが地面に向かって怒鳴っていた。リズが目を閉じて座っていた。ミーナレイが泉に指を突っ込んで、水しぶきを上げていた。隊長は、落ち葉を拾っては宙へ放っていた。
――課題が、なかった。五人のうち、彼だけが。
(……なぜ)
喜ぶべきなのか。それとも――
彼は、自分の手を見下ろした。その手が、少しだけ震えていた。
【線と、循環】
リヴィアの課題は、変わらなかった。
落ち葉を、斬る。ムラサメの続きだった。
だが、ミラは一つだけ、付け加えた。
「――斬った後を、感じなさい」
「後、ですか」
「あなたの闇は、喰うんでしょう?」
リヴィアは頷いた。
「じゃあ、喰った後、何が起きてるか。……それを、視なさい」
窪地の時間は、速く流れた。
――そして、五人は、確かに変わっていった。
**十日目**(外では、一日)
アシュは、まだ火を消せなかった。
朝から晩まで、地面の火に手をかざしては、燃え上がらせていた。夕方には、彼の周囲三メートルの下草が焼け落ちて、黒い円ができていた。
「くそっ! なんでだよ!」
「あんた、力み過ぎ」
「うるせえ!」
**二十日目**(外では、二日)
リズが、初めて「聞いた」。
泉のほとりで目を閉じて座っていた彼女が、突然、右を向いた。
「……今、あっちで、鳥が飛んだ」
その方角の梢から、遅れて鳥が飛び立った。枝が揺れ、葉が二枚、落ちた。
彼女は、自分の耳を触った。
「……音、じゃない」
「そうよ」
ミラが微笑んだ。
「空気が動いたのが、視えたのよ」
**三十日目**(外では、三日)
ミーナレイが、泉に指を入れた。
波紋が、五つ。
――初日は、二十以上立っていた。
「減りました! 減りましたよ隊長!」
「うん。……見てた」
「あと五つです! あと五つ!」
彼女の指は、その頃には水に触れる前から震えなくなっていた。三十日、毎朝毎晩、同じ泉に指を入れ続けた結果だった。
**四十日目**(外では、四日)
アシュが、地面に座り込んでいた。焼けた下草の円は、もう十メートルに広がっている。
火は、まだ燃えている。
「……分かんねえ」
彼は、火を睨んでいた。
「消すって、なんだよ。俺は撃つやつだぞ。撃つのが仕事だ」
「――だから、消せないのよ」
ミラが、通りかかった。
「……どういう意味だ」
「あなた、『火は自分が出すもの』だと思ってる」
彼女は、火を指した。
「その火、もう、あなたのものじゃないわ」
「は?」
「地面にあるでしょう。……もう、外のものよ」
アシュの動きが止まった。
「外の、もの」
「そう。外のものは、あなたの言うことを聞かないわ」
彼女は微笑んだ。
「――だから、頼みなさい」
「た、頼む? 火に?」
「そう」
「……正気か、婆さん」
「正気よ」
彼女は、あっさり去っていった。
アシュは、火を見つめたまま、しばらく動かなかった。
**五十日目**(外では、五日)
その夜、リズが叫んだ。
「アシュ! アシュが火を消した!」
全員が駆けつけると、彼は地面の前に座って、呆然としていた。
火は、消えていた。焦げ跡すら、なかった。
「……どうやったの?」
「……分かんねえ」
「分かんないって」
「本当に、分かんねえんだよ」
彼は、自分の掌を見ていた。
「なんか……『もういいよ』って、言った」
「言った?」
「頭ん中で。……そしたら、消えた」
彼は、混乱した顔で言った。
「あれ、俺が消したのか? あいつが勝手に消えたのか?」
「――どっちでもいいのよ」
ミラの声が、背後からした。
「区別がなくなったなら、それが正解」
⸻
**六十日目**(外では、六日)
リズは、風の中を歩けるようになっていた。
自分で起こさない風に、体を預ける。
窪地の縁の崖から跳んだ彼女が、落ちずに、木の梢を三本渡っていくのを、ミーナレイが口を開けて見上げていた。彼女の周囲の葉は、一枚も揺れていなかった。
「せ、先輩、飛んでる」
「飛んでない」
リズが笑った。
「――乗ってるの」
**七十日目**(外では、七日)
ミーナレイの泉に、波紋が一つ、立った。
彼女は、しばらく水面を見つめていた。
そして、泣いた。
「……あと、一つです」
声を上げて、泣いていた。
「あと一つで、母に、追いつけます」
【三度目】
――そして。
リヴィアの、七十三日目。
黒閃を放った後。
――戻ってくる。
これまでは、無意識に受け取っていた。今は、意識して、それを掴める。
(……このまま、次に、乗せられる?)
彼女は、試した。
窪地の縁の、太い一本を的に選ぶ。距離、十歩。息を落として、切っ先を水平に構えた。
一撃目。黒閃。
戻ってくる。喉の奥に何かが落ちるような、あの感触。それを逃さずに、刃へ留める。
二撃目。
――重かった。明らかに、一撃目より重い。
「……っ」
三撃目。もっと重い。
四撃目。
五撃目――
目の前の大木が、消えた。
斬られたのではない。根元から、幹の中ほどまでが、何も残さずに消えていた。
切断面すらない。ただ、そこにあったはずのものが、なくなっていた。上半分だけになった木が、支えを失って、ゆらりと傾いで倒れた。
――そして。
リヴィアは、自分の右手を見た。
指先が、見えなかった。
いや、見えている。見えているのに――そこに在る感じが、しなかった。
「あ……」
彼女は、慌てて左手で右手を掴んだ。
感触は、あった。でも、掴んでいるという実感が、薄かった。
――知っている。
この感覚を、知っている。
訓練場の床の上で、二度。あの時は、左手だった。三秒と、七秒。
誰にも言わなかった。割れた減衰装置のランプは自分で拾い集めて、備品箱に入れた。整備班には、経年劣化で通した。
(……三度目)
数秒後、感覚が戻った。指先から、じわりと。
「……はぁ……はぁ……」
彼女は、その場に膝をついた。全身が、汗だくだった。
「――ほら」
背後で、声がした。
ミラが、いつの間にか立っていた。
「育ってるでしょう」
「……ミラ殿」
「今、何を喰った?」
リヴィアは、答えられなかった。
「木よ」
老女は、消えた大木の跡を指した。
「そして、その後――足りなくなって、あなたは自分を喰い始めた」
背筋が凍った。
「……気づいた?」
「……はい」
「よかった」
ミラは微笑んだ。
「気づかない子は、そのまま消えるの」
リヴィアは、しばらく息を整えていた。
――ミラ殿は、二度目までのことを知っているのだろうか。
聞けなかった。聞けば、隠していたことを認めることになる。
「……ミラ殿」
「なあに」
「今のが、循環ですか」
「そうよ。……下手くそだけどね」
老女は、消えた大木の跡を杖で示した。
「上手な人はね、喰う先を選ぶの」
「選ぶ」
「木を喰うなら、木だけ。空気を喰うなら、空気だけ」
彼女は、リヴィアの右手を指した。
「あなたは、区別なく喰った。……だから、自分まで巻き込んだ」
リヴィアの背筋が、冷たくなった。
――ムラサメの言葉が蘇る。
お主の闇は、線を知らん。だから、境目なく喰う。
「……線」
「そう」
ミラは頷いた。
「あの子と、同じことを言うのね」
「……ムラサメ殿にも、同じことを」
「そうでしょうね」
彼女は微笑んだ。
「あの子の理は斬ることで、わたしの理は育てること。……逆に見えて、実は同じなの」
「同じ、ですか」
「どちらも、境目の話よ」
彼女は、足元に生えた草を指した。
「この草と、隣の草。どこまでが一本目で、どこからが二本目か。……根っこは、繋がってるのよ」
リヴィアは、その二本を見下ろした。
地面すれすれのところで、二本の細い茎が寄り添っている。土を少し払うと、根が確かに絡み合っていた。
「でも、二本でしょう?」
「……なぜ、二本なんですか」
「線が、あるからよ」
ミラは、あっさりと言った。
「誰が引いたわけでもないけど、そこに在るの。……世界は、そういう線でできてる」
彼女は、杖を突いた。
「あなたは、その線を、自分で引けるようになりなさい」
「……そうしたら」
「喰う先を、選べるようになるわ」
【首輪】
その夜。
ネロは、庵から離れた木の根元に座っていた。
端末を開いても、圏外。――もう、何日も。
いや、外では、まだ数日しか経っていない。報告が遅れているとは、思われていないだろう。
それでも、彼の指は、何度も端末を開いては閉じていた。
「――お茶、いる?」
顔を上げると、ミラが立っていた。湯呑みを二つ持っている。
「……いえ」
「まあ、飲みなさい」
彼女は、隣に座った。
彼女が座ると、木の根が少しだけ動いて、彼女の座りやすい形になった。
ネロは、それを見なかったことにした。
しばらく、二人とも黙っていた。梢の隙間から、星が一つ、二つ見えていた。
「――あなた」
やがて、ミラが言った。
「誰かに、首輪をつけられてるわね」
ネロの手から、湯呑みが滑りかけた。
「……何のことですか」
「わたしの理は、生命を視るの」
彼女は、暗い森を見ていた。
「流れが、視えるのよ。……人の中を、何が流れてるか」
「…………」
「あなたの流れ、二年前から、歪んでる」
ネロは、応じなかった。
「嘘をつく人の流れは、そういう形になるの。……ずっと、同じ場所で詰まってる」
彼女は、湯呑みを傾けた。
「外せるわよ。今なら」
「……無理です」
彼は、掠れた声で言った。
「なぜ?」
「僕が外したら」
彼は、膝を抱えた。
「……あの人たちが、終わるからです」
ミラは、しばらく黙っていた。
「――それ、誰に言われたの?」
ネロの体がこわばった。
「…………」
「自分で考えたことじゃないでしょう」
彼女の声は、優しかった。優しすぎて、逃げ場がなかった。
「誰かに、そう思わされた。……違う?」
「……違いません」
彼は、正直に答えた。
二年間で、初めて、それを口に出した。
「でも――正しいんです」
「正しい?」
「僕が報告をやめたら、黒翼は解体されます」
彼の声が震えた。
「二年前から、うちの隊は『扱いづらい』と思われてる。……本当なら、とっくに解体されてました」
「…………」
「されなかったのは、あの人が手を回してるからです」
ネロは、両手で顔を覆った。
「僕が価値を失った瞬間に、あの人は手を引く。……そうしたら、隊長も、リズさんも、アシュさんも、ミーナレイも」
彼の肩が震えていた。
「――全員、バラバラにされます」
ミラは、口を挟まなかった。
ただ、彼の背中に手を置いた。木の根が少しだけ持ち上がって、彼の背を支えた。
「……もう、遅いんです」
「遅くないわ」
「二年です」
彼は、掠れた声で言った。
「二年分、送りました。……もう、戻れない」
ミラは、しばらく星を見ていた。
やがて、彼女は言った。
「――いいわ。じゃあ、一つだけ覚えておいて」
「……なんですか」
「首輪はね」
彼女は微笑んだ。
「外そうとした瞬間に、締まるようにできてるの」
「…………」
「だから、外そうとしちゃ駄目」
「じゃあ、どうすれば」
ミラは、湯呑みを置いた。
それから、言った。
「――首を差し出す相手を、変えなさい」
ネロは、顔を上げた。
「……意味が、分かりません」
「今は、それでいいわ」
彼女は立ち上がった。
「いつか分かる。……分かった時に、思い出せばいいの」
彼女は、庵へ戻っていった。
ネロは、一人、残された。
湯呑みの中の茶は、まだ温かかった。
彼は、それを一口だけ飲んだ。
――苦かった。
喉の奥に、その苦さが長く残った。
【一つ目】
翌朝。
庵の床の芽が、一つ、枯れていた。
小さな双葉が、茶色く縮れて、床板の隙間で倒れている。
残りは、まだ青々としていた。
「……ミラ殿」
リヴィアが、それを指した。
「これ」
「ああ、一つ枯れたのね」
ミラは、覗き込んだ。
「そろそろね」
「そろそろ、とは」
「そろそろ、外が動き出すってこと」
彼女は、あっさりと言った。
「あの芽たちはね、この森の外の『流れ』と繋がってるの」
「外の……」
「世の中が静かなうちは、青いまま。……動き始めると、一つずつ枯れる」
リヴィアの背筋が冷たくなった。
「では、全部枯れたら」
「そうねえ」
ミラは微笑んだ。
その笑みには、いつもの温かさがなかった。
「――全部枯れたら、あなたたちは、ここを出るのよ」
彼女は、床の芽を数えた。
残り、十一。
「まだ、時間はあるわ」
彼女は、指で十一を数え直した。
「――外の時間で、十一日ぶんね」
その日の午後。
リヴィアは、庵の裏でネロを見かけた。
彼は、何もせずに、ただ座っていた。
他の四人が課題に取り組んでいる間、彼にだけ、することがなかった。
「……ネロ」
「あ、隊長」
彼は、慌てて立ち上がった。
「座ってていいわ」
「……はい」
リヴィアは、隣に腰を下ろした。
「あなただけ、課題がないのね」
「……はい」
「なぜだと思う?」
ネロは、しばらく黙っていた。
「……教えることが、ないと」
「そう言われた?」
「はい」
リヴィアは、少し考えた。
「……私は、違うと思う」
「え?」
「あの人は、たぶん」
彼女は、庵の方を見た。
「あなたが自分で気づくのを、待ってる」
ネロの体がこわばった。
「……何に、ですか」
「分からない」
彼女は、正直に言った。
「でも、あの人は、無駄なことをしない人だから」
――彼女は、それだけ言って立ち上がった。膝についた土を、手で払う。その動作の途中で、思い出したように振り返った。
「ネロ」
「はい」
「何かあるなら、言いなさい」
彼女は、彼を見下ろした。
「……隊長として、じゃなくていい。……ただの、私に」
ネロは、顔を上げた。
その口が、少しだけ開いた。
――何かを、言おうとした。
言おうと、した。
「……いえ」
彼は俯いた。
「なんでも、ありません」
リヴィアは、しばらくその頭を見ていた。
「……そう」
彼女は、それ以上聞かなかった。
――言いたくないことを、無理に言わせない。
それが、この二年で覚えたやり方だった。カラムが、そうしていたから。
彼女は、庵の方へ歩き出した。
背中で、ネロが何か言いかけた気配があった。振り返らなかった。




