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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
セイクリッドルート編

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31/53

授業

【半分、間違ってる】


 朝の泉のほとりに、五人が並んでいた。


 水面から霧が薄く立って、対岸の木立の根元を白く隠している。訓練用に踏み固められた地面は、昨夜の露でまだ湿っていた。


 ミラは、杖を突いて彼らの前に立った。


「――さて。始める前に、一つ聞かせて」


 彼女は、五人を見回した。


「魔法って、何かしら」


 最初に答えたのは、ネロだった。


「体内に蓄えられた魔素を消費し、術式を媒介として現象化する。……それが魔法です」


 淀みない答えだった。士官学校の教科書、第一章の一行目。


「よくできました」


 ミラは、微笑んだ。


「――半分、間違ってるけどね」


 ネロの表情が、固まった。


「……間違って、いません」


「間違ってるわ」


「僕の答えは、帝国魔導理論の基礎です」


「そうね。基礎としては、正しいわ」


 彼女は頷いた。


「でも、あなたたちが習ったのは『魔法の使い方』であって、『魔法そのもの』じゃないの」


「…………」


「見てなさい」


 ミラは、指先を立てた。


 ――そこに、小さな火が灯った。


 豆粒ほどの、頼りない火だった。風が吹けば消えそうな、揺れ方をしていた。


「これが、一。……わたしが使った魔力は、これだけ」


「はい」


「じゃあ、次ね」


 彼女は、その火に、もう片方の指を近づけた。


 ――そして。


 小さな火が、ふわりと膨れた。


 豆粒が、拳ほどの火球になった。


「……え?」


「二つ目」


 ミラは、また指を近づけた。


 火球が、頭ほどに膨れた。


「三つ目」


 人の胴ほどに。


「四つ目」


 庵の屋根ほどに。


「五つ目」


 ――泉のほとりが、真昼になった。


 巨大な光球が、木々の梢まで照らし出す。泉の水面に、それが丸ごと映った。庵の壁に、五人分の影が長く伸びて、木立の奥まで届いている。


 熱はなかった。ただ、光だけが圧倒的だった。


「わ……っ!」


 ミーナレイが、尻餅をついた。


「うわ、うわ、なんですかこれ!?」


「五つ目」


 ミラは、あっさりと言った。


「はい、おしまい」


 彼女が指を閉じると、光球は音もなく消えた。


 泉のほとりに、朝の光が戻ってきた。目が慣れるまで、しばらく誰も動けなかった。


「……ミラ殿」


 リヴィアの声が掠れていた。


「今、魔力を、どれだけ使われましたか」


「言ったでしょう」


 老女は、最初に立てた指を、もう一度立てた。


「――一だけよ」


【循環】


 沈黙が落ちた。


 ――そして。


「……ちょっと待ってください」


 リズが手を挙げた。


「今の、おかしくないですか」


「おかしいわね」


「認めるんですか!?」


「おかしく見えるものね」


 ミラは笑った。


「じゃあ、種明かしをしましょうか」


 彼女は、杖で地面に円を描いた。乾いた土に、線がはっきりと残る。


「みんな、こう習ったはずよ。魔法は、自分の中の魔力を消費して使う、って」


「はい」


「その考え方だとね、魔力は、使えば減るものになる」


 彼女は、円の中に矢印を描いた。内から、外へ。


「――でも」


 彼女は、もう一本、矢印を描き足した。


 今度は、外から、内へ。


 二本の矢印が、円をぐるりと一周する形になった。


「生み出した魔法は、そこに『在る』でしょう?」


「……在ります」


「じゃあ、それを材料にできるわ」


 地面の円を、五人が見下ろしていた。


「魔法が、次の魔法の材料になる。……そうすると、どうなるかしら」


 全員が、黙った。


 最初に理解したのは――アシュだった。


「…………増える」


「そうよ」


「増えるのか」


 彼は、自分の掌を見た。


「……増えるのかよ」


「増えるの」


「利子だ」


 彼は、天を仰いだ。


「利子付きの借金みてえだな、それ」


「うまいこと言うわねえ」


 ミラが、可笑しそうに笑った。


「あの!」


 ミーナレイが手を挙げた。


「なあに」


「それ、じゃあ、無限に増えるってことですか!?」


「理屈の上ではね」


「無限!?」


「でも、実際には無理」


 彼女は、あっさりと否定した。


「なぜかというと――大きくなった魔法は、扱いが難しくなるから」


 彼女は、消えた光球のあった場所を指した。


「さっきのを、もう一段大きくしたら、たぶんこの森が焼けるわ」


「…………」


「そして、それを止められるかどうかは、術者の技量次第」


 ミラは、杖で地面を突いた。描かれた円が、その振動で少し崩れた。


「――止められなかったら?」


「……焼けます」


「そう。自分ごとね」




「……あの、ミラ殿」


 ネロが口を開いた。その声は、少し掠れていた。


「なあに」


「……なぜ、これが、教科書に載っていないんですか」


 彼の顔は、青ざめていた。


「これほど基礎的な原理なら、真っ先に教えるべきです。……なぜ、誰も知らないんですか」


「教えられないのよ」


 ミラは、低い声で答えた。


「これは、技術じゃないの」


「では、何ですか」


「――世界の、見方」


 彼女は、泉の水面を指した。


「あなたたちは、こう教わってきた。魔力は自分の中にある、って」


「はい」


「でもね。……本当は、外にもあるの」


 水面が、朝の光を反射している。


「空気にも、水にも、木にも、石にも。……あなたたちが放った魔法の中にも」


 彼女は、微笑んだ。


「『自分の中だけ』と思っている限り、外のものは使えない。……教科書でそう教えた瞬間に、その子は一生、それしか使えなくなるのよ」


 ネロは、動けなかった。


 彼の頭の中で、十年分の教科書が音を立てて崩れていた。第一章の一行目から、全部だ。


 十四で士官学校に入って、そこから解析だけで生きてきた。数字と術式が、彼の武器で、逃げ場で、存在理由だった。前線に出られない人間が隊にいていい理由は、それしかなかった。


 その根本が、山の中の老婆に、豆粒の火一つで否定された。


【森の時間】


 最初の異変に気づいたのは、三日目だった。


 ――正確には、三日目だと思っていた日。


「……ねえ」


 リズが、木を見上げた。


「あの木、実がなってなかった?」


「昨日はまだ、花でした」


 ミーナレイが答えた。


 二人が見上げた枝には、赤い実が五つ、しっかりと色づいて下がっていた。花弁の落ちた跡が、その根元にまだ残っている。


「……一日で?」


「一日で」


 二人は、顔を見合わせた。


 その日の夕方、アシュが自分の顎を撫でて、動きを止めた。


「……おい」


「なによ」


「俺、髭剃ったの、いつだ」


「三日前じゃない?」


「三日でこれか?」


 彼の顎には、明らかに二週間分の無精髭が生えていた。




「――ああ、それね」


 夕食の席で、ミラはあっさりと言った。


「言い忘れてたわ」


「言い忘れ!?」


「この窪地はね、少し、時間が速いの」


 全員の箸が止まった。


「……速い、とは」


「そうねえ」


 彼女は、空を見上げた。


「ここで十日過ごすと、外は一日くらいかしら」


「――は?」


 リズの声が裏返った。


「じゅ、十日で一日!?」


「そうよ」


「え、待って。それって、あたしたち」


「今、ここに四日いるから……外は、まだ半日も経ってないわね」


 沈黙。


 そして、悲鳴。


「ええええ!?」


「なんだそれ! どうなってんだ!」


「あ、あの、それって、あたしたちが年を取るのは!?」


「取るわよ。ここの時間の分だけ」


 ミラは、平然と言った。


「十日いれば、十日分。……外の人より、少し先に年を取るわね」


「うわぁ……」


 ミーナレイが、頭を抱えた。


「そんな……あたし、まだ十八なのに……」


「十日で気にすることじゃないでしょう」


「そうですけど!」




「――ミラ殿」


 リヴィアが言った。


「村で聞きました。四十年ぶりに戻った男の話を」


 ミラの手が止まった。


「……ああ」


「あの人は、逆でした。中では短く、外では四十年」


「そうね」


 老女は、少しだけ目を伏せた。


「あれは、わたしの森じゃないの」


「……え?」


「この窪地の外。……森の、深いところ」


 彼女は、暗い森の方を見た。


「あそこは、わたしの手が届かないの。時間が、勝手に流れてる。速くなったり、遅くなったり」


「……なぜ」


「森が、大きくなりすぎたから」


 ミラは、湯呑みを置いた。


「三年前から、勝手に育ち始めたのよ。……わたしが押さえていたものが、緩んでる」


 リヴィアの背筋が冷たくなった。


 ――三年前。


 封の中の流れが動き始めたのも、三年前だと、彼女は言った。


「――封印が、ですか」


 ミラは、応じなかった。


 ただ、低い声で言った。


「……あの男の人はね。助けられなかったわ」


 彼女の声は、初めて、老人のものだった。


「見つけた時には、もう、戻れないところにいたの」


【五つの課題】


「――さて。時間の話は終わり」


 翌朝、ミラは五人を並ばせた。


「ここは、外の十倍。つまり、あなたたちには十倍の時間があるわ」


「十倍……」


「使いなさい」


 彼女は、杖を突いた。


「では、課題を出します」




 アシュの前に立って、彼女は言った。


「あなたは、火を消しなさい」


「……あ?」


「火を、消すの」


「消すって……水かけりゃいいだろ」


「あなたの火を、あなたの魔力で」


 彼女は、地面に小さな火を灯した。


「これを、魔力で消してごらんなさい」


 アシュは、しばらく火を睨んでいた。


 それから、手を伸ばした。


 ――火が、大きくなった。


「……あ?」


 もう一度。


 ――もっと大きくなった。


「なんで!?」


「あなた、放つことしか知らないもの」


 ミラは微笑んだ。


「魔力を向けると、増える。……戻す感覚を、覚えなさい」


「戻すって、どうやって」


「それを、十倍の時間で考えなさい」


 彼女は、あっさり去っていった。


「おい! 説明! 説明しろ!」




 リズの前で。


「あなたは、目を閉じなさい」


「え?」


「そして、風を聞くの」


「……風を、聞く?」


「そう。あなたが起こす風じゃなくて、そこにある風を」


 リズは、目を閉じた。


 しばらくして、目を開けた。


「……なんも聞こえません」


「そうでしょうね」


「え」


「あなた、二十年間、自分の風しか聞いてこなかったもの」


 ミラは、彼女の肩を軽く叩いた。


「風はね、いつも吹いてるのよ。あなたが起こさなくても」




 ミーナレイの前で。


「あなたは、泉の水に触りなさい」


「はい! 触ります!」


「――ただし、一滴も動かさずに」


「え?」


「触るだけ。動かしちゃ駄目」


「……無理では?」


「無理じゃないわ」


 ミラは、泉に指を入れた。


 水面が、まったく揺れなかった。波紋一つ、立たなかった。


 指は確かに水の中にある。なのに、水は、そこに何もないかのように静まっていた。


「うわっ!?」


「あなたのお母さんが、教えてくれたでしょう」


 老女は、指を抜いた。抜いた時も、水は動かなかった。


「斬らずに済ませられるなら、それが一番強い、って」


 ミーナレイの動きが止まった。


「な、なんでそれを」


「あなたの刀が、そう言ってるもの」




 最後に、ネロの前に立った時。


 ミラは、しばらく黙っていた。


「……あの」


「あなたはね」


 彼女は、微笑んだ。


「もう十分、賢いわ」


「……え」


「教えることが、ないの」


 彼女は、それだけ言って去っていった。


 ネロは、その場に立ち尽くした。


 泉のほとりでは、アシュが地面に向かって怒鳴っていた。リズが目を閉じて座っていた。ミーナレイが泉に指を突っ込んで、水しぶきを上げていた。隊長は、落ち葉を拾っては宙へ放っていた。


 ――課題が、なかった。五人のうち、彼だけが。


(……なぜ)


 喜ぶべきなのか。それとも――


 彼は、自分の手を見下ろした。その手が、少しだけ震えていた。


【線と、循環】


 リヴィアの課題は、変わらなかった。


 落ち葉を、斬る。ムラサメの続きだった。


 だが、ミラは一つだけ、付け加えた。


「――斬った後を、感じなさい」


「後、ですか」


「あなたの闇は、喰うんでしょう?」


 リヴィアは頷いた。


「じゃあ、喰った後、何が起きてるか。……それを、視なさい」




 窪地の時間は、速く流れた。


 ――そして、五人は、確かに変わっていった。




**十日目**(外では、一日)


 アシュは、まだ火を消せなかった。


 朝から晩まで、地面の火に手をかざしては、燃え上がらせていた。夕方には、彼の周囲三メートルの下草が焼け落ちて、黒い円ができていた。


「くそっ! なんでだよ!」


「あんた、力み過ぎ」


「うるせえ!」




**二十日目**(外では、二日)


 リズが、初めて「聞いた」。


 泉のほとりで目を閉じて座っていた彼女が、突然、右を向いた。


「……今、あっちで、鳥が飛んだ」


 その方角の梢から、遅れて鳥が飛び立った。枝が揺れ、葉が二枚、落ちた。


 彼女は、自分の耳を触った。


「……音、じゃない」


「そうよ」


 ミラが微笑んだ。


「空気が動いたのが、視えたのよ」




**三十日目**(外では、三日)


 ミーナレイが、泉に指を入れた。


 波紋が、五つ。


 ――初日は、二十以上立っていた。


「減りました! 減りましたよ隊長!」


「うん。……見てた」


「あと五つです! あと五つ!」


 彼女の指は、その頃には水に触れる前から震えなくなっていた。三十日、毎朝毎晩、同じ泉に指を入れ続けた結果だった。




**四十日目**(外では、四日)


 アシュが、地面に座り込んでいた。焼けた下草の円は、もう十メートルに広がっている。


 火は、まだ燃えている。


「……分かんねえ」


 彼は、火を睨んでいた。


「消すって、なんだよ。俺は撃つやつだぞ。撃つのが仕事だ」


「――だから、消せないのよ」


 ミラが、通りかかった。


「……どういう意味だ」


「あなた、『火は自分が出すもの』だと思ってる」


 彼女は、火を指した。


「その火、もう、あなたのものじゃないわ」


「は?」


「地面にあるでしょう。……もう、外のものよ」


 アシュの動きが止まった。


「外の、もの」


「そう。外のものは、あなたの言うことを聞かないわ」


 彼女は微笑んだ。


「――だから、頼みなさい」


「た、頼む? 火に?」


「そう」


「……正気か、婆さん」


「正気よ」


 彼女は、あっさり去っていった。


 アシュは、火を見つめたまま、しばらく動かなかった。




**五十日目**(外では、五日)


 その夜、リズが叫んだ。


「アシュ! アシュが火を消した!」


 全員が駆けつけると、彼は地面の前に座って、呆然としていた。


 火は、消えていた。焦げ跡すら、なかった。


「……どうやったの?」


「……分かんねえ」


「分かんないって」


「本当に、分かんねえんだよ」


 彼は、自分の掌を見ていた。


「なんか……『もういいよ』って、言った」


「言った?」


「頭ん中で。……そしたら、消えた」


 彼は、混乱した顔で言った。


「あれ、俺が消したのか? あいつが勝手に消えたのか?」


「――どっちでもいいのよ」


 ミラの声が、背後からした。


「区別がなくなったなら、それが正解」


⸻


**六十日目**(外では、六日)


 リズは、風の中を歩けるようになっていた。


 自分で起こさない風に、体を預ける。


 窪地の縁の崖から跳んだ彼女が、落ちずに、木の梢を三本渡っていくのを、ミーナレイが口を開けて見上げていた。彼女の周囲の葉は、一枚も揺れていなかった。


「せ、先輩、飛んでる」


「飛んでない」


 リズが笑った。


「――乗ってるの」




**七十日目**(外では、七日)


 ミーナレイの泉に、波紋が一つ、立った。


 彼女は、しばらく水面を見つめていた。


 そして、泣いた。


「……あと、一つです」


 声を上げて、泣いていた。


「あと一つで、母に、追いつけます」


【三度目】


 ――そして。


 リヴィアの、七十三日目。


 黒閃を放った後。


 ――戻ってくる。


 これまでは、無意識に受け取っていた。今は、意識して、それを掴める。


(……このまま、次に、乗せられる?)


 彼女は、試した。


 窪地の縁の、太い一本を的に選ぶ。距離、十歩。息を落として、切っ先を水平に構えた。


 一撃目。黒閃。


 戻ってくる。喉の奥に何かが落ちるような、あの感触。それを逃さずに、刃へ留める。


 二撃目。


 ――重かった。明らかに、一撃目より重い。


「……っ」


 三撃目。もっと重い。


 四撃目。


 五撃目――


 目の前の大木が、消えた。


 斬られたのではない。根元から、幹の中ほどまでが、何も残さずに消えていた。


 切断面すらない。ただ、そこにあったはずのものが、なくなっていた。上半分だけになった木が、支えを失って、ゆらりと傾いで倒れた。


 ――そして。


 リヴィアは、自分の右手を見た。


 指先が、見えなかった。


 いや、見えている。見えているのに――そこに在る感じが、しなかった。


「あ……」


 彼女は、慌てて左手で右手を掴んだ。


 感触は、あった。でも、掴んでいるという実感が、薄かった。


 ――知っている。


 この感覚を、知っている。


 訓練場の床の上で、二度。あの時は、左手だった。三秒と、七秒。


 誰にも言わなかった。割れた減衰装置のランプは自分で拾い集めて、備品箱に入れた。整備班には、経年劣化で通した。


(……三度目)


 数秒後、感覚が戻った。指先から、じわりと。


「……はぁ……はぁ……」


 彼女は、その場に膝をついた。全身が、汗だくだった。


「――ほら」


 背後で、声がした。


 ミラが、いつの間にか立っていた。


「育ってるでしょう」


「……ミラ殿」


「今、何を喰った?」


 リヴィアは、答えられなかった。


「木よ」


 老女は、消えた大木の跡を指した。


「そして、その後――足りなくなって、あなたは自分を喰い始めた」


 背筋が凍った。


「……気づいた?」


「……はい」


「よかった」


 ミラは微笑んだ。


「気づかない子は、そのまま消えるの」


 リヴィアは、しばらく息を整えていた。


 ――ミラ殿は、二度目までのことを知っているのだろうか。


 聞けなかった。聞けば、隠していたことを認めることになる。


「……ミラ殿」


「なあに」


「今のが、循環ですか」


「そうよ。……下手くそだけどね」


 老女は、消えた大木の跡を杖で示した。


「上手な人はね、喰う先を選ぶの」


「選ぶ」


「木を喰うなら、木だけ。空気を喰うなら、空気だけ」


 彼女は、リヴィアの右手を指した。


「あなたは、区別なく喰った。……だから、自分まで巻き込んだ」


 リヴィアの背筋が、冷たくなった。


 ――ムラサメの言葉が蘇る。


 お主の闇は、線を知らん。だから、境目なく喰う。


「……線」


「そう」


 ミラは頷いた。


「あの子と、同じことを言うのね」


「……ムラサメ殿にも、同じことを」


「そうでしょうね」


 彼女は微笑んだ。


「あの子の理は斬ることで、わたしの理は育てること。……逆に見えて、実は同じなの」


「同じ、ですか」


「どちらも、境目の話よ」


 彼女は、足元に生えた草を指した。


「この草と、隣の草。どこまでが一本目で、どこからが二本目か。……根っこは、繋がってるのよ」


 リヴィアは、その二本を見下ろした。


 地面すれすれのところで、二本の細い茎が寄り添っている。土を少し払うと、根が確かに絡み合っていた。


「でも、二本でしょう?」


「……なぜ、二本なんですか」


「線が、あるからよ」


 ミラは、あっさりと言った。


「誰が引いたわけでもないけど、そこに在るの。……世界は、そういう線でできてる」


 彼女は、杖を突いた。


「あなたは、その線を、自分で引けるようになりなさい」


「……そうしたら」


「喰う先を、選べるようになるわ」


【首輪】


 その夜。


 ネロは、庵から離れた木の根元に座っていた。


 端末を開いても、圏外。――もう、何日も。


 いや、外では、まだ数日しか経っていない。報告が遅れているとは、思われていないだろう。


 それでも、彼の指は、何度も端末を開いては閉じていた。


「――お茶、いる?」


 顔を上げると、ミラが立っていた。湯呑みを二つ持っている。


「……いえ」


「まあ、飲みなさい」


 彼女は、隣に座った。


 彼女が座ると、木の根が少しだけ動いて、彼女の座りやすい形になった。


 ネロは、それを見なかったことにした。


 しばらく、二人とも黙っていた。梢の隙間から、星が一つ、二つ見えていた。


「――あなた」


 やがて、ミラが言った。


「誰かに、首輪をつけられてるわね」


 ネロの手から、湯呑みが滑りかけた。


「……何のことですか」


「わたしの理は、生命を視るの」


 彼女は、暗い森を見ていた。


「流れが、視えるのよ。……人の中を、何が流れてるか」


「…………」


「あなたの流れ、二年前から、歪んでる」


 ネロは、応じなかった。


「嘘をつく人の流れは、そういう形になるの。……ずっと、同じ場所で詰まってる」


 彼女は、湯呑みを傾けた。


「外せるわよ。今なら」


「……無理です」


 彼は、掠れた声で言った。


「なぜ?」


「僕が外したら」


 彼は、膝を抱えた。


「……あの人たちが、終わるからです」


 ミラは、しばらく黙っていた。


「――それ、誰に言われたの?」


 ネロの体がこわばった。


「…………」


「自分で考えたことじゃないでしょう」


 彼女の声は、優しかった。優しすぎて、逃げ場がなかった。


「誰かに、そう思わされた。……違う?」


「……違いません」


 彼は、正直に答えた。


 二年間で、初めて、それを口に出した。


「でも――正しいんです」


「正しい?」


「僕が報告をやめたら、黒翼は解体されます」


 彼の声が震えた。


「二年前から、うちの隊は『扱いづらい』と思われてる。……本当なら、とっくに解体されてました」


「…………」


「されなかったのは、あの人が手を回してるからです」


 ネロは、両手で顔を覆った。


「僕が価値を失った瞬間に、あの人は手を引く。……そうしたら、隊長も、リズさんも、アシュさんも、ミーナレイも」


 彼の肩が震えていた。


「――全員、バラバラにされます」


 ミラは、口を挟まなかった。


 ただ、彼の背中に手を置いた。木の根が少しだけ持ち上がって、彼の背を支えた。


「……もう、遅いんです」


「遅くないわ」


「二年です」


 彼は、掠れた声で言った。


「二年分、送りました。……もう、戻れない」




 ミラは、しばらく星を見ていた。


 やがて、彼女は言った。


「――いいわ。じゃあ、一つだけ覚えておいて」


「……なんですか」


「首輪はね」


 彼女は微笑んだ。


「外そうとした瞬間に、締まるようにできてるの」


「…………」


「だから、外そうとしちゃ駄目」


「じゃあ、どうすれば」


 ミラは、湯呑みを置いた。


 それから、言った。


「――首を差し出す相手を、変えなさい」


 ネロは、顔を上げた。


「……意味が、分かりません」


「今は、それでいいわ」


 彼女は立ち上がった。


「いつか分かる。……分かった時に、思い出せばいいの」


 彼女は、庵へ戻っていった。


 ネロは、一人、残された。


 湯呑みの中の茶は、まだ温かかった。


 彼は、それを一口だけ飲んだ。


 ――苦かった。


 喉の奥に、その苦さが長く残った。


【一つ目】


 翌朝。


 庵の床の芽が、一つ、枯れていた。


 小さな双葉が、茶色く縮れて、床板の隙間で倒れている。


 残りは、まだ青々としていた。


「……ミラ殿」


 リヴィアが、それを指した。


「これ」


「ああ、一つ枯れたのね」


 ミラは、覗き込んだ。


「そろそろね」


「そろそろ、とは」


「そろそろ、外が動き出すってこと」


 彼女は、あっさりと言った。


「あの芽たちはね、この森の外の『流れ』と繋がってるの」


「外の……」


「世の中が静かなうちは、青いまま。……動き始めると、一つずつ枯れる」


 リヴィアの背筋が冷たくなった。


「では、全部枯れたら」


「そうねえ」


 ミラは微笑んだ。


 その笑みには、いつもの温かさがなかった。


「――全部枯れたら、あなたたちは、ここを出るのよ」


 彼女は、床の芽を数えた。


 残り、十一。


「まだ、時間はあるわ」


 彼女は、指で十一を数え直した。


「――外の時間で、十一日ぶんね」




 その日の午後。


 リヴィアは、庵の裏でネロを見かけた。


 彼は、何もせずに、ただ座っていた。


 他の四人が課題に取り組んでいる間、彼にだけ、することがなかった。


「……ネロ」


「あ、隊長」


 彼は、慌てて立ち上がった。


「座ってていいわ」


「……はい」


 リヴィアは、隣に腰を下ろした。


「あなただけ、課題がないのね」


「……はい」


「なぜだと思う?」


 ネロは、しばらく黙っていた。


「……教えることが、ないと」


「そう言われた?」


「はい」


 リヴィアは、少し考えた。


「……私は、違うと思う」


「え?」


「あの人は、たぶん」


 彼女は、庵の方を見た。


「あなたが自分で気づくのを、待ってる」


 ネロの体がこわばった。


「……何に、ですか」


「分からない」


 彼女は、正直に言った。


「でも、あの人は、無駄なことをしない人だから」


 ――彼女は、それだけ言って立ち上がった。膝についた土を、手で払う。その動作の途中で、思い出したように振り返った。


「ネロ」


「はい」


「何かあるなら、言いなさい」


 彼女は、彼を見下ろした。


「……隊長として、じゃなくていい。……ただの、私に」


 ネロは、顔を上げた。


 その口が、少しだけ開いた。


 ――何かを、言おうとした。


 言おうと、した。


「……いえ」


 彼は俯いた。


「なんでも、ありません」


 リヴィアは、しばらくその頭を見ていた。


「……そう」


 彼女は、それ以上聞かなかった。


 ――言いたくないことを、無理に言わせない。


 それが、この二年で覚えたやり方だった。カラムが、そうしていたから。


 彼女は、庵の方へ歩き出した。


 背中で、ネロが何か言いかけた気配があった。振り返らなかった。



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