七人目の理
【冷めた茶】
庵の中は、驚くほど広かった。
外から見た時は、四人も入れば一杯だと思った。なのに、中には囲炉裏があり、板間があり、奥に書架まであった。書架は天井まで届いていて、背の擦り切れた本が二段、隙間なく詰まっている。
「……あの」
リズが、天井を見上げた。
「これ、外より広くないですか」
「そうかい?」
老女は、鉄瓶を火にかけながら答えた。
「そうね。……そうかもしれないねえ」
「え」
「まあ、お座り」
あっさり流された。
五人は、恐る恐る腰を下ろした。板間は、素足で歩けるほどよく拭き込まれていた。囲炉裏の縁の木は、長年の手垢で黒く光っている。誰かが毎日、同じ場所に手をついて座ってきた形だった。
――老女は、ミラと名乗った。
背は低く、痩せている。黒髪に銀が混ざり、腰まで届いている。薄茶の麻の衣を、何枚も重ねて着ていた。
どこにでもいそうな、山の老婆だった。
――ただ、彼女が湯呑みを配る時、指先から蔓が一本、するりと伸びて、棚の茶葉の壺を取ってきた。
誰も、それについて何も言えなかった。
「はい、どうぞ」
湯呑みが、五つ。茶は、薄い黄金色をしていた。
ミーナレイが一口飲んで――目を丸くした。
「あ、美味しい」
「そうかい。良かった」
「……あの、これ、なんのお茶ですか?」
「この森の、木の葉と、根と、あとは色々」
「色々ですか」
「色々」
ミラは、にこにこと笑った。
誰も、それ以上聞かなかった。
湯気が、天井へ細く昇っていく。庵の中には、囲炉裏の煙と、乾いた薬草と、湿った土の匂いが、層になって溜まっていた。
――彼女は、五つ目の湯呑みを、ネロの前に置いた。
「あなたは、少し濃くしておいたわ」
「……え」
「顔色が悪いから」
ネロの手が、止まった。
「……ありがとう、ございます」
「疲れが、体の外に出せてないでしょう」
「…………」
「そういう時はね、苦いものを飲むといいの」
彼女は、それだけ言って自分の席に戻った。
ネロは、湯呑みを両手で持ったまま、しばらく飲まなかった。
「――ところで、あなたたち」
ミラが、ふと言った。
「森で、二日も彷徨ったでしょう」
「……はい」
「一日目の夕方、右の道を選んだわね」
リヴィアの背中がこわばった。
「……見ていたんですか」
「見てないわ。森が覚えてるだけ」
彼女は、当たり前のように言った。
「木は、記憶するの。誰が通ったか、どっちへ行ったか。……その時、何を考えていたかもね」
「な、なにを考えていたかまで!?」
リズが悲鳴を上げた。
「気配でね。……焦ってたでしょう、あなたたち」
「焦ってました」
「そうよねえ」
ミラは、可笑しそうに笑った。
「二日目は、良かったわ。ちゃんと、嫌な方を選んでた」
「…………」
「よく気づいたわね。誰が決めたの?」
「……私です」
リヴィアが答えた。
「一度、間違えたので」
「そう」
老女は、少しだけ目を細めた。
「間違えたことを、覚えていられる人は、いい隊長になるわ」
「――ムラサメ殿の、紹介で参りました」
リヴィアは、木札を差し出した。
ミラはそれを受け取り、少しだけ目を細めた。
「まあ。……あの子、まだ生きてたのねえ」
「あの子」
「そう、あの子」
彼女は、木札を撫でた。
「昔から偏屈でねえ。……今も山にこもってるんでしょう?」
「はい」
「変わらないねえ、あの子は」
――千年生きた男を「あの子」と呼ぶ老婆。
リズとアシュが、顔を見合わせた。
「……ねえ」
「言うな」
「言ってない」
「顔に出てる」
二人は、また前を向いた。
【三つの水】
「――さて」
ミラは、湯呑みを置いた。
「あなたたち、何を聞きに来たの?」
「え」
「聞きに来たんでしょう? 調査じゃなくて」
リヴィアの背筋が伸びた。
「……なぜ、そう思われますか」
「植生調査の人は、剣を持ってこないもの」
あっさりと言われた。
「それに、あなた。顔に『分からないことがある』って書いてあるわ」
「…………」
「いいのよ。聞きなさい」
彼女は、囲炉裏に薪をくべた。
「わたし、話すのは好きなの。……相手がいないだけでね」
リヴィアは、少し考えてから口を開いた。
「――天界と、魔界について、伺いたいのです」
部屋の空気が、変わった。
リズとアシュとミーナレイが、同時に姿勢を正した。
「あら」
ミラは、少し驚いた顔をした。
「ずいぶん、大きなところから来たわね」
「はい」
「なぜ、それを」
「……ある人から、五百年前の話を聞きました」
リヴィアは、慎重に言った。
「そして、その話の続きが、たぶん今、起きています」
ミラは、しばらく彼女を見ていた。それから、頷いた。
「――いいわ。じゃあ、正しく話しましょうね」
彼女は、指を三本立てた。
「上に、天界。下に、魔界。真ん中に、ここ」
「はい」
「これは、比喩じゃないの。本当に、そういう造りになっているのよ」
「本当に、というのは」
「口で言っても分からないでしょう。……おいで」
ミラは、五人を庵の外へ連れ出した。
泉のほとり。水は、底の小石が数えられるほど澄んでいる。
彼女は、杖の先を水面に触れさせた。波紋が一つ、縁まで走って、消えた。
それから、水が動きを変えた。
――泉が、三つに分かれた。
混ざらなかった。上に、透き通った層。真ん中に、薄く濁った層。底に、黒く重い層。
三つは、境目をはっきりと保ったまま、動きを止めていた。
「上の水を、飲んでごらん」
リズが、恐る恐る手で掬った。
「……あ。冷たい。すごく、軽いです」
「真ん中は?」
「……普通の水です」
「底は」
アシュが手を伸ばした。
――指が、水に入る前に止まった。
「……なんだこれ」
彼の指先が震えていた。
「重い。……水が、重い」
「そう」
ミラは、杖を上げた。三つの層が、渦を巻いて混ざり始める。
「上のものは、軽くて、綺麗で、遠い。下のものは、重くて、濁っていて、近い」
彼女は、混ざっていく水を見た。
「――そして、真ん中にいるわたしたちは、両方を飲んでる」
誰も、何も言えなかった。
「水は、上から下へ流れるでしょう。……魔素も、同じ」
「え」
「天で生まれて、ここで使われて、下へ沈む。沈んだものは、戻ってこないの」
リヴィアの背中が、こわばった。
――第七魔鉄鉱精錬工場の、最後の三年。七十を切った歩留まり。二刻を羨む親たち。柱に貼られた間引き点灯の告示。今月から徴収品目に加わった、魔石。
「……減ってるんですか。地上の魔素は」
「そうよ」
ミラは、当たり前のことを言うように答えた。
「千年前の、半分もないわ」
リズが、口を開いたまま固まっていた。
「あの、それって、いつか」
「なくなるでしょうね」
「なくなったら、どうなるんですか」
「魔法が、使えなくなるだけよ」
老女は、微笑んだ。
「灯りが消えて、薬が効かなくなって、畑が痩せて。……人は、たぶん、生きてはいけるわ。今より、ずっと貧しくね」
誰も、返す言葉を持たなかった。
「――この森が広がってるのも、それと関係があるの」
「関係?」
「わたしが、掻き集めてるからよ」
ミラは、あっさりと言った。
「地面に薄く残っているものを、根で拾って、木にしてる。……木は、溜めておけるから」
リヴィアは、周囲の巨木を見上げた。
五人が手を繋いでも囲めない幹。梢は、首が痛くなるほど上にある。それが地平線の端まで、途切れずに続いている。三年で二キロ広がったという、外縁部。村の柵の内側に、びっしりと生えていた若木。
――全部、貯金だった。この老女が千年かけて、地面から一滴ずつ拾い上げて、木の形に積み上げてきたものだった。
「掻き集めて、どうするんですか」
「さあ」
ミラは、首を傾げた。
「いつか、要る日が来るかもしれないでしょう」
【天と、地】
庵に戻ると、茶は淹れ直されていた。
「まず、天界」
ミラは、湯呑みを回した。
「今、あそこには十二の大天使がいて、会議をしています」
「か、会議」
ミーナレイが、思わず口を挟んだ。
「天使が、会議するんですか」
「するわよ。毎日、それはもう熱心に」
「……なにを、話してるんですか」
「地上のことよ」
ミラは微笑んだ。
「あなたたちが何をしているか、ずっと見ているの」
部屋が、しん、とした。
誰も、その光景を想像できなかった。十二人が、机を囲んで、毎日、この地上の話をしている。バルドアの雪も、セルバの河も、聖都の三万一千人も、全部、議題として上がっているのだろうか。上がった上で、何も起きていないのだろうか。
「……見てるだけ、ですか」
「見てるだけ」
「助けてくれないんですか」
「千年、降りてきてないわ」
彼女の声は穏やかだった。穏やかすぎて、かえって寒かった。
「戦争が起きても、国が滅んでも、子供が飢えても。……ずっと、見てるだけ」
リヴィアの指が、湯呑みの縁を強く押さえた。
「……なぜ」
「さあ」
ミラは首を傾げた。
「決めたんでしょうね。降りない、って」
――そこで、ミーナレイがおずおずと手を挙げた。
「あの、変なこと聞いていいですか」
「どうぞ」
「天使さんって、いい人たちじゃないんですか」
部屋が、少しだけ静かになった。
――誰もが、心のどこかで思っていたことだった。
「いい人かどうかは、分からないわ」
ミラは微笑んだ。
「ただね、こう考えてごらんなさい」
彼女は、囲炉裏の火を指した。
「あなた、蟻の巣を見たことある?」
「あ、はい」
「蟻が喧嘩してたら、助ける?」
「……助けません」
「そうよね」
彼女は頷いた。
「蟻が可哀想じゃないんじゃないの。……ただ、遠すぎるのよ」
ミーナレイの顔から、血の気が引いた。
「……それ、あたしたちが蟻ってことですか」
「向こうから見たらね」
「うわぁ……」
彼女は、両手で顔を覆った。
「あたし、今日、いろんなものが崩れていきます……」
「まだ半分よ」
「まだあるんですか!?」
⸻
「次は、魔界」
彼女は、床を指した。
「昔は、七人の王がいたの。七つの種族に、一人ずつ」
「七人」
「悪魔、魔獣、吸血、幽鬼……まあ、色々ね」
「それが、今は」
「一人よ」
ミラは、あっさり言った。
「三十年ほど前かしら。誰かが、全部まとめてしまったの」
リヴィアの背筋が冷たくなった。
――三十年前。
なぜか、その数字が耳に残った。
「その、まとめた人は」
「知らないわ」
「知らない?」
「わたし、下には行けないもの」
彼女は笑った。
「気配だけよ。……前は七つあった重いものが、ある日、一つになった。それだけ」
――リヴィアは、その話を聞きながら、無意識に胸元へ手をやっていた。
服の下の、銀のペンダント。三歳の時からずっと首にある、誰も読めない紋様。六つに枝分かれした線と、それを囲む輪。
バルドアの雪の夜、無効化の波の中で、これだけが冷たくならなかった。あの時は、気のせいだと思った。
なぜか今、そこが少しだけ温かい気がした。
「……ミラ殿」
「なあに」
「魔界の人たちは、……どんな姿をしているのですか」
「人と同じよ」
あっさりと答えられた。
「え」
「角がある子もいるし、ない子もいる。羽がある子も、ない子も」
ミラは、湯呑みを傾けた。
「昔ね、一度だけ会ったことがあるの。地上に迷い込んだ子と」
「……どんな方でしたか」
「困った顔をしてたわ」
彼女は、懐かしそうに言った。
「帰り道が分からないって。……お茶を出したら、飲んで、帰っていった」
「そ、それだけですか!?」
「それだけよ」
「え、戦ったりとかは」
「なんで戦うの」
当然のように言われて、リズが黙った。
「向こうにも、色々いるのよ。悪い子も、いい子も」
ミラは、湯呑みを置いた。
「――こっちと、同じ」
――ここで、後ろから囁き声が聞こえてきた。
「……ねえ、アシュ」
「なんだ」
「今の、分かった?」
「……半分」
リズが、指を折り始めた。
「上に天使が十二人いて、会議してて、千年降りてこない」
「そこはいい」
「下に王様が七人いたけど、三十年前に一人になった」
「そこもいい」
「じゃあ、なにが分かんないのよ」
「――なんで婆さんが、それを知ってんだ」
リズが、止まった。
「……あ」
「見てきたみたいに喋るだろ、あの人」
「……見てきたのかも」
「そこだよ、俺が分かんねえのは」
二人が、揃ってミラの方を盗み見た。
ミラは、にこにこと茶を飲んでいた。
「――千歳よ」
「え!?」
「二人とも、そういう顔をしていたから」
彼女は、湯呑みを置いた。
「千歳と、少し。……正確な数は、忘れちゃったわ」
「せ、千歳」
「そう」
「え、あの、待ってください」
ミーナレイが、混乱した顔で手を挙げた。
「千歳って、その、千年生きてるってことですか?」
「そうよ」
「え、じゃあ、ムラサメさんも」
「あの子も同じ。ううん、あの子の方が、少しお兄さんね」
「……お、お兄さん」
「六人とも、同じ時に生まれたようなものだから」
――ミーナレイが、目を回した。
「あ、あたし、頭が」
「無理しなくていいのよ」
ミラは、優しく言った。
「わたしも、最初の百年くらいは、自分でもよく分からなかったから」
「百年」
「百年」
リズが、頭を抱えた。
「……単位が、おかしい」
【五つと、六つ】
「――ミラ殿」
リヴィアは、話を戻した。
「理は、六つあると聞きました」
ミラの手が、止まった。
「風、雷、土、斬、木。……そして、光」
「……ええ」
「今は、五つだと」
老女は、湯呑みを見つめた。
初めて、その顔から笑みが消えた。
「――そうね」
彼女は、低い声で言った。
「六つあるはずだったの。……今は、五つ」
「一つは」
「五百年前に、道を違えたわ」
彼女は、囲炉裏の火を見た。
「わたしたちが、封じました」
部屋が、静まり返った。
「……その方は、今」
「封の中よ」
ミラの指が、湯呑みの縁を一周した。
言ってから――少しだけ、間が空いた。
「……いえ」
彼女は、言い直した。
「――封の中に、いるはずだったわ」
リヴィアの心臓が跳ねた。
「今は」
「分からない」
老女は、正直に言った。
「わたしの理は、生命を視るの。……生きているものの流れが、視える」
彼女は、掌を開いた。
「五百年、あの人の流れは、止まっていた。凍った池みたいにね」
「……それが」
「三年前から、少しずつ、動いてる」
リヴィアの喉が鳴った。
「最初は、気のせいだと思ったわ。……でも、今年に入ってから、はっきりと」
ミラは、掌を握った。
「流れてるの。……もう、確実に」
――背後で、リズが小さく手を挙げた。
「あの、すみません」
「なあに」
「その、封じられた人って」
彼女は、恐る恐る聞いた。
「悪い人、なんですか」
ミラは、少し考えた。
「悪い人かどうかは、分からないわ」
「え」
「本人は、正しいと思っていたもの」
彼女は、湯呑みを両手で包んだ。
「あの人はね、こう言ったの。『この世界は、三つに分かれているから争いが起きる。一つにすれば、争いは終わる』って」
「……それは」
「筋は、通ってるでしょう?」
「……はい」
リズが、口ごもった。
「一つにする方法が、全部殺すことだった、というだけよ」
誰も、何も言えなかった。
【七人目】
「――さて」
ミラは、鉄瓶に水を足した。
「ここからが、本題ね」
「本題?」
「あなた、聞きに来たんでしょう?」
彼女は、リヴィアを見た。
「なぜ自分が、こんなに強いのか」
「……っ」
「なぜ、いくら撃っても魔力が尽きないのか」
リヴィアは、答えられなかった。
「なぜ、自分の中に、底が見えないのか」
――図星だった。
十一歳で水晶を割ったあの日から、ずっと抱えてきた問いだった。
「……はい」
彼女は頷いた。
「知りたいです」
「そう」
ミラは微笑んだ。
「――七人目の理が、生まれようとしているわ」
庵の空気が、動きを止めた。
「……七人目?」
「そう。六つで終わりのはずだったの。神が死んで、宙に浮いた欠片は、六つしかなかったから」
「では、七人目とは」
「新しく、生まれるのよ」
彼女は、囲炉裏の火を指した。
「誰かが、新しい『決めごと』を握ろうとしている。……この百年、そんな気配はなかったわ」
「それが、今」
「今、二つ」
リヴィアの背筋が凍った。
――ムラサメと、同じことを言っている。席の気配が、二つ、と。
「二つ、ですか」
「そう。二つとも、まだ形になっていない。……卵みたいなものね」
「……どちらも、誰か分かりますか」
「一つは、分からない」
ミラは首を振った。
「遠すぎて、視えないわ。……ただ、光に近いものだということだけ」
「もう一つは」
ミラは、湯呑みを置いた。
そして――まっすぐに、リヴィアを見た。
「――目の前にいるわ」
部屋が、凍りついた。
「……え」
リヴィアの声が掠れた。
「わたし、ですか」
「そうよ」
「……そんな」
「あなた、自分でも気づいているでしょう」
ミラの声が、低くなった。
「あなたの魔法は、他の人のものと、根っこが違う」
「…………」
「他の人は、自分の中のものを外に出している。……あなたは、外のものを中に入れている」
リヴィアは、自分の手を見下ろした。
「それは、魔法の使い方じゃないわ」
ミラは言った。
「――決めごとに、触る使い方よ」
リヴィアは、動けなかった。
――背後の四人も、動けなかった。
【器】
「……あの」
手が、一本挙がった。
ミーナレイだった。
「なあに」
「……それ、隊長が悪いわけじゃ、ないですよね」
部屋の空気が、少し動いた。
「え?」
「だって、勝手に入ってくるんですよね。隊長が、入れようとしてなくても」
彼女は、自分でも何を言っているのか分からない顔をしていた。それでも、言葉を探して続けた。
「あの、あたし、水なんですけど」
「うん」
「水って、こっちが呼ばなくても、低い方に来るんです。器が空いてたら、勝手に入ってくるんです。押し込まなくても」
彼女は、両手で丸い形を作った。
「だから、あたしの魔法って、押し出すんじゃなくて……ええと、器の形を決めるっていうか」
「…………」
「隊長のって、それの、大きいやつじゃないですか。器が空いてるだけで、悪気とか、そういうの、関係なくて」
彼女は、そこで言葉に詰まった。
「……すみません。あたし、何言ってるか分かんなくなってきました」
ミラの手が、止まっていた。
――老女は、初めて、少し驚いた顔をしていた。
「……あなた」
「は、はい!」
「いい目をしてるわね」
「え? えっ、あたし、変なこと言いました?」
「いいえ」
ミラは、微笑んだ。
「――そのとおりよ」
リヴィアが、顔を上げた。
「わたしが百年かけて言葉にしたことを、この子は今、水で説明したわ」
彼女は、リヴィアを見た。
「あなたの中は、空いてるの。だから入ってくる。悪意も、意志も、そこには要らない」
リヴィアは、自分の掌を見つめた。
黒い手袋を外した、その下の手。少し荒れた、何の変哲もない手だった。十年、帳簿をつけて、二年、剣を握った手。この掌が空っぽの器で、そこへ勝手に何かが流れ込み続けているのだと言われても、実感が湧かない。
――守ろうとして、間違えた。
二日前、暗い森の中で自分に言った言葉が、なぜか、頭の隅で鳴った。
「あの、じゃあ」
ミーナレイが、また手を挙げた。
「器って、蓋、できないんですか」
ミラの笑みが、深くなった。
「――それが、明日からの話よ」
――背後で、アシュがぼそりと言った。
「……つまり」
「なによ」
「うちの隊長が、神様になりかけてるってことか?」
リズが、湯呑みを落としかけた。
「え、待って。待って待って」
「待たねえよ」
「そんな話だった!?」
「今の、そういう話だろ」
「……そういう話だった」
彼女は、頭を抱えた。
「あたし、ついていけない」
「隊長は、神様になるんですか?」
ミーナレイが聞くと、ミラはあっさり答えた。
「ならないわ。――なるかもしれない、というだけ」
「あんまり変わってません!」
「そうねえ」
老女は、可笑しそうに笑った。
「じゃあ、こう言いましょうか」
彼女は、指を一本立てた。
「今のところ、卵よ。まだ何にも孵ってない」
「……卵」
「そう。孵るかもしれないし、孵らないかもしれない。……孵ったとして、何が出てくるかも分からない」
「それって」
リズが、青い顔で言った。
「……全然、安心できないんですけど」
「安心する話をしてないもの」
ミラは、にこにこと言った。
それから、彼女は火の方を向いた。笑みが、そこで消えた。
「――良いものが育つとは、限らないわ」
【血】
「――もう一つ、伺っても」
リヴィアは、掠れた声で言った。
「ムラサメ殿に、言われました」
「なんて?」
「私の血の線が、片方――どこにも繋がっていない、と」
ミラの手が、止まった。
彼女は、湯呑みを置いた。
それから、しばらくリヴィアを見つめた。
――視ていた。輪郭ではなく、その奥を。
「……ああ」
やがて、彼女は言った。
「そう。……そうね」
「何か、分かりますか」
「分かるわ」
あっさりと答えられて、リヴィアの心臓が跳ねた。
「――教えてください」
「駄目」
「え」
「教えられないわ」
ミラは、首を振った。
「……なぜですか」
「順番があるからよ」
彼女の声は、優しかった。
「それはね、あなたのお父さんが、いつか言うべきことなの」
リヴィアの息が止まった。
「……父」
「そう」
「……父は、生きているんですか」
ミラは、応じなかった。
ただ、微笑んだだけだった。
「……ミラ殿!」
「今は、駄目」
老女の声は柔らかかった。柔らかいまま、動かなかった。
「今のあなたが知ったら、あなたは壊れるわ」
「…………」
「わたしの理は、生命を視る。……あなたの中の流れが、今、どれくらい不安定か、視えているの」
彼女は、リヴィアの胸元を指した。
「あなたは、二つのものでできてる。……その二つは、本当は混ざらないものよ」
――泉の水を、リヴィアは思い出した。
三つに分かれて、境目を保ったまま静止していた水。
「混ざらないものを、無理に一つの体に入れてる。……だから、あなたの魔法は喰うの」
リヴィアは、動けなかった。
「――足りない部分を、外から埋めようとしてるのよ。ずっと」
【教えてください】
長い沈黙が落ちた。
囲炉裏の薪が、爆ぜた。
「……ミラ殿」
リヴィアが口を開いた。
「はい」
「私は――強くなりたいです」
彼女は、両手を膝の上に置いた。
「二年前、大切な人を、目の前で失いました」
「…………」
「止めたい人がいます。でも、届きませんでした」
彼女は、頭を下げた。
「全力を出して、傷ひとつ、つけられなかった」
――聖都の焼けた広場。空を埋めた光の槍。黒葬の闇を喰い破って降り注いだ、あの物量。全力の斑が、光の盾に細い罅を一つ入れただけで消えた。
「あれから二年、毎日、剣を振りました。技も増やしました」
彼女は、顔を上げた。
「でも、まだ足りません。……絶対に、足りない」
ミラは、黙って聞いていた。
「教えてください」
リヴィアは、床に手をついた。
「私に、魔法を」
――しばらく、誰も動かなかった。
リズが、アシュが、ネロが、ミーナレイが、息を詰めて見守っていた。
床に手をついた隊長の背中を、四人が見ていた。この二年、誰にも頭を下げたことのない女だった。上官にも、貴族にも、記者にも、必要な角度以上には下げなかった。その背中が、今、板間についている。
やがて。
ミラは、湯呑みを置いた。
「……いいわ」
彼女は、立ち上がった。その手には、蔦の絡んだ杖。
「ただし、条件が一つ」
「なんでも」
「――全員よ」
彼女は、五人を見回した。
「え?」
「あなただけ強くなっても、意味がないわ」
ミラは微笑んだ。
「あなたが強くなれば、あなたが行く場所が、もっと危なくなる。……そこへ、この子たちも一緒に行くんでしょう?」
リヴィアは、言葉を失った。
「だったら、全員で強くならないとね」
「あ、あたしもですか!?」
ミーナレイが跳び上がった。
「そうよ」
「え、でも、あたし、まだ十八で」
「じゃあ、あと九百八十二年あるわね」
「そういう問題ですか!?」
ミラは笑った。
それから、杖で床を、こつん、と突いた。
庵の床板の隙間から、緑の芽が一斉に生えた。
いくつも、いくつも。五人の座っている周囲を囲むように、小さな双葉がぷつぷつと顔を出していく。板の隙間から、それも一斉に、同じ高さで。土も水もないところから、当たり前のような速さで。
「……え」
「これは、しるしよ」
ミラは言った。
「この芽が枯れるまでに、あなたたちに教えられるだけ教える」
「枯れるまで、って」
「さあ。……いつ枯れるかしらねえ」
彼女は、いたずらっぽく笑った。
「――では、始めましょうか」
【泉のほとり】
その日から、黒翼の五人は、森の庵に滞在することになった。
その夜、五人は庵の外の泉のほとりに座っていた。誰も、すぐには眠れなかった。
「……ねえ」
リズが、水面を見ながら言った。
「今日、情報量が多すぎない?」
「多すぎる」
アシュが即答した。
「天使が十二人で会議してて、千年降りてこなくて、俺らは蟻で」
「魔王が七人いたけど一人になってて」
「婆さんが千歳で」
「理が六つあったけど五つになってて」
「――で、うちの隊長が七人目の卵」
リズが、両手で顔を覆った。
「無理」
「無理だな」
「一日で受け止める量じゃないでしょ、これ」
二人は、しばらく黙った。
それから、リズがぽつりと言った。
「……でもさ」
「なんだよ」
「一個だけ、はっきりしたことがある」
彼女は、顔を上げた。
「隊長、たぶん、放っといたら勝手に一人で背負うわよ」
アシュが鼻を鳴らした。
「……知ってる」
「だから、あたしたちも強くならないと」
「……そうだな」
少し離れた場所で、リヴィアは水面を見ていた。
泉の水は驚くほど澄んでいて、月が丸ごと映っていた。昼間、三つに分かれた水が、今は一つに戻っている。
――七人目の理。
(……卵、か)
自分の中に、自分の知らない何かが育っている。良いものとは、限らない。
そして――父。
(生きてるの)
ミラは、否定しなかった。
二十八年間、顔も名前も知らなかった人が、この世のどこかにいるかもしれない。その事実は、嬉しさより先に、不安として胸に落ちた。
「……隊長」
ミーナレイが、隣に座った。
「あの、大丈夫ですか」
「……大丈夫よ」
「嘘ですね」
彼女は笑った。
「隊長、大丈夫って言う時、いつも大丈夫じゃないです」
「……そう?」
「はい。リズ先輩が言ってました」
「あの子……」
リヴィアは、少しだけ笑った。
「……ミーナレイ」
「はい」
「さっきの、器の話」
「あ、あれ、その、思いつきで」
「よかった」
リヴィアは、水面を見たまま言った。
「あれで、少し、楽になった」
ミーナレイは、しばらくきょとんとしていた。
それから、耳まで赤くなって、勢いよく立ち上がった。
「あ、あたし、明日に備えて寝ます! おやすみなさい!」
彼女は、走って庵へ戻っていった。
――泉の向こうの木立の陰で、ネロが一人、立っていた。
彼は、五人の輪に加わらなかった。ただ、湯呑みを持ったまま、庵の灯りを見ていた。
――苦いものを飲むといい。
あの老婆の言葉が、耳から離れなかった。
なぜ、自分の疲れが「外に出せていない」と分かったのか。
(……あの人、視えてるんじゃないか)
彼の背中に、冷たい汗が伝った。
(僕が、何をしてるか)
――外の世界では、まだ、何も起きていなかった。
帝都では議会が開かれ、新聞が刷られ、工場の煙突が煙を吐いていた。南では駐留部隊が国境を固め、東の島では削岩機が山を削っていた。
全部が、いつも通りだった。
いつも通りに、加速していた。




