刻印
【聖十字の街】
その街は、祈りでできていた。
白い石畳。尖塔の鐘。軒先に下がる、小さな十字の飾り。路地の突き当たりには必ず聖堂があり、香の煙が朝霧に混ざって漂っている。巡礼者の街。信仰の都。
その地下に、帝国が「テロ組織」と呼ぶ者たちは潜んでいた。
古い聖具倉庫の奥。蝋燭の炎がひとつ、闇に揺れている。
「――どうして、仕留めなかったの」
問うたのは、小柄な剣士だった。前髪をまっすぐに切り揃えた少女。腰の細剣に、手を添えたまま。カリン。組織で、セリウスの背中を預かる者。
「標的はレイリット・バンス。空挺部の総括。あの男が生きている限り、次の『積み荷』は止まらない。あなたが一番、分かっているはずでしょう」
「……ああ」
セリウスの返事は、答えになっていなかった。フードを下ろした金の髪が、蝋燭の光に鈍く光る。その瞳は、カリンではなく、もっと遠くを見ていた。
(――生きて、たのか)
煙の中の顔が、まだ焼きついている。十年前、燃える王都に置いてきた。死んだと思っていた。死なせたと、思っていた。
あの黒い瞳が。あの声が。よりにもよって、あの場所で。
「セリウス」
カリンの声が、少しだけ和らいだ。
「……何か、あったのね」
「なんでもない」
セリウスは立ち上がり、フードを深く被り直した。
「隊長には、俺から報告する。次の準備を進めてくれ」
倉庫を出ると、鐘の音が降ってきた。朝の祈りを告げる、澄んだ音。軒先の十字が風に揺れている。
(リヴィア。……お前は、関わるな)
祈りの街の空は、どこまでも白かった。
【退職】
同じ朝、帝都レグニア。
第七魔鉄鉱精錬工場の事務室で、リヴィアは退職届を差し出していた。
「い、いやあ、寂しくなるなあ!」
工場長は口ではそう言いながら、判を押す手には微塵の迷いもない。
「しかし軍のお偉いさんに見込まれての入隊とは、大出世だ! うちの工場から軍人様が出るとはなあ!」
「……お世話になりました」
「がっはっは! 偉くなっても、うちの魔鉄鉱をよろしく頼むよ!」
事務室のあちこちから、視線が刺さる。ひそひそ声には、もう慣れた。
机の引き出しを空にして、私物をまとめる。十年働いて、鞄ひとつに収まる荷物しかなかった。
最後に、斜め向かいの席の前で足を止めた。空っぽの机。彼女がこの職場に来た日から、ずっとそこで喋り続けていた声は、もうしない。
(……行ってくるわね、エマ)
壁の標語――『効率と秩序こそ帝国の繁栄』――に背を向けて、十年間の職場を後にした。外に出ると、煤けた空の下で始業の汽笛が鳴いていた。この音を聞くのも、今日で最後だ。
【旅路】
東行きの列車に、リヴィアは揺られていた。膝の上には、グレイの推薦状。封筒の隅に押された特務課の印が、やけに重い。
帰化時の測定記録は十年前のもので古すぎるから、制度上、魔刻を受け直すこと。特別採用のため、試験官の前で実力を示す実技試験があること。軍務省でグレイが並べた手続きを、頭の中でもう一度なぞる。
『再測定で正式な数字が出れば、列車の一件も「測定を逃れていた元エルデナの魔導士」で全部説明がつく。お前を疑う声ごと、記録で塗り替える』
抜け目のない男だ。昔から、そうだった。
窓の外を、レグニアの街が流れていく。朝の下層区。煙突の森。路地にはためく洗濯物。パンの焼ける匂い。子供の泣き声。犬の遠吠え。十年間、彼女が息を潜めて生きてきた世界だ。
列車が高架を登るにつれ、景色が色を変えていった。中層区に入ると、とある駅前に小さな人だかりが見える。
魔刻院の支所だ。
制服姿の十四歳たちが、緊張した面持ちで列を作っていた。付き添いの親たちの方が、よほど落ち着かない顔をしている。ちょうど列の先頭で、少年がひとり測定を終えて出てきた。右手の甲を、高々と掲げている。
「二刻だ! 母ちゃん、二刻だって!」
そこに浮かんだ二本の光の線を見て、母親らしき女性が両手で口を覆った。周りの親たちが、その手を目で追っている。羨ましそうに。
列車の中で聞いた、あの工員の声が耳の奥で蘇った。――親父の代は、二刻なんて半分の家に一人はいたって話だぞ。
自分の左手を見下ろす。十年前、十八歳の彼女は、帰化手続きの列で自分の魔力を殺した。線は一本も浮かばなかった。あの時は、それが正しいと思った。浮かばない線の数だけ、安全に近づけるのだと。
(今日は……殺さない)
――そして、出しすぎもしない。
列車が、ふいに速度を落とした。窓の外、並走する高架の隣に、崩れ落ちた線路が見える。あの区間だ。
ひしゃげた鉄骨に足場が組まれ、作業員たちが黙々と動いていた。高架の下、焼け跡を囲う仮設の柵には、色とりどりの花が結びつけられている。数えきれないほどの花。その間に、子供の描いた絵や、燃え尽きた蝋燭。
車内の誰かが、帽子を取った。
コートのポケットの上から、飴の缶に触れる。
(……見ててね)
列車は再び速度を上げ、焼け跡は後ろへ流れていった。
【帝国中央軍施設】
終点の駅を降りると、空気の匂いが変わった。油と、火薬と、磨かれた金属の匂い。帝都第一区、帝国中央軍施設。摩天楼のあいだに、要塞のような建物群が黒々と構えている。正面の鉄門は、見上げるほど高かった。
「止まれ。所属と用件を」
「リヴィア・ノクスと申します。本日付の入隊手続きに参りました。グレイ少佐の推薦状を持参しています」
封筒を差し出すと、門兵は事務的に受け取り、封の印に目を落として――固まった。
「グ……グレイ少佐の、直筆推薦……!?」
「は? おい、嘘だろ」
二人の門兵が、封筒と彼女の顔を忙しなく見比べる。
「た、大変失礼いたしました! 只今、担当をお呼びします!」
片方が転がるように詰所へ駆け込み、もう片方は直立不動のまま、こめかみに汗を浮かべていた。
ほどなく若い兵士が小走りでやってきて、施設の奥へと案内される。途中の検問で、彼が右手をかざすと手の甲に二本の線が浮かび、装置が緑に光った。刻印は、身分証でもあるのだ。
長い通路を歩きながら、案内の兵士が恐る恐る口を開いた。
「……あの、失礼ですが。グレイ少佐とは、その、どういったご関係で……」
「……幼馴染の、ようなものです」
「お、幼馴染っ……!?」
兵士の背筋が、目に見えて伸びた。
その通路の途中で、前を歩いていた文官たちが、順に壁へ寄り始めた。
慌てた様子はない。廊下の端に体を寄せ、書類を胸に抱え、目を伏せる。それが当然の作法であるかのように、迷いのない動きだった。案内の兵士も足を止め、敬礼の姿勢のまま動かなくなる。リヴィアは、意味が分からないまま、一拍遅れて壁へ寄った。
足音が、一人分。
磨かれた床を、規則正しく打っている。速くも、遅くもない。近づいて、通り過ぎた。
目に入ったのは、背中だけだった。金の髪。きっちりと分けられた七三。丈の長い外套の裾が、歩調に合わせて揺れている。
足音が角を曲がって消えるまで、廊下の誰も動かなかった。
「……行きましょうか」
案内の兵士が、それだけ言った。こめかみに、汗が浮いている。
誰の名前も、口にされなかった。リヴィアは黙って、その後に続いた。
【再測定】
通されたのは、白い小部屋だった。中央の台座に、透明な水晶盤が据えられている。傍らには記録係の士官と、白衣の技官が二人。
「リヴィア・ノクスさん。魔刻の再測定を行います。水晶盤に右手を置き、魔力を流してください。体内の魔素総量に応じて、手の甲に刻印が顕現します。――力まず、自然に。無理に絞り出す必要はありません」
「……はい」
台座の前に立ち、右手を水晶盤に置いた。冷たい。
十年前の記憶が、指先から這い上がってくる。あの時は息を止めた。心を閉ざした。体の奥のものを、殺した。
目を閉じ、息を吐く。固く閉ざしてきた扉を、細く、細く開いていく。流れ出したものが腕を通り、指先へ。
水晶盤が、淡く光り始めた。同時に、右手の甲に熱が灯る。
光の線が一本。見えない筆でなぞられるように、肌の上に浮かび上がった。
「一刻――」
記録係が読み上げる。二本目。
「二刻」
三本目の線が浮かんだところで、技官のひとりが記録板から顔を上げた。もうひとりが、水晶盤の脇の目盛りへ顔を寄せる。
「……三刻」
まだ、流れは止まらない。
胸元でペンダントが熱を持ち、水晶盤の光が一度だけ脈打つように揺れた。ずっと奥の方で、何か大きなものが扉を叩いた。
彼女は、その扉を、内側から押し返した。
四本目の線が、形を結ぶ。
――そこで、止まった。
沈黙。
「…………四刻」
記録係の声が掠れていた。
「よ、四刻!?」
「測定違いじゃないのか」
「機器は正常です……間違いありません。四刻です!」
白い小部屋が、にわかに騒がしくなる。入隊測定で四刻なんて何年ぶりだ。おい、特務課に報告を――いや、少佐はもうご存じか。
水晶盤から手を離すと、四本の線は名残の熱だけを残して消えていった。
(……四刻)
偽物の無刻ではない。ただ、全部でもない。
この国の記録に初めて刻まれた彼女の数字は、嘘と本当のちょうど真ん中にあった。それを見抜いた者は、この部屋にひとりもいなかった。
【入隊試験】
午後。案内されたのは、施設の奥にある大訓練場だった。
体育館を三つ繋げたような広さ。床は継ぎ目のない灰色の石材で、壁には等間隔に魔導式の減衰装置が埋め込まれている。流れ弾ならぬ「流れ魔法」を吸い取るための設備だと、案内の兵士が誇らしげに教えてくれた。
二階の観覧席には、いつの間にか人が集まり始めている。例の特別採用が来たぞ。再測定で四刻が出たっていう。元は工場の事務員なんだろ、どうせ数字だけさ。好奇と、値踏みと、嘲り。視線の温度は、貴族の宴とそう変わらなかった。
訓練場の中央に、ひとりの士官が立っていた。黒髪をきっちり撫でつけた三十代半ばの男。姿勢がいい。立ち姿だけで、場数が知れる。
「エリック中尉です。本日の試験官を務めます。特別採用枠とのことですが――規定は規定。実力は、示していただきます」
慇懃で、温度のない声だった。
その時、観覧席がざわりと揺れた。黒に近い軍服の長身が現れたからだ。傍らには、書類を抱えたエレナの姿もある。少佐という地位の人間が入隊試験に姿を見せる。それがどれほど異例か、ざわめきの大きさが物語っていた。
エリックは一瞬だけ観覧席に目をやり、それから薄い笑みを浮かべた。
「……なるほど。少佐直々のご観覧とは。期待の大きさが窺えますね」
言葉の底に、細い棘があった。
「では、試験内容を説明します」
彼はリヴィアから二十歩ほどの距離を取って向き直った。
「私はこれより、防御術式を展開します。あなたはそれを破ってください。方法は問いません。制限時間は五分。一枚でも割れば合格です」
「……防御を、破る」
「ご存じないようですから、申し上げておきますが」
エリックが両手を持ち上げる。
「私はこれでも、防御術では多少名の知れた身です。特務課の特殊作戦部隊にいた頃から、この盾を正面から割られたことは一度もない。――どうぞ、全力で」
彼が魔力を込めると、手の甲に三本の光の線が浮かんだ。三刻。
直後、前面に青白い光の板が展開される。一枚。二枚。三枚。六角形の光板が層を成し、互いに緩やかに回転しながら、鉄壁の護りを形作った。
観覧席から、感嘆の息が漏れる。エリック中尉の三枚楯だ。あれを正面から割った奴なんて、見たことねえよ。
その観覧席の隅で、黒い軍服の一団が手すりにもたれていた。
「へえ。エリックの奴、初手から本気の三枚か」
茶色の短髪に、ちょび髭の男が面白そうに目を細める。
「リーダーの同期なんでしょ、あの中尉」
ポニーテールの女が言うと、髭の男――カラムは頷いた。
「おう。階級は俺が上だが、腕は互角ってとこだ。……で、あの嬢ちゃんが、グレイの言ってた新入りか」
「四刻だってね。ま、数字はご立派だけど」
金髪の長身が、腕を組んだまま鼻を鳴らした。
「エリック中尉の三枚は、数字で割れるほど甘くねえよ」
「アシュ、あんた、自分が割れなかったからって」
「うるっせえな」
眼鏡の小柄な青年は、端末を胸に抱えたまま、そわそわと成り行きを見守っている。
訓練場の中央で、リヴィアは呼吸を整えていた。支給された訓練用の細剣を、右手に提げている。刃を潰した、鉄の棒に近い剣だ。
三枚の光の板。その表面を、目でなぞる。回転する六角形の連なり。板と板の重なり。魔力の流れの――結び目。
――ああ。
見える。十年経っても、見えてしまう。白の塔の訓練場で教官の怒声を浴びながら、何百回と繰り返した「読み」。あの日々が、体の奥から勝手に浮かび上がってくる。
怖い、と思った。こんなにも簡単に、戦う自分に戻れてしまうことが。
(もう、決めたでしょう)
剣を構える。鎖骨の高さ。刃先は、少し低く。
その構えを見た瞬間、エリックの目が細くなった。
(……素人の構えでは、ない)
「――いつでも、どうぞ」
息を吸って、止める。
剣の切っ先に、闇色の粒子が凝った。訓練場の音が――ざわめきも、空調の唸りも――遠のいていく。
「……黒閃」
音は、なかった。
黒い一本の線が、世界を走った。
それは光の板を壊したのではない。板と板が重なる、魔力の結び目だけを――正確に、断った。
一枚目が音もなく割れる。二枚目が遅れて砕ける。三枚目が、粉雪のように散った。
黒い線の先端は、エリックの頬をかすめて、ぴたりと止まった。
静寂。
壁の減衰装置のランプがひとつ、ぱん、と小さく弾けた。古い装置の悲鳴か、それとも――誰も、気に留めなかった。
手の中で、訓練剣の刀身に細い亀裂が走っている。
エリックの頬に糸のような赤い線が浮かび、一滴だけ血が伝った。彼は指でそれに触れ、自分の指先を見て、深く、長く息を吐いた。
「……三枚とも、ですか」
声から、もう棘は消えていた。
「しかも今の一撃、私の頬の『手前』で止めましたね。殺せる線を、わざと浅くした」
「……すみません。加減を、少し間違えました」
「間違えていたら、私の首は飛んでいますよ」
エリックは乱れてもいない襟元を正し、観覧席に向かって告げた。
「――試験終了。文句のつけようがありません。合格です」
一拍遅れて、訓練場が爆発した。
「う、うおおおお!?」
「今の見えたか!? 俺には線しか見えなかったぞ!」
「黒い魔法……闇属性か? 初めて見た……」
「おい、闇魔法って、あれだろ、魔族の――」
最後の囁きは、どよめきに呑まれて消えた。
観覧席の隅で、アシュは腕を解くのも忘れて固まっていた。
「三枚……正面から……」
彼自身、何度挑んでも一枚半までしか届かなかった三枚楯だ。
「ちょっと、最っ高じゃない……!」
リズは手すりから身を乗り出して、目を輝かせている。
「見た!? 今の太刀筋! うちに来るのよねあの人!? 女子宿舎の隣の部屋、私が押さえるから!」
「ひ……」
ネロは端末を胸に抱えたまま、顔を青くしていた。
「ぼ、僕、あの人にだけは、絶対に逆らわないでおこう……」
カラムだけが、腕を組んだまま満足そうに笑っている。
「……なるほどな。グレイの言った通りだ」
観覧席の反対側で、グレイは手すりに軽く手を置いたまま、口の端だけで笑っていた。十年ぶりに見るあいつの剣は、衰えるどころか、深く、鋭くなっている。
(……ああ。やっぱり、お前だ)
その横顔を、エレナは黙って見つめていた。少佐が、あんな顔で笑うのを初めて見た。
彼女は手元の書類に目を落とし、眼鏡の位置を直した。ページは、めくらなかった。
【黒翼】
試験のあと、リヴィアは施設の東翼へ案内された。案内板も部隊章もない、無愛想な建物。特務課直属・黒翼分隊の隊舎だった。
扉を開けた瞬間、大きな手が差し出された。
「よお、新入り! 見てたぜ、さっきの」
ちょび髭の男が、にっと笑う。
「カラム・ディート。この隊で現場の指揮をやってる。みんなからは『リーダー』って呼ばれてる。……ま、魔刻は三刻の、しがない中間管理職だ」
「三刻……?」
思わず聞き返してしまった。軍全体でも数えるほどしかいないという四刻を、若くして集めた特殊部隊。その現場指揮官が、三刻。
「おっ、いい顔するねえ」
カラムは愉快そうに髭を撫でた。
「言っとくがな、嬢ちゃん。ここじゃ手の甲の線の数なんざ、飯の種にもならねえ。……ま、すぐ分かるさ」
「リーダーの言う通りよ」
ポニーテールの女が、ひらひらと手を振りながら歩み寄ってくる。
「リズ・カリード。風使い。四刻。――で、田舎じゃ『神童』って呼ばれてたわ。測定が出た日は町中がお祭り騒ぎで、入隊の日は新聞に載ったの。『百年に一人の天才少女』って」
リズは芝居がかった溜息をついた。
「それが入隊初日の模擬戦で、そこの三刻のおじさんに、いいとこなしで転がされたわ。三十秒で三回」
「二十秒で四回だ。記録は正確にな」
「うるさいわね」
リズは笑って、それから少しだけ声の調子を落とした。
「……ここの四刻は、みんな同じ道を通ってるの。地元で無双して、鼻高々で入隊して、鼻っ柱を折られる。数字の使い方より先に、数字の捨て方を習うのよ」
リヴィアは頷いた。
(……いい部隊なのね、ここは)
エマを死亡者名簿の一行にしたこの国の中に、線の数で人を測らない場所がある。それだけで、少しだけ息がしやすかった。
「……アシュ・バーン」
金髪の長身が、目も合わせずにぼそりと名乗った。
「火属性。四刻。……言っとくが、次の模擬戦、俺はあんたに勝つ」
「あら、もう宣戦布告?」
「うるせえリズ。……三枚楯を正面から割られて、黙ってられるかよ」
アシュはそれだけ言って、さっさと奥へ引っ込んでしまった。
「気にしないで。あれで結構、認めてるのよ」
「ネ……ネロ・フェインです」
眼鏡の青年が直角に頭を下げた。
「情報参謀……一応。あ、あの、僕、戦闘は専門外なので、そのっ、お手柔らかに……」
「取って食べたりしないわ」
「ひ、ひえ……」
奥の格納庫からは、油まみれの男が手を振っていた。
「俺はジン! 整備とヘリ担当! こっちの無口なのがパイド、機械と通信のプロだ! よろしくな、姉さん!」
賑やかな声が、隊舎に反響する。
リヴィアは、この空気を知っていた。白の塔の、食堂の音だ。
【黒と銀】
夕刻。隊舎の奥の執務室に呼ばれると、グレイが机の前に立っていた。机の上に、二つの包みが置かれている。
「試験、見事だった」
「……観覧席、ざわついてたわよ。少佐サマのご登場に」
「役得だ」
グレイは大きい方の包みを押し出した。開くと、漆黒の布地が現れる。
黒翼の軍服。銀糸の細い刺繍。襟元には、小さな双翼の紋章。
「帝国の制式はカーキだが、黒翼だけは特別にこの色の許可を取ってある。影を行く部隊には、この方が似合うからな」
「……黒、か」
昨日までの自分なら、この色に十年分の重さを感じただろう。今は不思議と、しっくりくる気がした。
「それと。四刻、か」
グレイの声の調子が、ほんの少しだけ変わった。
「……不満?」
「まさか」
彼は書類を閉じた。閉じる前に、数字の欄をもう一度見ていた。
「こっちが、本題だ」
細長い包みを手に取り、彼女の腕へ預ける。ずしり、とした重み。布を解くと、鞘に収まった一振りの剣が現れた。
細身のレイピア。柄には繊細な銀の意匠。鍔は無駄のない曲線。数センチ引き抜くと、刃が黒曜のように鈍く光った。
息が、止まる。
この形を知っている。白の塔の訓練場で毎日握っていた。教官に何百回と打ち込み、セリウスと数えきれないほど切り結んだ。あの日、燃える王都のどこかに置き去りにした――彼女の剣と、同じ形。
「……どう、して」
「学園でお前が使ってたやつに、似せて造らせた」
グレイは少しだけ目を逸らした。
「記憶を頼りに図を起こしたから、細部は違うかもしれん。……素材は魔鉄鉱だ。第七プラント産の」
「皮肉なもんだがな。お前が十年、帳簿をつけ続けた鉱石が、どの金属より魔力の通りがいい。試験の訓練剣、ヒビが入っていただろう。並の剣ではお前の魔力に保たん。列車で拾った杖が崩れたのと同じだ。こいつなら耐える」
柄を握る。手に吸いつくように馴染んだ。重心。柄の太さ。鍔の角度。全部、覚えている。頭よりも先に、手が覚えている。
十年前に捨てたはずのものが、十年後の手の中に帰ってきた。
(……覚えていて、くれたんだ)
過去ごと消えたつもりだった。誰の記憶からも消えたつもりだった。この男は、彼女の剣の形を十年間覚えていた。
目の奥が熱くなる。それを悟られないように、わざと素っ気なく言った。
「……趣味がいいのね、少佐は」
「昔から言われる」
「言われてないでしょ、絶対」
窓の外で、夕陽が鉄塔を赤く染めていた。
【初任務】
夜。女子宿舎の一室で、リヴィアは窓辺に腰掛けていた。真新しい黒の軍服が壁に掛かっている。机の上には、レイピアと、蜂蜜色の飴の缶。
右手に、ほんの少しだけ魔力を灯してみる。手の甲に、四本の光の線が浮かんだ。
――押し返した扉の向こうには、まだ何かが残っている。今日、あの部屋で、彼女はそれを見なかったことにした。
魔力を解くと、線はすうっと消えた。
コン、コン。
「リヴィアー? 起きてる?」
扉を開けると、リズが通達書を一枚、ひらひらと振っていた。
「たった今、下りてきたわよ。――明朝〇六〇〇、作戦説明。私たち、出るわ」
「……初任務?」
「そ。歓迎会は、帰ってきてからね。新人さん」
ウインクを残して、リズは隣の部屋へ消えた。
扉を閉め、机の上の缶を手に取る。蓋を開けて、ひとつ摘まみ上げた。
今度は、口に入れた。
甘かった。想像していたよりも、ずっと。
通達書に、もう一度目を落とす。明朝〇六〇〇、作戦説明。行き先は、どこにも書かれていなかった。




