太陽の記憶
【白の塔】
朝の鐘が鳴っている。
エルデナ王立魔法学校、白の塔の中庭。芝生には朝露が残り、魔光花が淡い光の粒を漂わせていた。その真ん中で、ひとりの少年が大の字に寝転がっている。枕代わりの魔導書。はだけた制服の襟。淡い金の髪が朝日を弾いていた。
「セリウス。もう授業始まるよ」
「ん~。先行ってて! 今日は凄く太陽が気持ちいいんだ!」
目も開けずに、少年の手だけがひらひらと振られる。そこへ、本を小脇に抱えたグレイが割って入った。
「お前、光合成中かよ」
「日光浴は勉強が捗る一番の近道だ」
「それはお前だけだ」
容赦のない一言に、花壇のそばでティナが吹き出した。リヴィアが学生鞄を拾い上げ、グレイが両脇に腕を差し込んで、無理やり体を引き起こす。
「うわ、横暴だ! 俺の太陽が!」
「太陽は逃げない。単位は逃げる」
「グレイ、お前ほんと夢がないなあ」
ぎゃあぎゃあと騒ぐセリウスを引きずって、三人は塔への道を歩いた。途中で振り返った彼が、太陽みたいに笑う。
「なあ、リヴィア。今日もいい日になるぞ」
なんの根拠もない、いつもの台詞だった。
「はいはい」
それでも、彼が言うと本当にそうなる気がした。何気ない朝の繰り返し。あの頃は、それが何よりも大切なものだと、気づいてすらいなかった。
【燃える線路】
記憶が、炎に呑まれて途切れる。
夕陽と火災の赤に照らされて、目の前に、その人が立っていた。
「……リヴィア……なのか……」
掠れた声だった。
フードの下から覗いた顔は、記憶の中の青年とは似ても似つかなかった。金の髪は無造作に伸び、頬には乾いた煤の跡。青い瞳の周りに、疲れの色が濃く沈んでいる。太陽の匂いがした少年は、もうどこにもいない。長い夜を歩き続けてきた人間の顔が、そこにあった。
聞きたいことが、喉の奥で渦を巻いた。どこにいたの。なんで消えたの。なんで、こんな。エマが。あの子が。あなたたちの爆弾で―
言葉は形になる前から崩れ、振り絞って出たのは、たったひとつだった。
「何を、してるの……?」
セリウスの瞳が揺れた。唇が薄く開いて、閉じた。彼はフードを深く被り直し、リヴィアに背を向けた。
「――お前は、関わるな」
突き放す低い声。くたびれたカーキ色のジャケットが、風を孕んで揺れる。足元で光が弾け、体が空高く舞い上がった。夕焼けの空を、一条の光が斜めに裂いていく。
追いかけることも、名前を呼ぶこともできなかった。遠く小さくなっていく光を、見つめているしかなかった。
十年前は、背中を見送った。十年経って、また背中を見送っている。
手の中には、黒く焦げた杖の欠片だけが残った。
【名乗るほどの】
「―助かった。命を救われたよ」
背後からの声が、現実へ引き戻す。
振り返ると、あの初老の男が、部下らしき兵に支えられて立ち上がるところだった。外套の下に濃緑の軍服が覗いている。胸には勲章がびっしりと並んでいた。ホームで見た、黒い革の鞄の男だ。
男は額の血を拭いもせず、まっすぐにリヴィアを見た。
「見事な腕だった。さぞ、名のある軍人であろう。――名を、教えてくれるか」
値踏みする視線が、彼女の顔を、腕を、足元の焦げた木片を、順になぞっていく。
「……名乗るほどの名前は、持ち合わせていません」
それだけ言って、背を向けた。
「おい、待ちたまえ――」
男の声に、駆けつけた兵たちの怒号が重なった。閣下、と誰かが叫んでいる。衛生兵を呼ぶ声。喧騒に囲まれながらも、男は黒い革の鞄だけは胸に抱いたまま離さなかった。
リヴィアは、振り返らなかった。
線路沿いは、地獄そのものだった。
脱線した車両は先へ行くほど原形を留めず、先頭部は線路脇の建物に突っ込んで、赤煉瓦の壁ごと崩れ落ちている。潰れた家々から火の手が上がり、夕暮れの空を黒煙が塗り潰していった。
泣き叫ぶ声。名前を呼ぶ声。瓦礫を素手で掘る人。座り込んだまま動けない人。濡れた石畳に、炎の色だけが揺れて映っている。
煤に汚れた自分の両手を見下ろした。エマの血は、もう乾き始めている。
(セリウス。……なぜ、こんなことを)
答えてくれる者は、どこにもいなかった。
【五百】
どうやって帰り着いたのか、覚えていない。気づけば、灯りもつけないまま自分の部屋の床に座り込んでいた。窓の外では、遠くの空がまだ火事の色にぼんやりと赤い。
枕元のラジオを、無意識につけていた。砂嵐まじりの音声が、狭い部屋に流れ出す。
『――繰り返しお伝えします。本日夕刻、帝都環状線にて列車を狙った爆破テロが発生。列車は脱線し、沿線の家屋を巻き込んで大規模な火災が――』
『――反帝国組織「リバースオーダー」が犯行声明を発表。政府はこれを、帝国史上、過去最大規模のテロ行為と断定――』
『――死者は、周辺の建物被害を含め、五百人に上る見通しです――』
五百人。
顔を上げた。リバースオーダー。聞いたこともない名前だった。なんの団体なのか。なぜ、セリウスがそこにいるのか。
ラジオは、身元確認が難航していることを淡々と告げ続けている。その五百のうちのひとりは、苺のケーキをあんなに楽しみにしていた。
コートのポケットに手を入れると、指先に硬いものが触れた。蜂蜜色の飴だ。
―はい。前祝いです。
数時間前の声が、耳の奥で蘇る。
リヴィアは飴を握りしめたまま、夜が白むまで動かなかった。持ち上がった鉄の感触だけが、いつまでも手のひらに残っている。
【小さな葬儀】
三日後、エマの葬儀が行われた。
下層区の外れの、小さな共同墓地。同じ日にいくつもの葬儀が重なって、狭い墓地は黒い服と啜り泣きで溢れていた。五百の死は、この街のあちこちに、同じ光景を作っているのだろう。
式が終わり、人が散り始めた頃。エマの母親が、ふらつく足でリヴィアの前に立った。娘とよく似た、丸い目の人だった。
「……あなたが、リヴィアさん?」
「……はい」
「あの子ね、あなたの話ばっかりしてたのよ。工場に、すごく綺麗で優しい人がいるって。いつか絶対、一緒にケーキを食べに行くんだって」
優しくなんて、なかった。最後まで、素っ気なくすることしかできなかった。
母親は、小さな缶をリヴィアの手に握らせた。蓋を開けると、蜂蜜色の飴が缶いっぱいに詰まっている。
「あの子の机にあったの。……よかったら、貰ってやって」
「……っ」
「最後に一緒にいてくれて、ありがとうね」
深く頭を下げる母親の、震える肩。
―私が、あの鉄を持ち上げていれば。
喉まで来た言葉を、リヴィアは飲み込んだ。この人に渡していい言葉ではない。渡せば楽になるのは、自分だけだ。
だから、頭を下げ返すことしかできなかった。缶の角が、手のひらに食い込んでいた。
【呼び出し】
数日後、リヴィアは何もなかったような顔で工場へ出勤した。
事務室に入ると、視線が集まるのが分かった。ひそひそと交わされる声。慌てて逸らされる目。斜め向かいの小さな机は、綺麗に片付けられて空っぽになっている。
打刻機の前に座り、いつも通り帳簿を開こうとした。
「リヴィア君。工場長がお呼びだ」
主任だった。珍しく、二語以上喋っている。
廊下の奥、工場長室の扉をノックして、開けた瞬間に足が止まった。
応接ソファに、あの男が座っていた。濃緑の軍服。胸を埋め尽くす勲章。
「―この前は、助かった」
男が立ち上がる。
「改めて、礼を言いたくてね。探したよ。『名乗るほどの名前を持たない』工場事務員の君を」
薄く笑いながら、男はソファを手で示した。工場長が揉み手をしながら椅子を引く。断れる空気ではなかった。浅く腰を下ろすと、男は淡々と話し始めた。
「私は、レイリット・バンス。帝国軍の空挺部総括隊長という立場を、任せられている」
軍の階級に詳しくないリヴィアにも、それがどれほどの地位なのかは想像がついた。あの日の護衛の数が、何よりの証拠だ。
「今回のテロは、おそらく私を狙ったものだろう。私を襲った者は、『リバースオーダー』という、帝国の転覆を企てる組織の幹部だ」
幹部。その一言が、腹の底に冷たく落ちた。
「奴らはここ数年、帝国各地で破壊工作を繰り返している。今回のような規模は初めてだがね。……五百の命だ。許されることではない」
レイリットの声には、怒りらしい熱がなかった。帳簿を読み上げるような、乾いた声。
「そんな中で、君の行動に、私は命を救われた」
「……いえ。私は、何も」
「謙遜はいい」
男の目が、すっと細くなった。
「時に、君。――腕に、魔刻が見えないが」
心臓が跳ねた。
言葉が出るまでに、一拍かかった。ここで詰まったら終わりだと、頭のどこかが冷えた声で告げている。
「……無刻です。夢中で、落ちていた杖を振り回しただけで」
「ほう」
レイリットが笑う。目だけが、笑っていない。
「無刻の女性が、な。……いや、失敬。世の中には、時として面白いことが起こるものだ」
値踏みするような沈黙のあと、男は話を切り替えた。
「そこで、だ。君には軍から、今回の功績を称えた表彰をしたい」
「あ……ありがたいのですが……仕事も、ありますので……」
咄嗟に出た言い訳を、横から工場長が踏み潰した。
「レイリット隊長! リヴィアはいつでも休ませますので、軍のご都合でいつでも召喚ください!」
膝の上で、指が固まる。
レイリットは満足げに頷き、立ち上がった。
「では、五日後の午前十時。グランドアーカム三階の大広間にて執り行う。必ず、来てくれたまえ」
「……はい」
それは、招待の形をした命令だった。
【表彰】
五日後。
正装と呼べるものは持っていなかった。古着屋で急ごしらえした、飾りひとつない真っ黒なドレスに、いつものコートを羽織っただけで、リヴィアは帝都の中心へ向かう列車に乗った。
高層区の駅を降りて、まず思ったのは首が痛いということだった。見上げても建物の頂が見えない。磨かれた石壁と硝子の摩天楼が灰色の空を四角く切り取り、頭上から覆いかぶさってくる。石畳は黒く濡れて、魔導灯の橙色を鏡のように映していた。行き交うのは仕立てのいい外套と、艶のある山高帽。下層区の油と煤の匂いはここにはなく、あるのは石と、香水と、金の匂いだけだった。
大通りの突き当たりにそびえる白亜の巨塔――グランドアーカムの正門は、異様だった。武装した兵が隙間なく並び、装甲車が通りを塞ぎ、塔の周囲をぐるりと兵の列が囲んでいる。屋根の上にまで、狙撃銃らしき影が見えた。五百人が死んだ直後だ。当然といえば当然なのかもしれない。
招待状を差し出すと、兵はそれと彼女の顔を三度見比べ、慌てたように敬礼した。
門の内側は、別世界だった。見上げるほどの吹き抜け。天井の魔導シャンデリアが星のように連なり、白い大理石の床へ金の光を落としている。壁の彫刻ひとつが、下層区の家一軒より高そうだった。
三階の大広間は、色の洪水だった。深紅のドレス。金糸の礼服。宝石。羽根飾り。黒一色のリヴィアは、その中で一滴の墨のように浮いていた。
式典は、退屈と豪華さでできていた。名前を呼ばれた者が壇上に上がり、賞状らしき紙を受け取っていく。国境警備の功績。魔導技術への貢献。多額の軍事献金。拍手。拍手。また拍手。
「――続いて。先の環状線テロ事件において、勇敢なる行動により、帝国軍高官の命を救った民間人。リヴィア・ノクス殿」
自分の名前が、大広間に響き渡った。
ざわ、と空気が揺れる。民間人ですって。例の、テロリストを退けたという。あれが? ずいぶん地味な。
前の受賞者の動きを頭の中でなぞりながら、壇上へ上がる。歩幅。お辞儀の角度。紙の受け取り方。全部、見よう見まねだ。偉そうな人物が偉そうな声で何かを読み上げ、賞状が手渡され、貴族たちの拍手がさざ波のように広がった。
十年かけて消してきた自分の名前が、よりにもよって帝国の心臓のど真ん中で、これほど大きく呼ばれている。
拍手は、苦痛以外の何ものでもなかった。
【立食会】
式典のあとは、立食の宴だった。壁際で気配を消そうとした目論見は、ものの数分で崩れた。
「あなたが噂の! どちらの貴族のお生まれですの?」
「いえ……」
「テロリストを退けたとか! 所属はどちらの部隊かな?」
「……軍属では、ありません」
「ほう、では魔刻はいかほどで? 四刻? まさか五刻ですかな?」
グラスを持つ手に、力がこもった。
「――無刻です」
一拍の沈黙のあと、笑いが弾けた。ご冗談を。またまた。無刻の民間人が五刻級を止めたのなら、我々の軍は要りませんな。
笑い声に囲まれながら、リヴィアは口の端だけを持ち上げた。この嘘は、もう戻せない。あの水晶盤の前に立つまで、あるいは立った後も、自分は同じことを言い続けるのだろう。
好奇の色が、じれったそうな苛立ちに変わり始めた頃だった。
背後から、誰かの手がさっと腰に回された。
「すみません。――慣れていないもので」
落ち着いた、低い声。聞き慣れた声だった。
貴族たちがぴたりと口を閉じる。その視線の先には、黒に近い軍服と、肩の階級章。
「これは、アークライト少佐……」
愛想笑いを残して、貴族たちが潮の引くように散っていった。
振り返る。十年前より高くなった背。整えられた髪。灰色の瞳の奥の光だけが、あの頃のままだった。
「……グレイ?」
「久しいな、リヴィア」
グレイ・アークライトは、口の端だけで笑った。
「下層区で、目立たないように生きるんじゃなかったのか」
「……そのつもりだったけど」
「帝国の英雄サマが、よく言う」
「やめて。本気で」
軽口が、驚くほど自然に転がった。十年の空白が、ほんの一瞬だけ、なかったことになる。
グレイは声を落とし、周囲へ視線を走らせた。
「――あとで、話がある。少し付き合ってくれ」
その目は、もう笑っていなかった。
【迎え】
宴が終わり、広間の隅にひとり佇んでいると、歩み寄る影があった。深い紺の制服を隙なく着こなした、金髪の女性。眼鏡の奥の瞳が、値踏みするように一度、全身を往復する。
「――グレイ少佐の秘書官をしております、エレナ・ファルネです」
「……リヴィア・ノクスです」
「存じております。こちらへ」
必要最低限。無駄のない案内だった。黒塗りの車に乗り込んでも、エレナは一言も発しなかった。ただ一度だけ、窓に映るリヴィアの横顔を、少し長く見ていた。
高層ビル群の一画、飾り気のない建物の前で車は止まった。昇降機で上層階へ上がり、長い廊下の突き当たりの一室へ通される。
大きな窓を背にして、グレイが立っていた。
【床が厚い】
「……あなた、いったいどれだけ偉くなったの」
部屋を見回して、半ば呆れた声が出た。執務机。応接ソファ。壁一面の書架。個人の部屋だというこの一室は、彼女の住むアパートより明らかに広い。
「まだまだだよ。目的のためには、力不足だ」
グレイは向かいに座ると、一枚の紙をテーブルに置いた。
精緻な人相書き。少しやつれてはいるが、見間違えるはずのない顔。その下に、活字が並んでいる。
『セリウス・クレイド』
「……セリウス」
「会ったんだろ」
「……ええ」
「あいつは今、反乱組織『リバースオーダー』の幹部だ。今回のテロは、下層区を視察中だったレイリット隊長を狙ったものだった。お前は意図せず出会して、阻止した」
グレイは人相書きを指先でなぞった。
「報告書を読んだ時は、目を疑ったよ。『無刻の工場事務員が、拾った杖一本で五刻級の斬撃を弾いた』。そんな芸当ができる無刻が、この世にいるものか」
リヴィアは、膝の上で指を組んだ。
「……ねえ、グレイ。十年、同じ街にいたのよね」
グレイの指が、紙の上で止まった。
「……ああ」
「一度も、来なかった」
「行けば、お前の十年を壊すことになる」
「勝手に決めたのね」
「勝手に決めた」
言い訳をしなかった。それが、いちばん腹立たしかった。
沈黙が落ちる。グレイは書架の方へ目をやってから、話を戻した。
「なぜセリウスが帝国を狙うのか、お前も聞きたいはずだ。……ひとつだけ言う。エルデナ戦争の前に、レムナスから使者が来たのは覚えてるか」
「……真偽を確かめるために、って」
「その使者は道中で殺された。首だけがレムナスに送り返された。エルデナの短剣を、添えられてな」
背筋を、冷たいものが走った。
「そんなの、エルデナがするはずない」
「ああ。するはずがない。誰かが、二つの国を戦わせたがっていた」
グレイは前へ身を乗り出し、声をさらに落とした。
「考えてみろ。エルデナが滅んで、一番得をした国はどこだ」
喉が鳴った。領土。魔導研究の遺産。人材。戦勝国であるはずのレムナスは、戦費で疲弊しきって、今や頭が上がらない。
「……ディナシア、帝国」
「まだ憶測だ。証拠はひとつもない」
グレイはソファに背を戻した。
「――それに、この部屋で全部話す気はない。壁が薄いわけじゃないが、床が厚すぎる」
どこまでが冗談なのか、彼の顔からは読み取れなかった。
「……あなたは、何のために軍にいるの」
グレイは少し黙った。
「エルデナが滅ばなければならなかった理由を、知りたい。誰が、何のために、俺たちの国を潰したのか。軍の中枢に近づけば、必ず答えがある。……もし本当にこの国が腐っているなら、内側からしか変えられない」
「たったひとりで?」
「ひとりで始めるしか、なかったからな」
自嘲気味の笑い方に、この十年の孤独が透けて見えた。
「正直に言う。俺は行き詰まってる。軍の中で拾える情報には限界がある。それに――セリウスを、止めたい。これ以上、あいつに罪を重ねさせたくない」
一拍。
「リヴィア。力を、貸してくれ」
「私、が……?」
「あいつは、あの日、お前を見て手を止めた。違うか」
違わなかった。振り上げられた光の剣は、フードが落ちた瞬間、確かに迷った。
リヴィアの手が、コートのポケットの上から缶の輪郭をなぞっていた。角が四つ。指はその一つ目で止まったまま、しばらく動かなかった。
「……考えさせて」
グレイは頷いた。無理に頷いた顔ではなかった。
【帰路】
帰りの列車は空いていた。最終に近い便で、まばらな乗客はみな疲れた顔で目を閉じている。
膝の上に、賞状の筒。その隣に、飴の缶。
蓋を開けて、ひとつ摘まみ上げた。蜂蜜色の粒が、車内の弱い灯りを吸って鈍く光る。
口へ運びかけて、指が止まった。
結局、リヴィアはそれを缶に戻し、蓋を閉めた。窓の外を、下層区の暗い屋根が流れていく。遠くの空には、まだ焼け跡の色がうっすらと残っていた。
【軍務省】
三日後、リヴィアは軍務省の面会室にいた。
「入るわ」
短い返事に、グレイは書類から顔も上げなかった。
「わかってた」
「……少しは驚きなさいよ」
「驚いてる。顔に出ないだけだ」
ペンが紙の上を走る音がしばらく続いた。それから彼は、顔を上げないまま尋ねた。
「理由は」
「……セリウスを、止めたいから」
嘘ではなかった。ただ、全部でもなかった。
あの夜、鉄は軽々と浮いた。十年ぶりに使った力は、驚くほど素直に言うことを聞いた。あの一秒さえなければ、エマは今日もどこかでケーキの値段を調べていたはずだった。
その一秒のことを、この男に話す気はなかった。
「制度上、魔刻は受け直してもらう。帰化時の記録は古すぎる」
「……ええ」
「言っておくが、あの水晶は正直だぞ」
リヴィアは、自分の右手を見た。何も浮いていない、少し荒れただけの手。
――今は、まだ。
「わかってる」
ポケットの中で、缶が小さく鳴った。




