線
【千年】
朝、リヴィアは早く目を覚ました。
板間には、四人分の寝息が、それぞれ違う間隔で続いている。囲炉裏の火は、灰の下で赤い点になって残っていた。彼女は音を立てずに起き上がり、土間の草履を借りて外へ出た。
――ムラサメは、井戸端にいた。
桶で水を汲み、顔を洗っている。滑車の軋む音と、水の落ちる音のほかには、何も聞こえなかった。朝靄が杉の森を腰まで沈めていて、幹の上半分だけが黒く浮いている。
「……早いな」
「はい」
リヴィアは、少し離れた場所に立った。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、彼女は言った。
「ムラサメ殿」
「うむ」
「昨日の、昔話ですが」
老人の手が、止まった。
「あなたは、『師の、そのまた師の代の話』と仰いました」
「言うたな」
「――嘘ですね」
沈黙。
ムラサメは、顔を上げた。濡れた顔を、手拭いで拭く。
「……なぜ、そう思う」
「昨夜、ミーナレイの刀を見て、『六十年前、まだ子供だった頃の当主に稽古をつけた』と仰いました」
「言うたな」
「六十年前に、既に稽古をつけられる年齢だった人が、今も現役でいる」
リヴィアは、老人の目を見た。
「そして、五百年前の封印について、『封が解けるはずがない』と断言された。……伝聞にしては、断定が過ぎます」
ムラサメは、しばらく彼女を見ていた。
それから――笑った。初めて、はっきりと笑った。
「ふん。……理屈の立つ娘だ」
彼は、手拭いを桶にかけた。
「そうだ。……儂は、見た」
「……千年前を」
「そうだ」
あっさりとした答えだった。
「あの戦を見た。神が死ぬのを見た。……そして、宙に浮いた欠片を、拾った」
リヴィアの喉が鳴った。
目の前の老人は――千年、生きている。
「……なぜ、隠されるのですか」
「隠しておらん」
ムラサメは、井戸端の石に腰を下ろした。
「ただ、言うたところで、誰も信じん。……信じた者は、たいてい、面倒を持ってくる」
「面倒」
「不老の秘訣を教えろ、とな」
彼は、うんざりした顔で言った。
「三百年ほど前、それで一度、国が滅びかけた。……以来、儂は山におる」
リヴィアは、返す言葉を失った。
なんとも、生々しい理由だった。
「……お伺いしても、いいですか」
「言うてみろ」
「五百年前の、封印のことを」
ムラサメは、朝靄の森を見た。
長い沈黙があった。
【五百年前】
「――あれは、光だった」
老人は、そう切り出した。
「儂らのうちの一人だ。名は、ヴァルルシオン」
リヴィアは、身を固くした。
「元は、天の者だと言うておった」
「天の……天使、ですか」
「そう名乗っておった。翼を切られて落ちてきた、とな」
彼は、膝の上で手を組んだ。
「気のいい男だった。……最初はな」
「最初は」
「五百年前、あれが言い出した。『天へ、還る』と」
朝靄が、少しずつ晴れてきた。杉の梢の隙間から差し込んだ光が、地面の落ち葉に細い筋を何本も落としている。老人は、その筋の一本を目で追っていた。
「還るのは構わん。だが、あれの言う『還る』は――攻め上る、という意味だった」
「…………」
「天を落とし、魔を落とし、三界を一つにする。……そう言うた」
ムラサメの声が、低くなった。
「儂らは、止めた。話しても聞かん。……だから、五人で封じた」
「五人で……」
「風が空間を閉じた。土が檻を造った。木が生命の流れを縛った。雷が動きを止めた」
彼は、自分の腰の刀に手を置いた。
「――そして儂が、あれと『この世』との繋がりを、斬った」
リヴィアの背筋が冷たくなった。
「繋がりを、斬る」
「そうだ。存在ごと、世界から切り離した。……それが、儂の封印だ」
「……それは、解けるものなのですか」
「解けん」
老人は、断言した。
「儂が斬った線は、儂にしか繋ぎ直せん。……そのはずだった」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「あの夜のことで、一つだけ、ずっと引っかかっておることがある」
「なんですか」
「――あれは、封じられる時、笑っておった」
朝の森が、無音だった。
「怒りもせん。恨みもせん。……ただ、笑って、言うた」
ムラサメは、その言葉を繰り返した。
「『――五百年か。ちょうどいい』と」
【喰う】
「――さて。話は終いだ」
老人は、立ち上がった。
「お主、剣を持て」
「え?」
「見せてみろ。お主の魔法を」
リヴィアは、戸惑いながらもレイピアを取った。
小屋の前の、狭い庭。
「……何を斬れば」
「そこの木でよい」
彼は、五歩先の細い杉を指した。
リヴィアは、構えた。息を、整える。
「――黒閃」
黒い線が、走った。
杉が音もなく斜めに断たれ、ずれて落ちた。
「止まれ」
ムラサメの声が飛んだ。
「今、何を感じた」
「……え?」
「撃った後だ。……体の中で、何が起きた」
リヴィアは、答えようとして、止まった。
(……何が)
いつも通りだった。いつも通り、撃った。
でも――
「……戻って、きます」
彼女は、正直に言った。
「撃った後、少しだけ。……体の中に、何かが」
「そうだ」
ムラサメは頷いた。
「お主のそれは、喰う」
リヴィアの心臓が跳ねた。
「――喰う?」
「他の理は、放てば消える。火も、風も、雷もな。放った端から、術者の手を離れる」
彼は、断たれた杉を顎で示した。倒れた幹の切り口が、朝の光の中で白く乾いている。
「だがお主の闇は、放った先で、そこに在るものを喰う。……そして、喰った分を、術者へ返す」
「…………」
「今、お主は木を斬った。だが正確には、木の『在ること』を、少し喰った」
リヴィアは、自分の右手を見下ろした。
黒い手袋。その下の、指先。
――イグナ・ヴェルドの声が蘇る。
闇は、戻ってくる。
「……あの」
彼女は、掠れた声で聞いた。
「以前、大きな技を使った後、妙な感覚がありました。疲れているはずなのに、……満たされているような」
「そうだろうな」
「あれは」
「喰った分だ」
老人は、あっさりと言った。
「大きく撃つほど、大きく喰う。……お主の魔力が尽きんのは、そのためだ」
リヴィアは、絶句した。
――魔力が、尽きない。
言われてみれば、そうだった。
絶空を放った後も、まだ動けた。斑を連発しても、息は上がるが魔力は枯れない。
二年前、それを「体力がついた」と思っていた。
違った。
(……補充されてた?)
「……それは、いいことでは」
「悪いことだ」
ムラサメの声が、鋭くなった。
「今は、まだ良い。お主は、喰った分より多く、出しておる」
彼は、リヴィアの胸元を指した。
「だが、いずれ逆になる。……出すより先に、喰い始める」
「……逆に」
「その時、最初に喰われるのは――お主自身だ」
朝の風が、杉を鳴らした。
リヴィアは、動けなかった。
訓練場の床の中央で、片膝をついた夜のことを思い出していた。左手が、そこに在る感じを失った七秒間。
「己の内を喰い、周りを喰い、区別なく喰う。……そういう最期を、儂は一度、見ておる」
「……誰を」
「昔の話だ」
老人は、それ以上は言わなかった。
【血】
ムラサメは、しばらく彼女を見ていた。
いや、見ていたのは、彼女の輪郭ではなかった。もっと奥。もっと深いところ。
その目が、少しずつ細くなっていく。
「……む」
「なんですか」
「……お主」
老人は、一歩、近づいた。
「儂の理は、繋がりを視る、と言うたな」
「はい」
「人にも、繋がりがある。……親から子へ、子から孫へ。血の線だ」
リヴィアの胸が、少し騒いだ。
「お主のそれが、妙だ」
「……妙、とは」
ムラサメは、すぐには続けなかった。
代わりに、彼女の胸元を見た。――正確には、その内側に隠された、銀のペンダントを。
「そこに、何かあるな」
「……っ」
リヴィアは、思わず胸元を押さえた。
「昨夜、火の傍で気づいた。……その下に、古いものがある」
「これは……ただの、遺品です」
「見せろとは言わん」
老人は、手を振った。
「見んでも、視える。……だが、視てもよく分からん」
彼は、腕を組んだ。
「――お主、特殊な血を持っておるようだな」
リヴィアの心臓が、大きく打った。
「……どういう、意味ですか」
「言葉通りだ」
ムラサメは、少し首を傾げた。
「人の血の線は、二本だ。父と、母。……お主も、二本ある」
「……はい」
「だが、片方の線が――どこにも繋がっておらん」
朝靄が、二人の間を流れた。
「地上のどこにも、な」
リヴィアは、息ができなかった。
「……それは」
「儂にも分からん」
老人は、あっさりと言った。
「千年生きても、分からんことは分からん」
「…………」
「一つだけ言えるのは、その血が、お主の闇と関わっておるということだ」
彼は、井戸の縁に手を置いた。
「闇の理を持つ者は、これまでにもおった。……だが、お主のような喰い方をする者は、おらなんだ」
リヴィアは、俯いた。
自分の中に、自分の知らない何かがある。十一歳で水晶を割った日から、ずっと薄々感じていたことが、千年生きた老人の口から、初めて言葉になった。
「……知りたいなら」
ムラサメが言った。
「西の森の婆に聞け。……あれは、儂より物知りだ」
【線を引く】
午後は、稽古になった。
と言っても、剣は交えなかった。
ムラサメは、リヴィアを森の中へ連れて行き、一枚の落ち葉を拾った。
「これを、斬れ」
彼は、それを宙へ放った。
リヴィアは、レイピアを振った。
落ち葉が、二つに分かれて落ちた。
「……斬れました」
「断ったな」
「え?」
「断った、と言うた」
老人は、また落ち葉を拾った。
「見ておれ」
彼は、それを放り上げた。
そして――抜刀した。
いや、抜刀したのかどうか、リヴィアには見えなかった。
落ち葉は、宙で、二つになった。
そのまま、二枚が並んで落ちていく。揺れもせず、飛び散りもせず。最初から二枚だったような落ち方だった。
「……え」
リヴィアは、その落ち葉を拾った。
断面が、ない。
斬られた跡が、まったくなかった。二枚とも、縁が自然な葉の形をしている。
「な……なんですか、これ」
「斬るとはな」
ムラサメは、刀を鞘に収めた。
「断つことではない」
彼は、指で宙に、横一文字を引いた。
「――こちらと、あちらの間に、線を引くことだ」
「……線を、引く」
「断てば、傷が残る。抵抗も生まれる。……だが、線を引けば、そこには最初から境目があったことになる」
リヴィアは、二枚の落ち葉を見つめた。
「……そんなこと、できるんですか」
「儂は、できる」
「私には?」
「今は、できん」
あっさりと言われた。
「だが――お主は、これを覚えねばならん」
老人の声が、低くなった。
「お主の闇は、線を知らん」
彼は、彼女の胸を指した。
「己と、外の区別がない。だから、境目なく喰う」
「…………」
「――お主が、引いてやれ」
リヴィアは、落ち葉を握りしめた。
「ここまでは自分。ここから先は、外。……その線を、己で引けるようになれ」
「そうすれば」
「喰う先を、選べる」
老人は、指で引いた横一文字を、そのまま宙に残すように手を止めていた。
「己を喰わずに、済む」
⸻
――少し離れた木の陰で。
「……ねえ、アシュ」
「言うな」
「まだ何も言ってない」
「どうせ『分からない』だろ」
「分かんない」
リズが腕を組んだ。
「線を引く? 斬るんじゃなくて? ……斬ったら線が引けるんじゃないの?」
「俺に聞くな」
アシュも腕を組んでいた。
「……ただな。爺さんの落ち葉、断面がなかったろ」
「うん。あれ、気持ち悪かった」
「あれが答えなんだろ。……斬った跡が残るのが『断つ』で、残らないのが『線』だ」
「……なんで残らないの?」
「知るか」
二人は、しばらく黙って稽古を見ていた。
リヴィアが、また落ち葉を断つ。断面が残る。
「……あ、分かったかも」
リズが、ぽつりと言った。
「なによ」
「あのね。布を鋏で切ると、切り口がほつれるでしょ」
「……ああ」
「でも、最初から二枚の布なら、ほつれない」
彼女は、自分の言葉を確かめるように言った。
「爺さんのって、『切った』んじゃなくて、『最初から二枚だったことにした』……みたいな?」
アシュが、しばらく黙った。
「……お前、たまに怖いこと言うな」
「え?」
「いや」
彼は、天を仰いだ。
「――それ、たぶん合ってる」
「えっ。……えっ、あたし今、賢かった?」
「一回だけな」
「一回でいいわ! 覚えといて!」
二人の会話は、リヴィアには届いていなかった。
それから、リヴィアは何十回と落ち葉を斬った。
斬れる。何度でも斬れる。落ちてくる葉の速度も、風に流される角度も、もう体が読んでいる。狙った位置で、狙った角度で、確実に刃が通る。
通ってしまう。
断面が残り、二枚が別々の速さで地面へ落ちていく。あの老人の落ち葉のように、並んで沈んでいくことは一度もなかった。
五十回目で、腕が上がらなくなった。六十回目で、剣を落とした。
「……できません」
膝をついて、彼女は言った。
「何が違うのか、感覚が、まるで掴めない」
「そうだろうな」
ムラサメは、切り株に腰掛けて茶を飲んでいた。
「……あの」
「なんだ」
「これ、どれくらいで、できるものですか」
「人による」
彼は、茶を啜った。
「十年で掴んだ者がおる。三十年かかった者もおる」
「……あなたは」
「儂か」
老人は、少し考えた。
「――四百年だ」
リヴィアは、地面に突っ伏した。
「無理じゃないですか!!!」
「儂は不器用でな」
ムラサメは、けろりと言った。
その日、彼女は日が暮れるまで落ち葉を斬り続けた。
一枚も、線を引けなかった。
【出立】
翌朝。
五人は、小屋の前で頭を下げた。
「――お世話になりました」
「ふん」
ムラサメは、素っ気なかった。
「三人の遺骨は、掘り返さんでよいのか」
「……いえ」
リヴィアは、首を振った。
「あの場所に、置いてあげてください」
「そうか」
「帝国に持ち帰れば、また、何かに使われるので」
老人は、それには応じなかった。
ただ、少しだけ頷いた。
彼は、懐から木札を取り出した。
薄い、古い木の板。表面に、掠れた文字が一つ。
「西の森の婆に、これを見せろ」
「……ミラ殿ですか」
「そうだ。……あれの森は、入れば帰れんぞ。儂の名がなければな」
リヴィアは、木札を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
彼は、手を振った。
それから、視線をミーナレイに移した。
「――娘」
「はいっ!」
「刀を抜け」
「え? あ、はいっ」
ミーナレイが抜刀する。
ムラサメは、その構えを見た。
「……む」
彼は、彼女の手首に触れた。
「返しが遅い」
「え」
「タチバナの太刀は、返しが命だ。……お主、返しを習うておらんな」
ミーナレイの動きが止まった。
「……母が」
彼女は、小さく言った。
「あたしが、十二の時に」
「そうか」
老人は、それだけ言った。
それから、彼女の手首の角度を、ほんの少しだけ直した。
「――ここだ」
「あ」
「あとは、自分で振れ。……千回も振れば、体が覚える」
「……はいっ!」
ミーナレイの目が、潤んでいた。
「ありがとうございます! あたし、絶対、千回振ります!」
「二千回でもよいぞ」
「二千回振ります!!」
「……声が大きい」
五人が、鳥居へ向かって歩き出した時。
背後で、ムラサメがぽつりと言った。
「……妙だな」
リヴィアが振り返った。
「なにか?」
老人は、空を見上げていた。朝の、白い空を。
「席の気配が」
彼は、独り言のように言った。
「……二つ、ある」
「二つ?」
「うむ」
ムラサメは、首を傾げた。
「五百年、空いておった椅子だ。そこに、何かが座りかけておる。……それは、昨日言うた通りだ」
「はい」
「だが――その傍らに、もう一つ」
彼の目が細くなった。
「まだ、椅子にはなっておらん。……だが、なりかけておる」
リヴィアは、意味が分からなかった。
「それは……何ですか」
「分からん」
老人は、あっさりと言った。
「ただ、二つとも――光だ」
風が、鳥居の方から吹いてきた。
リヴィアは、その言葉を、意味も分からないまま記憶した。
分からないまま覚えておくのは、この二年で身についた習慣だった。
鳥居をくぐった後、リズが寄ってきた。
「……ねえ、隊長」
「なに」
「最後の、あれ。分かった?」
「……分からない」
「よかった」
リズが、心底ほっとした顔をした。
「あたしだけかと思った」
「俺も分からん」
アシュが、後ろから言った。
「椅子がどうとか、光がどうとか。……あの爺さん、最後まで謎めいた爺さんだったな」
「でも、なんか」
リズが、山を振り返った。
「……嫌な感じの言い方だったよね」
誰も、応じなかった。
――分からなかった。
分からなかったが、全員が同じことを感じていた。
あれは、良くない話だ、と。
【質問】
出航の前夜。
港の宿の裏で、ネロは端末を開いていた。
波の音がする。潮の匂いがする。宿の表からは、明日の出航に備えて荷を積み直す兵たちの声が、風に乗って途切れ途切れに届いていた。
彼は、板塀に背を預けて膝を立て、その上に端末を置いて報告文を打ち込んでいった。
『「翁」は実在の人物。老年男性。剣術を用いる。魔導特性、不明』
『同人物、自らを「ムラサメ」と称す』
彼の指が、そこで少し止まった。
――セイクリッドルート、と書くべきか。
書けば、上は必ず動く。書かなければ、いずれバレる。
彼は、打った。
『理の一人と推定される』
送信欄に、まだ余白があった。
彼は、懐から一枚の紙を取り出した。
――昨日、遺品の環の術式を、こっそり書き写したものだった。
隊には「解析には設備が要る」と言った。
嘘だった。
彼は、あの場で読めていた。読めたから、指が震えた。
術式の構造は、単純だった。
――対象の意思決定を、外部からの命令入力で上書きする。
拘束具ではない。制御具だった。人間を、道具にするための。
ネロは、その写しを見つめた。
どれくらい、そうしていたか。
彼は、報告文の最後に、一行だけ書き足した。
『別添の術式について、用途の照会を求む』
――送信。
これは、報告ではなかった。質問だった。
彼が二年間で、初めて、あちら側へ投げた質問だった。
(……何に、使うんですか)
(あんなものを、誰に)
答えが返ってくるとは、思っていなかった。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「――ネロ先輩!」
背後から、声がした。
彼は端末を閉じて、振り返った。
ミーナレイが立っていた。
「あ、また夜風ですか?」
「……はい」
「あたしもです! 明日で、この島ともお別れですね」
彼女は、隣に並んだ。港の向こうに、月が出ている。
「あたし、結局、祖母には会えませんでした」
「……そうですか」
「でも、いいんです」
彼女は笑った。
「隊長が言ってくれました。今すぐじゃなくていいって。……いつか会えるように、しておきなさいって」
「…………」
「ネロ先輩は、ご家族いますか?」
ネロは、海を見ていた。
「……いません」
「あ、すみません! 変なこと聞いて」
「いえ」
彼は、低い声で言った。
「……もう、いないんです」
嘘ではなかった。
彼の両親は、彼が士官学校に入った年に、流行り病で死んでいる。
だから彼には、脅せる家族がいない。
――ゼーレンが、彼の弱点として選んだのは、家族ではなかった。隊だった。
ネロは、月を見上げた。
隣で、ミーナレイが伸びをした。
「よーし! 帰ったら、千回素振りします!」
「……二千回では」
「あっ、そうでした! 二千回です!」
彼女は、元気よく宿へ戻っていった。
ネロは、一人、残された。
【案ずるな】
返信は、翌朝、来た。
二年間で、初めてだった。
彼は、船の甲板の隅で端末を開いた。海が、朝日を受けて一面に白く割れている。シキナの緑の山影が、船尾の方角で少しずつ小さくなっていくところだった。
『別添術式ノ件、了知。
当該術式ハ療養用ナリ。戦傷者ノ痛覚遮断及ビ鎮静ニ用ヰル。案ズルナ。
尚、貴官報告ノ禁足地座標ニ誤リアリ。訂正済ミ。以後、正確ヲ期サレタシ』
その下に、座標が付されていた。
ネロは、その数字を、何度も読んだ。
――彼が測った、正しい数字だった。
二日前、彼は東へ二キロずらして送った。訂正した覚えは、ない。
(……なんで)
(誰が、直した)
答えは、書いていなかった。
文面は、事務的だった。咎めてもいない。責めてもいない。打ち間違いを直しました、という調子だった。
――知られている。
いや。もっと悪い。
――知られていて、問題にすらされていない。
ネロは、端末を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。
やがて、彼は一行目に目を戻した。
『案ズルナ』
――療養用。痛覚遮断。鎮静。
あの術式の構造は、意思決定を外部から上書きするものだった。読み違えるはずがない。三度、読み返した。読み違えるはずが、ない。
ないのに。
ネロは、その四文字を見つめた。
(……療養用)
(そうか)
(痛みを、感じなくさせるための)
(そういう用途なら)
――説明はついた。
自分でも、どこがおかしいのか、指を差せた。
差せたのに、彼は端末を閉じた。
甲板の向こうで、ミーナレイが「うわ、飛び魚! 先輩、飛び魚です!」と騒いでいる。リズが「うるさいってば」と笑っている。
ネロは、その声を聞きながら、次の報告の下書きを始めた。
――前より、詳しく書いた。




