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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
セイクリッドルート編

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28/53

線

【千年】


 朝、リヴィアは早く目を覚ました。


 板間には、四人分の寝息が、それぞれ違う間隔で続いている。囲炉裏の火は、灰の下で赤い点になって残っていた。彼女は音を立てずに起き上がり、土間の草履を借りて外へ出た。


 ――ムラサメは、井戸端にいた。


 桶で水を汲み、顔を洗っている。滑車の軋む音と、水の落ちる音のほかには、何も聞こえなかった。朝靄が杉の森を腰まで沈めていて、幹の上半分だけが黒く浮いている。


「……早いな」


「はい」


 リヴィアは、少し離れた場所に立った。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 やがて、彼女は言った。


「ムラサメ殿」


「うむ」


「昨日の、昔話ですが」


 老人の手が、止まった。


「あなたは、『師の、そのまた師の代の話』と仰いました」


「言うたな」


「――嘘ですね」


 沈黙。


 ムラサメは、顔を上げた。濡れた顔を、手拭いで拭く。


「……なぜ、そう思う」


「昨夜、ミーナレイの刀を見て、『六十年前、まだ子供だった頃の当主に稽古をつけた』と仰いました」


「言うたな」


「六十年前に、既に稽古をつけられる年齢だった人が、今も現役でいる」


 リヴィアは、老人の目を見た。


「そして、五百年前の封印について、『封が解けるはずがない』と断言された。……伝聞にしては、断定が過ぎます」


 ムラサメは、しばらく彼女を見ていた。


 それから――笑った。初めて、はっきりと笑った。


「ふん。……理屈の立つ娘だ」


 彼は、手拭いを桶にかけた。


「そうだ。……儂は、見た」


「……千年前を」


「そうだ」


 あっさりとした答えだった。


「あの戦を見た。神が死ぬのを見た。……そして、宙に浮いた欠片を、拾った」


 リヴィアの喉が鳴った。


 目の前の老人は――千年、生きている。


「……なぜ、隠されるのですか」


「隠しておらん」


 ムラサメは、井戸端の石に腰を下ろした。


「ただ、言うたところで、誰も信じん。……信じた者は、たいてい、面倒を持ってくる」


「面倒」


「不老の秘訣を教えろ、とな」


 彼は、うんざりした顔で言った。


「三百年ほど前、それで一度、国が滅びかけた。……以来、儂は山におる」


 リヴィアは、返す言葉を失った。


 なんとも、生々しい理由だった。


「……お伺いしても、いいですか」


「言うてみろ」


「五百年前の、封印のことを」


 ムラサメは、朝靄の森を見た。


 長い沈黙があった。


【五百年前】


「――あれは、光だった」


 老人は、そう切り出した。


「儂らのうちの一人だ。名は、ヴァルルシオン」


 リヴィアは、身を固くした。


「元は、天の者だと言うておった」


「天の……天使、ですか」


「そう名乗っておった。翼を切られて落ちてきた、とな」


 彼は、膝の上で手を組んだ。


「気のいい男だった。……最初はな」


「最初は」


「五百年前、あれが言い出した。『天へ、還る』と」


 朝靄が、少しずつ晴れてきた。杉の梢の隙間から差し込んだ光が、地面の落ち葉に細い筋を何本も落としている。老人は、その筋の一本を目で追っていた。


「還るのは構わん。だが、あれの言う『還る』は――攻め上る、という意味だった」


「…………」


「天を落とし、魔を落とし、三界を一つにする。……そう言うた」


 ムラサメの声が、低くなった。


「儂らは、止めた。話しても聞かん。……だから、五人で封じた」


「五人で……」


「風が空間を閉じた。土が檻を造った。木が生命の流れを縛った。雷が動きを止めた」


 彼は、自分の腰の刀に手を置いた。


「――そして儂が、あれと『この世』との繋がりを、斬った」


 リヴィアの背筋が冷たくなった。


「繋がりを、斬る」


「そうだ。存在ごと、世界から切り離した。……それが、儂の封印だ」


「……それは、解けるものなのですか」


「解けん」


 老人は、断言した。


「儂が斬った線は、儂にしか繋ぎ直せん。……そのはずだった」


 彼は、そこで一度、言葉を切った。


「あの夜のことで、一つだけ、ずっと引っかかっておることがある」


「なんですか」


「――あれは、封じられる時、笑っておった」


 朝の森が、無音だった。


「怒りもせん。恨みもせん。……ただ、笑って、言うた」


 ムラサメは、その言葉を繰り返した。


「『――五百年か。ちょうどいい』と」


【喰う】


「――さて。話は終いだ」


 老人は、立ち上がった。


「お主、剣を持て」


「え?」


「見せてみろ。お主の魔法を」


 リヴィアは、戸惑いながらもレイピアを取った。


 小屋の前の、狭い庭。


「……何を斬れば」


「そこの木でよい」


 彼は、五歩先の細い杉を指した。


 リヴィアは、構えた。息を、整える。


「――黒閃」


 黒い線が、走った。


 杉が音もなく斜めに断たれ、ずれて落ちた。


「止まれ」


 ムラサメの声が飛んだ。


「今、何を感じた」


「……え?」


「撃った後だ。……体の中で、何が起きた」


 リヴィアは、答えようとして、止まった。


(……何が)


 いつも通りだった。いつも通り、撃った。


 でも――


「……戻って、きます」


 彼女は、正直に言った。


「撃った後、少しだけ。……体の中に、何かが」


「そうだ」


 ムラサメは頷いた。


「お主のそれは、喰う」


 リヴィアの心臓が跳ねた。


「――喰う?」


「他の理は、放てば消える。火も、風も、雷もな。放った端から、術者の手を離れる」


 彼は、断たれた杉を顎で示した。倒れた幹の切り口が、朝の光の中で白く乾いている。


「だがお主の闇は、放った先で、そこに在るものを喰う。……そして、喰った分を、術者へ返す」


「…………」


「今、お主は木を斬った。だが正確には、木の『在ること』を、少し喰った」


 リヴィアは、自分の右手を見下ろした。


 黒い手袋。その下の、指先。


 ――イグナ・ヴェルドの声が蘇る。


 闇は、戻ってくる。


「……あの」


 彼女は、掠れた声で聞いた。


「以前、大きな技を使った後、妙な感覚がありました。疲れているはずなのに、……満たされているような」


「そうだろうな」


「あれは」


「喰った分だ」


 老人は、あっさりと言った。


「大きく撃つほど、大きく喰う。……お主の魔力が尽きんのは、そのためだ」


 リヴィアは、絶句した。


 ――魔力が、尽きない。


 言われてみれば、そうだった。


 絶空を放った後も、まだ動けた。斑を連発しても、息は上がるが魔力は枯れない。


 二年前、それを「体力がついた」と思っていた。


 違った。


(……補充されてた?)


「……それは、いいことでは」


「悪いことだ」


 ムラサメの声が、鋭くなった。


「今は、まだ良い。お主は、喰った分より多く、出しておる」


 彼は、リヴィアの胸元を指した。


「だが、いずれ逆になる。……出すより先に、喰い始める」


「……逆に」


「その時、最初に喰われるのは――お主自身だ」


 朝の風が、杉を鳴らした。


 リヴィアは、動けなかった。


 訓練場の床の中央で、片膝をついた夜のことを思い出していた。左手が、そこに在る感じを失った七秒間。


「己の内を喰い、周りを喰い、区別なく喰う。……そういう最期を、儂は一度、見ておる」


「……誰を」


「昔の話だ」


 老人は、それ以上は言わなかった。


【血】


 ムラサメは、しばらく彼女を見ていた。


 いや、見ていたのは、彼女の輪郭ではなかった。もっと奥。もっと深いところ。


 その目が、少しずつ細くなっていく。


「……む」


「なんですか」


「……お主」


 老人は、一歩、近づいた。


「儂の理は、繋がりを視る、と言うたな」


「はい」


「人にも、繋がりがある。……親から子へ、子から孫へ。血の線だ」


 リヴィアの胸が、少し騒いだ。


「お主のそれが、妙だ」


「……妙、とは」


 ムラサメは、すぐには続けなかった。


 代わりに、彼女の胸元を見た。――正確には、その内側に隠された、銀のペンダントを。


「そこに、何かあるな」


「……っ」


 リヴィアは、思わず胸元を押さえた。


「昨夜、火の傍で気づいた。……その下に、古いものがある」


「これは……ただの、遺品です」


「見せろとは言わん」


 老人は、手を振った。


「見んでも、視える。……だが、視てもよく分からん」


 彼は、腕を組んだ。


「――お主、特殊な血を持っておるようだな」


 リヴィアの心臓が、大きく打った。


「……どういう、意味ですか」


「言葉通りだ」


 ムラサメは、少し首を傾げた。


「人の血の線は、二本だ。父と、母。……お主も、二本ある」


「……はい」


「だが、片方の線が――どこにも繋がっておらん」


 朝靄が、二人の間を流れた。


「地上のどこにも、な」


 リヴィアは、息ができなかった。


「……それは」


「儂にも分からん」


 老人は、あっさりと言った。


「千年生きても、分からんことは分からん」


「…………」


「一つだけ言えるのは、その血が、お主の闇と関わっておるということだ」


 彼は、井戸の縁に手を置いた。


「闇の理を持つ者は、これまでにもおった。……だが、お主のような喰い方をする者は、おらなんだ」


 リヴィアは、俯いた。


 自分の中に、自分の知らない何かがある。十一歳で水晶を割った日から、ずっと薄々感じていたことが、千年生きた老人の口から、初めて言葉になった。


「……知りたいなら」


 ムラサメが言った。


「西の森の婆に聞け。……あれは、儂より物知りだ」


【線を引く】


 午後は、稽古になった。


 と言っても、剣は交えなかった。


 ムラサメは、リヴィアを森の中へ連れて行き、一枚の落ち葉を拾った。


「これを、斬れ」


 彼は、それを宙へ放った。


 リヴィアは、レイピアを振った。


 落ち葉が、二つに分かれて落ちた。


「……斬れました」


「断ったな」


「え?」


「断った、と言うた」


 老人は、また落ち葉を拾った。


「見ておれ」


 彼は、それを放り上げた。


 そして――抜刀した。


 いや、抜刀したのかどうか、リヴィアには見えなかった。


 落ち葉は、宙で、二つになった。


 そのまま、二枚が並んで落ちていく。揺れもせず、飛び散りもせず。最初から二枚だったような落ち方だった。


「……え」


 リヴィアは、その落ち葉を拾った。


 断面が、ない。


 斬られた跡が、まったくなかった。二枚とも、縁が自然な葉の形をしている。


「な……なんですか、これ」


「斬るとはな」


 ムラサメは、刀を鞘に収めた。


「断つことではない」


 彼は、指で宙に、横一文字を引いた。


「――こちらと、あちらの間に、線を引くことだ」


「……線を、引く」


「断てば、傷が残る。抵抗も生まれる。……だが、線を引けば、そこには最初から境目があったことになる」


 リヴィアは、二枚の落ち葉を見つめた。


「……そんなこと、できるんですか」


「儂は、できる」


「私には?」


「今は、できん」


 あっさりと言われた。


「だが――お主は、これを覚えねばならん」


 老人の声が、低くなった。


「お主の闇は、線を知らん」


 彼は、彼女の胸を指した。


「己と、外の区別がない。だから、境目なく喰う」


「…………」


「――お主が、引いてやれ」


 リヴィアは、落ち葉を握りしめた。


「ここまでは自分。ここから先は、外。……その線を、己で引けるようになれ」


「そうすれば」


「喰う先を、選べる」


 老人は、指で引いた横一文字を、そのまま宙に残すように手を止めていた。


「己を喰わずに、済む」


⸻


 ――少し離れた木の陰で。


「……ねえ、アシュ」


「言うな」


「まだ何も言ってない」


「どうせ『分からない』だろ」


「分かんない」


 リズが腕を組んだ。


「線を引く? 斬るんじゃなくて? ……斬ったら線が引けるんじゃないの?」


「俺に聞くな」


 アシュも腕を組んでいた。


「……ただな。爺さんの落ち葉、断面がなかったろ」


「うん。あれ、気持ち悪かった」


「あれが答えなんだろ。……斬った跡が残るのが『断つ』で、残らないのが『線』だ」


「……なんで残らないの?」


「知るか」


 二人は、しばらく黙って稽古を見ていた。


 リヴィアが、また落ち葉を断つ。断面が残る。


「……あ、分かったかも」


 リズが、ぽつりと言った。


「なによ」


「あのね。布を鋏で切ると、切り口がほつれるでしょ」


「……ああ」


「でも、最初から二枚の布なら、ほつれない」


 彼女は、自分の言葉を確かめるように言った。


「爺さんのって、『切った』んじゃなくて、『最初から二枚だったことにした』……みたいな?」


 アシュが、しばらく黙った。


「……お前、たまに怖いこと言うな」


「え?」


「いや」


 彼は、天を仰いだ。


「――それ、たぶん合ってる」


「えっ。……えっ、あたし今、賢かった?」


「一回だけな」


「一回でいいわ! 覚えといて!」


 二人の会話は、リヴィアには届いていなかった。




 それから、リヴィアは何十回と落ち葉を斬った。


 斬れる。何度でも斬れる。落ちてくる葉の速度も、風に流される角度も、もう体が読んでいる。狙った位置で、狙った角度で、確実に刃が通る。


 通ってしまう。


 断面が残り、二枚が別々の速さで地面へ落ちていく。あの老人の落ち葉のように、並んで沈んでいくことは一度もなかった。


 五十回目で、腕が上がらなくなった。六十回目で、剣を落とした。


「……できません」


 膝をついて、彼女は言った。


「何が違うのか、感覚が、まるで掴めない」


「そうだろうな」


 ムラサメは、切り株に腰掛けて茶を飲んでいた。


「……あの」


「なんだ」


「これ、どれくらいで、できるものですか」


「人による」


 彼は、茶を啜った。


「十年で掴んだ者がおる。三十年かかった者もおる」


「……あなたは」


「儂か」


 老人は、少し考えた。


「――四百年だ」


 リヴィアは、地面に突っ伏した。


「無理じゃないですか!!!」


「儂は不器用でな」


 ムラサメは、けろりと言った。


 その日、彼女は日が暮れるまで落ち葉を斬り続けた。


 一枚も、線を引けなかった。


【出立】


 翌朝。


 五人は、小屋の前で頭を下げた。


「――お世話になりました」


「ふん」


 ムラサメは、素っ気なかった。


「三人の遺骨は、掘り返さんでよいのか」


「……いえ」


 リヴィアは、首を振った。


「あの場所に、置いてあげてください」


「そうか」


「帝国に持ち帰れば、また、何かに使われるので」


 老人は、それには応じなかった。


 ただ、少しだけ頷いた。


 彼は、懐から木札を取り出した。


 薄い、古い木の板。表面に、掠れた文字が一つ。


「西の森の婆に、これを見せろ」


「……ミラ殿ですか」


「そうだ。……あれの森は、入れば帰れんぞ。儂の名がなければな」


 リヴィアは、木札を両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「礼はいらん」


 彼は、手を振った。


 それから、視線をミーナレイに移した。


「――娘」


「はいっ!」


「刀を抜け」


「え? あ、はいっ」


 ミーナレイが抜刀する。


 ムラサメは、その構えを見た。


「……む」


 彼は、彼女の手首に触れた。


「返しが遅い」


「え」


「タチバナの太刀は、返しが命だ。……お主、返しを習うておらんな」


 ミーナレイの動きが止まった。


「……母が」


 彼女は、小さく言った。


「あたしが、十二の時に」


「そうか」


 老人は、それだけ言った。


 それから、彼女の手首の角度を、ほんの少しだけ直した。


「――ここだ」


「あ」


「あとは、自分で振れ。……千回も振れば、体が覚える」


「……はいっ!」


 ミーナレイの目が、潤んでいた。


「ありがとうございます! あたし、絶対、千回振ります!」


「二千回でもよいぞ」


「二千回振ります!!」


「……声が大きい」




 五人が、鳥居へ向かって歩き出した時。


 背後で、ムラサメがぽつりと言った。


「……妙だな」


 リヴィアが振り返った。


「なにか?」


 老人は、空を見上げていた。朝の、白い空を。


「席の気配が」


 彼は、独り言のように言った。


「……二つ、ある」


「二つ?」


「うむ」


 ムラサメは、首を傾げた。


「五百年、空いておった椅子だ。そこに、何かが座りかけておる。……それは、昨日言うた通りだ」


「はい」


「だが――その傍らに、もう一つ」


 彼の目が細くなった。


「まだ、椅子にはなっておらん。……だが、なりかけておる」


 リヴィアは、意味が分からなかった。


「それは……何ですか」


「分からん」


 老人は、あっさりと言った。


「ただ、二つとも――光だ」


 風が、鳥居の方から吹いてきた。


 リヴィアは、その言葉を、意味も分からないまま記憶した。


 分からないまま覚えておくのは、この二年で身についた習慣だった。


 鳥居をくぐった後、リズが寄ってきた。


「……ねえ、隊長」


「なに」


「最後の、あれ。分かった?」


「……分からない」


「よかった」


 リズが、心底ほっとした顔をした。


「あたしだけかと思った」


「俺も分からん」


 アシュが、後ろから言った。


「椅子がどうとか、光がどうとか。……あの爺さん、最後まで謎めいた爺さんだったな」


「でも、なんか」


 リズが、山を振り返った。


「……嫌な感じの言い方だったよね」


 誰も、応じなかった。


 ――分からなかった。


 分からなかったが、全員が同じことを感じていた。


 あれは、良くない話だ、と。


【質問】


 出航の前夜。


 港の宿の裏で、ネロは端末を開いていた。


 波の音がする。潮の匂いがする。宿の表からは、明日の出航に備えて荷を積み直す兵たちの声が、風に乗って途切れ途切れに届いていた。


 彼は、板塀に背を預けて膝を立て、その上に端末を置いて報告文を打ち込んでいった。


『「翁」は実在の人物。老年男性。剣術を用いる。魔導特性、不明』


『同人物、自らを「ムラサメ」と称す』


 彼の指が、そこで少し止まった。


 ――セイクリッドルート、と書くべきか。


 書けば、上は必ず動く。書かなければ、いずれバレる。


 彼は、打った。


『理の一人と推定される』


 送信欄に、まだ余白があった。


 彼は、懐から一枚の紙を取り出した。


 ――昨日、遺品の環の術式を、こっそり書き写したものだった。


 隊には「解析には設備が要る」と言った。


 嘘だった。


 彼は、あの場で読めていた。読めたから、指が震えた。


 術式の構造は、単純だった。


 ――対象の意思決定を、外部からの命令入力で上書きする。


 拘束具ではない。制御具だった。人間を、道具にするための。


 ネロは、その写しを見つめた。


 どれくらい、そうしていたか。


 彼は、報告文の最後に、一行だけ書き足した。


『別添の術式について、用途の照会を求む』


 ――送信。


 これは、報告ではなかった。質問だった。


 彼が二年間で、初めて、あちら側へ投げた質問だった。


(……何に、使うんですか)


(あんなものを、誰に)


 答えが返ってくるとは、思っていなかった。


 それでも、聞かずにはいられなかった。


「――ネロ先輩!」


 背後から、声がした。


 彼は端末を閉じて、振り返った。


 ミーナレイが立っていた。


「あ、また夜風ですか?」


「……はい」


「あたしもです! 明日で、この島ともお別れですね」


 彼女は、隣に並んだ。港の向こうに、月が出ている。


「あたし、結局、祖母には会えませんでした」


「……そうですか」


「でも、いいんです」


 彼女は笑った。


「隊長が言ってくれました。今すぐじゃなくていいって。……いつか会えるように、しておきなさいって」


「…………」


「ネロ先輩は、ご家族いますか?」


 ネロは、海を見ていた。


「……いません」


「あ、すみません! 変なこと聞いて」


「いえ」


 彼は、低い声で言った。


「……もう、いないんです」


 嘘ではなかった。


 彼の両親は、彼が士官学校に入った年に、流行り病で死んでいる。


 だから彼には、脅せる家族がいない。


 ――ゼーレンが、彼の弱点として選んだのは、家族ではなかった。隊だった。


 ネロは、月を見上げた。


 隣で、ミーナレイが伸びをした。


「よーし! 帰ったら、千回素振りします!」


「……二千回では」


「あっ、そうでした! 二千回です!」


 彼女は、元気よく宿へ戻っていった。


 ネロは、一人、残された。


【案ずるな】


 返信は、翌朝、来た。


 二年間で、初めてだった。


 彼は、船の甲板の隅で端末を開いた。海が、朝日を受けて一面に白く割れている。シキナの緑の山影が、船尾の方角で少しずつ小さくなっていくところだった。


『別添術式ノ件、了知。


 当該術式ハ療養用ナリ。戦傷者ノ痛覚遮断及ビ鎮静ニ用ヰル。案ズルナ。


 尚、貴官報告ノ禁足地座標ニ誤リアリ。訂正済ミ。以後、正確ヲ期サレタシ』


 その下に、座標が付されていた。


 ネロは、その数字を、何度も読んだ。


 ――彼が測った、正しい数字だった。


 二日前、彼は東へ二キロずらして送った。訂正した覚えは、ない。


(……なんで)


(誰が、直した)


 答えは、書いていなかった。


 文面は、事務的だった。咎めてもいない。責めてもいない。打ち間違いを直しました、という調子だった。


 ――知られている。


 いや。もっと悪い。


 ――知られていて、問題にすらされていない。


 ネロは、端末を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。


 やがて、彼は一行目に目を戻した。


『案ズルナ』


 ――療養用。痛覚遮断。鎮静。


 あの術式の構造は、意思決定を外部から上書きするものだった。読み違えるはずがない。三度、読み返した。読み違えるはずが、ない。


 ないのに。


 ネロは、その四文字を見つめた。


(……療養用)


(そうか)


(痛みを、感じなくさせるための)


(そういう用途なら)


 ――説明はついた。


 自分でも、どこがおかしいのか、指を差せた。


 差せたのに、彼は端末を閉じた。


 甲板の向こうで、ミーナレイが「うわ、飛び魚! 先輩、飛び魚です!」と騒いでいる。リズが「うるさいってば」と笑っている。


 ネロは、その声を聞きながら、次の報告の下書きを始めた。


 ――前より、詳しく書いた。



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