山の翁
【鳥居をくぐる】
朝の光が、灰色の鳥居を照らしていた。
リヴィアは、その前に立った。
太腿の傷は、まだ塞がっていない。ネロの回復魔法と包帯で固めただけだ。歩ける。走れば開く。それだけの状態だった。
「本当に、行くんですか」
ミーナレイが、心配そうに聞いた。
「行く」
「でも、島の人は、入ったら帰ってこないって……」
「だから、三人が帰ってこないの」
リヴィアは、鳥居を見上げた。
「あの人たちを見つけるのが、任務よ」
彼女は、一歩を踏み出した。
――鳥居を、くぐる。
その一歩で、全員が同じことを感じた。
音が、消えた。
背後の山道からは、確かに鳥の声が聞こえていた。なのに、鳥居を境に、それがぷつりと途切れる。
「……ひっ」
ミーナレイが身を縮めた。
「な、なんですかこれ……耳が、変です……」
「気圧じゃない。……音が、届いてないんだ」
アシュが、周囲を見回した。
「音が、切られてる」
【拒む山】
杉の森は、深かった。
樹齢数百年の木々が、空を覆っている。幹の太さは、大人が三人がかりで腕を回してようやく届くかというほどで、その根が地面を波打たせながら何メートルも這っていた。地面には何十年分の落ち葉が積もり、足を踏み出すたび、ずぶりと沈む。
光は、ほとんど届かない。昼なのに、夕暮れのようだった。湿った土と、朽ちた葉と、樹脂の混ざった匂いが、服の布地に染み込んでくる。
「北北西へ。……失踪地点まで、直線で二キロです」
ネロが、方位計を見ながら言った。
十五分後。
「……あれ?」
彼が、足を止めた。
「なに」
「……この倒木、さっきも見ました」
全員が、振り返った。
苔むした巨木が、道を斜めに塞いでいる。根元に、特徴的な裂け目がある。
――間違いなく、十分前に乗り越えたものだった。
「まっすぐ歩いてたわよね?」
「はい。……方位計も、狂ってません」
ネロは、計器を見せた。針は、正確に北を指していた。
「狂ってないのに、戻ってる……?」
「……いえ」
ネロの顔が青ざめた。
「戻ってるんじゃない。……戻されてるんです」
それから一時間、五人は歩き続けた。
同じ倒木を、四度越えた。
「くそっ! なんだよここは!」
アシュが、木の幹を蹴った。
「幻術か!? あの仮面女みたいな!」
「違います」
ネロが首を振った。
「幻術なら、僕の感知に引っかかります。……これは、幻じゃない」
「じゃあなんだよ」
「……物理的に、道が繋がっていないんです」
誰も、意味が分からなかった。
ミーナレイは、もう半泣きだった。
「あ、あの、あたし、水を撒いてみます……! 目印に……」
彼女は水魔法で、木の幹に水の印をつけた。
十分後、また同じ倒木に戻ってきた。
――幹には、水の印がついていた。
六つ。
「六回目です……」
「うわああ、もう嫌ですぅ……!」
ミーナレイが、その場にしゃがみ込んだ。
リズが、彼女の背中をさすった。その顔も、さすがに引きつっている。
「……隊長。これ、どうする?」
リヴィアは、応じなかった。
彼女はその少し前から――地面を、見ていた。
いや、地面ではない。地面から少し浮いた、空間そのものを。
「……ネロ」
「はい」
「魔素の流れ、視える?」
「い、いえ。振り切っていて、方向までは……」
「そう」
彼女は、右手に魔力を灯した。
手の甲に、四本の線が浮かぶ。
剣を抜き、切っ先を地面に近づけて、前へ動かした。
三歩。四歩。
五歩目で、剣先が何かに触れた。
空気ではない。――抵抗が、あった。
金属でも、石でもない。水面に指を入れる時の、あの薄い張りに近かった。
「……あった」
「え?」
「線が、引いてある」
リヴィアは、剣先でその「膜」をなぞった。
目に見えるものは、何もない。だが確かに、そこに何かの境界があった。
「この森、区切られてる。……何本もの線で」
「線……?」
「私たちは、その線に沿って、勝手に曲げられてた」
彼女は、剣を引いた。
「まっすぐ歩いてるつもりで、囲いの中をぐるぐる回されてたのよ」
全員が沈黙した。
「……そんなの、誰が」
「――決まってるでしょう」
リヴィアは、森の奥を見た。
「翁、っていう人が」
【斬られる】
リヴィアは、剣を構えた。
「隊長?」
「線を、切る」
「え、そんなことできるんですか!?」
「やってみる」
彼女は、息を整えた。
――術式の縫い目を断つのは、彼女の得意分野だ。エリックの三枚楯も、セルバの水幕も、そうやって破ってきた。
「黒閃」
黒い線が、走った。
膜に、触れる。
――何も、起きなかった。
「……え?」
黒閃は、膜を通り抜けた。通り抜けて、向こうの杉の木を斬り倒した。
膜は、そのままだった。
「……切れてない」
リヴィアは、もう一度放った。
斑。四つの陣から、四方向へ。
全部、通り抜けた。膜には、傷ひとつつかなかった。
「そんな……」
彼女は、青ざめた。
術式なら、必ず「縫い目」がある。構築されたものは、構築を解ける。
この膜には、縫い目がなかった。
――縫い目がないということは。
(……構築されてない?)
(構築されてないのに、そこに在る?)
背筋が冷たくなった。
彼女が知っているどの魔法の理屈にも、当てはまらなかった。
「――やめておけ」
声が、した。
【翁】
全員が、一斉に振り返った。
いつからそこにいたのか。
十歩ほど先の、太い杉の根元に。老人が、立っていた。
背が低い。痩せている。質素な、灰色の着物。腰に、一振り。
白い髪を後ろで結び、長い顎髭。深い皺の中で、目だけが動かなかった。
「……っ」
アシュが、反射で銃を抜いた。二丁の銃口が、老人へ向く。
「動くな!」
――老人は、動かなかった。
代わりに。
カチン、と。
小さな音がした。
アシュの手の中で、二丁の銃が、それぞれ二つに分かれた。
銃身がずるりと滑り落ちて、落ち葉の上に転がる。切断面は、鏡のように滑らかだった。
「……は?」
誰も、抜刀を見ていなかった。
老人の刀は、鞘に収まったままだった。
「アシュ! 下がって!」
リヴィアが、前に出た。
剣を構え――そして、すぐに理解した。
勝てない。
距離二十歩。この老人は、たぶん、いつでもこちらの首を落とせる。
(――位が、違いすぎる)
二年前、聖都の広場で感じたのと、同じ種類の絶望だった。
「……皆、武器を下ろして」
「隊長!?」
「下ろして」
彼女は、自分の剣を地面に置いた。
そして、老人へ向かって深く頭を下げた。
「――ディナシア帝国軍、特務課黒翼分隊。指揮官、リヴィア・ノクスと申します」
老人は、黙って聞いていた。
「私たちは、行方不明になった兵士三名を、捜索に来ました」
「…………」
「あなたを、討ちに来たのではありません」
しばらく、沈黙が落ちた。
風が、杉の梢を鳴らした。
老人は、リヴィアの顔をじっと見ていた。
見ていた、というより――視ていた。
やがて、彼はぽつりと言った。
「……ふむ」
それだけだった。
彼は、背を向けた。
「――ついてこい」
「え?」
「茶でも飲め」
老人は、歩き出した。
その後ろを、五人は呆然とついていった。
【囲炉裏】
小屋は、森の奥にあった。
古い、小さな平屋だった。屋根の苔は厚く、板壁は雨と日で灰色に晒されている。周囲の畑には、大根と菜が几帳面な間隔で植わっていて、そこだけ杉の枝が払われて日が入るようになっていた。
中に入ると、土間と、囲炉裏のある板間があった。壁際に、道具が並んでいる。鍬。鎌。砥石。どれも柄が手の形に磨り減っていて、何十年も同じ人間が握ってきたことが分かった。
老人は、鉄瓶を火にかけた。
「……座れ」
五人は、恐る恐る腰を下ろした。
湯が沸くまで、誰も口をきかなかった。
やがて、欠けた湯呑みが五つ、配られた。中身は、緑の茶だった。
ミーナレイが、一口飲んで――目を丸くした。
「あ。……美味しい」
「そうか」
老人は、自分の湯呑みを啜った。
それから、囲炉裏の網の上の餅をひっくり返した。
「……あの」
ミーナレイが、恐る恐る手を挙げた。
「なんだ」
「その、お餅。……焦げてます」
全員が、凍りついた。
――伝説の剣士に向かって、餅の焦げを指摘する新人。
ムラサメは、餅を見た。
「……む」
彼は、慌てて網からそれを取り上げた。
「これは、儂の分だ」
「あ、そうなんですね」
「客に焦げたものは出さん」
「ふふっ」
ミーナレイが笑った。
その笑い声で、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
老人は、渋い顔で焦げた餅を齧った。
――アシュが、小声でリズに言った。
「……なんだこれ」
「知らないわよ」
「伝説の剣士じゃねえのかよ」
「伝説の剣士も、餅を焦がすのよ」
「……あの」
リズが、おずおずと聞いた。
「……あなたが、山の翁、ですか」
「翁と呼ばれるのは、島の連中が勝手に言うことだ」
老人は、餅を見ながら言った。
「儂の名は、ムラサメという」
――その名前に、リヴィアの背筋が跳ねた。
(ムラサメ)
グレイが見せた、十四年前の警告文。その宛先の一つに、あった名前だ。
『そして、六つの理の御方々へ』
「……セイクリッドルート」
彼女が呟くと、老人の眉が動いた。
「……ほう」
「あなたが、斬の理」
「そう呼ぶ者もおる」
彼は、餅をひっくり返した。
「儂は、ただの偏屈な爺だがな」
――生ける伝説は、囲炉裏で餅を焼いていた。
誰も、次に何を言えばいいのか分からなかった。
――その沈黙を破ったのは、また、ミーナレイだった。
「あの、ムラサメさん」
「なんだ」
「その刀、シキナの拵えですよね」
老人の目が、少し動いた。
「……ほう」
「あたしの刀も、そうなんです」
彼女は、腰の刀を膝の前に置いた。
「母が、シキナの人で。……家は、もうないんですけど」
ムラサメは、その刀を見た。
しばらく、じっと見ていた。
「……抜いてみろ」
「え?」
「抜け」
ミーナレイは、戸惑いながらも少しだけ刀を抜いた。
刃が、囲炉裏の火を映した。
老人は、それを一瞥して――目を細めた。
「……タチバナか」
ミーナレイの手が、止まった。
「え」
「その反りの付け方は、タチバナの流れだ。……島の北の、剣術の家だな」
「な、なんで分かるんですか!?」
「儂は、この島に六十年おる」
彼は、当たり前のように言った。
「六十年前、まだ子供だった頃のタチバナの当主に、稽古をつけたことがある」
部屋が、静まり返った。
「……六十年前」
リズが、掠れた声で言った。
「あの、ムラサメさん、おいくつで」
「さあな」
老人は、餅を齧った。
「数えるのをやめて久しい」
【三人の兵】
「――お主らの探し人だがな」
しばらくして、ムラサメが言った。
全員の背筋が伸びた。
「死んでおる」
部屋の空気が、重くなった。
「……あなたが」
「儂ではない」
老人は、あっさりと否定した。
「あの者らは、山を掘っておった」
「掘って……?」
「北の谷だ。……三人がかりで、穴を掘っておった。何日もな」
彼は、茶を啜った。
「儂は、やめろと言った。あの谷は、脆い。……聞かなんだ」
「……崩落したんですか」
「そうだ」
彼は、囲炉裏の火を見た。
「掘り出そうとしたが、間に合わなんだ。……三人とも、土の下だった」
しばらく、誰も喋らなかった。
「……埋めましたか」
「谷の東に、三つ。……印は立ててある」
ムラサメは、それからリヴィアを見た。
「一つ、妙なことがある」
「妙なこと」
「あの者らは、命じられておった」
老人の声が、少しだけ低くなった。
「掘るように、と。……誰にとは、言わなんだが」
「……言わなかった?」
「一人だけ、掘り出した時、まだ息があってな」
彼は、湯呑みを置いた。
「儂が『誰に命じられた』と聞くと、こう答えた。――『知らない』と」
「……知らない?」
「『命令書には、名前がなかった』」
リヴィアの喉が鳴った。
――名前のない命令書。
二年前、レムナスへ送られた時と、同じだった。
【環】
「遺品は、これだ」
ムラサメは、奥から布包みを持ってきた。
開くと、認識票が三つ。腕時計。財布。手紙。
そして――金属の、環が一つ。
「……なんですか、これ」
リズが手に取った。
リヴィアは、それを受け取って灯りにかざした。
駐留司令部の遺留品箱で見た三つと、同じものだった。首輪ほどの大きさ。鈍い灰色。内側に、細かい術式の刻印。
違うのは、一箇所だけだった。
――切れていた。
断面が、鏡のように滑らかだった。
「……これ、切ってあります」
「儂が斬った」
ムラサメは、当たり前のように言った。
「息のあった一人が、それを外そうとしておった。……指が、留め具を探しておった」
彼は、火を見た。
「留め具は、ない」
部屋が、静まり返った。
「……ムラサメ殿。これは、どこに」
「首に、な」
「――つけられて、いたのですか」
「そう見えた」
老人は、湯呑みを取った。
「あれは、人が自分でつけるものではない」
リヴィアは、切れた環を布の上に置いた。
「司令部の遺留品箱に、同じものが三つありました」
「ほう」
「荷物の底に入っていました。……閉じたまま。使った跡が、ない」
「予備であろうよ」
ムラサメは、短く言った。
「四つ持たせて、三つ余った。……そういう数え方をする者が、どこかにおる」
誰も、それに続けられなかった。
「……ネロ?」
リヴィアが呼んだ。
――彼は、環を見つめたまま動かなかった。
「ネロ」
「……あ」
彼は顔を上げた。
「……すみません。何ですか」
「これ、分かる?」
彼は、環を受け取った。しばらく、術式を目で追った。
その指が、少しだけ震えた。
「……分かりません」
「本当に?」
「……はい」
彼は、環を布に戻した。
「解析には、設備が要ります。帝都に戻ってから、正式に照会します」
平坦な声だった。
リヴィアは、その顔を見た。
――何かがおかしい、と思った。
だが、それが何なのか、掴めなかった。
【名前のない墓】
その日の夕方、五人は北の谷へ案内された。
崩落の跡は、まだ生々しかった。斜面が幅二十メートルほど大きく抉れ、その下に赤茶けた土砂が扇形に堆積している。抉れた面から、掘りかけの横穴の口が半分だけ覗いていた。人が三人、腹這いで並べるかどうかという狭さだった。
東の端に――三つの、木の墓標が立っていた。杉の枝を削って十字に組んだだけの、素朴なものだった。土に挿さった部分がまだ白く、切り口の樹脂が乾ききっていない。
名前は、彫られていなかった。
「……名前は」
「知らん」
ムラサメは、短く答えた。
「認識票は、そこの布に包んである。……お主らが持ち帰れ」
リヴィアは、三つの墓標の前に膝をついた。
二十代前半だった、と記録にはあった。三人とも、半年前にこの島へ配属された。それ以前の経歴は、記録にない。
名前のない命令書で、名前のない山を掘らされて、名前のない墓に埋まっている。
(……誰も、あなたたちを探さないのね)
彼女は、しばらく動かなかった。
背後で、ミーナレイが手を合わせていた。
シキナの作法だった。母から教わったのだろう。
その手つきがあまりに自然だったので――アシュも、リズも、真似をした。
最後に、ネロも。
彼だけが、手を合わせたまま長く動かなかった。
【昔話】
その夜、五人は小屋に泊まることになった。
外は、真の闇だった。障子を開けても、庭の輪郭さえ見えない。街の灯りが一つもない山奥の夜は、こんなにも暗いのかと、リヴィアは思った。帝都では、下層区の一番暗い路地でも、どこかしらから光が漏れていた。
囲炉裏の火だけが、六人の顔を照らしている。火の向きが変わるたび、天井の梁に映る影が、部屋の中を大きく動いた。
「――ムラサメ殿」
リヴィアが、口を開いた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「言うてみろ」
「……あなたは、何者ですか」
老人は、しばらく火を見ていた。
「昔話をしよう」
鉄瓶の湯が、ことこと鳴っていた。
「千年前の話だ」
全員が、姿勢を正した。
「昔――天と、地と、魔の、三つがあった」
ムラサメの声は、低かった。
「天には翼を持つ者が、魔には角を持つ者が住んでおった。……そして、その真ん中に、我々がおった」
「……神話、ですか」
ミーナレイが、小さく聞いた。
「今は、そう呼ばれておるな」
老人は頷いた。
「だが、あれは戦だ。実際にあった戦だ」
彼は、火に薪をくべた。
「儂の師の、そのまた師の代の話だがな。……口伝で残っておる」
「口伝……」
「空が割れて、光を纏った者らが降りてきたそうだ。……美しかったと」
彼は、火を見た。
「地が割れて、角の者らが這い上がってきた。……こちらは、醜かったと」
「…………」
「どちらも同じことをした。人を殺した」
薪が、爆ぜた。
「美しかろうが醜かろうが、殺されれば同じだ。……人にとってはな」
リヴィアは、思わず自分の胸元に触れた。
銀のペンダント。誰も知らない紋様。
――角の者。
なぜか、その言葉が妙に耳に残った。
「三つが、一度だけ、本気で殺し合った。……その時、神が死んだ」
「か、神様が、死んだ……?」
「そうだ」
ムラサメは、あっさりと言った。
「創造神アルセリウス。……三つの界を作った者だ。その者が、三界の戦の中で死んだ」
誰も、口を挟めなかった。
「神が死ぬとな。……その神が握っておった『理』が、宙に浮く」
「理」
「世界の決まりごとだ。……火が熱い理由。水が流れる理由。物が斬れる理由」
彼は、自分の腰の刀を軽く叩いた。
「その、宙に浮いた欠片を――拾った者がおる」
リヴィアの息が止まった。
「人間が、ですか」
「そうだ。六人」
老人は、火を見つめた。
「風。雷。土。斬。木。……そして、光」
六つ。
――その背後で、ひそひそと囁き声がした。
「……ねえ、アシュ」
「なんだ」
「今の、分かった?」
「……分かるかよ」
リズとアシュが、額を寄せていた。
「神様が死んで、決まりごとが浮いて、それを拾った? ……なに、落とし物?」
「知るか。……俺は『三つが殺し合った』あたりまでは、まだついていけた」
「あたしはもっと前。……『天と地と魔の三つがあった』の時点で、もう」
「早すぎるだろ」
「だって、なんか、御伽噺の始まりみたいなんだもの」
二人が、こそこそと言い合う。
「爺さん、たぶんすごいこと言ってるのよ。たぶん」
「たぶん、な」
「でも、言い方がねえ……」
「あれだ。年寄りの話が長いってやつだ」
「しっ、聞こえるって」
「――聞こえておる」
ムラサメの声が飛んだ。
二人が飛び上がった。
「す、すみません!!」
「よい」
老人は、茶を啜った。
「儂の話は、分かりにくいと、昔からよく言われる」
「あ、自覚あるんですね」
「リズ!」
「あっ」
ムラサメは、少し笑った。
「――では、簡単に言おう」
彼は、囲炉裏の火を指した。
「この火は、なぜ熱い」
「え? ……えっと、燃えてるから?」
「では、なぜ燃えると熱い」
「……なぜって」
リズが、詰まった。
「決まっとるからだ」
老人は、言った。
「誰かが、そう決めた。……その『決めた者』が、神だ」
「……はあ」
「神が死ぬとな。決めごとだけが、宙に残る」
彼は、指を折った。
「その決めごとを、拾った人間が、六人おる」
「……つまり」
アシュが、恐る恐る言った。
「『なんで火が熱いか』を、知ってる人間が六人いるってことか?」
「知っておるのではない」
ムラサメは、首を振った。
「――決められる、ということだ」
部屋が、静まり返った。
「……あ」
リズの顔が青ざめた。
「え、ちょっと待って。それって」
「そういうことだ」
「……やば」
彼女は、それだけ言って口を押さえた。
「拾った者は、その理の中では、神に近くなる。……ただし、それだけだ」
「それだけ、って」
「不死ではない。全能でもない。……ただ、その一つのことだけが、異常に上手くなる」
彼は、少し笑った。
「儂の場合は、斬ることだ。……刀で斬るのではない。この世のあらゆる『繋がり』を、斬れる」
リヴィアは、森の膜を思い出した。
黒閃が通り抜けた、あの縫い目のない境界。
「……あの森の線は」
「儂が、引いた」
ムラサメは、頷いた。
「道と道の繋がりを斬った。斬った先を、別の場所に繋ぎ直した。……それだけだ」
「それだけって……」
「言うたろう。一つのことだけが、異常に上手いのだ」
背後で、また囁き声がした。
「……ねえ、今の分かった?」
「今のは分かった」
アシュが、小声で答えた。
「道を斬って、別の場所に繋いだ。……だから、まっすぐ歩いても元に戻る」
「あー! なるほど!」
リズが、ぽんと手を打った。
「つまり、廊下の途中で扉をすり替えたみたいな?」
「そうそう。……そういうことだろ、たぶん」
「そういうことでいいんですか、爺さん」
「よい」
ムラサメは、頷いた。
「その方が分かりやすいなら、それでよい」
「よかった!」
リズが、心底ほっとした顔をした。
「あたし、最初『空間を斬る』って聞いた時、空気を斬るのかと思って」
「それは、ただの素振りだ」
「ですよね」
アシュが、頭を抱えた。
「……お前、たまに本気で心配になるわ」
ムラサメは、茶を啜った。
「――そして、それが、恐ろしいのだ」
【一行目】
夜半、リヴィアがふと目を覚ますと、囲炉裏の脇に人影があった。
ミーナレイだった。膝の上に紙を置いて、鉛筆を握っている。
「……何してるの」
「あ、隊長。すみません、起こしました?」
「ううん。……手紙?」
「……はい」
彼女は、少し照れくさそうに紙を伏せた。
「祖母に、書こうと思って。……会えなかったので、せめて」
「そう」
「でも」
彼女は、鉛筆を置いた。
「一行目が、書けないんです。……『はじめまして』は変ですし、『おばあさま』も、なんか違うし」
「…………」
「あと、書いたところで、渡しに行けないですし」
彼女は笑った。
「明日、帝都に帰りますから」
「……書けたか」
囲炉裏の向こうから、老人の声がした。まだ火の番をしていたらしい。
「……いえ。まだ」
「そうか」
ムラサメは、火に薪をくべた。
「急ぐな。……相手が生きておるうちに出せば、それでよい」
ミーナレイの手が、止まった。
彼女は、しばらく紙を見ていた。
それから、四つに折って、鞄の一番底に入れた。
ミーナレイが寝息を立て始めても、リヴィアは眠れなかった。
板間に横になったまま、天井の梁を見上げていた。
「……眠れんか」
囲炉裏の向こうで、老人の声がした。
「……はい」
「若いのは、そうだ」
しばらく、火の爆ぜる音だけがした。
「……ムラサメ殿」
「うむ」
「六人のうち、一人は」
リヴィアは、慎重に言葉を選んだ。
「……道を、違えたと聞きました」
老人の手が、止まった。
「……誰から聞いた」
「十四年前、あなた方に届いたはずの手紙の、写しからです」
ムラサメは、火から目を離さなかった。
「……あの手紙か」
「ご存じなんですね」
「読んだ。……差出人は、名乗らなんだ」
彼は、火箸で薪を突いた。
「儂は、信じなかった」
「……なぜ」
「五百年前、あれは封じた。六人がかりで、な。……封が解けるはずがない」
老人の声が、低くなった。
「そう、思うておった」
リヴィアは、体を起こした。
「思っていた、というのは」
「――近ごろ、風が騒がしい」
ムラサメは、火を見たまま言った。
「儂の理は、繋がりを視る。……五百年、あの席は空いておった。誰も座っておらんかった」
彼の目が細くなった。
「――近ごろ、そこに、何かが座っておる気配がする」
リヴィアの背筋が凍った。
「一人足りん椅子が、埋まりかけておる。……そういう、気配がするのでな」
薪が、爆ぜた。火の粉が、天井へ舞い上がって消えた。
「……その席の名は」
リヴィアは、掠れた声で聞いた。
ムラサメは、答えた。
「――光だ」




