銀と黒、再び
【夜襲】
三日目の夜、それは始まった。
最初の報せは、音だった。宿の窓が、遠い衝撃で微かに震えた。
リヴィアは、寝台から跳ね起きた。
「――全員、起きて!」
廊下を走る足音。障子が次々と開く。
「な、なんですか!?」
「北西! 調査団の宿営地です!」
ネロが、寝間着のまま端末を掲げていた。
「爆発反応、三……いえ、五! 掘削設備の方向です!」
「装備、五分で。……ミーナレイ、遅れないで」
「はいっ!」
宿営地に着いた時、そこは既に混乱の底にあった。
掘削櫓が根本から折れて倒れている。発電設備が燃え、白い煙が夜空へ立ち上っていた。
「……死体が、ない」
アシュが、周囲を見回して言った。
護衛の兵たちは、あちこちに倒れている。
――全員、生きていた。
凍りついていた。
膝から下を氷に固められ、身動きが取れずにいる者。装備だけを凍らされ、武器を持てずにいる者。
誰一人、殺されていなかった。
「これって……」
リズの声が、途中で止まった。
ミーナレイが、氷の一つに触れる。
「うわ、冷たっ……あの、これ、魔法ですよね? こんな綺麗な氷……」
「……ええ」
リヴィアは答えた。声が、少し掠れた。
知っている。この冷気の質を、知っている。
二年前、地の底の聖堂で。――そして、あの雨の日、焼けた広場で。
「隊長!」
ネロが駆けてきた。
「北東へ、単独の魔力反応が移動中です! 速度……速い! 港の方向!」
「……港?」
「はい。……旧市街の、倉庫区です」
リヴィアの息が止まった。
旧市街の倉庫区。三年前の大火で焼け落ちて以来、放棄された区画。誰も住んでいない。夜警すら入らない。
――誘っている。
彼女は、レイピアの柄に手をかけた。
「……全員、ここに残って。負傷者の救護を」
「え!? 隊長、一人でですか!?」
ミーナレイの顔が跳ね上がった。
「危険です! あたしも――」
「――ミーナレイ」
リズが、彼女の肩を掴んだ。その顔は、いつになく真剣だった。
「行っちゃ駄目」
「でも!」
「あんたじゃ、死ぬ」
言葉が、あまりに直截だった。
ミーナレイが、息を詰める。
「あれは……あの氷は、そういう相手なの」
リズは、リヴィアを見た。
「……隊長。無茶しないでよ」
「する気はないわ」
「嘘つき」
リヴィアは、応じなかった。
彼女は、闇の中へ駆け出した。
【旧市街】
旧市街は、黒い骨格だった。
三年前の火事で焼けた倉庫が、屋根も窓もないまま格子状に並んでいる。石畳には割れた瓦礫が散り、雑草が伸びていた。
人の気配は、ない。
月が、雲間から出ていた。
――リヴィアは、大通りの中央で足を止めた。
二十歩先。瓦礫の上に、それは立っていた。
白銀のマント。月光を弾いて、銀の髪が揺れている。
二年前より、少しだけ背が伸びた。少しだけ、体つきが女らしくなった。
薄氷色の瞳は、変わっていなかった。
「……カリン・ユエル」
リヴィアが、名を呼んだ。二年前、雨の中で聞いた名前だった。
銀髪の少女が、目を細めた。
「……名前」
「知ってる」
「そう」
カリンは、白銀のレイピアを抜いた。鞘走りの音が、廃墟に響く。
「あなたも、知ってる。……リヴィア・ノクス」
二人は、しばらく動かなかった。
風が、焼け跡の灰を巻き上げた。
「……止めても、無駄よね」
「無駄」
「あの掘削が、何を掘り出すか知ってる?」
「知ってる。……あなたより、たぶん詳しく」
カリンの声は、抑えられていた。
「あれは、魔法を殺す石。……人の命を、道具にする石」
「…………」
「私の国も、それで死んだ」
リヴィアの喉が動いた。
「――アルジェンナ」
銀髪の少女の目が、初めて揺れた。
「……知ってるの」
「調べた。二年、かけて」
リヴィアは、レイピアを抜いた。
「十一年前。雪の小国。……住民の四割が死んだ」
「四割じゃない」
カリンが、訂正した。
「――六割。記録に載らなかった村が、二つある」
言葉が、途切れた。
二人の間に、月光だけが降っていた。
「……ねえ」
リヴィアは、剣を構えながら言った。
「あなたと私、たぶん、同じものを憎んでる」
「そうね」
「なら――」
「でも」
カリンが、切っ先を上げた。
「あなたは、その軍服を着てる」
その一言で、全部が終わった。
――二年前と、同じ言葉だった。
あの人が言ったのと、同じ。
「……そうね」
リヴィアは、構えを深くした。
「じゃあ、話は終わり」
二つの影が、同時に地を蹴った。
【第一合】
銀と黒が、噛み合った。
――重い。
最初の一合で、リヴィアの腕が痺れた。二年前より、明らかに重い。
カリンの刺突は、突きというより「打ち込み」に近くなっていた。剣速だけでなく、体重の乗せ方が変わっている。
(……技を、練り直してる)
二合目。三合目。
――この形を、彼女は知っている。
白の塔の実技棟で、教官が何百回も同じ言葉で直させた形。あの人が、この子に教えた形。
知っているのに、読み切れない。この二年で、この子はそこから先を、自分で作っている。
カリンの剣は、常にリヴィアの右――利き手側を狙ってきた。
受ければ剣を弾かれ、避ければ体勢が左へ流れる。左へ流れれば、そこには氷がある。
――誘導されている。
リヴィアは四合目で、あえて受けなかった。
半歩、前へ踏み込む。突きの軌道の内側へ入り、カリンの肘を左肘で押した。
「――っ」
銀の刺突が、頬のすぐ横を通り過ぎる。冷気が、耳を裂いた。
リヴィアは、返しの一閃を放った。
カリンが跳んだ。
いや――滑った。
着地の瞬間、足元に氷が生まれ、彼女はその上を滑走して後方へ抜けた。その滑走の軌跡が、そのまま氷の道になる。
「――白牢・帯」
氷の道が、二本、三本と分岐した。
廃墟の大通りに、氷の網が張られていく。リヴィアの足元にも、氷が這ってきた。
(――足を、取る気ね)
彼女は跳んで、瓦礫の上に着地した。そこにも、氷が追ってきた。
カリンは、地面を「支配」していた。
二年前の白牢が空間を一瞬で凍らせる爆発的な技だったのに対し、これは持続的で、範囲を選べる。
――効率が、上がっている。
「――氷槍・簇雨」
氷の道から、無数の氷柱が生えた。
二年前と同じ技。数と速度が、違う。百を超える氷の槍が、リヴィアを四方から刺しにきた。
「……っ」
彼女は、身を沈めた。
右手の指が、宙に走る。
闇色の陣が、周囲に――四つ、展開した。
「黒閃・斑」
四つの陣から、黒い線が放たれる。
氷槍が、空中で断たれた。
――四つだけで。
二年前は十二の陣を展開しなければ、氷の壁一枚割れなかった。今は、四つで百の槍を落とせる。
カリンの眉が動いた。
「……陣が、減った」
「無駄が減っただけ」
リヴィアは、砕けた氷の雨の中を駆けた。
――が、その足が途中で止まった。
砕けた氷が、落ちなかった。
空中で、砕けた欠片が向きを変え、再び刃の形に凝った。
「――簇雨・還」
二度目の雨が、至近距離から降ってきた。
「……っ!」
リヴィアは、剣を跳ね上げた。黒閃を三本、扇状に。
全ては落とせない。
左の二の腕。右の脇腹。頬。氷の破片が、皮膚を裂いていく。
彼女は構わず、前へ出た。傷を数えるより、距離を詰める方が早い。
(……この子、術を「使い捨てて」ない)
放った氷を、回収して、再利用している。二年前にはなかった発想だった。
――こちらと、同じことを考えている。
闇が喰うように、氷が戻る。
互いに、自分の属性の性質を、深く理解し直してきたのだ。
【第二合】
距離が、詰まる。
カリンが、滑走で後退しながら迎撃した。銀の刺突が、四連。
リヴィアは、二本を弾き、一本を逸らし――四本目を、避けなかった。
肩を掠らせた。布が裂け、皮膚が凍りつく。
その一瞬で、カリンの剣は伸びきった。
(もらった)
リヴィアの左手が、彼女の手首を掴んだ。
「――っ!」
「近い方が、私が有利よ」
密着距離。レイピアの間合いではない。
リヴィアは剣を短く持ち替え、柄頭をカリンの胸元へ叩き込んだ。
――が。
当たる寸前で、カリンの体が下へ落ちた。
彼女は、自分の足元の氷を瞬時に融かしたのだ。
支えを失った体が沈み、リヴィアの柄頭が空を切る。
落下しながら、カリンの左手が地面に触れた。
「――氷牙」
リヴィアの足元が、爆ぜた。
氷の牙が、地面から生え上がる。串刺しにされる寸前、彼女は跳んだ。
左の太腿を、氷の先端が抉った。
「……っ、あ……!」
血が、氷を赤く染めた。
着地したリヴィアは、片膝をついた。カリンが、滑走で距離を取る。
二十歩。互いに、荒い息をついていた。
「……近接を、捨てたのね」
リヴィアが、傷を押さえながら言った。
「二年前のあなたは、鍔迫りから逃げなかった」
「…………」
「今のあなたは、床ごと逃げる」
「――逃げてない」
カリンの声が、少しだけ強くなった。
「あなたと組み合えば、私が負ける。……それを、知っただけ」
リヴィアは、少し驚いた。
自分の弱点を、正確に認めている。そして、それを補う戦い方を組み上げてきた。
――この二年、この子も、ずっと戦い続けてきたのだ。誰かのために。
「……あなた」
リヴィアは、立ち上がった。
「セリウスのために、戦ってるの」
空気が、凍った。
物理的に、凍った。周囲の湿気が一斉に霜になり、廃墟の柱が白く覆われる。
「――あなたに」
カリンの声が、初めて明確な感情を帯びた。
「――あなたに、その名前を呼ばれるのが、一番腹立たしい」
彼女の周囲に、氷が渦を巻いた。
「あなたがあの人と六年一緒にいた間、私はまだ字も読めなかった」
剣先が、上がる。
「でも――あの人が一番苦しかった十年間、隣にいたのは私」
リヴィアの心臓が跳ねた。
「あなたじゃない」
言葉が、止まらなかった。
「あの人が、夜中に飛び起きるのを見たことある?」
「…………」
「自分の光で人を焼いた日に、手が震えて食器を持てないのを見たことある?」
カリンの声が震えていた。
「『リヴィア』って寝言で呼ぶのを――何度も、何度も聞かされたのは、私」
リヴィアの息が止まった。
「……なんで、そんなこと」
「言いたかったからよ」
銀髪の少女は、正直に言った。
「二年間、ずっと。……あなたに会ったら、言ってやろうと思ってた」
彼女の目に、月光が反射している。その光が、涙のようにも見えた。
「……あの人を、返して」
ほとんど囁くような声だった。
「あなたが生きてるだけで、あの人は、まだ十年前にいる」
――リヴィアは、言い返せなかった。
言い返す言葉を、持っていなかった。
あの人が、どんな十年を過ごしたのか。自分は、知らない。
知らないまま、二年前、「関わるな」と言われて、なお追いかけた。追いかけて、殴られて、また追いかけようとしている。
――それは、この子から見れば。
(……ただの、身勝手か)
腹の底が、鈍く痛んだ。
「……そうかもしれない」
彼女は、正直に答えた。
カリンの動きが止まった。
「私は、あの人の十年を知らない。……知らないまま、名前を呼んでる」
「…………」
「でも」
リヴィアは、剣を握り直した。
「知らないから、聞きたいの。……本人から」
「――そんな機会、来ない」
カリンの声が鋭くなった。
「あなたは帝国の犬で、あの人は組織の長。……次に会う時は、どちらかが死ぬ時よ」
「そんなの、知らない」
「……っ」
「私は、まだ聞いてない」
リヴィアは、言った。
「十年前の朝、あの人が言いかけた言葉を、まだ聞いてないの」
その一言に――カリンの表情が崩れた。
怒りでも、憎しみでもなかった。もっと、痛いものだった。
「…………ずるい」
彼女は、掠れた声で言った。
「そんなの、私が入れる隙、どこにもないじゃない」
【絶空】
氷が、来た。
白牢の帯が、廃墟の大通り全体を覆い尽くしていく。柱が凍り、瓦礫が凍り、空気中の水分すべてが刃に変わる。
その中央から、氷の津波がリヴィアへ向かって走った。
――躱せない。範囲が、広すぎる。
リヴィアは、レイピアを両手で握った。
息を、深く吸う。
(……足りない、って言ったのは、二年前)
あの日、聖都の焼けた広場で、光の雨に沈められた。
黒閃は速い。ただし、線でしかない。斑は広い。ただし、一本一本は細い。
――面が、要る。あの光の雨を切り裂けるだけの、圧倒的な面が。
三度、試した。三度とも、溜めきる前に刃の先が破けた。減衰装置を焼き、左手の感覚を七秒失った。
当然だった。
溜めるものが、自分の中にしかなかったからだ。
――今は、目の前に、津波がある。
切っ先を、天へ。
闇が、刃に集まり始めた。
黒閃のように細く鋭くではない。斑のように分散させるのでもない。
――溜める。
刃の先端に、闇が凝縮していく。黒い塊が剣先で膨れ、脈打つ。心臓の鼓動と同じ律動だった。
周囲の空気が、剣先へ吸い寄せられていく。落ちていた灰が、瓦礫の粉が、渦を巻いて剣先へ吸い込まれ、闇に呑まれて消えた。
空気が軋んだ。
押し寄せる氷の津波が、その闇に触れる寸前で――速度を、落とした。
落ちたのではない。減っていた。
津波の先端が、削られていく。溶けるのでも砕けるのでもなく、そこに在ったはずの量が、剣先の一点へ吸われていく。
刃の闇が、飲んだ分だけ膨れた。
カリンの目が、初めて大きく見開かれた。
「――なに、それ」
リヴィアの口は動かなかった。答える息が、惜しかった。
両腕が、悲鳴を上げている。剣が重い。溜めた闇が、自重で刃を引きずり下ろそうとする。
――今。
彼女は、両手で握った剣を振り下ろした。
「――絶空」
闇が、解き放たれた。
それは、線ではなかった。
剣先から放たれた漆黒の斬撃が、扇状に広がり、大通りを横薙ぎに奔った。
幅、二十メートル。
氷の津波が、真っ二つに割れた。
割れただけではない。
斬撃が通過した後、そこには何も残らなかった。氷も、瓦礫も、石畳も。
――斬られた面が、鏡のように滑らかだった。
黒い斬撃はそのまま奔り続け、大通りの左右の廃倉庫を、根本から水平に断ち切った。
一秒の静寂。
――崩落が、始まった。
断たれた倉庫が、地響きとともに沈む。一棟。二棟。三棟。
支えを失った建物が隣の建物を巻き込み、崩落が連鎖していく。粉塵が、月光を遮って立ち上った。
「――っ!」
カリンは、辛うじて跳んでいた。
斬撃の縁が、彼女の白銀のマントを、腰から下を丸ごと断ち切っていた。
瓦礫の山に着地した彼女の頬に、一筋の血。
彼女は、自分の頬に触れた。指先に、赤。
それから、真っ二つになったマントを見た。
「…………」
彼女は、しばらく動かなかった。
粉塵の向こうから、黒い影が歩いてくる。剣を下げ、片脚を引きずりながら。
「……二年」
リヴィアは、荒い息の中で言った。
「二年、あなたに勝てるように、練った」
「…………」
「あなたが強かったから」
カリンの唇が、微かに動いた。何かを言おうとして、言えなかった。
――彼女は、理解していた。
今の一撃は、避けられなかった。跳んだのは反射で、生きているのは運だ。
あの技を放った後も、この女はまだ立っている。
二年前、聖堂で相打ちだった相手が。
(……追い抜かれた)
その事実を、彼女は正確に認識した。
認識して――剣を、構え直した。
「……それでも」
彼女の周囲に、これまでで最大の冷気が渦を巻き始める。
「引けない」
【雷】
二人が同時に踏み込もうとした、そこへ。
空が、白く光った。
――落雷。
二人の間の地面に、青白い柱が突き刺さった。石畳が爆ぜ、衝撃波が両者を弾き飛ばす。
「――なっ!?」
リヴィアが体勢を立て直した時、廃墟の屋根の上に影が並んでいた。
五つ。濃紺の軍服。銀の双翼章。特務課の意匠だった。
「――特務課第三特殊部隊、雷牙隊」
先頭の影が、跳び降りた。着地の衝撃で、周囲の瓦礫が浮き上がる。
女だった。三十代前半。短く切り揃えた黒髪。感情の読めない、灰色の目。
「隊長、イグナ・ヴェルド」
彼女は名乗った。
「駐留司令部の要請により、出動した」
カリンの表情が変わった。
――五人。しかも、リヴィアがまだ立っている。
「……ちっ」
初めて、彼女が舌を打った。
「逃げるつもりか」
イグナが、右手を上げた。
「無駄だ。……私の雷は、魔力を追う」
彼女の指先から、青白い線が奔った。
それは真っ直ぐ飛ばなかった。空中で折れ曲がり、カリンの纏う冷気の魔力を辿って追尾する。
「――っ!」
カリンが、氷の壁を張った。
雷は、壁を回り込んだ。
彼女の左肩を、青白い光が貫いた。
「あ――」
白銀のマントの残骸が、焦げた。
彼女は膝をつき――もう一度、立ち上がった。
「まだ動くか」
イグナが、二撃目を構える。
カリンの足元から、爆発的に霧が噴き上がった。自分の氷を、一瞬で気化させたのだ。
視界が、真っ白に染まる。
「――撃て!」
雷牙隊の四人が、霧の中へ雷撃を放った。
何も、当たらなかった。
霧が晴れた時、そこには誰もいなかった。
白銀のマントの切れ端だけが、瓦礫の上に落ちていた。
イグナ・ヴェルドは、しばらく霧の消えた方角を見ていた。
それから、振り返った。
リヴィアが、片膝をついている。太腿からの出血。肩の凍傷。全身の擦過傷。
その周囲に広がる、破壊の跡。
水平に断たれた倉庫群。崩落した区画。鏡のように滑らかな、斬撃の断面。
イグナは、その断面をしばらく見つめた。
「……これは、あなたが?」
「……ええ」
「一撃で」
「……ええ」
彼女は、少しだけ黙った。
「――リヴィア・ノクス大尉。噂は聞いている」
彼女は、リヴィアの前に立った。値踏みするような、冷たい目だった。
「二年前、要塞ロデルの水幕を裂いた黒い閃光。……ずいぶん、腕を上げたようだ」
「……どうも」
「一つ、忠告しておく」
イグナは、崩れた倉庫を顎で示した。
「あなたのそれは、闇属性だな」
「……そうです」
「私の雷は、放てば消える。火も、風も、水もそうだ。……放った端から、術者の手を離れる」
彼女の目が細くなった。
「だが闇は違う。……闇は、戻ってくる」
リヴィアの背筋が冷たくなった。
「――扱いを間違えれば、焼かれるより酷い」
イグナはそれだけ言って、背を向けた。
「収容班を呼ぶ。動けるか」
「……はい」
「そのまま動くな。血が多い」
彼女は、部下に手信号を送った。
その背中を見ながら、リヴィアは自分の右手を見下ろした。
黒い手袋。その下で、指先がまだ微かに冷たい。
――闇は、戻ってくる。
二年前、ネロが見せた黒閃の波形の逆流。黒葬が敵の魔法を喰う感触。
そして今、津波を削って剣先が膨れた、あの感触。
(……戻ってきてる?)
(何が?)
答えは、まだ出なかった。
三十分後、黒翼の四人が駆けつけた。
「――隊長!!」
リズが真っ先に走り寄り、リヴィアの傷を見て息を詰めた。
「なにこれ、太腿……氷でやられたの!? 止血、止血! ネロ!」
「……はい」
ネロが膝をつき、回復魔法をかけ始める。その手つきは、二年前より遥かに正確だった。
「……深いですね。動脈は逸れています。……三日は走れません」
「三日で治す」
「無理です」
「治す」
「…………」
ネロは、それ以上言わなかった。
――アシュとミーナレイは、別のものを見ていた。
「……おい」
アシュが、廃墟の断面を見上げていた。
水平に断たれた三棟の倉庫。鏡のように滑らかな切断面。その向こうまで、まっすぐに続く破壊の帯。
「これ、あんたか」
「……ええ」
「……一撃で?」
「……ええ」
アシュは、しばらく黙っていた。
それから、短く息を吐いた。
「……ちくしょう。また、離された」
「アシュ」
「なんでもねえよ」
彼は、そっぽを向いた。
その隣で、ミーナレイが口を開けたまま立ち尽くしていた。
「……すごい」
小さな声だった。
「隊長……すごいです。あたし、こんなの、見たことない」
その目に、純粋な憧れが灯っていた。
リヴィアは、それを見て――目を逸らした。
なぜか、その目を、まっすぐ受け止められなかった。
【翌朝の新聞】
三日後。
帝都で、朝刊が配られた。
一面に、大きな見出しが躍っていた。
『シキナ諸島にて大規模破壊 テロ組織の犯行』
『帝国資源調査団を襲撃 市街地一区画が壊滅』
『現地政府、治安維持能力の欠如を露呈』
記事には、崩落した倉庫街の写真が載っていた。水平に断たれた建物の断面が、はっきりと写っている。
――誰が断ったかは、書かれていなかった。
記事の末尾には、こうあった。
『帝国政府は、シキナ諸島における治安の抜本的改善が急務であるとし、駐留規模の拡大と、現地行政への直接関与を検討している』
シキナの宿で、その新聞を読んだリヴィアは、しばらく動けなかった。
崩したのは、自分だ。
人は、誰も死んでいない。放棄された区画だった。
――そして、明日から掘る理由になる。
三日前、倉庫街の窓の下で、彼女は考えた。
バルドアでは「襲撃事件」だった。セルバでは「商船の拿捕」だった。シキナでは、何になるのか。
答えを、自分で作った。
新聞を持つ手が、震えた。
(また、使われた)
二年前のカラムと、同じだった。自分がやったことが、自分の意図と関係なく、誰かの階段になっていく。
――違う。
カラムは、殺された。自分は、自分で斬った。
「……隊長?」
ミーナレイが、心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫ですか? 顔色が」
「……大丈夫」
リヴィアは、新聞を畳んだ。
「……ミーナレイ」
「はい」
「明日、禁足地に入る」
「え、でも、隊長の怪我が――」
「入る」
彼女は、立ち上がった。
失踪した三名。掘られる山。翁と呼ばれる何か。
この島で起きていることの全部を、知らなければならない。
――その前に、誰かがまた勝手に、話を進めてしまう前に。
部屋を出る間際、彼女はもう一度、崩れた倉庫街の方角を見た。
昨夜、自分が断ち切った街の骨組みが、朝の光に晒されている。
――闇は、戻ってくる。
あの女の言葉が、頭から離れなかった。
絶空を放った瞬間、確かに感じた。
力を「使った」のではない。斬った空間から、何かが自分の中へ流れ込んできた感覚。
あれが何なのか、まだ分からない。
分からないまま、明日、彼女はあの鳥居をくぐる。




