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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
セイクリッドルート編

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東の島

【封を切る】


 〇八〇〇、作戦室。


 卓上の封蝋を、リヴィアは親指で割った。


 パキ、と乾いた音。


 その音を、ミーナレイはもう三度聞いている。二度目までは目を丸くしていたが、今日は背筋を伸ばして待っていた。


「――特務課直令。任務地、シキナ諸島」


 半年ぶりに、実任務らしい単語が出た。


「任務は二つ。一つ、シキナ駐留部隊所属の兵三名が、二週間前より消息不明。その捜索」


「三名?」


 アシュが眉を寄せた。


「うちの仕事じゃねえだろ、それ」


「もう一つがある」


 リヴィアは、命令書を読み進めた。


「同地域にて活動中の『帝国資源調査団』の護衛。……期間、およそ二十日」


 資源調査団。


 その五文字を読み上げた時、彼女の指先が冷たくなった。


 三日前、グレイが見せた調達記録。


 ――削岩機、三十台。行き先、シキナ。


「隊長?」


「……なんでもない」


 彼女は、命令書を畳んだ。


「〇六〇〇、明朝出航。東方航路、三日かかる。……準備しなさい」


「はいっ! あの、質問よろしいでしょうか!」


 ミーナレイが手を挙げていた。


「どうぞ」


「シキナは、その、東方の島国ですよね」


「そうよ」


「……いつから、帝国の駐留地に?」


 その問いに、リズが答えた。


「一年ちょっと前。……『友好駐留協定』ってやつ」


「協定……」


「知らない?」


「い、いえ! 知ってます! 新聞で読みました! 治安維持のために、帝国が守ってあげてるって……」


 彼女はそこで、言葉を切った。


 自分の言い方が何か変だと、気づいた顔だった。


 ――誰も、訂正しなかった。



【三日の航海】


 東方航路の輸送船は、揺れた。


「うぷ……」


「ネロ、あんた飛行機も船も駄目なのね」


「……乗り物全般です」


 甲板の隅で、ネロが青い顔で座り込んでいた。


 その隣で、ミーナレイが手すりから身を乗り出している。


「うわぁ、海! 海ですよ先輩! こんなに広いんですね!」


「あんた、海見たことないの?」


「帝都育ちなので! 水路しか!」


「……母親の故郷、島国でしょ」


 リズが言うと、ミーナレイの動きが少し止まった。


「……はい」


 彼女は、手すりに顎を乗せた。


「でも、行ったことないんです。一度も」


 風が、彼女の茶色い髪を煽った。


「母は、あたしが十二の時に死にました。……父は帝国の役人で、母はシキナから来た人で」


「…………」


「どうやって出会ったのかは、聞いてないです。聞く前に、いなくなっちゃったので」


 彼女はあっけらかんと言った。その言い方が、かえって重かった。


「祖母が、島にいるはずなんです。名前は知ってます。会ったことは、ないですけど」


「……会いに行くの?」


「どうでしょう」


 ミーナレイは笑った。


「あたし、帝国の軍服着てるので。……喜ばれるかどうか」


 リズは、それ以上続けられなかった。




 二日目の夜、リヴィアは甲板に出た。


 星が、帝都より遥かに多く見えた。


 ――当たり前だ。街の灯りがないのだから。


「隊長」


 後ろから、ミーナレイの声がした。


「眠れないの」


「はい。……あの、隊長は」


「私も」


 二人は、並んで手すりにもたれた。


 しばらく、波の音だけがした。


「……隊長」


「なに」


「あたし、変なことを聞いていいですか」


「どうぞ」


「――軍って、正しいですか」


 リヴィアは、星から目を離さなかった。


「……この前の、盗難団のこと?」


「はい。それと」


 ミーナレイは手すりを握った。


「今回の、駐留のことも」


「…………」


「治安維持のために守ってあげてる、って、あたし、新聞で読んで信じてました。今も、たぶん半分は信じてます」


 彼女の声は小さかった。


「でも、母から聞いた話だと、シキナって、すごく平和な島だったらしくて。……守ってもらう必要が、あったのかなって」


 リヴィアは、しばらく黙っていた。


 嘘は言いたくなかった。だが、真実を全部渡すには、この子はまだ若すぎる。


 カラムなら、なんと答えただろう。


「……ミーナレイ」


「はい」


「軍が正しいかは、私には分からない」


「え」


「でも、隊の中でやることは、自分で決められる」


 彼女は、星を見上げたまま言った。


「命令は選べない。でも、その中で何をするかは、選べる。……全員で帰る、とかね」


「…………」


「今は、それでいいんじゃない」


 ミーナレイは、しばらく考えていた。


 それから、大きく頷いた。


「はい! ……あの、隊長」


「なに」


「あたし、隊長のそういうところ、好きです」


「……そう」


「はい!」


 リヴィアは、少しだけ口の端で笑った。


 ――甲板の反対側で、ネロが手すりに寄りかかっていた。


 彼は、二人の会話を聞いていた。聞いていて、口を挟まなかった。


 星は、彼の上にも同じだけ出ていた。



【港】


 三日目の朝、シキナが見えた。


 深い緑の山が、海から直接せり上がっている。その裾に、木造の家並みが貼りつくように広がっていた。


 朱塗りの鳥居が、港を見下ろす丘の上に立っている。干された魚が、風に揺れていた。


「……綺麗」


 リズが、思わず呟いた。


 美しい島だった。


 ただ、港に近づくにつれて、その印象は少しずつ削れていった。


 港の東側が、工事中だった。木造の桟橋が撤去され、コンクリートの護岸が伸びている。停泊しているのは、帝国の軍用艦が三隻。


 港のどの建物にも、帝国旗が掲げられていた。


 白木の家に、赤と金の旗。


 似合っていなかった。どうしようもなく、似合っていなかった。




 接岸すると、島の空気が流れ込んできた。


 潮と、木と、味噌のような発酵した何かの匂い。


 桟橋には、荷役の島民たちがいた。


 黒翼の五人が降りると、彼らは作業の手を止めた。


 ――そして、一斉に目を逸らした。


 睨まれたわけではない。罵声も飛ばない。ただ、見なかったことにされた。通り過ぎる間、誰一人、顔を上げなかった。


「……なにこれ」


 リズが小声で言った。


「敵意より、なんか……嫌ね」


「慣れてんだよ」


 アシュが短く答えた。


「文句言ったら面倒だって、体で覚えてる」


 港から集落へ続く道も、同じだった。


 軒先に、帝国語と現地語の二重表記の看板が並んでいる。新しく打ち直されたものだ。現地語の方が、明らかに小さく書かれていた。


 道端の掲示板には、駐留部隊の告示。


『夜間外出は二十二時まで』


『五人以上の集会には届出を要す』


『帝国軍人への協力は島民の義務である』


 その隣に、色褪せた古い紙が一枚だけ残っていた。現地語の、たぶん祭りの案内。


 ――日付は、二年前だった。


 子供が二人、道の端で遊んでいた。黒い軍服の一団に気づくと、母親らしき女が家から飛び出してきて、二人の腕を掴み、家の中へ引き込んだ。


 戸が閉まる。閂の落ちる音が、はっきりと聞こえた。


 その中で、ミーナレイだけが立ち止まっていた。


 荷役の一人――老人が、彼女を見ていた。


 いや、彼女の腰の刀を見ていた。拵えの古い、東洋の刀。


 老人の目が、一瞬だけ動いた。それから、何も持たない方の手で荷を担ぎ直し、去っていった。


「……ミーナレイ?」


「……あ、はい! すみません!」


 彼女は慌てて追いついてきた。


 その顔から、船の上の明るさが少し引いていた。



【駐留司令部】


 駐留部隊の司令部は、元は島の政庁だった建物だった。


 和風の木造建築に、無理やり帝国式の看板が打ち付けられている。畳の上に、机と椅子が並べられていた。


「――ああ、これはこれは。黒翼分隊」


 出てきたのは、四十代半ばの中佐だった。制服は少し着崩れ、顔が赤い。まだ午前中だった。


「グストル中佐です。ようこそ、シキナへ」


「リヴィア・ノクスです。……失踪した三名について、伺いたいのですが」


「ああ、あれね」


 中佐は、椅子に深く沈み込んだ。


「あれは、脱走ですよ」


「……脱走?」


「この島、退屈でしてね。若い兵には辛いんですよ。娯楽がない、女もいない、酒も口に合わない」


 彼は、手をひらひらと振った。


「三人でつるんで、船に潜り込んで、大陸に戻ったんでしょう。よくあることです」


「二週間、捜索は」


「一応は。……ですが、島の連中は何も知らんと言うし、探しようがない」


「記録を、見せていただけますか」


「記録?」


「勤務記録と、当日の配置です。あと、遺留品も」


 中佐は、面倒くさそうに部下を呼んだ。




 持ってこられた綴りを、ネロが受け取った。


 彼は、五分ほど無言で頁をめくった。


 顔を上げた。


「……中佐殿」


「なんです」


「この三名、全員、同じ哨戒班です」


「そりゃ、仲が良かったんでしょう」


「配置は、島の北西。……禁足地との境界線上です」


 部屋の空気が、少し変わった。


「そして、失踪の前日にも同じ配置。前々日も」


 ネロは、頁を指で叩いた。


「三日連続で、同じ三名が、同じ場所に配置されています。……通常、哨戒配置は毎日入れ替えるはずです」


「……ああ、それは」


 中佐が口ごもった。


「本人たちの希望でね。あの区域は静かだから、楽なんですよ」


「希望で配置を決めるんですか」


「……なんです、その言い方は」


「事実確認です」


 ネロの声は平坦だった。


 感情がないのではない。感情を意図的に排除した声だった。


「では、もう一つ。……この三名の所属は、どこですか」


「駐留部隊ですが」


「配属日が、三名とも同じです。半年前」


「…………」


「そして、それ以前の経歴が、この綴りには載っていない」


 中佐の顔から、赤みが引いた。


「……知らんよ。私は、来た人間を配置するだけだ」


 その一言が、答えだった。


 ――誰かが、この三人を、この島の、この場所へ送った。駐留司令官の頭越しに。




 遺留品は、木箱一つに雑に放り込まれていた。


 手紙。煙草。家族らしき写真。壊れた懐中時計。読みかけの安い小説。


 その底に、金属の環が三つ。


 リヴィアは、そのうちの一つを摘まみ上げた。


 首輪ほどの大きさ。鈍い灰色。留め具が、ない。継ぎ目もない。輪のまま、閉じている。


 内側に、細かい刻印が彫られていた。数字と、見たことのない記号の列。


「……なんですか、これ」


「知らんよ」


 中佐は、興味もなさそうに答えた。


「装具じゃないな。支給品の目録にもない」


「留め具がありません」


「だから?」


「……外し方が、ないということです」


 リヴィアは、環を目の高さに持ち上げた。


 継ぎ目のない金属の輪が、三つ。持ち主の首から、どうやって外れたのか。


 彼女は、それを箱に戻した。


 ネロが、端末に何かを打ち込んでいた。



【宿】


 宿は、集落の外れの古い旅籠だった。


 畳の部屋。障子。低い天井。


 女将は五十がらみの女で、応対は完璧だった。布団の上げ下ろし、湯の用意、食事の配膳。すべてが丁寧で、無駄がなく――そして、一言も余計なことを言わなかった。


「お食事は、こちらで」


「ありがとうございます。……あの、この島の方ですか」


 リズが聞くと、女将は微笑んだ。


「はい」


「ずっと?」


「はい」


 それだけだった。


 夕食は、白い飯と、魚の煮付けと、味噌の汁だった。


「うわ、美味しい!」


 ミーナレイが目を輝かせた。


「これ、母が作ってくれたのと同じ味です!」


 その言葉に――女将の手が、止まった。


 彼女は、ミーナレイの顔を見た。それから、その腰に置かれた刀を見た。


「……お嬢さんは」


「はい?」


「……いえ」


 女将は頭を下げて、部屋を出ていった。


 障子が閉まる。


「……なんだったんだ、今の」


 アシュが呟いたが、誰も応じなかった。


【禁足地】


 翌日の午後、リヴィアたちは島の北西へ向かった。


 道は、途中で舗装が終わる。あとは、山へ続く細い道だった。


 やがて、それは現れた。


 鳥居だった。


 朱塗りではない。灰色に苔むした、古い石の鳥居。その先に、深い杉の森が広がっている。


 道は、鳥居の手前で終わっていた。


 ――正確には、鳥居の先にも道はある。


 だが、そこから先には、明らかに人が入っていない。落ち葉が、何十年分も積もっていた。


「……ここが」


 案内に雇った島の男が、鳥居の五歩手前で足を止めた。


「ここまでです」


「先へは?」


「行きません」


 彼は、はっきりと言った。


 初めて、島民が黒翼にはっきりと言葉を返した瞬間だった。


「なぜですか」


「……あそこには、翁がおられます」


「翁」


「山の、翁です」


 男は、それ以上説明しなかった。


「昔から、決まっとります。あの鳥居から先には、入らん。……入った者は、帰ってこん」


「帰ってこないって、それは」


「死ぬとは、言うとりません」


 男は首を振った。


「――帰って、こんのです」


 彼はそれだけ言って、山を降りていった。


 残された五人は、鳥居を見上げた。


 風が、杉の梢を鳴らした。その音だけが、やけに大きく聞こえた。


 ――いや。


 大きく聞こえたのではない。他の音が、消えていた。


 鳥の声がしない。虫の音もしない。ここへ来るまでの山道には、あれほど賑やかだったのに。


 鳥居を境に、音が途切れている。


「……なんか、嫌な感じですね」


 ミーナレイが身震いした。


「嫌っていうか」


 リズが、言葉を探した。


「……見られてる感じ」


 リヴィアも、同じことを感じていた。


 ただ、それは敵意ではなかった。もっと静かで、もっと大きい何か。山そのものが、こちらを見ているような。


 彼女は試しに、右手にほんの少しだけ魔力を灯してみた。


 手の甲に、四本の線が浮かぶ。


 ――そして。


 線が、揺れた。


 消されたのではない。妨げられたのでもない。


 ただ、この場所では、自分の魔力が「小さい」と感じた。湖に、コップ一杯の水を注いだような。


「……ネロ。魔素の測定は」


「……できません」


 彼は、端末を見つめていた。


「振り切ってます。上に」


「上に?」


「はい。……この山、丸ごと、異常値です」


 誰も、しばらく喋らなかった。


「……今日は、ここまでにする」


 リヴィアは背を向けた。


「日が暮れる。準備を整えてから、明日以降に入る」


「はいっ」


 降りる途中、リヴィアは一度だけ振り返った。


 鳥居は、そこに立っていた。



【調査団】


 夕方、彼らはもう一つの任務地へ回った。


 帝国資源調査団の宿営地。禁足地から、南へおよそ二キロ。


 ――近い、とリヴィアは思った。


 宿営地は、テントと簡易建物が並ぶ、それなりの規模だった。白衣の技術者が二十人ほど。護衛の兵が三十人ほど。


「――ああ、黒翼の。ご苦労様です」


 調査団長は、痩せた神経質そうな男だった。


「護衛は結構ですが、区画には立ち入らないでいただきたい。機密ですので」


「調査内容は」


「地質調査です」


「何を探しているんですか」


「……機密です」


 男は微笑んだ。


 その微笑みは、二年前、バルドアの採掘区で見た顔と同じ種類のものだった。


 リヴィアは、宿営地の奥を見た。


 柵の向こうに、掘削の設備が見える。


 ――縦坑だった。


 地質調査なら、普通は複数箇所で浅く掘る。なのに、一点だけを深く掘っている。


「……ネロ」


「はい」


「土壌の数値、取れる?」


「柵の外からなら」


 彼は端末を構えた。


 三分後、彼の指が止まった。


「……隊長」


「なに」


「土壌の魔素濃度が、周辺の平均より四十パーセント低いです」


 リヴィアの背筋が冷たくなった。


「それって」


「……地下に、魔素を吸うものがある可能性があります」


 彼は、それだけ言った。それ以上は、言わなかった。


 ――言う必要が、なかった。


 二年前、バルドアで、同じ数値を見た。


【倉庫街】


 その夜。


 リヴィアは、一人で宿を抜け出した。


 港の倉庫街へ。新しく建てられた帝国式の倉庫が、五棟。


 夜警は二人だけだった。それも、居眠りをしている。


 彼女は音もなく敷地に入り、一番奥の倉庫の窓から中を覗いた。


 ――木箱が、山と積まれていた。


 月明かりが、側面のステンシルを照らしている。


 彼女は窓枠に手をかけて、身を乗り出した。目を凝らす。


『帝都第四工廠 削岩機 三十基』


 そして、その下。


『発送日――』


 リヴィアは、日付を二度読んだ。三度読んだ。


 ――調査団が島に到着したのは、十日前。


 この箱の発送日は、その二週間前だった。


 膝から力が抜けそうになった。窓枠を掴んだ手が震えていた。


 彼女は、他の箱も確かめた。


 二つ目。同じ日付。三つ目。二日違い。


 四つ目は、別の品目だった。


『特殊容器 鉛内張 二十四基』


 鉛の、内張り。


 何を運ぶための容器か、彼女はもう知っている。


 二年前、バルドアの雪の中で、白い防護服の技術者たちが黒い石を一つずつ収めていた、あの箱だ。


(……掘る前から、入れ物が来てる)


 何が出るか、最初から分かっている。どれだけ出るかまで、たぶん計算されている。


(……また)


 バルドアの雪の下で、そばかすの少年が言った。


 ――おれ、たち、なんも、してない。


 ――やま、ほらないで。


 あの声が、二年経っても、まだ耳から離れない。


(また、先に来てる)


 掘る道具が、掘る理由より先に来ている。


 つまり、掘ることは最初から決まっていた。


 そして――掘る理由は、これから作られる。


 バルドアでは「襲撃事件」だった。


 セルバでは「商船の拿捕」だった。


 シキナでは、何になるのか。


 リヴィアは、窓から離れた。


 夜の港を歩きながら、彼女は考えていた。自分たちがここへ送られた理由を。


 ――失踪した三名の捜索。


 誰かが送り込んだ三人が、禁足地で消えた。そして、それを捜させるために黒翼が呼ばれた。


(何を、探させたいの)


(誰が、何を、私たちに見つけさせたいの)


 答えは、出なかった。




 宿に戻ると、部屋の灯りがまだついていた。


 アシュが、窓辺で煙草をふかしていた。


「……どこ行ってた」


「散歩」


「嘘つけ」


 彼は、煙を吐いた。


「倉庫街だろ。……俺も、夕方に見てきた」


 リヴィアは、少し驚いた。


「見た?」


「箱の日付な」


 アシュは、窓の外を見たまま言った。


「バルドアと同じだ。……何回目だよ、これ」


「……三回目」


「三回目か」


 彼は、笑わなかった。


「なあ、隊長」


「なに」


「俺たち、何回同じもん見せられりゃいいんだ」


 答えられなかった。


「……俺、二年前まではさ」


 アシュは、煙草を灰皿に押しつけた。


「命令が汚くても、現場さえ真っ当なら、それでいいと思ってた。俺は撃つだけ、隊長は指揮するだけ、上の思惑は上の話だってな」


「…………」


「でも、リーダーが死んで、それが『開戦の口実』に使われて。……もう、そういう言い訳が効かなくなった」


 彼は、リヴィアを見た。


「あんたはどうすんだよ」


「……分からない」


 リヴィアは、正直に答えた。


「でも、見なかったことにはしない」


「……そうかよ」


 アシュはそれだけ言って、寝台に転がった。


 しばらくして、彼は付け加えた。


「……新人には、まだ言うなよ」


「言わない」


「あいつ、まだ信じてるからな。軍のことも、この国のことも」


 彼の声は、少しだけ優しかった。


「……信じてるうちは、信じさせてやれ」


【鳥居の下で】


 宿に戻る途中、丘の上の鳥居の脇を通った。


 港を見下ろす、朱塗りの小さな鳥居。禁足地のものとは別の、集落の社だ。


 そこに、人影があった。


 ミーナレイだった。彼女は社の前に立って、動かずにいた。


「……何してるの」


「あっ、隊長」


 彼女は、慌てて振り返った。


「その、散歩です。あの、眠れなくて」


「……そう」


 リヴィアは、隣に並んだ。


 眼下に、港の灯りが見える。軍用艦の輪郭が、月明かりに光っていた。


「……祖母の家、聞いてきました」


 ミーナレイが、ぽつりと言った。


「宿の人に。……名前を言ったら、知ってました。この島、狭いので」


「行ったの」


「行きました。……家の前まで」


 彼女は、社の柱に手を触れた。


「戸を叩けませんでした」


「…………」


「窓から、灯りが見えて。中に人がいるのが分かって。……それで、あたし、自分の格好を見たんです」


 黒い軍服。銀の双翼章。


「これで訪ねて、なんて言えばいいのか、分からなくて」


 彼女は、笑おうとして失敗した。


「『あなたの娘の子です。今、この島を占領している国の、軍人です』……って?」


 リヴィアは、言葉を探した。見つからなかった。


 しばらく、二人は港を見下ろしていた。


「……ミーナレイ」


「はい」


「今すぐじゃなくていい」


「え?」


「今すぐ会わなくていい。……でも、いつか会えるようにしておきなさい」


 リヴィアは、港の灯りを見たまま言った。


「会いたい人が生きているうちに、会えなかった人を、私は何人か知ってるから」


 ミーナレイは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「……はい」


 風が、社の鈴を鳴らした。


 その音が、なぜか、硝子の鈴の音に少しだけ似ていた。




 二人が丘を降りた後。


 社の反対側の暗がりで、人影が動いた。


 黒い外套。フードの下から、銀色の髪が一筋こぼれている。


 彼女は、遠ざかる二つの背中をしばらく見ていた。


 それから、視線を港の倉庫街へ移した。


 ――削岩機。三十基。


 彼女の任務は、それを止めることだった。


 薄氷色の瞳が細くなる。


「……また、あなた」


 カリン・ユエルは、それだけ呟いて闇に溶けた。



【二キロ】


 同じ頃。


 宿の裏手で、ネロは一人、端末を開いていた。


 画面には、今日一日の記録が並んでいる。禁足地の測定値。鳥居の位置。失踪した三名の配置記録。土壌のデータ。遺留品の環。


 彼は、それを一つの短い報告にまとめた。文面は、事務的だった。


『北西部・禁足地にて広域の魔素異常を確認。測定不能域。


 地元伝承に「翁」の存在。人物か概念か不明。


 失踪者三名は同区域に意図的配置の可能性。配属前の経歴、駐留部隊の綴りに記載なし。


 遺留品に金属製の環が三個。留め具・継ぎ目なし。内側に刻印。用途不明。要照会。


 資源調査団、縦坑掘削中。土壌魔素濃度、周辺比マイナス四十パーセント。


 禁足地座標――』


 彼の指が、そこで止まった。


 正しい数字は、頭に入っている。今日、自分で三度測った。


 ……。


 彼は、東へ二キロずらした数字を打った。


 なぜそうしたのか、自分でもうまく説明できなかった。


 二キロ東は、海に面した崖の上だ。杉も、鳥居も、山もない。誰が来ても、そこには何もない。


(……ただの、打ち間違いだ)


(あとで訂正すればいい)


 訂正するつもりは、なかった。


 送信。


 ――受信確認が、来なかった。


 いつもは、一分と待たずに短い応答符号が返る。二年間、一度も遅れたことがない。


 ネロは、端末を膝に置いたまま待った。


 五分。十分。三十分。


 宿の障子から、明かりが漏れていた。中では、ミーナレイが「明日こそ祖母の家に行きます!」と宣言し、リズが「じゃあ付き合ってあげる」と笑っている。


 ネロは、その声を聞きながら、暗い庭に座り続けた。


 一時間経った。


 応答は、来なかった。


 彼は端末を閉じて、立ち上がった。膝の裏が、痺れていた。


(……僕は、隊を守ってる)


 二年間、唱え続けている言葉だった。


 唱えるたびに、少しずつ意味が薄くなっていく気がした。


 ――翌朝、端末を開くと、応答符号は届いていた。


 受信時刻は、送信の四十秒後になっていた。




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