守れなかった夜
【同じ夜、隊舎で】
その晩、黒翼の隊舎で、訓練場の魔導灯が一列だけ点いていた。
リヴィアは、床の中央で片膝をついていた。
三度目だった。
前より、溜まった。八倍を越えて、九倍の手前で刃の先が破けた。放射状の罅が、床石に前回より広く走っている。壁の減衰装置が、また二台、ランプを割った。
左手の感覚が戻るまで、今度は七秒かかった。
彼女は立ち上がり、破片を拾い集めて備品箱に入れた。今月、三度目だった。整備班のジンが、そのうち何か言ってくるだろう。
訓練場を出て、廊下の窓から外を見た。
中層区の方角の空が、うっすらと明るい。火事だろうか、と思った。
消防の鐘は、鳴っていなかった。
リヴィアは窓を閉めて、自室へ戻った。
【密告】
その手紙が届いたのは、深夜零時を回った頃だった。
軍務省の執務室で、グレイはまだ書類の山に埋もれていた。
扉の下から、白い封筒が差し込まれた。足音は、しなかった。
封を切ると、便箋が一枚。印刷されたような、癖のない筆跡。
『今夜 ヴェイン邸』
それだけだった。
グレイは、椅子を蹴って立ち上がった。
――正規の手続きを踏めば、憲兵の出動には最低でも二時間かかる。
――特務課の緊急招集は、記録に残る。記録に残れば、上に伝わる。
そして黒翼を呼べば。
(……あいつらが、消される)
二年前、レムナスへ送られた五人。あれが偶然ではないと知っている以上、同じ轍は踏めない。
彼は軍服を脱ぎ、黒い外套を羽織った。
武器は、持たなかった。持つ必要が、なかった。
【裏庭】
ヴェイン邸は、帝都中層区の外れにある古い屋敷だった。
石垣。手入れの行き届いた庭。二階建ての洋館。窓には、まだ灯りがついている部屋が一つ。
グレイは、裏の生垣を音もなく越えた。
――そして、足を止めた。
裏庭の芝の上に、既に先客がいた。
二つの影。
一つは、大きい。二メートルを超える巨躯。左腕に扉のような大盾。
もう一つは、黒い衣を纏った女。顔に、白磁の仮面。三日月の微笑が、月光に照らされていた。
「…………」
三者が、動かなかった。
夜露の落ちる音が聞こえるほどの静寂。
最初に口を開いたのは、仮面の女だった。
「――あら」
鈴を転がすような声。
「あの時の、炎の人ね」
「……お前たちが、なぜここに」
「その質問、そっくり返すわ」
ノーチェが、小首を傾げた。
巨躯の男――ヴォルク・レムディアは、口を開かなかった。ただ、大盾を持つ手に力を込めた。
空気が張り詰める。
屋敷の正面から、硝子の割れる音がした。
続いて、短い悲鳴。護衛のものだ。
三人が、同時に顔を上げた。
二階の廊下に、灯りが走る。複数の足音。
「……六人」
ヴォルクが低く言った。
「いや、八人だ。裏に二人回っている」
「あら、正確ね」
「…………」
グレイは、屋敷を見上げた。
寝室は二階の東端。書斎はその隣。護衛は四人。もう、機能していない。
彼は、二つの影を見た。
目の前の二人は、指名手配中のテロリストだ。二年前、彼の部下を殺した組織の幹部だ。
「……確認する」
グレイは、短く言った。
「お前たちの目的は、暗殺か」
「まさか」
ノーチェが肩をすくめた。
「あの人が死んだら、私たちが一番困るのよ。……議会で唯一、まともなことを言う人だもの」
「…………」
「そちらこそ、殺しに来たんじゃないの?」
「違う」
「あら。信じていいのかしら」
「信じなくていい」
グレイは、屋敷を見上げたまま言った。
「ただ、事実だけ言う。……俺が来た理由は、密告の手紙が届いたからだ。差出人は不明」
「へえ。……私たちもよ」
ノーチェの声から、少しだけ軽さが消えた。
「三日前。うちの伝書箱に、紙が一枚。『ヴェイン議員が狙われている』とだけ」
グレイの眉が動いた。
「……誰かが、両方に流したということか」
「そうなるわね」
「なぜ」
「さあ。……でも、悪意なら、こうはしないでしょう?」
二階で、また硝子が割れる音がした。
時間が、ない。
「――決めよう」
グレイは、二つの影を見た。
「今夜だけだ。この屋敷を出たら、また元通りでいい。……だが今は」
「――今は、あの老人を死なせない」
ヴォルクが、初めて口を開いた。地響きのような、短い一言だった。
「それでいいな、ノーチェ」
「あら、あなたが決めるの」
「決めた」
巨躯の男は、大盾を担ぎ直した。
仮面の女は、少しだけ笑ったようだった。
「――今夜は、休戦にしましょ」
【幻の屋敷】
刺客たちは、訓練されていた。
二人一組で部屋を潰し、無駄口を叩かず、退路を確保しながら進む。軍のやり方だった。
三人目の護衛を沈めた班長格の男が、二階の廊下へ出た瞬間。
――りん。
どこかで、硝子の鈴が鳴った。
「……?」
廊下が、伸びた。
いや、伸びたように見えた。十歩で終わるはずの廊下が、三十歩歩いても終わらない。突き当たりの扉に辿り着くと、そこは今しがた出てきた階段室だった。
「おい、こっちは……」
「馬鹿な、俺は真っ直ぐ来たぞ」
りん、りん。
鈴が笑う。
壁の絵画が、いつの間にか増えていた。窓の外の月が、二つあった。開けた扉の向こうに、同じ扉があった。
「幻術だ! 落ち着け、幻術士がいる!」
班長が叫ぶ。
「壁伝いに行け! 壁は嘘をつかない!」
――正しい判断だった。
だから彼らは、壁伝いに進んだ。
やがて、唯一の実在の通路へ辿り着いた。
書斎の前の、短い廊下。
そこに、男が立っていた。
大盾を床に据え、通路を完全に塞いで。
「――ここは、通さん」
地響きのような声。
「どけ! 我々は――」
「知っている」
ヴォルクは言った。
「憲兵隊特務室。……私服で来るなら、せめて靴を変えろ。官給品だ」
男の顔が引きつった。
「――やれ!!」
三人が同時に踏み込んだ。剣が、大盾に叩きつけられる。
――びくとも、しなかった。
盾の縁のルーンが灯り、衝撃が横へ流れて、廊下の壁を砕く。
ヴォルクは、戦鎚を振らなかった。
ただ、一歩、前に出た。
それだけで、三人が押し戻された。
「……なんだ、この馬鹿力は……!」
「二年前、もっと若いのが同じことを言った」
巨躯の男は淡々と言った。
「あの時も、通さなかった」
――そして、彼は気づいていた。
自分が塞いでいるこの通路は、幻術で「唯一の実在」として残された道だ。
女が幻を張り、自分が塞ぐ。打ち合わせは、していない。それなのに、噛み合っている。
庭の方から、炎の気配が上がった。逃げようとする者を、外へ出さない網。
――三方向から、閉じている。
(……面白くない)
ヴォルクは、奥歯を噛んだ。
(帝国の犬と、こうも噛み合うのは、面白くない)
【炎の網】
庭では、別の戦いが起きていた。
屋敷から逃げ出そうとした刺客が、生垣の手前で足を止める。
――炎が、そこにあった。
地面に。塀の上に。木の枝に。
燃えているのではない。灯っているのだ。等間隔に、正確に、庭の外周をぐるりと囲んで。
「なん……」
男が振り返る。
庭の中央に、黒い外套の男が立っていた。手も上げていない。詠唱もしていない。ただ、そこに立っている。
「……逃げ道が、欲しいか」
グレイは言った。
「教えてやる。ここには無い」
男が、短剣を投げた。
刃が、グレイの三歩手前で――止まった。空中で赤く灼けて、落ちた。
「……ば、化け物か……」
「質問に答えろ」
グレイは、一歩前に出た。
「誰の指示だ」
「……っ」
「言えば、生かす」
男が迷った。
迷った時間が、命取りだった。
彼の胸元で、何かが小さく光った。
「――待て!」
グレイが手を伸ばした時には、遅かった。
男の顎の下で、小さな爆発が起きた。仕込み。自決用の術式だ。
崩れ落ちる体を見下ろして、グレイは奥歯を噛んだ。
「……そこまで、徹底してるか」
【老人】
騒ぎが収まったのは、明け方の少し前だった。
刺客八名。うち五名が自決、三名が戦闘不能。だが生き残った三名も、口を割る前に舌を噛もうとして取り押さえられた。
証人は、残らない。
――そして。
書斎の扉が、内側から開いた。
「……ふむ」
杖をついた老人が、寝間着のまま出てきた。
白い髭。深い皺。曲がった背。
その目は、驚くほど澄んでいた。
彼は廊下の惨状を一瞥し、それから大盾の巨漢を見上げた。まったく、動じなかった。
「賑やかだと思ったら。……これは、これは」
「ヴェイン翁。下がっていてください」
庭から回り込んできたグレイが言うと、老人は目を細めた。
「……君は。アークライト中佐か」
「はい」
「ふむ」
老人は、しばらくグレイを眺めた。
「……犬では、なかったようだな」
「…………」
「三度も追い返して、悪かった」
彼はそれから、仮面の女と巨漢を見た。
白磁の仮面。大盾。どちらも、この国の指名手配書に載っている姿だ。
老人は、笑った。
「なるほど。革命軍か」
「あら。怖くないの、おじいさま」
「七十三年生きた。今更、何が怖い」
ノーチェが、くすりと笑った。
「面白い夜だ」
老人は、杖で床を軽く突いた。
「帝国の中佐と、革命軍の幹部が、同じ廊下で同じ老いぼれを守っている。……こんな夜は、初めてだ」
「今夜だけです」
グレイが言うと、老人は首を振った。
「――若いの」
彼は、三人を順に見た。
「覚えておきなさい。……敵と味方は、線を引くものではない」
「…………」
「気づけば、同じ側に立っている。それだけのことだ」
誰も、言い返さなかった。
老人はそれから杖をつき直して、グレイの方へ二歩、近づいた。
小声だった。他の二人には届かない距離。
「……アークライト中佐」
「はい」
「陛下のことを、頼めるか」
グレイの息が、止まった。
「……陛下、とは」
「とぼけるな。……君は、二年前から老侍従に接触しておるだろう」
老人の目が、鋭くなった。
「あの方は、ずっと一人だ。……わしが死ねば、本当に一人になる」
「翁、そんな話は――」
「聞け」
杖の先が、床を軽く突いた。
「あの方は、聡い。全部ご存じだ。……ご存じで、十四年、黙っておられる」
「…………」
「いつか、あの方が声を出す日が来る。……その日、あの方を生かしておける者が、必要だ」
グレイは、応じられなかった。
老人は、それきり背を向けた。
「……年寄りの世迷い言だ。忘れてくれてもいい」
夜明けの庭で、三人は向き合った。
東の空が、白み始めている。
「……今日のことは、報告しない」
グレイが言った。
「奇遇ね。私たちもよ」
ノーチェが、仮面の下で答える。
しばらく、沈黙が落ちた。
「……なあ」
初めて、ヴォルクが自分から口を開いた。
「その炎」
「…………」
「五年前、南の戦線で見た」
グレイの肩が、動いた。
「あの時のお前は、もっと雑に燃やしていたがな」
「…………」
「腕を上げたな。……いや」
巨躯の男は、少し考えるように言った。
「――丁寧に、なった」
グレイは、応じなかった。ヴォルクも、それ以上は聞かなかった。
二人は背を向けて歩き出す。
その途中で、ノーチェが振り返った。
「――ねえ」
「なんだ」
「あなた、あの子の上官よね」
仮面が、少しだけ傾いた。
「黒い閃光の」
グレイの目が細くなった。
「……それがどうした」
「あの子に、伝えて」
彼女は、いたずらっぽい声で言った。
「うちの銀髪が、ずーっと不機嫌なの。……二年間、ずっとよ」
「……意味が分からん」
「分からなくていいわ」
ノーチェは、ひらひらと手を振った。
「じゃあね、炎の人。……あなた、思ったより悪い人じゃなかったわ」
二つの影は、朝靄の中に消えた。
グレイは、しばらくその場に立っていた。
庭の炎は、いつの間にか、すべて消えていた。
【一週間後】
その報せは、昼過ぎに届いた。
エレナが、書類を持つ手を止めて執務室に入ってきた。
彼女は、扉の前で一度立ち止まった。いつもは、そんなことをしない。
「……中佐」
「なんだ」
「ヴェイン議員が」
グレイは、顔を上げた。
「登院途中、馬車の車軸が破損したそうです」
エレナの声は、いつも通り平坦だった。平坦すぎた。
「坂道でした。……御者も、即死です」
部屋が、静まり返った。
グレイは立ち上がった。
「……現場は」
「既に、片付けられています」
「片付けられて? 三時間で?」
「……はい」
彼は、机の上のペンを取ろうとして――手が、止まった。
指が、震えていた。
「……中佐」
「行く」
「もう、何も残っていません」
「行く」
現場は、中層区へ上がる長い坂だった。
石畳に、車輪の擦った跡が残っている。その先の石壁に、深い衝突痕。
それだけだった。
馬車の残骸は撤去され、血も洗い流され、通行は既に再開されていた。人々が、何事もなかったように坂を上り下りしている。
グレイは、衝突痕の前に立った。石壁を、指でなぞる。
(……八人)
あの夜、八人を退けた。一人も通さなかった。老人には、傷ひとつ負わせなかった。
それが、一週間しか保たなかった。
――正面から殺せないなら、事故にすればいい。
誰も悪くない。誰も責任を取らない。車軸が、たまたま折れただけ。
(……守った意味は、なんだ)
彼は、拳を石壁に押し当てた。
力を込めても、石は動かなかった。
【宛先のない手紙】
その夜、執務室の灯りは明け方まで消えなかった。
エレナが珈琲を置いて、何も言わずに出ていく。
グレイは、しばらく机に突っ伏していた。
――どれくらい、そうしていたか。
彼は顔を上げた。
引き出しから、便箋を一枚取り出した。二重底の、その上の段から。
ペンを取る。しばらく、白紙を見つめていた。
書くべきことは、山ほどある。二年前のレムナス。カラムの死。命令の出所。バルドアの鉱石。セルバの船。エルデナの謀略。
全部、伝えなければならない。
――だが、最初の一行は、驚くほど簡単に出てきた。
『先日は、助かった』
ペン先が、少し止まる。
それから、彼は続けた。
『あの後、翁は死んだ。事故として処理された』
『八人を止めて、一人の老人を守った。……一週間しか保たなかった』
『俺は、これ以上、一人でやる意味を見出せない』
彼は、そこで一度ペンを置いた。
窓の外は、まだ暗い。帝都の灯りが、いつも通り瞬いている。
この街のどこかに、あの二人がいる。
そして――あいつが、いる。十年前、燃える広場で背中を見送った男が。
グレイは、ペンを取り直した。
『一度、話がしたい』
『――グレイ・アークライト』
最後に名を書いて、彼は封をした。
宛先は、書かなかった。どこへ送ればいいのか、分からなかったからだ。
――だが、方法はある。
あの女は、こちらを見ていた。こちらの隊員のことまで知っていた。なら、向こうから接触してくる道は、既にある。
彼は封筒を胸に入れ、外套を取った。
夜明け前の街へ出る。
時計店ヴェスパー。止まった時計に囲まれた、あの二階。あそこに置いておけば、いつか、誰かが取りに来る。
――そんな確信が、なぜかあった。
石畳を歩きながら、グレイは思った。
(……カラムさん)
二年前、あなたを守れなかった。
(今度も、守れませんでした)
冷たい風が、外套の裾を煽った。
(でも、もう一人ではやりません)
東の空が、わずかに白み始めていた。
その週、リヴィアが軍務省へ出した面会の申し込みに、返事が来た。
秘書官の筆跡だった。
『中佐は、当面、時間が取れません』
リヴィアはその紙を二度読んで、机の引き出しに入れた。




