駐留協定
【初陣】
任務が下りたのは、視察随行から四日後だった。
帝都近郊、第十七武器庫の連続盗難。手口から見て、内部の見取り図を知る者が関与している――摘発と捕縛。
「……盗難団の摘発」
命令書を読み上げたリヴィアの声に、部屋の空気が微妙に緩んだ。
「まあ、倉庫の在庫確認よりはマシね」
「マシっつーか、憲兵の仕事だろこれ」
アシュが背もたれに寄りかかる。
「はいっ! あたし、頑張ります!」
ミーナレイだけが、目を輝かせていた。
夜。第十七武器庫、東棟。
月のない晩を選んだのは、向こうも同じだった。
『――来ました。三人。裏口から』
ネロの声が、耳の通信機に届く。
『いえ、四人です。一人、外に見張り』
「リズ、外の見張りを。アシュは正面を塞いで。……ミーナレイ」
「はいっ!」
「私と一緒に、裏口から入る。……相手は魔導士じゃない。落ち着いて」
「了解しました!」
――結論から言えば、任務は五分で終わった。
裏口から侵入した二人が中の三人を制圧し、逃げた一人をリズが屋根から捕まえた。
ミーナレイの初陣は、悪くなかった。
彼女が刀を抜いた瞬間、鞘走りに合わせて刃を水が這った。斬らずに、水を纏った峰で相手の得物を叩き落とす。振り向きざま、左手から水の鞭が伸びて、二人目の足を払った。三人目が棍棒を振り下ろすと、彼女の前に薄い水の膜が張られ、衝撃が横へ流れて逸れた。
「そこっ!」
膜を割って踏み込み、柄頭で鳩尾。
技術は粗い。動きに無駄も多い。
でも――速かった。考えてから動くのではなく、体が先に答えを出している。
リヴィアが気づいたのは、もう一つ。
彼女は、一度も刃を返さなかった。
水を纏わせたのは威力を上げるためではなく、斬らないためだ。刃の側を敵に向けないよう、抜いた瞬間から手首が固定されていた。
誰かに、そう教わったのだろう。
「……ミーナレイ」
「はいっ!」
「刀、誰に習ったの」
「母です! あ、母は剣術の家の生まれで……でも、家はもう、ないんですけど」
彼女は、あっけらかんと言った。
「『刀は人を斬るためのものだから、斬らずに済ませられるなら、それが一番強い』って」
リヴィアは、少しだけ黙った。
「……いいお母さんね」
「はいっ!」
「……筋はいいのよ、この子」
あとでリズが、そう評した。
【痩せた手】
捕らえた四人を、リヴィアは倉庫の灯りの下で見た。
――全員、痩せていた。
服は継ぎ接ぎで、靴は底が抜けかけている。一番若いのは、ミーナレイと変わらない年に見えた。
盗まれたのは、武器ではなかった。
保存食と、毛布と、ランプの油。武器庫の隅に積まれた、軍の余剰物資だ。
「……なんで、こんなものを」
リヴィアの問いに、一番年嵩の男が鼻で笑った。
「配給が、半分になった」
「…………」
「小麦も、油も。全部『前線優先』だとよ。……あんたら軍人様は、ちゃんと食ってんだろ」
誰も、応じなかった。
「うちの子供が、冬に一人死んだ。……今年もそうなるくらいなら、盗んで捕まった方がマシだ」
男は、それきり黙った。
倉庫の入口から、平坦な声がした。
「――盗難品目、確認しました」
ネロだった。彼は端末を見たまま、淡々と読み上げた。
「保存食二十四箱、毛布六十枚、灯油缶十二。……被害総額、およそ四百ルーメル。窃盗の常習性が認められるため、量刑は最低でも懲役五年です」
「ネロ」
「事実の確認です」
彼は、顔を上げなかった。
「感傷は、記録に残せません」
男が、掠れた声で笑った。
「……そりゃそうだ」
憲兵に引き渡す間、ミーナレイは一言も喋らなかった。
帰りの車の中で、彼女はようやく口を開いた。
「……あの」
「なに」
「あの人たち、悪い人、ですよね」
声が、小さかった。
「……盗みは、罪よ」
「はい。それは、分かります。分かるんですけど」
彼女は、膝の上で拳を握った。
「あの人、子供が死んだって……」
「…………」
「悪い人が、悪いことをして、あたしたちがそれを止める。……そういうものだと、思ってました」
車の中で、しばらく誰も口を開かなかった。
アシュが窓を開けて、煙草に火をつけた。
リズが、少し間を置いてから言った。
「……そうね」
それだけだった。
ミーナレイは、その「そうね」の意味を、たぶんまだ理解できていない。
いつか理解する日が来る。
――来なければいいのに、とリヴィアは思った。
【十一の印】
三日後、軍務省の面会室。
リヴィアの向かいに、グレイが座っていた。
「――新人はどうだ」
「うるさい。よく食べる。物覚えはいい」
「そうか」
「……この前、盗難団を捕まえたの。飢えた市民だった」
グレイの手が、書類をめくる途中で止まった。
「……そうか」
「あの子、混乱してた。悪い人が悪いことをして、それを止めるものだと思ってたって」
「……真っ当な感覚だ」
「そうね。……真っ当すぎて、心配になる」
グレイは、少しだけ笑った。
それから、机の上に地図を広げた。
大陸全図だった。軍の制式図ではない。市販の商用地図に、手書きで書き込みがされている。折り目が四箇所、白く擦り切れていた。何度も広げては畳んだ紙だ。
赤い印が、十一。
リヴィアは、それを目で辿った。
北のグラルド国境沿いに二つ。西の港湾都市同盟に三つ。南の旧レムナス周辺に四つ。東方に二つ。
順に繋いでいくと、線は大陸の外周をなぞった。内側には、一つもない。
「……なにこれ」
「この二年で、帝国が『友好駐留協定』を結んだ国だ」
グレイは、地図の脇に薄い冊子を置いた。
『友好駐留協定・標準条項 第七版』
軍務省の罫紙に刷られた、十二頁ほどの冊子だった。角が丸くなっている。
リヴィアは、目次から本文へ飛んだ。
第三条。駐留に要する経費は、受入国の負担とする。
第五条。軍港および鉄道の使用について、帝国軍は優先権を有する。
第九条。駐留部隊構成員の犯した罪は、受入国の裁判権に服さない。
第十四条。本協定の破棄には、帝国議会の議決を要する。
彼女は、第十四条を二度読んだ。
「……破棄に、こっちの議会の承認が要るの」
「そうだ」
「じゃあ、向こうは自分で抜けられない」
「入り口はあるが、出口がない」
グレイの声は平坦だった。
「そういう契約だ」
部屋が、しばらく無音になった。
リヴィアは、冊子を閉じて表紙を見た。第七版。七度、書き直されている。
「……断った国は?」
「二つある」
彼は、地図の西端と、北を指した。
「西のメルカ港湾同盟のうち、一都市が拒否した。……三ヶ月後、親帝国派の議会が成立した。前の議長は、暴徒に襲われて死んだそうだ」
「暴徒」
「そう報告されている」
グレイは、次の印を指した。
「北のオズホルン公国も拒否した。……こっちは、経済封鎖だ。鉄道の乗り入れ停止、輸出品の関税を四倍。三ヶ月後、公爵が自ら帝都へ来て、協定書に署名した」
「……三ヶ月」
「どちらも三ヶ月だ。偶然じゃない。……最初から、そういう期間で計算されてる」
リヴィアは、地図を見つめた。
十一の赤い印。
どれも、戦争ではなかった。誰も宣戦布告していない。砲声も上がっていない。
それなのに、大陸の外周が確実に帝国の色に染まっていく。
「……これ、なんて呼べばいいの」
「征服だ」
グレイは、あっさりと言った。
「ただ、血が出ないだけだ。……その方が、外聞がいい」
【最後の一人】
「――で。ここからが本題だ」
グレイは地図を畳んで、別の書類を出した。議会名簿の写しだった。
「元老評議会。定数百二十。……そのうち、軍拡に公然と反対しているのは、今、九名だ」
「九人」
「二年前は、三十四人いた」
リヴィアの喉が鳴った。
「減った二十五人は?」
「引退が十二。転向が九。……残る四人は、死んだ」
「……死因は」
「病死、事故死、事故死、病死」
グレイは、名簿の一点を指した。
「そして、この九人の中心にいるのが、この人だ」
『セドリック・ヴェイン 七十三歳 元老評議会・最古参議員』
「……ヴェイン」
「先代皇帝の、侍従長だった人だ」
グレイの声が、少し変わった。
「先代陛下が崩御された時、玉座の間にいた最後の一人。そして、今の陛下の後見人でもある」
「後見人……」
「陛下が即位されたのは、十六歳の時だ。あの方を政治的に守ってきたのが、ヴェイン翁だ」
リヴィアは、名簿の名前を見つめた。
七十三歳。この国で最も長く、玉座の近くにいた男。
「その人は、味方になるの?」
「分からん」
グレイは、正直に言った。
「二年、接触を試みてきた。……全部、門前払いだ」
「なんで」
「『若いの、君が誰の犬か分からんうちは、話すことはない』」
彼は、老人の口調を真似た。
「……手厳しいわね」
「正しい判断だよ。あの歳まで、あの場所で生き残るには、それくらいの慎重さがいる」
グレイは、少し間を置いてから続けた。
「一度だけ、正面から言ったことがある。……『私は、エルデナの生き残りです』と」
「……なんて返ってきたの」
「『では、なぜ帝国の軍服を着ている』」
リヴィアは、返す言葉を失った。
「……それで?」
「答えられなかった。……あの場では、な」
グレイは名簿を閉じた。
「だが、あの人が生きている限り、議会は完全には染まらない。……先代を知る人間が、まだ一人、あの議場に座っている。それだけで、抑止になる」
「どういうこと?」
「議員たちは、あの人の顔色を窺うんだ。無意識にな」
彼は、机の上で指を組んだ。
「三十年前、この国には『強い皇帝』がいた。議会は、その下で動いていた。……当時を知る人間が議場にいる限り、若い議員は『あの頃はどうだったか』を意識せざるを得ない」
「記憶が、抑止になってるってこと」
「そうだ。……だから」
グレイの声が低くなった。
「あの人が死ねば、記憶が消える。……議会は、完全に自由になる」
【増える影】
会合の終わり際、グレイがもう一枚、紙を出した。
簡素な一覧表だった。日付と、時刻と、場所と、人数。手書きで、筆跡が三種類混ざっている。
「なにこれ」
「ヴェイン邸周辺での、不審な人物の目撃記録だ。俺が個人的に集めさせている」
リヴィアは、日付を追った。
三ヶ月前――月に二件。
二ヶ月前――五件。
先月――十一件。
今月は、まだ半ばなのに、九件。
「……増えてる」
「増えてる」
「これ、警備は」
「屋敷の警備は、私設の護衛が四人だけだ。……本人が、それ以上要らんと言っている」
「なんで!?」
「『七十三年生きた。今更、怖いものはない』」
グレイは、また老人の口調を真似た。今度は、笑っていなかった。
「……グレイ。それ、本人に危機感がないだけじゃない」
「そうだな」
「軍から警護を出せないの」
「出せない」
彼は、紙を仕舞った。
「軍から護衛を出すには、正式な脅威認定が要る。……申請は、参謀本部で止まる」
「止まるって……」
「三回、出した。三回とも、『脅威の実態が不明』で差し戻された」
リヴィアは、言葉を失った。
止めているのが誰なのか。考えるまでもなかった。
⸻
## 【二重底】
面会室を出る間際。
グレイが、思い出したように言った。
「……リヴィア」
「なに」
「もし俺に、何かあったら」
「――やめて」
リヴィアは、扉に手をかけたまま振り返った。
「縁起でもないこと、言わないで」
「聞け」
彼の声は、抑えられていた。
「聞くだけでいい。……執務室の机の、一番下の引き出しだ」
「…………」
「底が、二重になってる」
リヴィアの背中がこわばった。
「十年分ある。エルデナのこと、バルドアのこと、セルバのこと、レムナスのこと。……全部だ」
「……なんで、今それを言うの」
「知ってるのが俺一人だと、俺が死んだら終わるからだ」
あまりに事務的な言い方だった。だからこそ、彼が本気だと分かった。
「……グレイ」
「なんだ」
「……死なないでよ」
自分でも驚くほど、小さな声が出た。
グレイは少し黙ってから、口の端だけで笑った。
「善処する」
「善処って何よ」
「約束はできん。……それが正直なところだ」
リヴィアは、扉を閉めた。
廊下を歩きながら、彼女は思っていた。
二年前、あの人は「大丈夫だ」と言った。
今日は、言わなかった。
【夕食】
隊舎に戻ると、訓練場から掛け声が聞こえてきた。
ミーナレイが、一人で素振りをしていた。
もう日は落ちているのに、汗だくで、何百回目か分からない振りを繰り返している。
「……何してるの」
「あっ、隊長! その、昨日の動きが、遅くて」
「五分で終わった任務よ」
「でも! あの、最後の一人、リズ先輩に取られちゃったので」
彼女は、真剣な顔で言った。
「あたしが速ければ、隊長が動かなくて済みました」
リヴィアは、少し驚いた。
――そういう考え方をする子だとは、思っていなかった。
「……手の内、見せてみなさい」
「はいっ!」
三十分ほど、付き合った。
水の膜の張り方。刀身への纏わせ方。鞭の伸ばし方。
基礎はしっかりしている。ただ、魔力の使い方が贅沢すぎた。
「水の量が多い。……半分でいい」
「半分ですか?」
「膜は、受けるんじゃなくて逸らすもの。厚さより、角度」
「なるほど……!」
「あと、刀に纏わせる時。……刃の方じゃなくて、峰から流して」
「え、なんでですか?」
「その方が、切っ先まで水が乗る。……お母さんの教え方、間違ってはいないけど、非効率よ」
「うわ、隊長も『非効率』って言うんですね」
ミーナレイが、笑った。
「……誰かに言われたの」
「ネロ先輩に。報告書の書き方で」
彼女は、屈託なく言った。
「厳しいですけど、いつも正しいんですよ。だから、あたし、尊敬してます」
リヴィアは、返す言葉を選ばなかった。
食堂に着くと、既に賑やかだった。
黒翼の定位置に、五人分のトレイ。
「――で! ロデル要塞のあとは!?」
ミーナレイが、身を乗り出している。
「あー、そのあとはねえ」
リズが、パンをちぎりながら少し言い淀んだ。
「……色々あって、南の方に行ったのよ」
「南! レムナスですか!? 聖都を落とした戦い!?」
「……まあ、そう」
「すごい! あたし、その頃はまだ学校で……あっ、そうだ!」
彼女は、目を輝かせて言った。
「前の隊長さんって、どんな人だったんですか?」
――食堂の、その一角だけが静かになった。
アシュのフォークが止まる。ネロは、端末から目を上げなかった。リズの顔から、一瞬だけ笑顔が消えた。
「……いい人だったわよ」
短い答えだった。
「そうなんですか! やっぱり、すごく強い人だったんですよね!?」
「……そうね」
「あの、どんな戦い方を――」
ミーナレイは、そこで気づいた。
誰も、こちらを見ていない。
「……あ」
彼女は、口を閉じた。空気を読む程度には、賢い子だった。
「……すみません。あの、変なこと聞いて」
「変じゃないわよ」
リズは、無理やり笑った。
「……ただ、まだ、上手く喋れないだけ」
その夜、ミーナレイはもう、その話題を出さなかった。
リヴィアは、少し離れた席でそれを見ていた。
(……いつか、話さなきゃね)
あの人が、どんな声で笑ったか。何を口癖にしていたか。どんな順番で命令を出したか。
(新聞に載らなかったこと、全部)
でも、まだだ。まだ、言葉にできない。
【溜まらない】
消灯後、リヴィアは訓練場へ戻った。
誰もいない。天井の魔導灯を一列だけ点けて、床の中央に立つ。
二年、練っているものがあった。
黒閃は、線だ。斑は、その線を十二本に増やしただけだ。どちらも、当てる技術でしかない。
聖都の空を埋めた光槍は、当てる技術ではなかった。あれは、物量だった。物量には、物量でしか届かない。
――なら、溜める。
彼女はレイピアを抜き、切っ先を床と平行に構えた。
息を落とす。腹の底の扉を、いつもより深く開ける。
刃の先に、闇が凝り始めた。
黒閃を放つ時の三倍。四倍。切っ先の一点に、闇が押し込まれていく。周囲の空気が薄くなり、耳の奥が詰まった。魔導灯の光が、その一点に向かって曲がって見える。
六倍。
(……まだ)
七倍。
刃が、鳴き始めた。
(まだ)
八倍――
刃の先で、闇が破けた。
凝縮されていたものが、行き場を失って全方向へ弾けた。
訓練場が、暗くなった。
壁の減衰装置が三台、続けざまに悲鳴を上げて、ランプが割れる。天井の魔導灯の列が、端から順に消えた。床の石材に、放射状の細い罅が走っている。
リヴィアは、片膝をついていた。
肩で息をしながら、左手を見た。
――そこに、なかった。
いや。見えている。動いている。指を曲げれば、曲がる。
なのに、そこに在るという感じが、ない。他人の手を借りて動かしているような、薄い距離があった。
「……っ」
三秒。四秒。
感覚が、戻ってきた。指先から順に、体温が這い上がってくる。
リヴィアは、そのまま床に座り込んだ。
闇に手を出して、闇に手を持っていかれかけた。そういう感触だった。
二年前、ネロが見せてきた波形を思い出す。放っているのに、周りを吸い込んでいる。
――今のは、どちらを吸った。
答えの見当がついたので、彼女はそれ以上考えなかった。
立ち上がって、割れた減衰装置のランプを拾い集める。三台分の破片を、備品箱に入れた。整備班には、経年劣化で通るだろう。
誰にも、言うつもりはなかった。
(……絶空)
名前だけは、もう決めてある。
中身が、まだ追いついていない。
訓練場を出ると、窓の外で軍需工場の汽笛が鳴った。
夜通し、鉄が打たれている音が、隊舎まで届いていた。




