二年目の朝
【軍拡の街】
聖暦一〇三六年、春。
帝都レグニアの朝は、二年前よりずっと騒がしくなっていた。
中央駅の広場には、出征を見送る家族の列が毎日できる。母親が息子の襟を直し、幼い妹が泣き、父親が黙って肩を叩く。
その頭上に、巨大な垂れ幕が下がっていた。
『帝国の明日は、君の一歩から』
描かれているのは、顔のない兵士の影絵。二年前の募兵ポスターと、構図が同じだった。
ただ、黒い軍服だった影絵は、今は普通の歩兵の姿になっている。
――英雄が足りなくなったのだ、とリヴィアは思った。あるいは、英雄で釣る段階が終わったのか。
街は、二年で確実に変わっていた。
高架を走る列車は、半分が軍用になった。夜通し煙を吐く工場が増え、下層区の空は前より一段暗い。配給に並ぶ列も、長くなった。
小麦。油。金属製品。そして今月から、魔石。「戦時徴収」の札が貼られた店先で、主婦たちが値札を睨んでいる。
――それでも、街に不満の色は薄かった。
新聞は毎日、南方戦線の勝利を報じている。聖都レムナスは陥落し、大河ルーメルは全域が帝国のもの。次は、その先の小国群へ。
勝っている限り、人はあまり文句を言わない。
角の煙草屋の前で、老人たちが将棋を指しながら話していた。
「今度はどこと戦るんかね」
「さあな。地図で見ても、もう国の名前が覚えられん」
「そりゃあ、勝ちすぎだ」
笑い声。
リヴィアは、その前を通り過ぎた。
「――少尉! いえ、大尉!」
背後から、駆けてくる足音。
振り返ると、まだ制服に着られている感じの少女が、息を切らして立っていた。
肩までの茶色い髪。大きな目。腰に、拵えの古い刀。
「あの、その、本日付で黒翼分隊に着任いたしました、ミーナレイ・タチバナ・エルドと申します! 十八歳です! 魔刻は四刻です! よろしくお願いします!!」
直角の敬礼。声が、駅の広場に響き渡った。周囲の人々が、何事かと振り返る。
「……声、大きい」
「はいっ! 申し訳ありません! 声が大きいです!」
「…………」
リヴィアは、ため息をついた。
二年前、この隊に着任した日の自分を思い出す。黙って俯いて、一日中誰とも喋らなかった。
真逆だった。
「集合は〇八〇〇。隊舎の作戦室よ。……場所は分かる?」
「はい! 昨日、三回下見しました!」
「三回も?」
「はい! 迷うと大変ですので!」
まっすぐな目だった。濁りが、ひとつもない。
(……眩しいわね)
リヴィアは、少しだけ目を細めた。
【封蝋】
〇八〇〇、作戦室。
石炭ストーブは、もう季節外れで火が入っていない。
長机の上座に、リヴィアが座っていた。二年前、空席だった椅子だ。誰も座らなかったその椅子に彼女が座るまで、三ヶ月かかった。
卓上には、封蝋つきの茶封筒。
「――時間ね」
リヴィアは立ち上がり、封筒を手に取った。
封蝋には、特務課の双翼印。
彼女はそれを、全員に見えるように掲げてから――親指で、割った。
パキ、と乾いた音がした。
その所作を、ミーナレイが目を丸くして見ていた。
「あの、それは……」
「うちの決まり」
答えたのは、リズだった。
「命令書の封は、隊長が隊員の前で切る」
「なぜですか?」
「上から来た紙を、隊員に隠さない。……それだけの意味よ」
「なるほど!」
ミーナレイは、大きく頷いた。
リヴィアは、命令書に目を落とした。
視界の端で、ネロが手元の端末を見ているのが見えた。
彼は、顔を上げなかった。
⸻
朝の顔合わせは、それなりに賑やかだった。
「アシュ・バーンだ。……以上」
「はいっ! よろしくお願いします! あの、二丁拳銃って本当ですか!?」
「本当だ」
「かっこいい!!」
「…………」
アシュは、そっぽを向いた。耳の先が、少しだけ赤かった。
「リズ・カリード。風使い。あんたの教育係よ」
「よろしくお願いします、リズ先輩!」
「先輩はやめて。……あー、まあいいか。慣れるまでは付いてなさい」
リズは、少しだけ困ったように笑った。
二年前、この隊で一番新しかったのは彼女だった。いや、リヴィアが来るまでは。
――今は、自分が教える側にいる。
「その刀、珍しいわね。軍の支給品じゃないでしょ」
「はい! 母の形見です!」
あまりに明るい声だったので、リズは次の言葉を探した。
「……そう」
「はい!」
それ以上、ミーナレイは何も足さなかった。
「……ネロ・フェインです。解析と情報を担当します」
最後の一人は、短くそれだけ言った。
「よろしくお願いします、ネロ先輩! あの、僕は――あ、あたしは、水魔法で」
「知っています。四刻、水系、刀術併用。入隊試験の記録は読みました」
「え、読んでくださったんですか!?」
「情報担当ですから」
ネロは、それきり端末に目を戻した。
ミーナレイは少しきょとんとしていたが、すぐに「よろしくお願いします!」と敬礼した。
――リヴィアは、その一連を黙って見ていた。
(……ネロ)
彼は、有能になった。
二年前は報告書一つ書くのに三時間かかっていたのが、今は三十分で仕上げる。解析の精度も、判断の速さも、別人のようだ。
なのに。
なぜか時々、彼の目の焦点が、どこにも合っていない気がする。
「今日の任務は――」
リヴィアは読み上げた。
「北部第四工廠の、警備強化に伴う視察随行。以上」
「……はぁ?」
最初に声を上げたのは、アシュだった。
「視察の随行? うちが?」
「うちが」
「特殊工作部隊が、お偉いさんのお散歩に付き添うのかよ」
「そう書いてある」
リヴィアは命令書を畳んだ。
「三ヶ月前は倉庫の在庫確認。先月は式典の警備。……レムナスから帰って一年半、まともな前線任務はゼロよ」
「……なんでだよ」
「分からない」
実際、分からなかった。
危険な任務が回ってこない。前線から遠ざけられている。
――厄介払いなのか。それとも、温存されているのか。
どちらとも取れることが、一番不気味だった。
「あの!」
ミーナレイが手を挙げた。
「質問よろしいでしょうか!」
「どうぞ」
「黒翼分隊は、戦線を突破する部隊だと聞いています! ヴォルグ渓谷も、ロデル要塞も、黒翼が動かしたと!」
「……昔はね」
「では、いつになったら前線に出られますか!?」
部屋が、静まり返った。
アシュが、天井を仰いだ。
「……新人」
「はい!」
「前線ってのは、行きたくて行くもんじゃねえよ」
「え?」
「行かされるもんだ」
彼はそれだけ言って、椅子の背に体を預けた。
ミーナレイは、きょとんとしていた。意味が分からない、という顔だった。
――それが正しい反応だと、リヴィアは思った。
この子はまだ、戦争を知らない。誰も失っていない。
【二年】
視察随行は、退屈だった。
工廠の生産ラインを、太った文官が三時間かけて見て回るのに、後ろをついて歩くだけ。
その帰り道。
「――で! リズ先輩! 黒翼の武勇伝を!」
ミーナレイが、リズの腕にぶら下がっていた。
「あんた元気ね……」
「ロデル要塞の水の壁! あれ、どうやって破ったんですか!? あたし、新聞で読んで、それで軍に入ろうって決めたんです!」
「あー……あれね」
リズは、少しだけ困った顔をした。
「隊長が、壁の縫い目を見つけたのよ。それで、みんなで一斉に殴った」
「縫い目!? すごい! それって隊長の目が特別ってことですか!?」
「……まあ、そうね」
「あたし、隊長みたいになりたいです!」
その声が、少し前を歩いていたリヴィアの耳にも届いた。
彼女は、振り返らなかった。
(……なりたい、か)
二年前、あの水の壁を破った時。
隊には、あと一人いた。傷口が閉じる速さを、波動弾で潰し続けた男が。
――そのことを、この子は知らない。
新聞にも、教科書にも、募兵ポスターにも、彼の名前は「英雄カラム・ディート」としてしか載っていない。聖都の広場の碑には、いもしない十二人と交戦したと彫られている。
どんな声で笑って、どんな順番で命令を出して、何を口癖にしていたか。誰も、書いてくれなかった。
「――ミーナレイ」
「はいっ!」
「うちの隊の決まりを、もう一つ教えておく」
リヴィアは、歩きながら言った。
「――全員で、帰る」
「……はい?」
「それだけ。それが、うちの隊の方針よ」
「はいっ! 全員で帰ります!」
元気な返事だった。
その軽さが、少しだけ、救いだった。
夕方、隊舎に戻ると、格納庫からジンの怒鳴り声が聞こえてきた。
「ばっか野郎! そこの弁は逆だっつってんだろ!」
「す、すみません!」
「パイド! この新人、俺の機体に近づけんな!」
どうやらミーナレイは、整備班にも突撃したらしい。
リヴィアは、それを横目に自室へ向かった。
二年前と同じ、女子宿舎の角部屋。窓辺の鉢植えは、もう鉢を二度替えている。
壁の写真は、四枚に増えていた。
朝の食堂の一枚撮り。セルバの岸辺の、黒と紅の十人。去年の隊の集合写真、四人しか写っていないもの。そして、今朝ジンが勝手に撮った五人の写真。真ん中で、ミーナレイが敬礼している。
机の上には、封蝋の押し型。椅子の背には、サイズを詰めた革のベルト。
リヴィアは、ベルトを手に取った。
二年、毎日締めている。傷はさらに増えて、彼女自身の傷と区別がつかなくなってきた。
(……カラムさん)
彼女は、それを机に置いた。
(新人が、来ました)
窓の外で、夕陽が沈んでいく。
(うるさいですよ。あなたの隊、また、うるさくなります)
【夜の焼却炉】
同じ頃。
隊舎の裏手、廃棄書類の焼却炉の前に、一人の男が立っていた。
黒い軍服。眼鏡はない。前髪を上げた額に、夕闇の影が落ちている。
「――遅い」
ネロ・フェインの声だった。二年前の彼なら、決して出さなかった調子で。
「失礼。会議が長引きまして」
闇の中から、痩せた男が歩み出てきた。
灰色の背広。記章のない襟。年齢の読めない、のっぺりとした顔。
ハルヴァ・ゼーレン。大本営付・内務監察官。二年前、地下三階の小部屋でネロに書類を突きつけた男だった。
「では、今月分を」
ネロは、折り畳んだ紙を差し出した。
ゼーレンはそれを受け取り、一瞥もせずに内ポケットへ収めた。
「黒翼分隊の行動記録と、特務課内の人員異動。……それだけです。大した情報じゃない」
「大したものを求めていませんよ」
ゼーレンは微笑んだ。
「継続こそが価値です。……ああ、そうだ」
彼は、内ポケットから別の紙を一枚取り出した。
「先月分です。処分済みの記録」
ネロの喉が動いた。
それは、二年前に突きつけられた「証拠」の一枚だった。彼の端末から発信されたという、ありもしない通信記録。
毎月一枚ずつ、こうして返ってくる。
――全部返ってくるまで、あと何枚あるのか。
――そもそも、全部で何枚あるのか。
ネロは、聞いたことがなかった。
聞けば、答えが返ってくる。返ってきた答えを信じられる保証が、どこにもない。
彼は無言で紙を受け取り、焼却炉の口へ投げ入れた。炎が、それを一瞬で舐めた。
「――結構」
ゼーレンは満足そうに頷いた。
「ところで、フェイン准尉」
「なんですか」
「新任者が着任したそうですね」
ネロの手が、止まった。
「……ミーナレイ・タチバナ・エルド。十八歳。四刻。シキナ系の母を持つ」
「よくご存じで」
「人事は私の管轄ですから」
ゼーレンは軽く言った。
「シキナ系の隊員は、貴重です。……いずれ、役に立つかもしれない」
「……どういう意味です」
「深い意味はありませんよ」
男は笑った。目は、笑っていなかった。
「では、来月も。……ああ、それと」
立ち去りかけて、彼は振り返った。
「顔つきが、変わりましたね」
「…………」
「良い変化だ。以前の貴官は、いかにも隠し事が下手そうだった」
ゼーレンは、闇の中へ消えていった。
ネロは、しばらくその場に立っていた。
焼却炉の炎が、彼の顔を下から照らしている。
二年前、この炎の前に初めて立った時、彼は吐いた。
今は、吐かない。
――慣れた。
(……違う)
彼は、自分に言い聞かせた。
(僕は、隊を守ってる。それだけだ)
紙を渡す。証拠が減る。隊は無事でいる。それだけの、単純な取引のはずだった。
二年間、誰も傷ついていない。誰も死んでいない。
だから、これは裏切りじゃない。
(……そうだろ?)
炎が、書類の灰を巻き上げた。
【非効率】
隊舎に戻ると、廊下でミーナレイと鉢合わせた。
「あっ、ネロ先輩! お疲れさまです!」
彼女は、両手いっぱいに書類を抱えていた。
「……それ、何」
「今日の視察報告書です! あたし、書いてみました!」
差し出された紙を、ネロは受け取った。三十秒で、目を通す。
「――やり直し」
「えっ」
「時系列が整理されていない。工廠の生産数値が概算のまま。それと、結論が最後にある」
「け、結論は最後じゃないんですか?」
「読む側の時間を無駄にする。結論を先に書いて、根拠を後ろに置く」
彼は書類を突き返した。
「その書き方、非効率です」
「……あ」
ミーナレイの顔が、少ししぼんだ。
「はい……すみません。書き直します」
「三十分でできますね」
「……はい!」
彼女はまた元気よく敬礼して、走っていった。
ネロは、その背中を見送った。
(……正しいことを言った)
実際、正しかった。
二年前の自分なら、あんな書き方でも「すごいですね」と言ったかもしれない。言って、相手を無駄に喜ばせて、次も同じ間違いをさせただろう。
今の自分の方が、有能だ。
――なのに、口の中に鉄の味が残った。
「――ネロ」
廊下の反対側から、リズが歩いてきた。
「今の、ちょっと言い方きつくない?」
「事実を言っただけです」
「そうだけどさあ。あの子、初日よ?」
「初日だから正すんです。三ヶ月後だと癖になる」
「……ま、それも一理あるけど」
リズは、少し首を傾げてから笑った。
「あんた、ほんと変わったよね」
ネロの背中が、こわばった。
「昔は、あたしにすら敬語で震えてたのに。今じゃ立派に説教してる」
彼女は、彼の肩を軽く叩いた。
「いい意味でよ。……自信ついたんだね」
「…………」
「隊長も言ってた。ネロが強くなったって」
リズは、機嫌よく歩いていった。
ネロは、一人、廊下に立っていた。
窓の外は、もう暗い。硝子に、自分の顔が映っていた。
眼鏡のない、前髪を上げた顔。二年前より、確かに、しっかりして見えた。
――誰だ、これ。
彼はその考えを振り払って、自室へ歩き出した。
【夜】
その夜、リヴィアは軍務省の面会室にいた。
向かいに、グレイ。
「――どうだ、新人は」
「うるさいわ。朝から晩まで」
「そうか」
グレイは、少し笑った。
中佐の襟章。増えた勲章。刈り上げた髪。二年で、彼も変わった。
「本題」
リヴィアは、身を乗り出した。
「うちの任務、なんで減ってるの」
「…………」
「一年半よ。倉庫と、式典と、視察。特殊工作部隊にやらせる仕事じゃない」
グレイは、しばらく黙っていた。
「……推測でいいか」
「いい」
「上が、黒翼を『扱いづらい』と判断してる」
「……理由は」
「レムナスだ」
その一言で、部屋の空気が重くなった。
「あの任務の後、俺は正式に、命令経路の異常を照会した。……回答は、来なかった。だが、記録には残った」
「…………」
「上は、俺たちが『疑っている』ことを知ってる。だから、危ない場所には出さない。かといって解体もしない。……宙ぶらりんにしておくのが、一番安全だからな」
「飼い殺しってこと」
「そうだ」
リヴィアは、指を組んだ。
「……もう一つ、いい?」
「なんだ」
「去年、聖都で記録を見たの。行き先の書いてない『疎開』が、三万一千人」
グレイの目が細くなった。
「……見たのか」
「あなたは、知ってた?」
「知ってた」
彼は否定しなかった。
「バルドアでも同じことが起きてる。山の民が、戦後の登録で四千人足りない。セルバの下流でも、村が三つ、丸ごと消えてる。……どれも死者の記録じゃない。ただ、いなくなってる」
「誰が、運んでるの」
「分かってれば、とっくに手を打ってる」
グレイは、そこで一度息を吐いた。
「三万一千人分の飯を、二年、誰かが用意し続けてるんだ。……テロ組織にできる規模じゃない」
リヴィアは、指を組んだまま動かなかった。
同じことを、去年、聖都の記録室で考えた。あの時も口には出さなかった。
「――だが、状況が変わる」
グレイは、書類を一枚、机に滑らせた。
リヴィアは、それを手に取った。
地図だった。東方の海上に浮かぶ、小さな島国。
「……シキナ?」
「帝国は、この二年で十一の小国と『友好駐留協定』を結んだ。……名目は治安維持。実態は、軟性の占領だ」
「そして次が、シキナ」
「ああ。既に駐留部隊が入ってる」
グレイは、指で地図を叩いた。
「近いうちに、お前たちに任務が来る。……たぶん、シキナだ」
「なんで分かるの」
「調達記録だ」
彼の声が低くなった。
「先週、帝都第四工廠から、削岩機が三十台。……行き先は、シキナ」
リヴィアの背筋が冷たくなった。
二年前と、同じだった。
バルドアの資材置き場で読んだ、あの木箱の発送日。掘る前に、機械が届いている。
「……また」
「ああ」
グレイは頷いた。
「――また、始まる」
窓の外で、帝都の灯りが二年前よりずっと多く瞬いていた。軍需工場の煙突が、夜通し煙を吐いている。
この国は、確実に、何かへ向かって加速していた。




