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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
ディナシア帝国編

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聖都の旗

【一〇三五年】


 戦争は、驚くほど早く終わった。


 宣戦布告から二週間で、帝国軍は国境の三つの砦を抜いた。二ヶ月で大河ルーメルの下流域を制圧し、四ヶ月目には聖都の外郭に取りついた。


 レムナス神光国は、千年、軍を持たない国だった。持っていたのは、聖印を掲げた儀仗兵と、巡礼路の警備隊と、世界中の信徒の祈りだけだ。


 半年で、聖都は落ちた。


 その半年のあいだ、黒翼分隊は一度も前線に出なかった。


 届く封蝋の中身は、いつも同じ形をしていた。出征式典の随伴。徴募事務所の視察。負傷兵慰問への同行。地方都市の戦勝報告会での、壇上への起立。


「――また式典かよ」


 三度目の通達で、アシュはそう言って、以後は言わなくなった。


 新聞には、時々、黒い軍服の影絵が載った。顔は描かれない。名前も出ない。ただ「河の英雄の部隊」とだけ書かれて、募兵の頁の隅にいた。


 その年の秋、グレイ・アークライトが中佐に昇進した。


 辞令の日、リヴィアが祝いを言うと、彼は書類から顔を上げずに答えた。


「一段、上がった。……上がった分だけ、見える範囲が増える。それだけだ」


 彼は、以前より痩せていた。


⸻


 聖都陥落から二ヶ月後の初夏。


 黒翼分隊に届いた命令書は、駐留式典への出席通達だった。


 場所は、聖都レムナス。二年前、彼らが五人で入り、四人で出てきた街だった。


「……行くの」


 リズが命令書を覗き込んで、それだけ言った。


「行く」


 リヴィアは封蝋の欠片を掌に集めて、机の隅へ寄せた。


「英雄の部隊が、英雄の死んだ街に立つ。……向こうは、そういう絵が欲しいのよ」


 誰も、それ以上は言わなかった。


【逆から歩く】


 二年前、彼らは夜の河を下り、丘の穴を六キロ這って、この国に入った。


 今回は、昼の道を、堂々と歩いた。


 旧聖廊の入口は、封鎖されていた。


 朽ちた石柱の間に鉄柵が嵌め込まれ、『帝国軍第七工兵隊 立入厳禁』の札が針金で括りつけられている。苔の生えた聖印は、札の裏に隠れて見えなくなっていた。


 その脇に、真新しい軍用道路が伸びていた。丘の斜面を削って通した、幅の広い舗装路。輜重の列が、砂埃を上げて途切れなく続いている。


「……六キロ、腹這いで来たのにな」


 アシュが呟いた。


「今は、馬車で二十分よ」


 リズが答えた。声に、感情はなかった。




 幻の森は、なくなっていた。


 正確には、道の両側の五十メートルが伐り開かれ、伐った材木がそのまま集積場に積み上げられていた。切り株の白い断面が、地面に点々と並んでいる。


 工兵が「見通しの確保」と言っていた。伏兵を出させないための、標準的な処置だ。


 リヴィアは、荷馬車の上から、残った木立の奥を見た。


 鈴の音は、しなかった。


 二年前、あの森は目と耳を騙し、偽の巡礼を歩かせ、仲間の声で四人を誘い込んだ。カラムはロープで全員を繋ぎ、湿った土を掌で追って、それを抜けた。


 伐られた森は、ただの、材木の置き場だった。


「……ネロ」


「はい」


「あの時の、地磁気の記録。まだ持ってる?」


「……持っています」


 ネロは端末を出さなかった。膝の上の鞄を、両手で押さえていた。




 峡谷の大橋には、検問所が立っていた。


 二年前、二メートルを超える巨躯がその中央に立ち、大盾を突いて「この橋は、渡らせん」と言った場所だ。ネロの障壁が硝子細工の音を立てて砕け、アシュが真横に薙ぎ払われ、それでも誰も殺されなかった橋。


 今は、帝国の兵が四人、通行証を検めている。


 黒翼の一行は、書類を出すまでもなく通された。橋の中央で、リヴィアは一度だけ足を止めた。


 石畳に、焦げ跡はもう残っていなかった。補修の新しい石が、そこだけ色を変えて嵌まっている。


「……隊長?」


「なんでもない」


 彼女は歩き出した。


 塞いだ男は、もういない。同じ場所を、今は帝国が塞いでいた。


【白い都】


 白い都の門は、開いたままになっていた。


 二年前、人ひとり分だけ開いていた大扉。あの隙間から、四人は風に乗って城壁を越えた。今は、両扉が壁際まで押し開かれ、根本を鉄の楔で固定されている。


 閉める必要が、なくなったのだ。


 街には、人がいた。


 二年前の、人だけがごっそり抜けた静けさは、もうない。荷を運ぶ帝国兵。道端で煙草を吸う工兵。露店の呼び込み。子供の声。


 それなのに、リヴィアは息が詰まった。


 白い石畳も、白い壁も、聖印の意匠も、二年前と同じだった。同じ街に、違う人間が入っている。


 目抜き通りの突き当たり。


 あの広場は、舗装し直されていた。


 溶けて硝子になった石畳も、炭になった露店も、半ばから熔け落ちた彫像も、すべて撤去されている。噴水は新しく作られ、水を上げていた。


 その中央に、石碑が立っていた。


 白い御影石。刻まれた双翼の紋章。金文字の碑文。


『帝国軍大尉 カラム・ディート 此ノ地ニ於テ テロリスト十二名ト交戦 部下五名ヲ庇イ戦死』


 リヴィアは、それを二度読んだ。


 十二名。


 あの夜、この広場に立っていたのは、たった一人だった。


 部下五名。あの時、彼が背中に庇っていたのは三人だった。四人目は、まだ地下道の氷の中にいた。


 どちらも、間違っている。


 どちらも、誰かが「そう書いた方が絵になる」と判断した数字だった。


「……隊長」


 リズが横に立った。碑文を読んで、それから顔を背けた。


「……十二人も、いなかったよね」


「いなかった」


「一人だったよね」


「一人だった」


 リズは、それきり黙った。


 アシュは碑の前で立ち止まらず、そのまま噴水の縁に腰を下ろして、水面を見ていた。


 ネロだけが、碑の一番下に刻まれた小さな文字を読んでいた。


『聖暦一〇三四年 秋 帝国軍広報部 建立』




 大聖堂は、そのまま残っていた。


 二年前、カイゼンがこの中でカラムに「君たちは死にに来させられた」と告げ、それから消えた場所だ。


 ステンドグラスは無傷だった。


 その光が落ちる祭壇の上に、帝国旗が掛かっていた。


 聖印の刺繍された壁掛けは外され、代わりに鋼の双翼が、正面いっぱいに広げられている。


 礼拝堂には、儀仗兵が整列していた。式典の準備だった。


 リヴィアは、列の脇を歩いて祭壇の前まで進んだ。


 石の床。ステンドグラスの色。この辺りで、カラムは老人の輪郭が消えるのを見ていた。


 しゃがんで、床に触れた。


 冷たかった。何も、残っていなかった。


「――ノクス大尉」


 声がかかった。


 振り返ると、儀仗兵の列の向こうに、勲章だらけの胸があった。


 レイリット・バンス中将。空挺部総括隊長。列車で命を救われた男で、国葬の壇で開戦を叫んだ男だった。


「これはこれは。祈っておいでか」


「……いえ」


「よろしい。祈るなら、この街より本国の神にした方がいい。ここの神は、負けたばかりだ」


 彼は笑った。周囲の士官が、追従して笑った。


 リヴィアは、姿勢を正して敬礼した。


 レイリットは答礼して、それから祭壇の帝国旗を見上げた。


「……大尉のことは、残念だった」


「はい」


「だがな、大尉。彼の名前は、いい仕事をした」


 背筋が、冷えた。


「――彼の名前が、この街の門を開けたのだ」


 嘘は、一つもなかった。


 だからこそ、返す言葉がなかった。


 レイリットは満足そうに頷いて、随員を引き連れて去っていった。


【式典】


 式典は、大聖堂の前の階段で行われた。


 駐留司令の訓示。功労者への叙勲。軍楽。捧げ銃。


 黒翼の五人は、二列目に並ばされた。二年前の国葬と同じ、写真の映える位置だった。


 記者の閃光が、絶えず焚かれる。


「――続いて。特務課直属、黒翼分隊。隊長、リヴィア・ノクス大尉」


 名前が呼ばれた。


 階段を上がると、司会役の士官が原稿を差し出した。


『英雄の遺志を継ぎ、帝国の栄光のため、我らはこの地に立つ』


 二十文字ほどの、書かれた台詞だった。


 リヴィアは、それを一度読んで、演台の脇へ置いた。


 広場に、数百人の兵と、数十人の記者と、遠巻きの市民がいた。市民の顔は、こちらを見ていなかった。


 彼女は、口を開いた。


「……黒翼分隊、リヴィア・ノクスです」


 声が、拡声魔導具を通して階段を降りていく。


「隊の方針を、ひとつだけ申し上げます」


 司会役の士官が、慌てて原稿を指差した。彼女は見なかった。


「――全員で、帰るように努めます」


 それだけ言って、彼女は一礼して階段を降りた。


 拍手は、まばらだった。


 誰も、気にしていないようだった。翌日の新聞には『英雄の後継、粛々と』とだけ載った。台詞の中身は、一字も引用されなかった。


 列に戻ると、リズが横目でこちらを見て、口の端だけで笑った。


「……怒られますよ、それ」


「怒られたら、その時考える」


【いない人々】


 式典の後、一行には半日の自由行動が与えられた。


 リヴィアは、街を歩いた。


 市場が立っていた。二年前は、果物が籠に積まれたまま、持ち主だけがいなかった場所だ。


 今は、人が売っている。


「そこの姉さん、干し杏はどうだい。北の産だよ」


 店主は四十がらみの男で、流暢な帝国語を話した。訛りがなかった。


「……ここは長いんですか」


「三ヶ月。本国の東部から出てきたんだ。ここは店賃が安くてね」


 彼は笑った。


「戦争の後ってのは、商売にはいいのさ。空いてる店が、いくらでもある」


 通りを歩いた。


 パン屋も、金物屋も、宿屋も、看板は前のままで、中の人間だけが入れ替わっていた。聖印の飾りは、どの軒先からも外されている。


 白装束の巡礼を、一人も見なかった。


 街の外れの聖堂の前に、献花台が残っていた。


 二年前、オルセという小さな町で、萎れてもいない白い花が束のまま供えられていた。あの町は、彼らが出た十分後に、丸ごと消し飛んだ。


 この献花台には、花がなかった。台だけが、雨に晒されて灰色になっていた。




 駐留司令部の記録室で、リヴィアは書類を請求した。


「聖都の、住民記録を。戦前と、現在のものを」


 窓口の下士官は怪訝な顔をしたが、大尉の階級章と特務課の記章を見て、綴りを二冊出してきた。


 戦前の聖都人口――四万九千余。


 現在の登録住民――六千余。うち、帝国からの移住者が四千。


 差の中身を探して、リヴィアは頁をめくった。


 死者の欄。戦闘による市民の死亡、確認数――二百十一。


 収容所の欄。保護者数――千八百。


 残りには、一行だけ書かれていた。


『疎開』


 行き先の記載は、なかった。頁をめくっても、次の綴りを開いても、どこにもなかった。


「……この『疎開』の、行き先は」


「本国へ報告済みです」


「本国のどこに」


「私は存じません。書式にその欄がありませんので」


 下士官は、正直に答えていた。彼が嘘をついている顔ではなかった。


 その夜、宿舎でネロが計算した。


「――三万一千です」


 彼は端末を伏せて言った。


「戦前の人口から、死者と、収容者と、現在の登録者を全部引きました。行き先の記録がない人が、三万一千人います」


 部屋が、静かになった。


「街ひとつ分の人間が」


 アシュが低く言った。


「どこにも、いねえってことか」


「記録上は、そうなります」


「……逃げたのよ」


 リズが言った。


「だって、あたしたちが入った時、誰もいなかったじゃない。あれ、逃げた後だったんでしょ」


 ――民は、全員逃した。この街で死ぬのは、招かれた客だけだ。


 カイゼンの声が、リヴィアの耳の奥で鳴った。


 あれは、本当だった。


 だとすれば。


「……三万一千人を、どこへ逃がしたの」


 リズが口を開きかけて、閉じた。アシュは天井を見ていた。


 国境は封鎖されていた。河は帝国のものだった。空は飛べない。


 それでも、三万一千人が、どこかへ消えた。


 匿った者がいる。運んだ者がいる。今この瞬間も、その三万一千人に飯を食わせている者が、どこかにいる。


(……あの人たちは)


 リヴィアは、窓の外の白い街並みを見た。


(テロ組織じゃ、ないのかもしれない)


 考えたことを、彼女は口に出さなかった。


 部屋の隅で、ネロが端末を鞄に仕舞っていた。その手が、留め金を三度、確かめていた。


【帰りの船】


 翌朝、一行は河を下る軍用船で帰路についた。


 甲板に出ると、遡ってくる輜重船とすれ違った。旗は帝国旗だった。乗っているのは帝国兵だった。運んでいるのは帝国の物資だった。


 二年前、この河を舟で下った時、リヴィアは担架の傍らに座っていた。布の下の輪郭を、見ないようにしていた。


 今は、上座の椅子に座る側になった。


 三ヶ月かかって、あの椅子に座れるようになった。座ってから一年半、彼女がしたのは、式典に立つことと、視察についていくことだった。


「……隊長」


 リズが隣に来た。


「なに」


「昨日の、大尉の言葉」


「うん」


「……あたし、いい台詞だったと思う」


 リズは河を見たまま言った。


「誰も聞いてなかったけど」


「聞いてなくていいのよ」


 リヴィアも、河を見た。


「あれは、上に言ったんじゃない」


「じゃあ、誰に」


 答える代わりに、彼女は腰のベルトに手をやった。


 サイズを詰めた、二十年物の革。留め具の位置に、指の腹を当てる。


 リズは、それ以上聞かなかった。


 船は下流へ進んだ。両岸に帝国の検問所が並び、旗が等間隔に立っている。二年前、ネロが望楼の窓から地図をなぞって「下流にはレムナスしかありません」と言った、その下流だった。


 もう、レムナスはない。


 地図の色が、一色に塗り替わっただけだった。


 ――逃がされた三万一千人は、今どこで、誰の飯を食っているのだろう。


 答えは、この河のどこにもなかった。




 こうして、聖暦一〇三五年の夏が終わった。


 レムナス神光国は帝国の南方管区となり、大河ルーメルの全域が帝国のものになった。地図から国がひとつ消え、新聞の一面は次の国境の名前に移った。


 黒翼分隊は、その年、一度も前線に出なかった。


 グレイ・アークライトは中佐となり、軍の中枢へさらに一歩を進めた。


 翌年の春、黒翼分隊に、一人の新人が着任した。


 募兵ポスターの「河の英雄」に憧れて、志願してきた少女だった。



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