線を引く
【空席】
葬儀の翌日から、黒翼分隊は「待機」になった。
再編成が済むまで、任務は与えられない。朝の点呼と、体力維持の訓練と、あとは半年分の作戦報告書の整理。書式の決まった空欄を埋めては次の綴りに移るだけの、時間の長い仕事だった。
作戦室の長机の上座は、空いたままだった。
誰も、そこに座らなかった。書類を広げる時も、地図を囲む時も、四人は申し合わせたように下座の三席分へ寄って、狭いところで肘をぶつけ合いながら作業を続けた。
「……なあ」
三日目の朝、アシュが言った。
「あの椅子、片付けねえ?」
「…………」
「見てるの、しんどいだろ」
「片付けたら、もっとしんどいわよ」
リズが、書類から目を上げずに答えた。
「……そうかもな」
椅子は、そのままになった。
夜、リズは眠れていなかった。
壁が薄いから、隣の部屋の物音は筒抜けだ。夜中に何度も寝返りを打つ音、水を飲みに立つ音、そして時々、押し殺した泣き声。
朝になると、彼女はいつも通り笑っていた。目の下の隈を、化粧で隠して。
アシュは、訓練場に籠もっていた。
右腕がまだ吊れているのに、左手一本で銃を撃ち続けている。的の中心が抜けるまで。抜けても、まだ撃つ。
「……アシュ。休みなさい」
「うるせえ」
「腕が」
「――うるせえよ」
彼は、振り向かなかった。
「あの時、俺の右腕が動いてりゃ。……あと一発、撃てたかもしれねえ」
リヴィアは、返す言葉を持たなかった。
同じことを、彼女も考えていたからだ。
――あと三十秒早く、あの銀髪との決着をつけていたら。
答えの出ない「もし」が、隊全体に重く沈んでいた。
【監査官】
その日、ネロは一人で呼び出された。
場所は、軍施設の地下三階。彼が入ったことのない区画だった。番号だけが振られた同じ扉が廊下の両側に等間隔で並び、どこからも人の気配がしない。指定された部屋は窓がなく、天井の魔導灯が一つ、机の真上だけを白く照らしていた。
「――ネロ・フェイン准尉ですね」
待っていたのは、痩せた男だった。
濃い灰色の背広に、記章のない襟。年齢が読めない、のっぺりとした顔。
「特務課、監査部の者です。……お座りください」
「か、監査……?」
ネロは、勧められた椅子におずおずと座った。
男は、机の上に書類の束を置いた。
「先のレムナス潜入作戦について、いくつか確認を」
「は、はい」
「作戦中、貴官は独自に観測データを収集していましたね」
「……はい。障壁と、術式の解析を」
「そのデータは、どこに保管を?」
「僕の端末と、あとは……解析用の予備媒体に」
「なるほど」
男は書類を一枚めくった。
「――では、これを」
差し出されたのは、通信記録の写しだった。
ネロはそれを見て、固まった。
彼の端末の識別番号。そこから発信された、暗号化通信の記録。宛先不明。日時は、レムナス潜入の三日前。
「……こ、これ」
「貴官の端末から、外部へ送信された記録です」
「そんな、はず……! 僕、こんな通信、送ってません!」
「記録は、そう言っていません」
男の声は平坦だった。
「そして――こちらが、革命組織の拠点から押収した資料の一部です」
二枚目。
そこには、ネロの手書きの記号があった。
彼が独自に使っている、術式波形の略記法。誰にも教えたことのない、彼だけの書き方。
「……なんで」
喉が渇いた。
「なんで、僕の記号が……」
「それを、伺いたいのです」
男は身を乗り出した。
「レムナスにおいて、貴官らの潜入は完全に読まれていました。地下道の待ち伏せ。町の爆破。森の妨害。……なぜ、敵は貴官らの経路を正確に知っていたのか」
「…………」
「答えは、単純です。――内部から、漏れていた」
「ち、違います! 僕は、そんな……!」
「では、この記録は」
「知りません! 本当に、知らな――」
「カラム・ディート大尉は」
男が遮った。
その一言で、ネロの言葉が止まった。
「……大尉が、どうして」
「なぜ、あの広場で死んだと思いますか」
ネロの息が詰まった。
「敵は、貴官らがあの街に入ることを知っていた。だから待ち構えていた。……つまり」
男は指を組んだ。
「大尉を殺したのは、リバースオーダーの幹部ではない。――情報を漏らした、誰かです」
「……ちがう」
「貴官の記号が、敵の資料にありました」
「ちがう……!」
「貴官の端末から、通信が出ています」
「僕じゃない!!」
ネロは叫んだ。
叫んで、それから両手で顔を覆った。肩が震えていた。
「僕じゃ、ない……」
「……そうかもしれませんね」
男は、あっさりと言った。
「え……?」
「私は、貴官が意図的に漏らしたとは思っていません。おそらく、端末の不備か、解析媒体の紛失か。……そういった、過失でしょう」
「そう、です……! 絶対、そうです……!」
「ですが」
男は書類を揃えた。
「軍法会議は、そう見ません」
ネロの顔から血の気が引いた。
「機密漏洩により、上官が戦死した。……この事実だけで、貴官は懲役では済まない」
「…………」
「そして」
男は、少しだけ声を柔らかくした。
「これが公になれば――貴官の隊は、どうなるでしょうね」
ネロの頭が、真っ白になった。
「英雄カラム・ディートを殺したのは、身内だった。……そんな記事が出れば、国葬は茶番になる。黒翼分隊は解体、隊員は全員、経歴に汚点が残ります」
「……やめ、て」
「リズ・カリード少尉。アシュ・バーン少尉。……そして、リヴィア・ノクス少尉」
「やめてください……!」
「全員が、貴官のせいで終わる」
ネロは机に額を押しつけた。涙が、勝手に流れていた。
「……どうすれば」
掠れた声だった。
「どうすれば、いいんですか……」
「――簡単なことです」
男は書類を鞄に仕舞った。
「この記録は、私の手元にあります。上へは、まだ上げていない」
「…………」
「協力していただければ、このまま、私の引き出しで眠らせておきます」
「協力、って」
「時々、報告を。……貴官が見たもの、聞いたものを。それだけです」
男は立ち上がった。椅子を引く音も、鞄の留め金を留める音も、この部屋では妙にはっきりと響いた。
「貴官は何も裏切りません。ただ、報告するだけだ。……軍人として、当然の職務でしょう」
ネロは動けなかった。机の縁を掴んだ指の関節が、白くなっていた。
「隊を守れますよ。貴官の手で」
その一言が、決定打だった。
ネロは――頷いた。
自分が今、何を選んだのか。その意味を彼が理解するまでには、まだ時間がかかった。
部屋を出た男は、廊下の暗がりで小さく息を吐いた。
「……ちょろいものだ」
彼は、鞄の中の書類を指で叩いた。
――全部、偽物だった。
通信記録も、手書きの記号も。黒翼の隊内報告書から筆跡を拾って、作らせたものだ。
「善良な人間ほど、罪悪感で縛りやすい」
男は、上へ続く階段を上がっていった。その足取りに、迷いはなかった。
【届かない】
同じ頃、訓練場では。
黒い閃光が、走り続けていた。
「……っ、はぁ……はぁ……」
リヴィアは汗だくで肩を上下させていた。
訓練場の的は、全部両断されている。石の壁には、無数の黒い裂傷が刻まれていた。
黒閃。斑。全部、出せる。前より速く、正確に。十二の陣を組むのにかかる時間は、聖都の夜より二秒短くなっていた。
――でも。
(届かない)
彼女は思い出す。
空を埋めた、光の槍。黒葬の闇を喰い破って降り注いだ、あの物量。全力の斑が、盾に細い罅を一つ入れただけで消えた。
(足りない。全然、足りない)
もう一度、剣を構えた。
その手が震えている。疲労ではなかった。いや、疲労もあるが、それだけではない。
「……無理をするな」
背後から声がした。
振り返ると、グレイが立っていた。
「傷が、まだ塞がってない」
「……塞がってから始めたら、遅い」
「遅くない」
「遅いのよ」
リヴィアは、剣を下ろさなかった。
「あの人が、また誰かを殺す前に。……私が止めないと」
「リヴィア」
「私が止められなかったから、カラムさんが」
「――リヴィア」
グレイの声が強くなった。
リヴィアは、そこでようやく剣を下ろした。肩が震えている。
「……グレイ」
「ああ」
「私、どうすれば強くなれるの」
彼女は顔を上げた。その目は赤かった。
「少しは前より強くなった気がしてたの。でも全然、届かなかった」
「…………」
「あなたは、届く?」
グレイは、少し黙った。
「……セリウスにか」
「うん」
「――分からん」
正直な答えだった。
「あいつは、十年前から異常だった。……そして今は、もっと異常だ。あの光は、人の魔法の在り方をしていない」
「じゃあ、どうすれば」
「……座れ」
グレイは、訓練場の隅の階段を指した。
二人は、並んで腰を下ろした。
【理】
「……五年前」
グレイは、前を向いたまま話し始めた。
「俺は、現場を降りた」
リヴィアは、黙って聞いていた。
「理由は、まだ言えない。……だが、あの時、俺も同じことを考えた。届かない、と」
「…………」
「軍の中でどれだけ登っても、この国の腐り方には届かない。強くなっても、階級が上がっても、届かない場所がある。……それに気づいて、俺は前線から離れた」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「それから五年、机の上でやれることを全部やってきた。……その過程で、妙なものを拾った」
「妙なもの?」
グレイは懐から、古い紙を一枚取り出した。黄ばんだ、手紙の写しだった。
「十四年前。世界中の主要国の要人と、いくつかの『個人』宛てに、同じ内容の警告文が届いている」
「……個人?」
「読め」
リヴィアは、それを受け取った。
几帳面な筆跡で、こう書かれていた。
『――貴殿へ。
やがて、この世界に大きな戦が起こる。
それは偶発ではなく、五百年前から準備されたものである。
その中心にいる者は、人の姿をしているが、人ではない。
どうか備えられたい。
そして、六つの理の御方々へ。
貴殿らの誰かが、既に一人、失われていることを、お忘れなきよう』
「……六つの理」
「セイクリッドルート、と呼ばれている」
グレイは言った。
「風、雷、土、斬、木、光。……世界の理に触れた、六人の人間。伝説や神話の類だと思われてる」
「実在するの?」
「少なくとも、この手紙を書いた奴は、実在すると思って書いてる。……そして」
彼はリヴィアを見た。
「宛先の一部が、実在の人物だ。二十年前に隠棲した剣豪。北の山に住むという巨人。南東の砂漠に国を作った女王。……全部、記録がある」
リヴィアの背筋が粟立った。
――いずれ、人の理を超えたものに会うだろう。
(……あの夢)
「差出人は」
「不明だ。署名がない。……ただ、この筆跡は、帝国の公文書のどこかで見た気がする」
グレイは手紙を仕舞った。
「リヴィア。お前が本当に強くなりたいなら」
彼は、まっすぐに言った。
「――人の軍隊の中には、答えはない」
リヴィアの心臓が跳ねた。
一言一句、同じだった。夢の中で、あの老人が言った言葉と。
「……グレイ」
「なんだ」
「……ううん。なんでもない」
彼女は首を振った。
言えなかった。言えば、頭がおかしくなったと思われる。
喉の奥で、何かが引っかかったままだった。
【エレナ】
その夜、廊下でエレナ・ファルネと擦れ違った。
いつも通り、書類を抱えて、隙のない歩き方で。その腕には、あの薄い綴りも挟まっていた。
「……ノクス少尉」
彼女の方から、足を止めた。
「はい」
「傷の具合は」
「……大丈夫です」
「そう」
エレナは眼鏡を押し上げた。それから、少しだけ視線を落とした。
「――少佐が、現場に出たのは」
「……え?」
「五年ぶりでした」
リヴィアは、言葉を失った。
「あの方は、五年間、一度も前線に立たなかった。どんな作戦でも、どんな損害が出ても。……机の上で、全部処理してきた」
エレナの声は、いつも通り冷静だった。冷静すぎて、かえって何かを押し殺しているのが分かった。
「三日前、あの方は二十四時間で南部へ飛び、紅蓮掌を動かし、単独で聖都に入りました」
「…………」
「――誰のためだと思いますか」
リヴィアは、答えられなかった。
エレナは、それ以上続けなかった。ただ、書類を抱え直して頭を下げた。
「……失礼します」
立ち去る背中を、リヴィアは見送った。
彼女が何を言いたかったのか。責められたのか、教えられたのか、それとも――
分からないまま、廊下の灯りが揺れていた。
【辞令】
三日後の朝。
黒翼の四人は、作戦室に集められた。
長机の上座には、あの空席がある。
グレイが、一枚の書面を持って入ってきた。
「――辞令を伝える」
彼は書面を開いた。
「特務課直令。黒翼分隊、指揮官職の後任について」
四人の背筋が伸びた。
「リヴィア・ノクス少尉。……本日付をもって、黒翼分隊の現場指揮官を命ずる」
「……っ」
リヴィアの手が震えた。
「……待って」
彼女は首を振った。
「……無理よ」
「リヴィア」
「私は、カラムさんみたいにできない」
声が震えた。
「あの人は、二十年やってきた人よ。全員を帰すって、それだけを考えて、実際にやってきた人よ。……私は、聖都で何もできなかった。遅れて、着いた時にはもう」
「――だから、やるんでしょ」
リズだった。
「……リズ」
「リヴィア、悔しいんでしょ。あたしもよ」
彼女は、まっすぐにリヴィアを見た。
「悔しくて、眠れなくて、それでも朝には起きるんでしょ。……なら、それが理由でいいじゃない」
「でも、私は」
「あのさ」
アシュが、吊った腕のまま口を挟んだ。
「俺、次はあんたに勝つって、七回言った」
「……八回よ」
「八回か。……八回言って、八回負けた」
彼は天井を見上げた。
「俺は、俺が認めたやつの下以外では動く気にならねえ。……それだけだ」
リヴィアは俯いた。視界が滲んだ。
「……ネロは」
部屋の隅で、ネロは俯いていた。その顔は青白かった。
「……ネロ?」
「……あ」
彼は、はっとしたように顔を上げた。
「す、すみません。……あの」
彼は深く頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
その声が、なぜか少し震えていた。
リヴィアは、それを緊張のせいだと思った。
――思うことに、した。
「……分かりました」
彼女は顔を上げた。
「引き受けます」
グレイが頷いた。
「では、これを」
彼は机の上に、小さな箱を置いた。
開けると、中には封蝋の押し型が入っていた。
特務課の双翼印。カラムが毎回、隊員の前で割っていた、あの封の。
「これからは、お前が封を切る側だ」
リヴィアはそれを手に取った。冷たい、金属の重み。
握りしめて、それから腰に手をやった。
二十年物の、革のベルト。サイズを詰めて、彼女はそれを毎日締めている。
「……ひとつ、いいですか」
「なんだ」
「隊の方針を、決めます」
三人が顔を上げた。
リヴィアは、一度深く息を吸った。
「――全員で、帰ります」
空席の椅子が、朝の光を浴びていた。
「今までと、同じ。……何も、変えません」
「……了解」
三人の声が、揃った。
【線を引く】
その夜。
リヴィアは自室の窓辺に座っていた。
机の上には、三つのもの。蜂蜜色の飴の缶。封蝋の押し型。そして、擦り切れた革のベルト。
壁には、写真が二枚。朝の食堂で撮ったひどい一枚撮りと、セルバの岸辺で撮った黒と紅の十人。その二枚とも、カラムが写っている。
窓辺の鉢植えは、また少し背が伸びていた。
リヴィアは、自分の右手に魔力を灯した。
手の甲に、四本の光の線が浮かぶ。
その奥に、まだ扉がある。あの日、内側から押し返した扉が。
(……そろそろ、開けないと)
自分の中に、底の見えない何かがある。水晶を割った十一歳の日から、ずっと。
黒閃の波形が逆流するという、ネロの言葉。黒葬を使った時、体の奥で何かが応えた感触。そして――無効化の波の中でだけ、なぜか温かかったペンダント。
全部、繋がっている気がする。答えは、まだない。
(……人の軍隊の中には、答えはない)
グレイの言葉。そして、夢の中の声。
リヴィアは魔力を解いた。線が、すうっと消える。
窓の外では、帝都の灯りがいつも通りに瞬いていた。下層区の低い屋根の連なりの向こうで、グランドアーカムの白い塔だけが、雲の底を舐めるように光っている。
新聞は毎日、開戦を叫んでいる。街には募兵ポスターが増え、徴募事務所の前には朝から若者の列ができていると、リズが呆れ顔で報告していた。
この国は、もうすぐ大きな戦争を始める。それを止められる者は、たぶん、まだ誰もいない。
リヴィアはベルトを手に取った。
(カラムさん)
二十年分の傷が刻まれた革を、指でなぞる。
(私、まだ、あなたみたいにできません)
でも。
(――やります)
彼女はそれを、机の上に置いた。
窓の外の空に、細い月がかかっていた。
その光が、白い刃みたいに、夜を一本、線で切っていた。
三日後、帝国はレムナス神光国へ宣戦を布告した。
新しい指揮官が初めて割った封蝋の中身は、作戦命令ではなかった。
式典への、出席通達だった。




