英雄の葬列
【止まった部屋】
舟が河を下る間、リヴィアは高熱を出した。
傷が膿んだのだ。紅蓮掌のラン・ファが持っていた薬で凌いだが、二日間、彼女はほとんど意識がなかった。
――その、二日目の夜。
彼女は、白い部屋にいた。
窓のない、天井の高い部屋。壁一面に時計が掛かっている。何百という時計が、全部、違う時刻を指したまま止まっていた。
空中に、埃の粒が静止している。
「――ああ、来たか」
声がした。
部屋の中央に、椅子が一脚。白髪の交じった黒髪の男が、そこに座っていた。古びた学者風の外套。腰から下がる、いくつもの懐中時計。
「……あなた」
「初めまして、と言うべきかな。……いや、正確には少し違うが」
男は、穏やかに笑った。
リヴィアは剣を探した。腰に、なかった。
「警戒しなくていい。ここでは何もできん。……お互いにな」
「ここは、どこ」
「さて。夢と呼んでもいいし、そうでないと言ってもいい」
男は肩をすくめた。
「時間がない。……あの街で、カラム君に話したことを、君にも話しておこうと思ってな」
「カラムさんに?」
「そうだ。……彼は、伝える前に死んだ。だから、私が代わりに言う」
リヴィアの喉が鳴った。
「――君たちは、偵察に来たのではない。死にに、来させられたのだ」
部屋の空気が凍りついた。
「……なに、それ」
「考えてみたまえ。革命軍の本拠と知れた街へ、たった五人。交戦回避、偵察のみ。……ご丁寧な命令書だ。誰も、君たちの生還を予定していない」
「そんな、はず……」
「私の見立てだ。信じる必要はない」
男はそれから、指を三本立てた。
「三つ、言っておこう。……どれも、君がいずれ確かめられることだ」
一本目の指が折られた。
「一つ。――英雄の死体が一つあれば、戦争は始められる」
「…………」
「新聞の見出しは、もう刷られているだろうよ。君たちが街を出るより前にな」
二本目。
「二つ。――あの街に、市民の死体は一つもなかった」
「……え?」
「確かめてみるといい。君たちの軍が集めた記録の、どこを探しても、レムナスの民の死者は出てこない。……なぜだと思う?」
答えられなかった。
三本目の指が折られる。
「三つ。……これは、言うべきか迷ったのだがな」
男の目が、初めて悲しげに細められた。
「――君の隊に、一人だけ、別の理由で眠れなくなる者が出る」
「……別の、理由?」
「近いうちにな。……気づいてやってくれ。あれは、君たちを守ろうとして間違える種類の人間だ」
「誰のこと!?」
男は、口を開かなかった。
代わりに、立ち上がった。
「時間だ。……最後に一つだけ」
彼は、止まった時計の一つに手を伸ばした。
「君が本当に強くなりたいなら――人の軍隊の中には、答えはない」
「…………」
「いずれ、人の理を超えたものに会うだろう。……その時は、よく聞くといい。彼らは、嘘が下手だ」
時計の針が、動き始めた。
カチ、カチ、カチ。
部屋中の時計が一斉に動き出し――
「――ああ、それと」
男が、こちらを見た。
「私は、君の父上を知っている」
「……え」
「では、また」
部屋が、崩れた。
「――リヴィア! リヴィア、大丈夫!?」
目を開けると、リズの顔があった。
舟の上だった。額に、濡れた布。周りには、心配そうな顔が並んでいる。
「……あれ」
「うなされてたわよ。何度も呼んだのに、起きなくて」
「……夢を、見てた」
「どんな?」
リヴィアは口を開いて――閉じた。
夢の内容は、驚くほど鮮明に残っていた。止まった時計。埃の粒。男の声。
それを言葉にした瞬間、ただの熱にうなされた妄想になってしまう気がした。
「……忘れた」
「そう? ま、いいけど。ほら、水」
リヴィアは水を飲みながら、川面を見た。
――君たちは、死にに来させられたのだ。
(……ただの夢よ)
彼女は、そう自分に言い聞かせた。
【号外】
帝都に着いたのは、四日後の朝だった。
中央駅のホームに、担架が降ろされる。軍の衛生兵が待機していて、負傷者を次々と運んでいく。
リヴィアは、自分の足で歩けるまで回復していた。
――駅の構内に出た瞬間。
声が、耳を打った。
「号外ォ! 号外だよォ!」
「聖都で凶行! 英雄カラム・ディート、テロリストに殺害さる!」
「祈りの国が、悪魔を匿った!」
新聞売りの少年たちが、束を抱えて走り回っていた。構内の人々が我先にとそれを買い、立ったまま読み耽っている。
「……嘘」
リズの声が震えた。
リヴィアは、一部を買った。
黒い見出しが、目に飛び込んでくる。
『聖都レムナスにて我が軍将校、革命組織リバースオーダーにより殺害』
『河の英雄カラム・ディート大尉(四十)、部下を庇い壮絶な最期』
『祈りの国、テロリストを庇護か』
記事の中央に、カラムの写真が載っていた。
軍服姿の、笑っていない証明写真。
――募兵ポスターに使われていた、あの写真だった。
「……なんで」
リヴィアの指が震えた。
「なんで、もう記事になってるの。……遺体は、まだ届いてもいないのに」
記事には、詳細が書かれていた。
彼が最後まで部下を庇ったこと。複数の敵に囲まれたこと。最期の言葉まで、書かれていた。
――誰も、そこにいなかったのに。
「……取材、されてない」
アシュが掠れた声で言った。
「俺たち、誰も、何も喋ってねえぞ」
ネロが、号外を凝視したまま動かなくなっていた。
「ネロ?」
「……この、号外」
彼の声は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
「印刷所の識別記号が、隅に入ってるんです。組版した日付と、時刻が分かる形式で」
「……それが?」
ネロは顔を上げた。その顔は、紙のように白かった。
「――組まれたの、六日前です」
沈黙が落ちた。
「六日前って……」
リズが指を折る。
「私たち、まだ、あの街に……」
「はい」
ネロの唇が震えていた。
「僕たちが、まだ生きて戦ってる時に。……この記事は、もう印刷所にありました」
構内の喧騒が、遠くなった。
――英雄の死体が一つあれば、戦争は始められる。
――新聞の見出しは、もう刷られているだろうよ。
夢の中の声が、耳の奥で鮮明に蘇った。
リヴィアは号外を握りしめた。紙が、手の中でくしゃりと歪んだ。
【葬列】
国葬は、三日後に行われた。
軍が決めた。黒翼に意見を求められることは、なかった。
「英雄の死は、国民のものです」
葬儀の段取りを説明しに来た軍の広報官は、そう告げた。
「大尉のご遺族は?」
リヴィアが聞くと、広報官は書類をめくった。
「……独身で、ご両親は他界。近親者は、確認できておりません」
「じゃあ、誰が決めたんですか」
「軍です」
当たり前のように、彼は答えた。
「彼はもう、軍と国家の英雄ですから」
当日は、皮肉なほどの快晴だった。
グランドアーカム前広場。白亜の塔の足元に、数万人の市民が集まっていた。
中央に、黒い絨毯の道。その上を、六頭立ての砲車が進んでくる。棺には、帝国旗が掛けられていた。
軍楽隊の葬送曲。整列した儀仗兵。捧げられる無数の白い花。
黒い絨毯の両脇には、葬送の灯明が並んでいた。魔石を仕込んだ背の高い燭台が、五十本。
半年前、この塔の大広間で見たシャンデリアより、明らかに弱い光だった。昼だから、ではない気がした。
黒翼の五人は、最前列に並ばされていた。
新品の礼装。磨かれた靴。傷はまだ癒えておらず、リズは杖をついていた。
周囲には記者たちがいた。絶えず焚かれる閃光。カメラのレンズ。
「もう少し悲しそうな顔を」と、誰かが小声で指示している。
「……くそが」
アシュが歯を食いしばった。
「なんで、こいつら」
「アシュ」
「なんで、俺らの顔を撮ってんだよ! あの人は、あんな……」
「アシュ!」
リズが彼の腕を掴んだ。その手も震えていた。
「……我慢して。お願いだから」
アシュは礼装の膝の布を掴んで、俯いた。
棺が壇の前に据えられ、弔辞が始まった。
【弔辞】
最初に登壇したのは、軍務省の高官だった。次に、参謀本部の将官。
どちらも、カラム・ディートという男を知らないことが、話し方で分かった。
――三人目。
「――空挺部総括隊長、レイリット・バンス中将」
名前が呼ばれた瞬間、リヴィアの背筋に冷たいものが走った。
壇上に上がってきたのは、あの初老の男だった。勲章だらけの胸。前頭部の薄い頭。
その手には――黒い革の鞄が、握られていた。
弔辞を読む場に、なぜ鞄を持ってくるのか。誰も、疑問に思っていないようだった。
レイリットは壇の中央に立ち、原稿を開く前に、一度だけ壇の下へ目をやった。
最前列。白い花に埋もれた棺の、そのさらに手前。金モールの並ぶ席がある。
リヴィアの位置からは、後頭部しか見えなかった。きっちりと分けられた、金の七三。
式次第に、その席の名前はなかった。
レイリットは視線を戻し、それから読み始めた。
「――諸君」
声が、拡声魔導具を通して広場に響き渡った。
「本日、我々は一人の英雄を送る」
群衆が静まり返る。
「カラム・ディート大尉は、いかなる特別な血筋の出でもない。……諸君らの多くと、同じだ」
巧い、とリヴィアは思った。
その一言で、数万人が自分と彼を重ねた。
「彼は、才能ではなく、努力と勇気で英雄になった。そして最期の瞬間まで、部下を庇い続けた」
群衆の中から、啜り泣きが聞こえ始める。
「――では、問おう」
レイリットの声が変わった。
「そのような男を、誰が殺した」
沈黙。
「テロリストである。……そして、そのテロリストを、いったい誰が匿っていたのか」
彼は、間を置いた。完璧な間だった。
「――祈りの国、レムナスである」
どよめきが広場を走った。
「彼らは言う。我らは戦争を放棄した、と。彼らは言う。我らは祈るのみだ、と」
レイリットの声が大きくなる。
「その祈りの陰で、彼らは悪魔を養っていた! 我が国の民を五百人殺した列車爆破の首謀者を! 諸君の隣人を殺した者たちを!」
群衆の熱が上がっていく。
「そして今、我らの英雄を殺した!」
「――そうだ!!」
誰かが叫んだ。
「許すな!!」
「英雄の仇を!!」
声が広がっていく。数万人の声が、うねりになっていく。
「彼の死を、無駄にしてはならない!」
レイリットが拳を掲げた。
「我々は、問わねばならない! 祈りとは何か! 正義とは何か! ――そして、我々は何をすべきなのか!」
「戦争を!!」
「聖都を討て!!」
「英雄の仇を討て!!」
広場が爆発した。
白い花に埋もれた棺の前で。数万人が、開戦を叫んでいた。
リヴィアは動けなかった。最前列で、その全部を聞かされていた。
(……違う)
喉の奥で、彼女は叫んだ。
(あの人は、そんなことのために死んだんじゃない)
――全員で、帰るぞ。
それだけを言い続けた男だった。誰かを討つためではなく、誰も死なせないために、二十年戦ってきた男だった。
その男の死が、今。何万人もの人間を戦争へ押し出すための、燃料になっている。
リヴィアの視界が歪んだ。
閃光が、焚かれた。
彼女の泣き顔が、翌日の一面に載った。
『英雄の部下、無言の涙』
――その涙の理由を書いた記者は、一人もいなかった。
【格納庫】
その夜。
黒翼の隊舎の格納庫に、灯りがついていた。
中央に、木箱を並べただけの簡素な卓。その上に、二つのものが置かれている。
一つは、二十年物の擦り切れた革のベルト。もう一つは、封蝋の押し型。特務課の双翼印。
国葬に出せなかった、彼の私物だった。
七人が、その周りに座っていた。黒翼の五人と、ジンとパイド。
誰も、正装はしていなかった。みんな、いつもの作業着と、いつもの軍服だった。
「……ほら、リーダー。安いやつしかなくて悪いな」
ジンが酒瓶の栓を抜いて、木箱の上に一つ注いだ。
「あんた、いつも隠し持ってた砂糖、俺が没収してたの、バレてたろ? ……ごめんな」
誰も、笑わなかった。笑おうとして、失敗した。
「……あたし」
リズが口を開いた。
「初任務の前の日、めちゃくちゃ怖くて。……眠れなくて、廊下うろうろしてたら、リーダーが出てきて」
声が震えた。
「『眠れねえのは正常だ』って。『眠れる奴の方が心配だ』って言われて。……それで、なんか、眠れたんです」
「……俺は」
アシュが俯いたまま言った。
「入隊した時、四刻だってだけで調子乗ってて。あの人に模擬戦で、二十秒で四回転がされた」
「……二十秒で四回?」
「四回だ。……悔しくて、その夜、一人で訓練場行ったら、あの人がいて」
彼は拳を握った。
「『来ると思ってたぞ』って、缶詰放ってきやがった」
「……ぼ、僕は」
ネロの声が掠れた。
「僕は、戦えないから、いつも足手まといで……」
彼の肩が震え始める。
「入隊した日に、辞めますって言ったんです。僕なんかいても、迷惑だから、って」
誰も、それを聞いたことがなかった。
「そしたら、あの人……」
ネロは顔を覆った。
「『お前の目が、俺の隊の命綱だ』って……」
彼はそこで、言葉を切った。
嗚咽が、格納庫に響いた。
「……ぼくの、せいで」
「ネロ?」
「なんでも、ないです……」
彼はそれ以上、口を開かなかった。
リヴィアは、その様子を見ていた。
――君の隊に、一人だけ、別の理由で眠れなくなる者が出る。
夢の中の声が、蘇りかけて。
(……気のせいよ)
彼女は、その考えを頭から追い出した。
扉が開いて、グレイが入ってきた。
彼は無言で卓に歩み寄り、酒を一つ注いで、下がった。
しばらく、誰も喋らなかった。
「……グレイ」
リヴィアが口を開いた。
「聞きたいことがある」
「……ああ」
「あの命令書。発令元を、調べた?」
格納庫の空気が張り詰めた。
「調べた」
グレイは答えた。
「特務課の記録には、通過履歴がない。参謀本部の起案書にも、該当する番号がない」
「……じゃあ、どこから」
「――さらに、上だ」
その一言に、全員が凍りついた。
参謀本部の、さらに上。この国でそこに立てる人間は、数えるほどしかいない。
「……なあ、少佐」
アシュが低い声で言った。
「あの任務は、なんだったんですか」
グレイは、木箱の上のベルトを見たまま動かなかった。
「……私、知ってるかもしれない」
リヴィアが言った。
全員が、彼女を見る。
「帰りの舟で、眠ってる間に、変な夢を見たの」
「夢?」
「たぶん、熱のせいの、ただの夢。……でも」
彼女は、木箱の上のベルトを見た。
「その夢の中で、誰かがこう言った。――君たちは、偵察に来たんじゃない。死にに来させられた、と」
沈黙。
「……そして、こうも。英雄の死体が一つあれば、戦争は始められる。新聞の見出しは、もう刷られている、と」
リズの唇が、微かに開いた。
「それ……」
「六日前の、号外」
ネロが震える声で言った。
「僕が調べた、あの……」
「ただの夢よ」
リヴィアは言った。
「熱で見た、夢。……でも」
彼女は顔を上げた。
「もし、あの夢が本当なら」
――あの街に、市民の死体は一つもなかった。
「グレイ。レムナスの戦闘記録に、市民の死者は何人と記録されてた?」
グレイの目が細くなった。
「……なぜ、それを」
「答えて」
彼はしばらく黙ってから、言った。
「――ゼロだ」
格納庫が静まり返った。
「あれだけの街が、無人だった。焼けた町も、住民の死者はゼロ。……報告を上げた将校が、あり得ないと注記を付けている」
リヴィアの背中を、氷が伝った。
夢が、二つ、当たった。
(……なにあれ)
あれは、なんだったのか。誰の声だったのか。
――そして、三つ目の予言は。
彼女は思わず、ネロの方を見た。
彼は俯いて、震えていた。
(……いいえ)
リヴィアは目を逸らした。
(考えすぎよ。ただの、夢)
解散の間際。
グレイが、木箱の上のベルトを手に取った。
そして、リヴィアの前に差し出した。
「……え」
「カラムさんの遺品だ。……国は、これを英雄の遺品として展示したがってる」
グレイの声は低かった。
「だが、これは、カラムさんが二十年締めてきたベルトだ。……展示品じゃない」
リヴィアは、それを受け取った。
重かった。
革は擦り切れ、留め具は変色し、内側には無数の傷がある。二十年分の重さだった。
「……いいの。私が」
「他に誰がいる」
グレイはそれだけ言って、背を向けた。
「……三日後、正式な辞令が出る。心づもりを」
扉が閉まった。
残された六人は、しばらくそのベルトを見ていた。
リヴィアは、それを胸に抱いた。
窓の外で、帝都の灯りがいつも通りに瞬いている。この街は、明日も戦争の話で持ちきりだろう。
(……あの人の名前は、渡さない)
彼女はベルトを強く抱きしめた。
(あなたが何のために生きて、何のために死んだかは、私たちが覚えてる)
格納庫の灯りが、消えた。




