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世界の狭間で君を待つ 〜【すべてを失った私が、隠してきた闇の力で世界に抗う】〜  作者: Sou
ディナシア帝国編

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祖国の落日

【夜明けのラッパ】


 空が白み始めた頃、窓の外が赤かった。


 朝焼けでは、なかった。


 最初に気づいたのは、音だった。


 鐘が鳴っていた。朝六時の鐘ではない。もっと速く、もっと激しく、狂ったように打ち鳴らされる連打。


 ――非常鐘。


 リヴィアが目を開けた時、セリウスはもう起き上がっていた。窓辺に立ち、都の方を見下ろしている。その背中が、こわばっていた。


「……セリウス?」


「――起きろ、リヴィア」


 声が、変わっていた。


 リヴィアは寝台から降り、窓辺へ駆け寄って――喉が詰まった。


 南の空が、赤い。


 都の南、国境の方角。地平線が燃えていた。黒い煙が幾筋も立ち上り、その根本で何かが赤く明滅している。


 空に、影があった。


 鳥ではない。雲でもない。巨大な、船の形をした影が、幾つも幾つも空を埋めていた。


 夜明けの空が、船で埋まっていた。


「……なに、あれ」


 応えは、返らなかった。


 船影の下から、火の点が幾つも降っていく。都の南――外郭の方角で、光が咲いた。一拍おいて、地響きが窓硝子を震わせる。


 水路沿いの家並みが、順に火に呑まれていくのが見えた。昨日まで洗濯物を干していた家々が。林檎飴を売っていた屋台の並ぶ通りが。


 リヴィアの膝が笑った。


「なんで……レムナスは、南から来るはずじゃ……」


「……いや」


 セリウスの声が掠れた。


「あの船、レムナスのじゃない」


「え?」


「レムナスに、あんな数の飛空艇はない。……あんな鋼の船、どこの国の――」


 言い終える前に、廊下で悲鳴が上がった。扉を叩く音。走る足音。誰かが誰かの名前を叫んでいる。


「起きろ! 全員起きろ!!」


「南の防壁が抜かれた!」


「王宮は!? 王宮は無事なの!?」


 塔の全域に、召集ラッパが鳴り響いた。


 白翼学級の、緊急招集。六年間、訓練でしか聞いたことのない音だった。


 セリウスが素早く制服に袖を通す。リヴィアも震える手でボタンを留めた。


 扉の前で、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。


 セリウスの顔から、昨夜の照れも笑顔も消えていた。残っていたのは、彼女が初めて見る、覚悟を決めた男の顔だった。


 リヴィアは震える指で、彼の制服の襟を直した。いつも曲がっている襟。何度も直してきた襟。


「……いつも、曲がってる」


「……悪い」


「直したから」


「ありがとう」


 短い、言葉のやりとりだった。それだけのことが、この朝は途方もなく大事なことに思えた。


「……リヴィア」


「うん」


「昨日の、言うって言ったやつ」


 彼は扉のノブに手をかけたまま言った。


「――終わったら、絶対に言う」


 その一言が、答えの代わりだった。


「……うん」


 リヴィアは頷いた。頷くことしか、できなかった。


 本当は、言いたかった。今、言って。後回しにしないで。


 鐘が鳴っていた。ラッパが鳴っていた。廊下では、級友たちが走っていた。


 だから彼女は、頷いた。


 二人は扉を開けて、走り出した。


【召集】


 講堂に、二十人が並んでいた。


 寝間着の上に制服を羽織っただけの者もいた。髪も直していない。靴紐も結べていない。


 窓の外は、赤かった。


「――静粛に!!」


 壇上のヴァレンス教官が、机を叩いた。その顔には血が滲んでいた。既にどこかで戦ってきた顔だった。


「状況を伝える。南の外郭が、三十分前に突破された。敵は現在、第二区画まで侵入」


 講堂が、ざわめいた。


「――静粛に!」


「先生、レムナス軍が、なんでもう都に……!?」


「国境から都まで、馬でも二日はかかるはずです!」


「空から来た」


 教官の言葉に、講堂が静まり返った。


「飛空艇だ。数、およそ四十。……我が国の防空術式は、十二隻を落としたところで沈黙した」


「沈黙?」


「――理由は、後だ」


 ヴァレンスは地図を広げた。


「王宮が、市民の退避を発令した。避難路は北門。学院にも下級生が四百名いる。……我々の任務は、その退避の援護だ」


 彼は生徒たちを見回した。


「白翼学級。お前たちは、この国が六年かけて育てた最高の魔導士候補だ。……が、まだ学生だ」


 教官の拳が震えていた。


「本来なら、お前たちも逃がすべきだ。王宮警備は南で崩れ、王都守備隊は分断された。……今、下級生を守れる手が、お前たちしかいない」


 沈黙が落ちた。


 誰も、逃げると言わなかった。言えなかったのかもしれない。


 リヴィアは、周りの顔を見た。


 ダリオの顔が真っ青だった。いつも一番声の大きい男が、拳を握って震えている。リゼルは口元を押さえて俯いていた。エルナは名簿を胸に抱えたまま、瞬きもしていない。


 誰も、怖くないわけがなかった。昨日まで、卒業後の話をしていたのだ。


「……了解です」


 最初に答えたのは、ルーカスだった。


 学級委員長の顔は青白かった。それでも、まっすぐ前を向いていた。


「配置を、指示してください」


 その一言で、講堂の温度が変わった。


「……ずるいわよ、ルーカス」


 セラフィナが髪をかき上げた。


「あなたが先に言ったら、私が断れないじゃない」


「断ってもいい」


「断らないわよ。……お家の名折れだもの」


「……了解」


 トバイアスが短く言った。


 ダリオが、震える拳をぱんと自分の頬に叩きつけた。


「うっしゃ! やってやる!」


「声でかい」


「うるせえカイル! こうしないと足が動かねえんだよ!」


「……知ってる」


 カイルは笑おうとして、失敗した。


 ヴァレンスは目を伏せ、それから頷いた。


「二班に分ける。第一班は下級生の誘導。第二班は、東通りの遅滞防御」


 配置が読み上げられていく。


 ウィノナ、リゼル、コリン、エルナ――誘導班。


 ティナ、カイル、トバイアス、ダリオ、セラフィナ――防御班。


「クレイド、アークライト、ノクス。……お前たち三人は、防御班の要だ」


「はい」


 三人の声が揃った。


 解散の直前、セリウスが一歩前に出た。


「先生」


「なんだ」


「――下級生、何人います」


「四百二名だ」


「四百二人、全員逃がしますよ」


 彼はいつもの調子で言った。いつもの調子で言おうと、していた。


「……卒業前に、これ以上補習増やされたくないんで」


 誰かが、小さく笑った。笑い声は、すぐに消えた。


【東通り】


 白の塔を出た瞬間、熱風が顔を叩いた。


 都が燃えていた。


 白い石畳が、炎を映して赤い。水路の水は熱で湯気を上げ、街路樹は炭になっている。


 昨日の夕方、リヴィアはこの道を歩いた。パン屋の前を通り、水路の橋を渡り、市場で果物を買った。その全部が、今は炎の中にある。


 橋の袂で、馬車が横倒しになって燃えていた。その傍らに荷物が散乱している。旅行鞄。子供の靴。割れた瓶。持ち主の姿は、どこにもなかった。


 空には、鋼鉄の船影。滑らかな金属の腹が朝の光を鈍く跳ね返し、その下面の開いた口から、火の雨が規則正しい間隔で降り続けている。あれには詠唱の間も、術式の予兆も、何ひとつ見えなかった。ただ機械が仕事をしているだけの静けさで、街がひとつずつ消されていく。


 昨日と今日の間に、世界が入れ替わってしまったようだった。


「――こっちです! 押さないで! 走らないで!」


 北へ続く大通りを、下級生たちの列が流れていく。


 ウィノナが声を張り上げ、リゼルが泣いている子の手を引き、エルナが人数を数えていた。


「二百十八……二百十九……」


「エルナ、数えなくていいから走って!」


「数えます! 全員、数えます!」


 その列と逆行して、防御班は東通りへ向かった。


 東通りは、旧市街の狭い石畳の道だ。両側に古い商店が肩を寄せ合って並び、道幅は馬車一台がやっと通れるかどうかしかない。石畳は百年分の轍で真ん中がわずかに窪み、雨の日には水が溜まるので、住人はいつも端を歩く。


 ――ここで、敵の進行を止める。


「配置につけ! 建物の陰を使え、道の真ん中に立つな!」


 ヴァレンス教官の指示が飛ぶ。


「ティナ、右手の屋根! トバイアス、正面! クレイド、ノクス、アークライト――お前たちは中央後方だ! 突破された時の最後の壁になる!」


「はい!」


 リヴィアはレイピアを抜いた。


 手が震えていた。訓練用の刃ではない。学院の武器庫から出された、本物の真剣だった。


「……リヴィア」


 隣で、セリウスが言った。


「大丈夫か」


「……震えてる」


「俺も」


 見ると、彼の指も震えていた。震えたまま、彼は笑った。


「な。お互い様だ」


 その笑顔に、少しだけ呼吸が楽になった。


「――来るぞ!!」


 通りの向こうから、足音が聞こえてきた。軍靴の音。金属の音。


 炎の照り返しの中に、影が現れた。


 鎧を着た兵士たちだった。白と金の意匠。レムナスの、聖印。


「……あれ」


 ティナが、屋根の上から呟いた。


「なんで、あの人たち……」


 兵士たちの後ろに、別の一団がいた。


 濃緑の軍服。見たことのない紋章。


 彼らが担いでいる、黒い箱。


 それが何かを、誰も知らなかった。


【黒い箱】


 最初の交戦は、エルデナ側が押した。


 当然だった。白翼学級は、国が六年かけて育てた精鋭だ。六歳から実技を叩き込まれた十八歳の魔導士が、十人以上いる。


「行くわよ! 右翼!」


 ティナの投げた火球が、先頭の兵士たちを吹き飛ばした。


 トバイアスが無言で踏み込み、三人の兵を一息に薙ぐ。ダリオが盾ごと兵士を押し返し、カイルが後方から的確に狙撃する。セラフィナの精緻な氷結術が、通りの一角を凍らせて足止めした。


「押してる! いける!」


 カイルの声が弾んだ。


 実際、通りの敵は後退し始めていた。


 狭い石畳の道は防御に向いている。左右の商店の二階からティナとカイルが射線を作り、正面をトバイアスとダリオが塞ぐ。セラフィナが足元を凍らせ、そこへリヴィアの黒い斬撃が滑り込む。


 教科書通りの完璧な連携だった。六年間、演習場で何百回も繰り返してきた形。


「三人抜けた! 左!」


「はいはい!」


 ティナの火球が、路地へ回り込もうとした兵を炙り出す。その足元を、リヴィアの闇が薙いだ。


 目が合った。ティナが、親指を立てる。


 このまま押し切れる。八人が八人とも、そう見ていた。


 ――だから、油断したわけではなかった。


 ただ、そういうものがこの世に存在すると、誰も知らなかっただけだ。


「油断するな! まだ本隊が――」


 ヴァレンスの声が、途中で止まった。


 敵の後方で、濃緑の軍服の男たちが黒い箱を地面に置いたからだ。


 箱の側面に、細い光の線が走る。


 ――ヴン、と。


 空気が、鳴った。


 音ではなかった。音より、もっと深いところで何かが震えた。


 ティナの掌の火球が、ふっと消えた。


「……え?」


 セラフィナの氷が、割れて溶けた。トバイアスの纏っていた身体強化の光が、剥がれ落ちた。


 空気の底で常に鳴っていた魔素の唸り――生まれた時から聞いてきたはずのその音が、ぷつりと途切れた。


「……なに、これ」


 リヴィアは掌に魔力を集めようとした。


 ――何も、来なかった。


 体の奥に手を伸ばしても、そこには何もない。空っぽの、暗い井戸。


 自分の一部が、まるごと切り取られたようだった。


「魔法が……出ない……!?」


「詠唱が……散る……! 術式が、組めない!」


「なんで!? なんでよ!!」


 パニックが通りに広がった。


 六歳から魔法と共に生きてきた子供たちだった。彼らにとって魔力とは、手足と同じ、体の一部だった。その手足を、いきなりもぎ取られたのだ。


 その一秒の混乱を、敵は逃さなかった。


「――撃てェ!!」


 銃声が、東通りを埋めた。石畳に火花が散り、商店の窓硝子が砕け散る。


 最初に倒れたのは、ダリオだった。


 盾を張ろうとして――張れずに、そのまま。


「ダリオ!!」


「うっ……」


 彼は驚いた顔のまま、膝から崩れた。何が起きたのか分かっていない顔だった。


 六年間、実技の授業のたびに真っ先に突っ込んで、真っ先に転がされて、そのたびに大声で笑っていた男。その男が、声も上げずに石畳に伏した。


 誰よりも大きな声で笑う男が、一番静かに死んだ。


「ダリオ!! ダリオォ!!」


 カイルが遮蔽から飛び出そうとした。その襟を、ルーカスが掴んで引き戻す。


「行くな!!」


「離せ!! あいつまだ……!」


「――行くなァ!!」


 委員長の声が裂けていた。


「散れ!! 建物の中へ!! 魔法に頼るな!!」


 ヴァレンス教官が吼えた。


「壁を使え! 遮蔽を使え! ――走れ!!」


【地獄】


 そこから先は、戦闘ではなかった。


 虐殺だった。


 魔法を奪われた魔導士は、ただの十八歳の子供だった。剣は握れる。走れる。それだけだ。六年かけて磨いた技術のすべてが、意味を失っていた。


「うわああああ!!」


 商店の中に逃げ込んだ生徒たちを、兵士が追ってくる。


 トバイアスが、剣一本で三人を斬り伏せた。


 魔法がなくても、彼は強かった。六年間、誰よりも黙って剣を振り続けてきた男だった。


 四人目を斬り、五人目の腕を折り――六人目の銃弾が、彼の肩を貫いた。


「トバイアス!!」


「……下がれ」


 血を吐きながら、彼は前に立った。


「……お前らは、下がれ」


 振り向かなかった。振り向く時間が惜しかったのか、それとも――顔を見せたくなかったのか。


 その背中に、二発目が入った。膝が落ちる。彼は剣を杖にして、立ち上がろうとした。


 三発目で、動かなくなった。


 寡黙な少年は、最後まで何も言わずに倒れた。


 ――そのすぐ後だった。


 路地の入口で、悲鳴が上がった。下級生の一団が逃げ遅れていた。


「――こっちよ!! 早く!!」


 セラフィナだった。


 彼女は子供たちを路地の奥へ押し込み、自分は入口に立った。


 魔法は、使えない。彼女は両手を広げて、そこに立った。


「――エルデナ王国、ロウ家の名において」


 誇り高い令嬢の声が、燃える路地に響いた。


「――ここは、通しません」


 銃声が、続けざまに鳴った。


 リヴィアが見たのは、その一瞬だけだった。


 六年前、家名を尋ねて空気を止めた令嬢。実技で誰よりも早く相手を探した少女。その手が、小さな子の背中を最後まで押していたのを。


 ――東通りの防衛線は、十五分で崩れた。


「北へ! 北へ走れ!!」


 誰かが叫んだ。


 燃える街を、生徒たちが走った。崩れた家。倒れた人。泣き叫ぶ声。昨日まで果物を売っていた店の前で、店主が動かなくなっている。


 狭い路地を曲がった先で、リヴィアはカイルを見つけた。


 彼は、瓦礫の下に埋まった下級生の腕を素手で掘り起こしていた。


「カイル! 逃げないと!」


「あと少し! この子、まだ生きてる!」


 彼の指は、爪が剥がれて血だらけだった。


「手伝う!」


 二人で石を退けた。小さな腕が瓦礫から抜けた。六歳か七歳の女の子だった。気を失っているが、息はある。


「よし――」


 カイルがその子を抱き上げた瞬間、建物が崩れた。


 火が回っていた梁が、頭上から落ちてきたのだ。


「カイル!!」


 彼は咄嗟に、子供を突き飛ばした。


 自分は、逃げなかった。逃げられなかった。


 瓦礫の音が、耳を潰した。


 土煙が晴れた時。崩れた壁の下から、伸ばされた手だけが見えていた。


「……カイル」


 リヴィアは、その手を掴んだ。


 温かかった。まだ、温かかった。


「カイル! カイル!!」


 彼女は瓦礫を掴んだ。持ち上がらない。魔法があれば、持ち上げられた。


 でも、魔法は、なかった。


「動いて……! お願い、動いてよ……!!」


 爪が割れた。指の皮が剥けた。石は動かなかった。


 ――握った手から、少しずつ温度が抜けていく。


「リヴィア!」


 背後から、グレイが駆けてきた。


「行くぞ!!」


「まだ! まだカイルが……!」


「――もう、遅い!!」


 グレイは彼女の腕を掴んで、無理やり引き剥がした。


 突き飛ばされた女の子が、泣きながら座り込んでいた。グレイはその子を抱え上げ、もう片方の手でリヴィアの腕を掴んだまま走り出した。


 リヴィアは走りながら、何度も転んだ。視界が涙で歪んでいた。


「リヴィア! 立て!」


「セラフィナが……セラフィナが、まだ……!」


「見た! 見たから走れ!!」


 グレイの声は掠れていた。彼も見ていたのだ。あの路地の入口で、誇り高い令嬢が最後に何をしたのかを。




 水路の橋の上で、ティナに追いついた。


 走りながら、リヴィアは何度も掌を握り、開いた。


 魔力を、探した。六年間、当たり前にそこにあったもの。水晶を割り、教官を驚かせ、セリウスと打ち合ったもの。


 ――何も、なかった。


 ただの、十八歳の女の子の手だった。


(なんで)


 こんな時に。


(なんで、今なの)


「ティナ!」


「リヴィア!! 無事なの!?」


 赤い三つ編みが、煤で黒く汚れていた。


「ウィノナたちは!?」


「北門まで行った! 下級生も、たぶん、半分は……」


 上空で、船影が旋回した。


「――伏せろ!!」


 火の雨が、橋に降った。


 轟音。衝撃。飛び散る石。


 リヴィアが顔を上げた時、橋の半分が崩落していた。


 対岸に、ティナが倒れていた。


「……ティナ?」


 彼女はうつ伏せに倒れて、動かなかった。


「ティナ!! ティナ!!」


 リヴィアは崩れた橋の縁に走った。


 跳べる距離ではなかった。魔法があれば、跳べた。


 でも、魔法は、なかった。


「ティナ!! 起きて!! ねえ!!」


 対岸で、ティナの指がかすかに動いた。顔が、こちらを向く。


 煤と血に汚れた顔で――彼女は、笑った。


「……りっ、ヴィ、ア……」


「ティナ!!」


「……にげ、なさい……」


「いや! 待ってて! 今そっちに――」


 リヴィアは崩れた橋の縁で、必死に足場を探した。跳べない。落ちた瓦礫は、川面まで十メートル以上ある。


「ティナ! 動かないで! 誰か! 誰か助けて!!」


 ティナの唇が動いた。声は届かなかった。


 でも、リヴィアには読めた。


 ――ば、か。


 六年間、何百回と言われた言葉だった。


 その口が、何かを言おうとして。


 二度目の火の雨が、対岸を呑んだ。


 赤い光が、彼女の姿を消した。


「――ティナああああああ!!!」


 リヴィアの絶叫が、燃える都に響いた。


 彼女は崩れた橋へ飛び込もうとした。その体を、グレイが後ろから羽交い締めにした。


「離して!! ティナが!! まだ、あそこに!!」


「――やめろ!!」


「離してよ!! グレイ!!」


「もういない!!!」


 グレイの叫びが、彼女の耳を打った。


「もう、いないんだ……!!」


 その声は、泣いていた。


 振り返ったリヴィアが見たのは、顔をぐしゃぐしゃにして、腕の力を緩めない幼馴染の顔だった。


【白の塔の下で】


 北門へ続く最後の広場に、生き残りが集まっていた。


 そこへ辿り着くまでに、リヴィアはいくつもの光景を見た。


 崩れた聖堂の前で、司祭が瓦礫を掘り続けていた。もう誰も答えないと分かっているのに、掘り続けていた。


 水路には、白い布が浮いていた。願いの日に結ばれた布が、燃え落ちた枝ごと流れていた。


 一枚だけ、文字が読めた。


『家族が健康でありますように』


 ウィノナが去年、書いた願いだった。


 誰かが踏まないように、リヴィアはそれを拾って懐に入れた。そんなことをしている場合ではないと分かっていた。それでも、拾わずにはいられなかった。


 ――広場に着いた。


 二十人だった白翼学級は。


 ――八人になっていた。


 ヴァレンス教官は、片腕を失っていた。布で縛り上げただけの傷から、血が流れ続けている。


「……ウィノナ、リゼル、無事か」


「はい……はい……っ」


 ウィノナの眼鏡は割れ、リゼルは声も出せずに震えていた。


「下級生の退避状況は」


「……三百八十七名、北門を通過しました」


 エルナが震える声で報告した。


「残りは……十五名、確認できていません」


「……そうか」


 教官は目を閉じた。


「よくやった」


 広場の南から、地響きが聞こえた。


 敵の本隊が追いついてきていた。濃緑の軍服。黒い箱を運ぶ一団。その後ろに、無数の兵。


 誰も、動けなかった。


 魔法は使えない。教官は片腕を失い、生き残った生徒は八人で、そのうち半分は自分の足で立っているのがやっとだった。数えるまでもなく、勝ち目という言葉が意味を持たない配置だった。


 ――ここまでか。


 その言葉が、全員の頭に同時に浮かんでいた。


「――先に、行け」


 声がした。


 セリウスだった。彼は広場の中央へ、一人で歩み出ていた。


「……セリウス?」


「クレイド、何を」


「箱がある限り、俺たちは戦えない」


 彼は振り返らずに言った。


「なら、箱を壊す。……あれさえ潰せば、みんな戦える」


「そんな、無茶よ! 敵の真ん中じゃない!」


「無茶だな」


 セリウスは笑った。


「でも、他に手がないだろ」


 彼は双剣を抜いた。


 リヴィアは、そこで気づいた。


 彼の剣の刃に、薄く、光が纏っている。


「……セリウス、あなた、魔法が」


「使えるんだよ、なぜか」


 彼は自分の掌を見た。


「さっきから、少しずつ。……箱の中でも、俺のだけ、消えない」


 誰にも、その理由は分からなかった。


「先生。俺が箱を潰します。三十秒あれば足ります」


「……クレイド」


「その三十秒で、みんなを北門へ」


 ヴァレンスはしばらく彼を見つめて、それから深く頭を下げた。


「……すまん」


「やめてくださいよ。教官が謝ると、本当に死ぬみたいじゃないですか」


 セリウスは軽く言った。


 それから、リヴィアの方を向いた。


「――リヴィア」


「……いや」


 彼女は首を振った。


「いや。行かないで」


「大丈夫だって」


「大丈夫じゃない! あなた一人で、あんな数……!」


「一人じゃないよ。すぐ追いつく」


「嘘!」


 リヴィアは彼の腕を掴んだ。指が白くなるほど強く。


「私も行く。二人なら――」


「駄目だ」


 初めて、彼が彼女の言葉を遮った。


「……なんで」


「お前が来たら、俺、全力で戦えない」


 落ち着いた声だった。


「お前を庇いながらじゃ、箱まで届かない。……分かるだろ」


 分かってしまった。


 六年間、何百回と組み手をしてきた二人だからこそ、分かってしまった。彼の言う通りだった。


「……ずるい」


「悪い」


 彼は、彼女の頭にぽんと手を置いた。いつもみたいに。


「先に行っててくれ、リヴィア」


 燃える街の光が、彼の金髪を赤く染めていた。


「――あとで、絶対追いつくから」


「……嘘つき」


「嘘つかないって、言っただろ」


 彼は笑った。あの、太陽みたいな顔で。


「昨日の話、まだ残ってるしな。……ちゃんと言うって、約束したろ」


 リヴィアの視界が涙で歪んだ。


「……絶対よ」


「おう」


「絶対、追いついて」


「……ああ」


 セリウスは頷いた。


 その手が、一瞬だけ彼女の頬に触れた。煤で汚れた指だった。昨夜、髪を梳いた、同じ指だった。


「……行ってくる」


 それが、最後の言葉になった。


 彼はグレイを見た。


 二人は、口を開かなかった。ただ、拳を一度だけ合わせた。それが六年分の会話の全部だった。


「――グレイ。頼んだ」


「……ああ」


 セリウスは背を向けた。


「――行くぞォ!!」


 彼は燃える広場を、たった一人で駆け出した。


【三十秒】


 光が、爆ぜた。


 敵陣のど真ん中で、白い光が奔る。黒い箱を守る濃緑の兵士たちが、次々と吹き飛ばされていく。


 剣が閃くたび、光の帯が空を裂き、敵の陣形が崩れていく。


 ――速い。


 走りながら、リヴィアは思った。


 演習場で見てきた、あの動きではなかった。もっと鋭く、もっと苛烈で。命を惜しんでいない者の動きだった。


 銃口が、彼を追う。弾が外套を掠める。腕を掠める。


 彼は止まらなかった。


 一つ目の黒い箱まで、あと十歩。立ち塞がる兵士を、光の斬撃が薙ぎ払う。振り下ろされた剣を体を捻って避け、返す刃で相手の得物を断つ。


 あと五歩。


 背後から迫った兵の一撃が、彼の背中を裂いた。血が飛んだ。


 彼は、振り返らなかった。


 あと一歩。


「――どけええええ!!」


 双剣が交差した。


 白い光が十字に走り、黒い箱が砕けた。


「――今だ!! 走れ!!」


 ヴァレンスの号令で、八人が北門へ走り出した。


 リヴィアは走りながら、何度も振り返った。炎の中で、金色の光が暴れている。


 黒い箱の一つが砕けた。それだけで、世界の底の音が戻ってきた。体の奥の井戸に、水が満ちる感覚。


「魔法が……!」


「使えるわ! みんな、走って! もっと速く!」


 ウィノナの声。


 北門が見えてきた。


 ――魔法が、戻った。


 それはつまり、今なら戻れるということだった。


 リヴィアの足が鈍る。


(……戻れる。今なら、加勢に――)


「行くな」


 グレイの手が、彼女の腕を掴んだ。


「あいつが、なんのために一人で行ったと思ってる」


「でも……!」


「走れ!」


 背後で、二つ目の箱が砕ける音がした。


 金色の光が、一瞬だけ大きく膨れ上がり――


 消えた。


「……え」


 リヴィアの足が止まった。


 振り返る。


 燃える広場の中央に、光はもう無かった。


「……セリウス?」


 煙が渦を巻いている。その中に、金髪の影を探した。


 いない。


「セリウス……?」


 足が、勝手に戻ろうとした。


「――リヴィア!!」


 グレイが彼女の腕を掴んだ。


「離して!! セリウスが……!!」


「行くな!!」


「まだ生きてる!! 絶対生きてる!! 追いつくって言った!!」


「リヴィア!!」


「離してよ!!!」


 彼女は暴れた。殴った。爪を立てた。グレイは離さなかった。


「セリウス!! セリウスううう!!!」


 喉が裂けた。声が掠れても、叫んだ。


「セリウス!! 返事して!! ねえ!!」


 燃える広場の向こうで、炎が音を立てている。崩れる建物。爆ぜる火の粉。遠くの悲鳴。その全部が、彼女の声を呑み込んでいく。


「――セリウス!! 約束したでしょ!! 嘘つかないって!! 言ったじゃない!!」


 答えは、返ってこなかった。炎の音だけが、返ってきた。


「……いやだ」


 膝から力が抜けた。


「いやだ……いやだよ……」


 彼女は地面に崩れ落ちた。


 昨夜、この人と手を繋いだ。昨夜、この人が名前を呼んだ。明日ちゃんと言う、と言った。


 ――その「明日」は、まだ来ていないのに。


「……まだ、聞いてない」


 掠れた声だった。


「あなたの言葉、まだ、聞いてないのに……!」


 グレイは泣きながら、彼女を引きずった。北門へ。生き残るために。その腕は、血が滲むほど強く彼女を掴んでいた。


「……ごめん」


 その言葉だけを、彼は何度も繰り返した。


「ごめん、リヴィア。……ごめん」


 誰に謝っているのか、自分でも分からない声だった。


 北門をくぐる直前、リヴィアは最後にもう一度、振り返った。


 白の塔が燃えていた。六年間、彼女の家だった塔が。


 その向こうで、都の中心の白樹――エルデ樹が、根本から赤い炎に包まれていた。


 千年、この街を見守ってきた樹。願いの布を結んだ枝が、光を撒きながら崩れ落ちていく。


 ――ずっと、みんなといられますように。


 その願いが、火の中で灰になった。


【夜明け】


 彼らが丘を越えたのは、明け方だった。


 振り返ると、遠くに赤い光の塊が見えた。それが、エルデナ王国の最後の姿だった。


 丘の上には、数百人の避難民がいた。毛布を分け合う者、名前を呼びながら人の間を歩き回る者、何も持たずに膝を抱えて座り込んでいる者。誰も、後ろの空を見ようとしなかった。


 白翼学級の生き残りは、七人になっていた。


 ヴァレンス教官は、丘を登り切る前に動かなくなった。片腕を縛った布は、とっくに血を吸いきって重くなっていて、生徒たちが交代で肩を貸しながら登ってきた最後の百歩で、彼はもう自分の足をほとんど使っていなかった。


 最期に彼が言ったのは、生徒の名前だった。二十人分。ひとりずつ、順番に。六年間、毎朝の点呼で読み上げてきた順番のままだった。


 全部言い終える前に、声が途切れた。


 誰も、泣かなかった。泣く力が残っていなかった。


 夜が明けていく丘の上で、ウィノナがふらふらと立ち上がった。


 彼女は割れた眼鏡を押し上げて、生き残りを数え始めた。


「……グレイ、リヴィア、私、リゼル、エルナ、ルーカス、コリン」


 指を折りながら、何度も、何度も数え直した。


「……七人」


「ウィノナ」


「もう一回、数えるわ。誰か、隠れてるかもしれないし」


「ウィノナ、やめて」


「数えるの!」


 彼女はそう叫んで、その場に座り込んだ。


「……二十人、いたのよ」


 肩が震えていた。


「昨日の朝は、二十人いたのよ……!」


 リゼルが、彼女を抱きしめた。治癒魔法を使える少女の手は、この夜、誰も救えなかった。


「……私、なんの役にも立たなかった」


 リゼルの声が震える。


「治せない怪我ばっかりで……みんな、死ぬところしか、見られなくて……」


「そんなこと――」


「ダリオの時も、トバイアスの時も、間に合わなくて……!」


 彼女は初めて、声を上げて泣いた。


 ルーカスは、少し離れた場所で一人で立っていた。


 委員長の彼は、点呼を取らなかった。取れば、いない者の名前を呼ぶことになるからだ。


 リヴィアは地面に座り込んだまま、燃える都を見ていた。目は乾いていた。もう、涙が出なかった。


「……リヴィア」


 隣に、グレイが座った。彼の顔にも、涙の跡が乾いていた。


「……生きるぞ」


 掠れた声だった。


「……なんで」


「え?」


「……なんで、生きなきゃいけないの」


 リヴィアは燃える街を見たまま言った。


「みんな、死んだ。ティナも、トバイアスも、ダリオも、セラフィナも……先生も。セリウスも」


 名前を呼ぶたび、胸が抉れた。


「私だけ、なんで」


 グレイは、しばらく黙っていた。


 やがて、彼は言った。


「……分からない」


 正直な声だった。


「なんで俺たちが生きてて、あいつらが死んだのか。……分からない」


「…………」


「でも、あいつは、俺たちを逃がした」


 彼は拳を握った。


「あいつが最後にしたことを、無駄にしたくない。……それだけだ」


 東の空が白み始めていた。稜線の縁から順に藍が薄れ、丘の草の一本ずつに色が戻っていく。避難民のどこかで赤ん坊が泣き出し、母親らしい声がそれをあやしていた。昨日と同じ手順で、朝が来ようとしていた。


 こんな夜の後でも朝は来るのだと、リヴィアはぼんやり思った。


 彼女は胸元に手をやった。


 銀のペンダントが、そこにあった。見たこともない紋様が刻まれた、たった一つの持ち物。


 燃える故郷の光が、その銀を赤く染めていた。




 ――誰かに、運ばれている。


 揺れる。焦げた匂い。誰かの荒い息。誰かが名前を呼んでいる。


 燃えているのは、白い都だった。十年前の街では、なかった。


 リヴィアの意識は、また闇へ落ちた。



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