祖国の落日
【夜明けのラッパ】
空が白み始めた頃、窓の外が赤かった。
朝焼けでは、なかった。
最初に気づいたのは、音だった。
鐘が鳴っていた。朝六時の鐘ではない。もっと速く、もっと激しく、狂ったように打ち鳴らされる連打。
――非常鐘。
リヴィアが目を開けた時、セリウスはもう起き上がっていた。窓辺に立ち、都の方を見下ろしている。その背中が、こわばっていた。
「……セリウス?」
「――起きろ、リヴィア」
声が、変わっていた。
リヴィアは寝台から降り、窓辺へ駆け寄って――喉が詰まった。
南の空が、赤い。
都の南、国境の方角。地平線が燃えていた。黒い煙が幾筋も立ち上り、その根本で何かが赤く明滅している。
空に、影があった。
鳥ではない。雲でもない。巨大な、船の形をした影が、幾つも幾つも空を埋めていた。
夜明けの空が、船で埋まっていた。
「……なに、あれ」
応えは、返らなかった。
船影の下から、火の点が幾つも降っていく。都の南――外郭の方角で、光が咲いた。一拍おいて、地響きが窓硝子を震わせる。
水路沿いの家並みが、順に火に呑まれていくのが見えた。昨日まで洗濯物を干していた家々が。林檎飴を売っていた屋台の並ぶ通りが。
リヴィアの膝が笑った。
「なんで……レムナスは、南から来るはずじゃ……」
「……いや」
セリウスの声が掠れた。
「あの船、レムナスのじゃない」
「え?」
「レムナスに、あんな数の飛空艇はない。……あんな鋼の船、どこの国の――」
言い終える前に、廊下で悲鳴が上がった。扉を叩く音。走る足音。誰かが誰かの名前を叫んでいる。
「起きろ! 全員起きろ!!」
「南の防壁が抜かれた!」
「王宮は!? 王宮は無事なの!?」
塔の全域に、召集ラッパが鳴り響いた。
白翼学級の、緊急招集。六年間、訓練でしか聞いたことのない音だった。
セリウスが素早く制服に袖を通す。リヴィアも震える手でボタンを留めた。
扉の前で、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。
セリウスの顔から、昨夜の照れも笑顔も消えていた。残っていたのは、彼女が初めて見る、覚悟を決めた男の顔だった。
リヴィアは震える指で、彼の制服の襟を直した。いつも曲がっている襟。何度も直してきた襟。
「……いつも、曲がってる」
「……悪い」
「直したから」
「ありがとう」
短い、言葉のやりとりだった。それだけのことが、この朝は途方もなく大事なことに思えた。
「……リヴィア」
「うん」
「昨日の、言うって言ったやつ」
彼は扉のノブに手をかけたまま言った。
「――終わったら、絶対に言う」
その一言が、答えの代わりだった。
「……うん」
リヴィアは頷いた。頷くことしか、できなかった。
本当は、言いたかった。今、言って。後回しにしないで。
鐘が鳴っていた。ラッパが鳴っていた。廊下では、級友たちが走っていた。
だから彼女は、頷いた。
二人は扉を開けて、走り出した。
【召集】
講堂に、二十人が並んでいた。
寝間着の上に制服を羽織っただけの者もいた。髪も直していない。靴紐も結べていない。
窓の外は、赤かった。
「――静粛に!!」
壇上のヴァレンス教官が、机を叩いた。その顔には血が滲んでいた。既にどこかで戦ってきた顔だった。
「状況を伝える。南の外郭が、三十分前に突破された。敵は現在、第二区画まで侵入」
講堂が、ざわめいた。
「――静粛に!」
「先生、レムナス軍が、なんでもう都に……!?」
「国境から都まで、馬でも二日はかかるはずです!」
「空から来た」
教官の言葉に、講堂が静まり返った。
「飛空艇だ。数、およそ四十。……我が国の防空術式は、十二隻を落としたところで沈黙した」
「沈黙?」
「――理由は、後だ」
ヴァレンスは地図を広げた。
「王宮が、市民の退避を発令した。避難路は北門。学院にも下級生が四百名いる。……我々の任務は、その退避の援護だ」
彼は生徒たちを見回した。
「白翼学級。お前たちは、この国が六年かけて育てた最高の魔導士候補だ。……が、まだ学生だ」
教官の拳が震えていた。
「本来なら、お前たちも逃がすべきだ。王宮警備は南で崩れ、王都守備隊は分断された。……今、下級生を守れる手が、お前たちしかいない」
沈黙が落ちた。
誰も、逃げると言わなかった。言えなかったのかもしれない。
リヴィアは、周りの顔を見た。
ダリオの顔が真っ青だった。いつも一番声の大きい男が、拳を握って震えている。リゼルは口元を押さえて俯いていた。エルナは名簿を胸に抱えたまま、瞬きもしていない。
誰も、怖くないわけがなかった。昨日まで、卒業後の話をしていたのだ。
「……了解です」
最初に答えたのは、ルーカスだった。
学級委員長の顔は青白かった。それでも、まっすぐ前を向いていた。
「配置を、指示してください」
その一言で、講堂の温度が変わった。
「……ずるいわよ、ルーカス」
セラフィナが髪をかき上げた。
「あなたが先に言ったら、私が断れないじゃない」
「断ってもいい」
「断らないわよ。……お家の名折れだもの」
「……了解」
トバイアスが短く言った。
ダリオが、震える拳をぱんと自分の頬に叩きつけた。
「うっしゃ! やってやる!」
「声でかい」
「うるせえカイル! こうしないと足が動かねえんだよ!」
「……知ってる」
カイルは笑おうとして、失敗した。
ヴァレンスは目を伏せ、それから頷いた。
「二班に分ける。第一班は下級生の誘導。第二班は、東通りの遅滞防御」
配置が読み上げられていく。
ウィノナ、リゼル、コリン、エルナ――誘導班。
ティナ、カイル、トバイアス、ダリオ、セラフィナ――防御班。
「クレイド、アークライト、ノクス。……お前たち三人は、防御班の要だ」
「はい」
三人の声が揃った。
解散の直前、セリウスが一歩前に出た。
「先生」
「なんだ」
「――下級生、何人います」
「四百二名だ」
「四百二人、全員逃がしますよ」
彼はいつもの調子で言った。いつもの調子で言おうと、していた。
「……卒業前に、これ以上補習増やされたくないんで」
誰かが、小さく笑った。笑い声は、すぐに消えた。
【東通り】
白の塔を出た瞬間、熱風が顔を叩いた。
都が燃えていた。
白い石畳が、炎を映して赤い。水路の水は熱で湯気を上げ、街路樹は炭になっている。
昨日の夕方、リヴィアはこの道を歩いた。パン屋の前を通り、水路の橋を渡り、市場で果物を買った。その全部が、今は炎の中にある。
橋の袂で、馬車が横倒しになって燃えていた。その傍らに荷物が散乱している。旅行鞄。子供の靴。割れた瓶。持ち主の姿は、どこにもなかった。
空には、鋼鉄の船影。滑らかな金属の腹が朝の光を鈍く跳ね返し、その下面の開いた口から、火の雨が規則正しい間隔で降り続けている。あれには詠唱の間も、術式の予兆も、何ひとつ見えなかった。ただ機械が仕事をしているだけの静けさで、街がひとつずつ消されていく。
昨日と今日の間に、世界が入れ替わってしまったようだった。
「――こっちです! 押さないで! 走らないで!」
北へ続く大通りを、下級生たちの列が流れていく。
ウィノナが声を張り上げ、リゼルが泣いている子の手を引き、エルナが人数を数えていた。
「二百十八……二百十九……」
「エルナ、数えなくていいから走って!」
「数えます! 全員、数えます!」
その列と逆行して、防御班は東通りへ向かった。
東通りは、旧市街の狭い石畳の道だ。両側に古い商店が肩を寄せ合って並び、道幅は馬車一台がやっと通れるかどうかしかない。石畳は百年分の轍で真ん中がわずかに窪み、雨の日には水が溜まるので、住人はいつも端を歩く。
――ここで、敵の進行を止める。
「配置につけ! 建物の陰を使え、道の真ん中に立つな!」
ヴァレンス教官の指示が飛ぶ。
「ティナ、右手の屋根! トバイアス、正面! クレイド、ノクス、アークライト――お前たちは中央後方だ! 突破された時の最後の壁になる!」
「はい!」
リヴィアはレイピアを抜いた。
手が震えていた。訓練用の刃ではない。学院の武器庫から出された、本物の真剣だった。
「……リヴィア」
隣で、セリウスが言った。
「大丈夫か」
「……震えてる」
「俺も」
見ると、彼の指も震えていた。震えたまま、彼は笑った。
「な。お互い様だ」
その笑顔に、少しだけ呼吸が楽になった。
「――来るぞ!!」
通りの向こうから、足音が聞こえてきた。軍靴の音。金属の音。
炎の照り返しの中に、影が現れた。
鎧を着た兵士たちだった。白と金の意匠。レムナスの、聖印。
「……あれ」
ティナが、屋根の上から呟いた。
「なんで、あの人たち……」
兵士たちの後ろに、別の一団がいた。
濃緑の軍服。見たことのない紋章。
彼らが担いでいる、黒い箱。
それが何かを、誰も知らなかった。
【黒い箱】
最初の交戦は、エルデナ側が押した。
当然だった。白翼学級は、国が六年かけて育てた精鋭だ。六歳から実技を叩き込まれた十八歳の魔導士が、十人以上いる。
「行くわよ! 右翼!」
ティナの投げた火球が、先頭の兵士たちを吹き飛ばした。
トバイアスが無言で踏み込み、三人の兵を一息に薙ぐ。ダリオが盾ごと兵士を押し返し、カイルが後方から的確に狙撃する。セラフィナの精緻な氷結術が、通りの一角を凍らせて足止めした。
「押してる! いける!」
カイルの声が弾んだ。
実際、通りの敵は後退し始めていた。
狭い石畳の道は防御に向いている。左右の商店の二階からティナとカイルが射線を作り、正面をトバイアスとダリオが塞ぐ。セラフィナが足元を凍らせ、そこへリヴィアの黒い斬撃が滑り込む。
教科書通りの完璧な連携だった。六年間、演習場で何百回も繰り返してきた形。
「三人抜けた! 左!」
「はいはい!」
ティナの火球が、路地へ回り込もうとした兵を炙り出す。その足元を、リヴィアの闇が薙いだ。
目が合った。ティナが、親指を立てる。
このまま押し切れる。八人が八人とも、そう見ていた。
――だから、油断したわけではなかった。
ただ、そういうものがこの世に存在すると、誰も知らなかっただけだ。
「油断するな! まだ本隊が――」
ヴァレンスの声が、途中で止まった。
敵の後方で、濃緑の軍服の男たちが黒い箱を地面に置いたからだ。
箱の側面に、細い光の線が走る。
――ヴン、と。
空気が、鳴った。
音ではなかった。音より、もっと深いところで何かが震えた。
ティナの掌の火球が、ふっと消えた。
「……え?」
セラフィナの氷が、割れて溶けた。トバイアスの纏っていた身体強化の光が、剥がれ落ちた。
空気の底で常に鳴っていた魔素の唸り――生まれた時から聞いてきたはずのその音が、ぷつりと途切れた。
「……なに、これ」
リヴィアは掌に魔力を集めようとした。
――何も、来なかった。
体の奥に手を伸ばしても、そこには何もない。空っぽの、暗い井戸。
自分の一部が、まるごと切り取られたようだった。
「魔法が……出ない……!?」
「詠唱が……散る……! 術式が、組めない!」
「なんで!? なんでよ!!」
パニックが通りに広がった。
六歳から魔法と共に生きてきた子供たちだった。彼らにとって魔力とは、手足と同じ、体の一部だった。その手足を、いきなりもぎ取られたのだ。
その一秒の混乱を、敵は逃さなかった。
「――撃てェ!!」
銃声が、東通りを埋めた。石畳に火花が散り、商店の窓硝子が砕け散る。
最初に倒れたのは、ダリオだった。
盾を張ろうとして――張れずに、そのまま。
「ダリオ!!」
「うっ……」
彼は驚いた顔のまま、膝から崩れた。何が起きたのか分かっていない顔だった。
六年間、実技の授業のたびに真っ先に突っ込んで、真っ先に転がされて、そのたびに大声で笑っていた男。その男が、声も上げずに石畳に伏した。
誰よりも大きな声で笑う男が、一番静かに死んだ。
「ダリオ!! ダリオォ!!」
カイルが遮蔽から飛び出そうとした。その襟を、ルーカスが掴んで引き戻す。
「行くな!!」
「離せ!! あいつまだ……!」
「――行くなァ!!」
委員長の声が裂けていた。
「散れ!! 建物の中へ!! 魔法に頼るな!!」
ヴァレンス教官が吼えた。
「壁を使え! 遮蔽を使え! ――走れ!!」
【地獄】
そこから先は、戦闘ではなかった。
虐殺だった。
魔法を奪われた魔導士は、ただの十八歳の子供だった。剣は握れる。走れる。それだけだ。六年かけて磨いた技術のすべてが、意味を失っていた。
「うわああああ!!」
商店の中に逃げ込んだ生徒たちを、兵士が追ってくる。
トバイアスが、剣一本で三人を斬り伏せた。
魔法がなくても、彼は強かった。六年間、誰よりも黙って剣を振り続けてきた男だった。
四人目を斬り、五人目の腕を折り――六人目の銃弾が、彼の肩を貫いた。
「トバイアス!!」
「……下がれ」
血を吐きながら、彼は前に立った。
「……お前らは、下がれ」
振り向かなかった。振り向く時間が惜しかったのか、それとも――顔を見せたくなかったのか。
その背中に、二発目が入った。膝が落ちる。彼は剣を杖にして、立ち上がろうとした。
三発目で、動かなくなった。
寡黙な少年は、最後まで何も言わずに倒れた。
――そのすぐ後だった。
路地の入口で、悲鳴が上がった。下級生の一団が逃げ遅れていた。
「――こっちよ!! 早く!!」
セラフィナだった。
彼女は子供たちを路地の奥へ押し込み、自分は入口に立った。
魔法は、使えない。彼女は両手を広げて、そこに立った。
「――エルデナ王国、ロウ家の名において」
誇り高い令嬢の声が、燃える路地に響いた。
「――ここは、通しません」
銃声が、続けざまに鳴った。
リヴィアが見たのは、その一瞬だけだった。
六年前、家名を尋ねて空気を止めた令嬢。実技で誰よりも早く相手を探した少女。その手が、小さな子の背中を最後まで押していたのを。
――東通りの防衛線は、十五分で崩れた。
「北へ! 北へ走れ!!」
誰かが叫んだ。
燃える街を、生徒たちが走った。崩れた家。倒れた人。泣き叫ぶ声。昨日まで果物を売っていた店の前で、店主が動かなくなっている。
狭い路地を曲がった先で、リヴィアはカイルを見つけた。
彼は、瓦礫の下に埋まった下級生の腕を素手で掘り起こしていた。
「カイル! 逃げないと!」
「あと少し! この子、まだ生きてる!」
彼の指は、爪が剥がれて血だらけだった。
「手伝う!」
二人で石を退けた。小さな腕が瓦礫から抜けた。六歳か七歳の女の子だった。気を失っているが、息はある。
「よし――」
カイルがその子を抱き上げた瞬間、建物が崩れた。
火が回っていた梁が、頭上から落ちてきたのだ。
「カイル!!」
彼は咄嗟に、子供を突き飛ばした。
自分は、逃げなかった。逃げられなかった。
瓦礫の音が、耳を潰した。
土煙が晴れた時。崩れた壁の下から、伸ばされた手だけが見えていた。
「……カイル」
リヴィアは、その手を掴んだ。
温かかった。まだ、温かかった。
「カイル! カイル!!」
彼女は瓦礫を掴んだ。持ち上がらない。魔法があれば、持ち上げられた。
でも、魔法は、なかった。
「動いて……! お願い、動いてよ……!!」
爪が割れた。指の皮が剥けた。石は動かなかった。
――握った手から、少しずつ温度が抜けていく。
「リヴィア!」
背後から、グレイが駆けてきた。
「行くぞ!!」
「まだ! まだカイルが……!」
「――もう、遅い!!」
グレイは彼女の腕を掴んで、無理やり引き剥がした。
突き飛ばされた女の子が、泣きながら座り込んでいた。グレイはその子を抱え上げ、もう片方の手でリヴィアの腕を掴んだまま走り出した。
リヴィアは走りながら、何度も転んだ。視界が涙で歪んでいた。
「リヴィア! 立て!」
「セラフィナが……セラフィナが、まだ……!」
「見た! 見たから走れ!!」
グレイの声は掠れていた。彼も見ていたのだ。あの路地の入口で、誇り高い令嬢が最後に何をしたのかを。
水路の橋の上で、ティナに追いついた。
走りながら、リヴィアは何度も掌を握り、開いた。
魔力を、探した。六年間、当たり前にそこにあったもの。水晶を割り、教官を驚かせ、セリウスと打ち合ったもの。
――何も、なかった。
ただの、十八歳の女の子の手だった。
(なんで)
こんな時に。
(なんで、今なの)
「ティナ!」
「リヴィア!! 無事なの!?」
赤い三つ編みが、煤で黒く汚れていた。
「ウィノナたちは!?」
「北門まで行った! 下級生も、たぶん、半分は……」
上空で、船影が旋回した。
「――伏せろ!!」
火の雨が、橋に降った。
轟音。衝撃。飛び散る石。
リヴィアが顔を上げた時、橋の半分が崩落していた。
対岸に、ティナが倒れていた。
「……ティナ?」
彼女はうつ伏せに倒れて、動かなかった。
「ティナ!! ティナ!!」
リヴィアは崩れた橋の縁に走った。
跳べる距離ではなかった。魔法があれば、跳べた。
でも、魔法は、なかった。
「ティナ!! 起きて!! ねえ!!」
対岸で、ティナの指がかすかに動いた。顔が、こちらを向く。
煤と血に汚れた顔で――彼女は、笑った。
「……りっ、ヴィ、ア……」
「ティナ!!」
「……にげ、なさい……」
「いや! 待ってて! 今そっちに――」
リヴィアは崩れた橋の縁で、必死に足場を探した。跳べない。落ちた瓦礫は、川面まで十メートル以上ある。
「ティナ! 動かないで! 誰か! 誰か助けて!!」
ティナの唇が動いた。声は届かなかった。
でも、リヴィアには読めた。
――ば、か。
六年間、何百回と言われた言葉だった。
その口が、何かを言おうとして。
二度目の火の雨が、対岸を呑んだ。
赤い光が、彼女の姿を消した。
「――ティナああああああ!!!」
リヴィアの絶叫が、燃える都に響いた。
彼女は崩れた橋へ飛び込もうとした。その体を、グレイが後ろから羽交い締めにした。
「離して!! ティナが!! まだ、あそこに!!」
「――やめろ!!」
「離してよ!! グレイ!!」
「もういない!!!」
グレイの叫びが、彼女の耳を打った。
「もう、いないんだ……!!」
その声は、泣いていた。
振り返ったリヴィアが見たのは、顔をぐしゃぐしゃにして、腕の力を緩めない幼馴染の顔だった。
【白の塔の下で】
北門へ続く最後の広場に、生き残りが集まっていた。
そこへ辿り着くまでに、リヴィアはいくつもの光景を見た。
崩れた聖堂の前で、司祭が瓦礫を掘り続けていた。もう誰も答えないと分かっているのに、掘り続けていた。
水路には、白い布が浮いていた。願いの日に結ばれた布が、燃え落ちた枝ごと流れていた。
一枚だけ、文字が読めた。
『家族が健康でありますように』
ウィノナが去年、書いた願いだった。
誰かが踏まないように、リヴィアはそれを拾って懐に入れた。そんなことをしている場合ではないと分かっていた。それでも、拾わずにはいられなかった。
――広場に着いた。
二十人だった白翼学級は。
――八人になっていた。
ヴァレンス教官は、片腕を失っていた。布で縛り上げただけの傷から、血が流れ続けている。
「……ウィノナ、リゼル、無事か」
「はい……はい……っ」
ウィノナの眼鏡は割れ、リゼルは声も出せずに震えていた。
「下級生の退避状況は」
「……三百八十七名、北門を通過しました」
エルナが震える声で報告した。
「残りは……十五名、確認できていません」
「……そうか」
教官は目を閉じた。
「よくやった」
広場の南から、地響きが聞こえた。
敵の本隊が追いついてきていた。濃緑の軍服。黒い箱を運ぶ一団。その後ろに、無数の兵。
誰も、動けなかった。
魔法は使えない。教官は片腕を失い、生き残った生徒は八人で、そのうち半分は自分の足で立っているのがやっとだった。数えるまでもなく、勝ち目という言葉が意味を持たない配置だった。
――ここまでか。
その言葉が、全員の頭に同時に浮かんでいた。
「――先に、行け」
声がした。
セリウスだった。彼は広場の中央へ、一人で歩み出ていた。
「……セリウス?」
「クレイド、何を」
「箱がある限り、俺たちは戦えない」
彼は振り返らずに言った。
「なら、箱を壊す。……あれさえ潰せば、みんな戦える」
「そんな、無茶よ! 敵の真ん中じゃない!」
「無茶だな」
セリウスは笑った。
「でも、他に手がないだろ」
彼は双剣を抜いた。
リヴィアは、そこで気づいた。
彼の剣の刃に、薄く、光が纏っている。
「……セリウス、あなた、魔法が」
「使えるんだよ、なぜか」
彼は自分の掌を見た。
「さっきから、少しずつ。……箱の中でも、俺のだけ、消えない」
誰にも、その理由は分からなかった。
「先生。俺が箱を潰します。三十秒あれば足ります」
「……クレイド」
「その三十秒で、みんなを北門へ」
ヴァレンスはしばらく彼を見つめて、それから深く頭を下げた。
「……すまん」
「やめてくださいよ。教官が謝ると、本当に死ぬみたいじゃないですか」
セリウスは軽く言った。
それから、リヴィアの方を向いた。
「――リヴィア」
「……いや」
彼女は首を振った。
「いや。行かないで」
「大丈夫だって」
「大丈夫じゃない! あなた一人で、あんな数……!」
「一人じゃないよ。すぐ追いつく」
「嘘!」
リヴィアは彼の腕を掴んだ。指が白くなるほど強く。
「私も行く。二人なら――」
「駄目だ」
初めて、彼が彼女の言葉を遮った。
「……なんで」
「お前が来たら、俺、全力で戦えない」
落ち着いた声だった。
「お前を庇いながらじゃ、箱まで届かない。……分かるだろ」
分かってしまった。
六年間、何百回と組み手をしてきた二人だからこそ、分かってしまった。彼の言う通りだった。
「……ずるい」
「悪い」
彼は、彼女の頭にぽんと手を置いた。いつもみたいに。
「先に行っててくれ、リヴィア」
燃える街の光が、彼の金髪を赤く染めていた。
「――あとで、絶対追いつくから」
「……嘘つき」
「嘘つかないって、言っただろ」
彼は笑った。あの、太陽みたいな顔で。
「昨日の話、まだ残ってるしな。……ちゃんと言うって、約束したろ」
リヴィアの視界が涙で歪んだ。
「……絶対よ」
「おう」
「絶対、追いついて」
「……ああ」
セリウスは頷いた。
その手が、一瞬だけ彼女の頬に触れた。煤で汚れた指だった。昨夜、髪を梳いた、同じ指だった。
「……行ってくる」
それが、最後の言葉になった。
彼はグレイを見た。
二人は、口を開かなかった。ただ、拳を一度だけ合わせた。それが六年分の会話の全部だった。
「――グレイ。頼んだ」
「……ああ」
セリウスは背を向けた。
「――行くぞォ!!」
彼は燃える広場を、たった一人で駆け出した。
【三十秒】
光が、爆ぜた。
敵陣のど真ん中で、白い光が奔る。黒い箱を守る濃緑の兵士たちが、次々と吹き飛ばされていく。
剣が閃くたび、光の帯が空を裂き、敵の陣形が崩れていく。
――速い。
走りながら、リヴィアは思った。
演習場で見てきた、あの動きではなかった。もっと鋭く、もっと苛烈で。命を惜しんでいない者の動きだった。
銃口が、彼を追う。弾が外套を掠める。腕を掠める。
彼は止まらなかった。
一つ目の黒い箱まで、あと十歩。立ち塞がる兵士を、光の斬撃が薙ぎ払う。振り下ろされた剣を体を捻って避け、返す刃で相手の得物を断つ。
あと五歩。
背後から迫った兵の一撃が、彼の背中を裂いた。血が飛んだ。
彼は、振り返らなかった。
あと一歩。
「――どけええええ!!」
双剣が交差した。
白い光が十字に走り、黒い箱が砕けた。
「――今だ!! 走れ!!」
ヴァレンスの号令で、八人が北門へ走り出した。
リヴィアは走りながら、何度も振り返った。炎の中で、金色の光が暴れている。
黒い箱の一つが砕けた。それだけで、世界の底の音が戻ってきた。体の奥の井戸に、水が満ちる感覚。
「魔法が……!」
「使えるわ! みんな、走って! もっと速く!」
ウィノナの声。
北門が見えてきた。
――魔法が、戻った。
それはつまり、今なら戻れるということだった。
リヴィアの足が鈍る。
(……戻れる。今なら、加勢に――)
「行くな」
グレイの手が、彼女の腕を掴んだ。
「あいつが、なんのために一人で行ったと思ってる」
「でも……!」
「走れ!」
背後で、二つ目の箱が砕ける音がした。
金色の光が、一瞬だけ大きく膨れ上がり――
消えた。
「……え」
リヴィアの足が止まった。
振り返る。
燃える広場の中央に、光はもう無かった。
「……セリウス?」
煙が渦を巻いている。その中に、金髪の影を探した。
いない。
「セリウス……?」
足が、勝手に戻ろうとした。
「――リヴィア!!」
グレイが彼女の腕を掴んだ。
「離して!! セリウスが……!!」
「行くな!!」
「まだ生きてる!! 絶対生きてる!! 追いつくって言った!!」
「リヴィア!!」
「離してよ!!!」
彼女は暴れた。殴った。爪を立てた。グレイは離さなかった。
「セリウス!! セリウスううう!!!」
喉が裂けた。声が掠れても、叫んだ。
「セリウス!! 返事して!! ねえ!!」
燃える広場の向こうで、炎が音を立てている。崩れる建物。爆ぜる火の粉。遠くの悲鳴。その全部が、彼女の声を呑み込んでいく。
「――セリウス!! 約束したでしょ!! 嘘つかないって!! 言ったじゃない!!」
答えは、返ってこなかった。炎の音だけが、返ってきた。
「……いやだ」
膝から力が抜けた。
「いやだ……いやだよ……」
彼女は地面に崩れ落ちた。
昨夜、この人と手を繋いだ。昨夜、この人が名前を呼んだ。明日ちゃんと言う、と言った。
――その「明日」は、まだ来ていないのに。
「……まだ、聞いてない」
掠れた声だった。
「あなたの言葉、まだ、聞いてないのに……!」
グレイは泣きながら、彼女を引きずった。北門へ。生き残るために。その腕は、血が滲むほど強く彼女を掴んでいた。
「……ごめん」
その言葉だけを、彼は何度も繰り返した。
「ごめん、リヴィア。……ごめん」
誰に謝っているのか、自分でも分からない声だった。
北門をくぐる直前、リヴィアは最後にもう一度、振り返った。
白の塔が燃えていた。六年間、彼女の家だった塔が。
その向こうで、都の中心の白樹――エルデ樹が、根本から赤い炎に包まれていた。
千年、この街を見守ってきた樹。願いの布を結んだ枝が、光を撒きながら崩れ落ちていく。
――ずっと、みんなといられますように。
その願いが、火の中で灰になった。
【夜明け】
彼らが丘を越えたのは、明け方だった。
振り返ると、遠くに赤い光の塊が見えた。それが、エルデナ王国の最後の姿だった。
丘の上には、数百人の避難民がいた。毛布を分け合う者、名前を呼びながら人の間を歩き回る者、何も持たずに膝を抱えて座り込んでいる者。誰も、後ろの空を見ようとしなかった。
白翼学級の生き残りは、七人になっていた。
ヴァレンス教官は、丘を登り切る前に動かなくなった。片腕を縛った布は、とっくに血を吸いきって重くなっていて、生徒たちが交代で肩を貸しながら登ってきた最後の百歩で、彼はもう自分の足をほとんど使っていなかった。
最期に彼が言ったのは、生徒の名前だった。二十人分。ひとりずつ、順番に。六年間、毎朝の点呼で読み上げてきた順番のままだった。
全部言い終える前に、声が途切れた。
誰も、泣かなかった。泣く力が残っていなかった。
夜が明けていく丘の上で、ウィノナがふらふらと立ち上がった。
彼女は割れた眼鏡を押し上げて、生き残りを数え始めた。
「……グレイ、リヴィア、私、リゼル、エルナ、ルーカス、コリン」
指を折りながら、何度も、何度も数え直した。
「……七人」
「ウィノナ」
「もう一回、数えるわ。誰か、隠れてるかもしれないし」
「ウィノナ、やめて」
「数えるの!」
彼女はそう叫んで、その場に座り込んだ。
「……二十人、いたのよ」
肩が震えていた。
「昨日の朝は、二十人いたのよ……!」
リゼルが、彼女を抱きしめた。治癒魔法を使える少女の手は、この夜、誰も救えなかった。
「……私、なんの役にも立たなかった」
リゼルの声が震える。
「治せない怪我ばっかりで……みんな、死ぬところしか、見られなくて……」
「そんなこと――」
「ダリオの時も、トバイアスの時も、間に合わなくて……!」
彼女は初めて、声を上げて泣いた。
ルーカスは、少し離れた場所で一人で立っていた。
委員長の彼は、点呼を取らなかった。取れば、いない者の名前を呼ぶことになるからだ。
リヴィアは地面に座り込んだまま、燃える都を見ていた。目は乾いていた。もう、涙が出なかった。
「……リヴィア」
隣に、グレイが座った。彼の顔にも、涙の跡が乾いていた。
「……生きるぞ」
掠れた声だった。
「……なんで」
「え?」
「……なんで、生きなきゃいけないの」
リヴィアは燃える街を見たまま言った。
「みんな、死んだ。ティナも、トバイアスも、ダリオも、セラフィナも……先生も。セリウスも」
名前を呼ぶたび、胸が抉れた。
「私だけ、なんで」
グレイは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は言った。
「……分からない」
正直な声だった。
「なんで俺たちが生きてて、あいつらが死んだのか。……分からない」
「…………」
「でも、あいつは、俺たちを逃がした」
彼は拳を握った。
「あいつが最後にしたことを、無駄にしたくない。……それだけだ」
東の空が白み始めていた。稜線の縁から順に藍が薄れ、丘の草の一本ずつに色が戻っていく。避難民のどこかで赤ん坊が泣き出し、母親らしい声がそれをあやしていた。昨日と同じ手順で、朝が来ようとしていた。
こんな夜の後でも朝は来るのだと、リヴィアはぼんやり思った。
彼女は胸元に手をやった。
銀のペンダントが、そこにあった。見たこともない紋様が刻まれた、たった一つの持ち物。
燃える故郷の光が、その銀を赤く染めていた。
――誰かに、運ばれている。
揺れる。焦げた匂い。誰かの荒い息。誰かが名前を呼んでいる。
燃えているのは、白い都だった。十年前の街では、なかった。
リヴィアの意識は、また闇へ落ちた。




