導かれる道
【氷の決着】
銀と黒の激突は、二十合を超えても決着の気配がなかった。氷の聖堂に、剣戟の音だけが降り積もっていく。
銀髪の剣士は、速かった。
彼女が床を蹴るたび、足元に薄い氷が走り、靴底が氷面を滑走する。歩幅という概念を捨てた滑歩。間合いが、読みの半拍先で伸び縮みする。
(――速いだけじゃ、ない)
リヴィアは、三連の刺突を最小の剣捌きで逸らしながら考えた。
一突きごとに、剣先から霜の残像が散る。本命の突きと、霜が描く偽の軌道。二重写しの剣筋が、視覚を騙しにくる。
なら――視なければいい。
リヴィアは半眼に落とした。視覚を三割捨て、皮膚で氷の魔力の流れを読む。
霜の残像には、流れがない。本命の刃にだけ、冷気の芯が通っている。
四連目の突き。
偽の二本を無視し、芯のある一本だけをレイピアの腹で巻き取った。
銀髪の体勢が、初めて流れる。
――そこへ踏み込もうとした足元で、床が牙を剥いた。
氷の柱が三本、斜めに生え、踏み込みの線を正確に塞ぐ。
(床ごと、武器にしてくる……!)
跳び退く。着地点にも氷塊が待っていた。空中で体を捻り、氷塊の頂点に爪先だけで触れ、それを足場にもう一度跳ぶ。
銀髪は、リヴィアが宙にいる無防備な一瞬を見逃さなかった。氷面を滑走して真下へ。突き上げの銀閃。
リヴィアの剣は、もう振り下ろされていた。
黒を纏った刃が、足場にした氷塊そのものを両断する。割れた氷の片割れが盾となって銀閃を受け、砕け散った。
砕氷の煌めきの中、二人は再び地を踏む。
「……ッ」
息を継いだ銀髪の剣先が、半瞬、迷いを見せた。
「――ッ」
返しの一閃。闇を纏った刃が、白銀のマントの裾を浅く裂いた。
同時に、リヴィアの頬にも細い冷たさが走る。流れながら放たれた銀閃の切っ先が、皮一枚を掠めていったのだ。
二人は跳び離れ、間合いを取り直した。
リヴィアの頬から、赤が一筋。銀髪のマントから、白銀の切れ端が一片、霜の床に落ちる。
互いに、初めての被弾。まったくの相打ちだった。
白い息が二つ、重なって昇る。
りん、と。
硝子の鈴の音が、聖堂に響いた。
ありえない音だった。この地の底に、鈴などない。それなのに音は、すぐ耳元で鳴ったように澄んで届いた。
銀髪の剣士が、ぴたりと動きを止めた。剣が、下ろされる。
「……時間切れ」
抑揚のない声で、それだけ言った。
「待ちなさ――」
剣士が床を踏むと、二人の間に氷の霧が爆ぜた。
視界が白に塗り潰され――晴れた時には、祭壇の上にも、柱の陰にも、もう誰もいなかった。冷気の名残だけが、闇の奥の側廊へ細く続いている。
追うか。
一瞬考えて、リヴィアは首を振った。
(……三十分。とっくに、過ぎてる)
身を翻し、隊の消えた出口の通路へ全力で駆け出した。
【オルセ】
その少し前。
黒翼の四人は六キロの闇を抜け、旧聖廊の出口から朝の光の中へ出ていた。
丘の斜面の下に、町が見えた。
辺境の巡礼町、オルセ。白い壁と赤い屋根。中央に小さな聖堂の尖塔。絵に描いたような祈りの町だった。
ただ――静かすぎた。
「……鐘が、鳴ってねえな」
カラムが目を細めた。
「巡礼の町なら、朝の鐘があるはずだ」
町に入ると、静けさは不気味さに変わった。
人が、いない。一人も、いない。
開けっ放しの扉。物干し紐に揺れる白装束。パン屋の店先に並んだままの籠。鶏小屋は空で、犬の声もしない。広場の共同井戸には、汲みかけの桶が縁に掛かったままだった。
聖堂の前の献花台には、まだ萎れてもいない白い花が、束のまま供えられている。
昨日まで確かに人が生きていた気配だけが、町のすべてに残っていた。気配だけを残して、人間だけがごっそりと抜き取られている。
「避難……した、んでしょうか。でも、争った跡が、どこにも……」
ネロが計器を構えながら、上ずった声で言う。
「荷物もそのままよ。夜逃げなら、もっと散らかるはず……」
リズが開いた窓から中を覗く。食卓に、皿が並んでいた。埃は、まだ薄い。
カラムは町の中央の広場で足を止め、ぐるりと一周、視線を回した。
それから、短く言った。
「――出るぞ。今すぐだ」
「え? で、でも、リヴィアさんとの合流が……」
「町の外れで待つ。……この町は、駄目だ」
「駄目って、何が」
「分からねえ。分からねえから、駄目なんだ」
有無を言わせない響きがあった。二十年、戦場で研がれてきた勘が全身で警鐘を鳴らしている。そういう声だった。
四人は町を足早に抜け、北の森へ続く街道へ入った。
森に入って、十分。
背後で、世界が割れた。
ドンッ、という音より先に、衝撃が来た。地面が突き上げられ、木々が一斉にしなり、鳥が空を埋める。
振り返った四人の目に、森の切れ目の向こう――オルセのあった場所から、巨大な火柱が立ち上るのが見えた。火柱は膨れ、黒煙の傘を開き、赤い破片を空に撒いた。轟音が、遅れて森を叩く。
「……っ、な……」
誰も、しばらく声が出なかった。
煙が流れて、見えた。
町が、なかった。
白い壁も、赤い屋根も、聖堂の尖塔も。あったはずの場所に、抉れた大地と燃える瓦礫だけが残っていた。
「う、そ……だろ……」
アシュの声が掠れていた。
「町ひとつが……丸ごと……」
「ぼ、僕たち、さっきまで、あそこに……」
ネロの膝が、がくがくと震えている。
カラムの判断があと十分遅ければ。合流を待ってあの広場に留まっていたら。全員、今の火柱の中だった。
「――バレてる」
カラムが低く言った。
「潜入が、バレてる。それも、最初からだ。……あの銀髪の待ち伏せも、この町も。全部、俺たちが来るのを知ってやがった」
「じゃ、じゃあ、リヴィアさんは……あの人、この町を通って……」
リズの顔から血の気が引いた。
カラムは奥歯を噛んだ。
戻るか。進むか。戻れば、あの銀髪と爆心地。進めば、次の罠。
「……印を残す。うちの追跡符号だ。あいつなら読める」
彼はナイフを抜き、街道脇の木の幹に素早く三つの刻みを入れた。それから、腰のベルトの留め具に一度だけ手をやる。長年の癖だった。
「進むぞ。止まってるのが、一番まずい」
【硝子の鈴】
森は、最初、ただの森だった。
それが変わったのは、街道を外れ、中央都への近道の林道に入ってからだ。
りん。
どこかで、硝子の鈴が鳴った。
「……今の、聞こえました?」
「ああ。……鈴、か?」
それから、森がおかしくなった。
最初に気づいたのはネロだった。
「あ、あの……この木、さっきも見ました。雷で裂けた、この幹……二回目です」
「気のせいだろ。一本道だぞ」
「ほ、方位計を見てください」
ネロの掲げた計器の針が、ぐるぐると回っていた。
太陽の位置を確かめようと見上げれば、梢の向こうの光は、さっきと逆の方角から差している。
「地磁気も、光も、全部、嘘をついてます……計器が、全部……!」
りん。りん。
鈴の音が増えた。右から。左から。頭上から。
木々の間に、それが現れた。
白装束の、巡礼の列。
十人、二十人。蝋燭を手に、俯いて、木立の奥を歩いていく。
「ひ、人……! 生きてる人が……!」
リズが駆け寄ろうとした、その腕をアシュが掴んだ。
「――待て」
「なによ、住民かもしれないでしょ!」
「……足音が、しねえ」
リズの息が、止まった。
二十人の行列が落ち葉を踏んで歩いているのに、音がひとつもしない。誰の口からも、白い息が出ていない。
先頭の巡礼者が、太い樫の幹をすり抜けた。
「――ッ!!」
行列は、木々の間に溶けるように消えた。
「げ、幻影……全部、幻影です……!」
りん。
鈴が、笑うように鳴った。
次は、声だった。
『――ネロくん』
ネロが跳び上がった。
『こっちだよ、ネロくん。早く』
それは、ネロ自身の声だった。森の奥から、彼自身の声が彼を呼んでいる。
『リズー! こっちこっち!』
「……ミン?」
リズの足が、勝手に一歩、声の方へ出た。
赤いマフラーの、あの明るい声。間違えようがない。
『リズってば! 早くー!』
「ミン、なんでこんなとこに――」
「――リズ!!」
アシュがリズの襟首を掴んで引き戻した。
「あいつは東の駐屯地だ!! いるわけねえだろ!!」
「あ……」
リズの顔が青ざめ、それから、くしゃりと歪んだ。
「……っ、最悪。人の、大事な声、使わないでよ……!」
アシュが声のした闇へ二丁の銃を向け、立て続けに撃った。橙の火弾が木々を焼き、幻影を撃ち抜き――幻影は揺らいで、また元通りに立っていた。
「……実体が、ねえ。撃っても、減らねえ……!」
弾倉を確かめるアシュの指が、微かに震えていた。カートリッジの残りは、もう半分を切っている。
りん、りん、と鈴が嗤う。
次の声は、最悪だった。
『――みんな……!』
四人の足が、同時に止まった。
リヴィアの声だった。
『助けて……! こっち……お願い、誰か……!』
森の左手の闇から。掠れて、途切れて、血を吐くような声。
「り、リヴィアさん……!?」
ネロが弾かれたように動き、リズの顔が真っ白になり、アシュの銃口が下がる。
――カラムだけが、動かなかった。
「……行くな」
「で、でもリーダー、あの声……!」
「ああ、そっくりだ。だがな」
カラムは、声のする闇をまっすぐ睨んだ。
「あいつは――助けなんか、呼ばねえよ。あの嬢ちゃんは、死ぬ時だって、俺たちを先に逃がす声を出す女だ。……そういう奴だってことくらい、この数ヶ月で、嫌ってほど見てきたろうが」
三人の足が、止まった。
左手の闇の中で、偽物の悲鳴が、ぷつりと途切れた。
『……へえ』
女の声が、初めて少しだけ面白そうな色を帯びた。
『いい隊長ね、あなた』
「全員、動くな!」
カラムの声が森に響いた。
彼は背嚢からロープを出し、四人の腰を順に結び始めた。
「目と耳は、もう信用するな。繋がってりゃ、バラバラにはされねえ」
「で、でも、道が……どっちに進めば……」
「……水だ」
カラムは地面に膝をつき、落ち葉の下の土に掌を当てた。
「幻は目と耳を騙す。なら、肌で歩く。――この斜面の下に、沢がある。水音じゃねえ、地面の湿り気で追うんだ。水は低い方に、中央都の河に向かって流れる。水は、嘘をつかねえ」
四人はロープで繋がったまま、目を半ば伏せ、足裏と掌の感覚だけで湿った土を辿り始めた。
幻の巡礼が横を通り、偽の声が名前を呼び、鈴が四方で鳴り続けた。
誰も、顔を上げなかった。
――どれほど歩いた頃か。
『……あーあ』
女の声がした。今までの偽の声とは違う。森全体が口を開いたような声だった。
『目も耳も捨てちゃうなんて。つまらない人たちね』
「……ようやくお出ましか。姿を見せろ」
『やあよ。だって私、ここにいないもの』
くすくすと、鈴の音が笑う。
『ねえ、黒い軍服さんたち。ひとつだけ、教えて?』
声が、耳元まですっと近づいた。
『――あなたたち、何のために、ここへ来たの?』
誰も、答えられなかった。
偵察のため。命令だから。革命軍の確認のため。どの答えも、喉の途中で嘘みたいに軽くなった。
『……答えられないんだ』
声は、笑いを消した。
『答えられないまま、他人の国の森を、銃を持って歩いてる。……ふうん』
りん、と最後の鈴が鳴り。
ふっ、と森が晴れた。
偽の光が消え、本物の午後の陽が正しい方角から差し込む。方位計の針が、ぴたりと北を指して止まった。
目の前には、森の出口。その先に、中央都へ続く本街道が白く延びていた。
「……解放、された?」
「いや」
カラムはロープを解きながら、出口の先を睨んだ。
「……通された、んだ」
【橋の巨人】
本街道は、深い峡谷を一本の石橋で渡っていた。中央都へ続く、唯一の大橋。
その中央に――男が立っていた。
遠目にも、大きさがおかしかった。二メートルを超える巨躯。短く刈った髪に、白髪。
着ているのは色の抜けた古い軍服――帝国の軍服だ。胸の紋章があるべき場所は、布ごと引き剥がされ、黒い跡だけが残っている。腰には、色褪せた深紅の布。
左腕に、扉のような大盾。右手に、戦鎚。
男は、四人が橋の袂に立つずっと前からこちらを見ていた。
「……黒翼か」
地響きのような声だった。
「その軍服は、よく知っている。……昔、着ていた身だからな」
「……あんた、元・帝国軍か」
カラムの問いに、男は応じなかった。代わりに、大盾の石突を、ごん、と橋に突いた。
「この橋は、渡らせん」
それだけだった。宣告は、それで終わりだった。
「……ネロ。付与」
「は、はいっ! 全員に、強化……!」
四人の体が淡く光り、散開する。
口火を切ったのはアシュだった。
「――どけやァ!!」
二丁の銃が火を吹く。強化された火弾の連射が、大盾の中央に殺到した。
着弾。爆炎。橋の上が炎に包まれる。
炎が晴れた時――大盾は、そこにあった。
罅、ひとつなかった。
「……嘘、だろ」
アシュの声が裏返った。
ヴェイルすら削った彼の火力が、煤の跡すら、まともに残せていない。
「上から行くわよっ!」
リズが風を纏って舞い上がり、峡谷の空へ大きく回り込む。盾の届かない、頭上からの一撃――
男の右手が、無造作に戦鎚を横に振った。
届く距離では、なかった。
なのに、空気そのものが鎚の軌道に沿って、鉄板のように叩きつけられた。
「きゃ……っ!?」
衝撃波がリズを空中で捉え、体が木の葉のように弾き飛ばされる。峡谷へ落ちかけた体を自分の風でかろうじて立て直し、橋の袂まで吹き戻された。
「リズ!!」
「へ、平気……っ、なにあれ、当たってないのに……!」
カラムは、その間も動き続けていた。
波動弾を、置くように撃つ。盾の縁。持ち手の指。踏み込みの膝。首筋。人体の急所と防御の綻びだけを、二十年の経験で縫っていく。
男は、その全てを盾の最小の傾きだけで逸らした。
「……いい狙いだ」
男が、初めてカラムを正面から見た。
「特務課の教範、第三章。『対重装・関節照準』。……教科書通りだ」
カラムの背中を、氷の汗が流れた。
(――読まれてる。手癖どころか、教範ごとだ)
なら、教範の外だ。
カラムの指が、くいと曲がった。
橋の欄干――崩れかけていた石の手摺が根本からごそりと引き抜かれ、男の背後から死角を突いて飛来する。同時に正面から波動弾を三連。前後同時の、挟撃。
男は、振り向きもしなかった。
背中の見えない壁――盾から展開された防護の残滓が、石の手摺を受け止め、砕く。正面の波動弾は、盾の傾き三度でまとめて峡谷へ流された。
「工夫は、いい」
男は言った。
「遅いがな。……俺は、その教範を『書いた』側だ」
カラムの喉が鳴った。
教範を、書いた側。特務課の、それも中枢にいた人間。それが今、革命軍の側で橋を塞いでいる。
「三番、行きますっ! 合わせてください!」
ネロの叫びで、四人が動いた。
ネロの感知が男の重心を映し、リズの風が退路を一本に絞り、アシュの火が男をその一本道へ押し込む。磨き上げた、黒翼の型。ヴェイルを砕いた連携。
絞り込んだ一本道の先で、男は避けなかった。
大盾を、正面から地に突き立てただけだった。
瞬間、盾のルーンが燃え上がり、盾を中心に、光の壁が左右へ、橋幅いっぱいに展開した。
「じょ、城塞……防護術式ッ!? この規模、僕の障壁の何倍――」
風は光の壁に散らされ、火は壁面を舐めて空へ逃げた。
型の、最後の一手が放たれるはずの場所には――誰も、いなかった。
黒閃が、ない。斬り込むはずの黒い刃が、この場にいない。
「……最後の一手が、欠けているな」
男はそう言って、初めて自分から一歩、踏み込んだ。
二メートルの巨躯が、ネロの目の前にいた。速い。大きさと速さが、頭の中で繋がらない。
戦鎚が、振り上げられる。
「ネロッ!!」
ネロは反射で、持てる全部を防御に注いだ。
彼の誇る光の障壁。百本の氷槍に耐えた、隊で最強の盾。
戦鎚が、振り下ろされた。
――ぱきん、と。
硝子細工みたいな音を立てて、障壁は一撃で砕けた。
「あ……」
砕け散る光の破片の向こうで、ネロの目が見開かれる。
二撃目は、来なかった。
鎚の柄が寸前で止まり、その腹がネロの体を突き飛ばしただけだった。ネロは石畳を転がり、リズが慌てて抱き起こす。
「――テメエッ!!」
アシュが、頭より先に体で跳び出していた。
残弾の計算も射程の理屈も捨てて、懐へ。ゼロ距離。銃口を大盾の縁の内側へねじ込み、引き金を――
引く前に、視界が反転した。
盾から生えた見えない壁が、彼の体ごと真横に薙ぎ払ったのだ。
アシュは二度バウンドして、リズの足元まで転がった。
「げほ……っ、く、そ……」
「アシュ! もう、やめて! 立てるだけ奇跡なのよ、今の……!」
男は、追わなかった。
橋の中央に戻り、大盾を、また、ごん、と突く。
「……退け」
地響きの声が言った。
「道は、他にもあろう」
四人は、動けなかった。
勝てない。それは、もう全員が分かっていた。
分からないのは――なぜこの男が、殺せる相手を殺さないのかだった。
【招かれてる】
四人は橋を退いた。
峡谷沿いに一本だけ残されていた細い間道を進む。地図によれば、この道もまた中央都へ通じている。
誰も、口を開かなかった。
ネロは砕けた障壁の感触が抜けないのか、自分の掌を何度も見ている。やがて彼は震える指で端末を開き、記録された数値を読み上げた。それが彼なりの正気の保ち方だった。
「……こ、氷の人の白牢、推定出力、僕の障壁の約六倍。橋の人の防護術式……展開速度、僕の十一分の一の時間で、面積は……や、約九倍」
「ネロ。今それ、聞きたくねえ」
「す、すみません。でも……幹部が、あと何人いるのか。それを考えると、僕……」
彼は端末を閉じた。数字はいつも彼の味方だったのに、今日初めて、数字が彼の心を折りにきていた。
アシュは残弾を数え、数え終えて、聞こえよがしに舌を打った。
リズは、ミンの声の残響を振り払うように何度も頭を振った。
先頭のカラムが、ふいに足を止めた。
「……おい。気づいてるか、お前ら」
三人が顔を上げる。
「地下道のど真ん中、唯一の休憩所で待ってた剣士。俺たちが出た途端に吹き飛んだ、空っぽの町。一本道以外を全部閉じた森。……そして、殺せる相手を殺さずに、橋だけ塞いだ、あの化け物」
カラムは振り返った。
その顔には冷や汗と、それを超える、底冷えするような理解の色があった。
「一個ずつ見りゃ、待ち伏せだ。妨害だ。……全部並べてみろ。あいつら、俺たちを一度も、本気で殺しに来てねえ」
「そ、そんな……町ごと吹き飛ばしておいて……」
「あの爆発だって、俺たちが町を出た『後』だ。……いいか。閉じられたのは、道だけだ。命じゃねえ。俺たちは毎回、たった一本だけ残された道を、選ばされてる」
彼は、間道の先――夕暮れの空の下に見え始めた白い城壁を、顎で示した。
「――俺たちは、追われてるんじゃねえ」
一拍。
「……招かれてるんだ。あの街に」
誰も、言い返せなかった。
リズが腰の無線機を掴んだ。
「せ、せめて本部に……パイドの骨董品なら、届くかも……」
スイッチを入れる。
ザ――……という砂の音。周波数を変えても、変えても、砂。
その砂嵐の底で。
りん。
……りん。
硝子の鈴の音が、混線のように微かに鳴っていた。
リズは、無言で無線を切った。
言い返せないまま、四人の足は前に進むしかなかった。戻る道は、氷と、幻と、巨人と、爆心地で塞がれている。抽出の舟が来るのは、六日も先だ。
夕陽の中、中央都の白い城壁が近づいてくる。
鐘が、鳴り始めた。
都のすべての鐘楼から、一斉に。誰もいないはずの街から、低く、長く、絶え間なく。
客を、迎えるように。
【追う者】
リヴィアは、走っていた。
旧聖廊を抜け、丘を駆け下り――そして、見た。
町があるはずの場所に、巨大な焼け跡だけが広がっているのを。
全身から、血の気が引いた。
「……うそ」
膝が笑った。
三十分。彼女が銀髪の剣士と斬り結んでいた、あの三十分の間に。仲間たちが通ったはずの町が、地上から消えている。
もし、みんながあの中にいたら。もし、自分がもっと早く決着をつけていれば。もし、そもそも「先に行って」なんて言わなければ――
喉の奥までせり上がった最悪の想像を、彼女は無理やり呑み込んだ。
(……探せ。考えるのは、後)
まだ煙の燻る瓦礫の縁を、転げるように駆け回った。
黒い軍服の切れ端を。見覚えのある装具を。最悪の答えを、探して。
――なかった。
瓦礫のどこにも、誰の亡骸もなかった。
代わりに、焼け跡を迂回した先、北の森へ続く街道の入口で、彼女はそれを見つけた。
木の幹に刻まれた、三つの符号。黒翼の追跡サイン。
「……っ、生きてる」
膝から力が抜けそうになるのを堪えて、リヴィアは再び走り出した。
森は、不気味なほど静かだった。道は一本きりで、迷いようがなく、掃き清められたようだった。
その道の途中、低い枝に――硝子の鈴が、ひとつ吊るされていた。
リヴィアが駆け抜ける、その頭上で。鈴は、りん、とひとつだけ鳴った。
意味は分からなかった。振り返る時間も、なかった。
森を抜けると、峡谷の大橋があった。
橋の上には、誰もいなかった。
石畳のあちこちに、真新しい焦げ跡と、砕けた光の欠片のような残滓が散っている。
(……ここで、戦ってる)
嫌な予感が、確信に変わっていく。
待ち構えていた敵が、今はいない。道を塞いでいた何かが、もう退いている。
(――通されてる)
罠だ。分かっている。
開いた道の先には、必ず誰かが立っている。今日一日で、四回それを見た。
リヴィアは、鞘の鯉口を切った。
夕闇の向こうに、白い城壁と、鳴り続ける鐘の音。その門の前の土に、四人分の見慣れた軍靴の跡が、街の中へと続いていた。
「……待ってて」
リヴィアは、鐘の鳴る白い都へ向かって、最後の力で駆け出した。




