銀の氷
【夜の河】
新月の河は、墨の色をしていた。
機関を殺した小舟が二艘、流れに乗って音もなく南へ下っていく。舵を握るのはジンだった。空を飛べない任務でも、乗り物と名のつくものは全部、彼の領分らしい。
「――いいか、七日後の同じ時刻、同じ岸だ」
ジンは珍しく声を落として言った。
「遅刻すんなよ。俺は気が短いんだ」
「三十分は待ちなさいよ」
「十五分だ。それ以上は俺が敵に見つかる」
舟の中では、ネロが小さな手帳を開いて、ぶつぶつと読み上げていた。
「レムナスの巡礼者は白装束です。旅人への施しは教義なので、その、見つかっても最初は歓迎される可能性が……あ、でも軍服はまずいです、絶対」
「ネロ、あんた遠足前の子供みたいよ」
「じゅ、準備はですね、心の安定にいいんです……」
アシュは舟縁に背を預けて目を閉じていた。眠ってはいない。指先が、銃の薬室の上で規則正しく動いている。
リヴィアは、黒い水面を見ていた。
「……リヴィア」
隣で、リズが小声で言った。
「レムナスって、その……エルデナと、戦争した国よね。大丈夫?」
少し、考えた。
「……わからない。でも、行く」
「そ。……ま、隣にいるから、あたし」
それだけ言って、リズは前を向いた。
やがて、東の岸に低い丘の影が見えてきた。
「――上陸点だ。着けるぞ」
【旧聖廊】
丘の斜面、灌木に埋もれて、それはあった。
朽ちた石柱が二本。彫られた聖印は、百年分の苔で緑に染まっている。その奥に、人一人がかがんで通れるほどの石組みの入口。
「……旧聖廊。図面通りです」
中に入ると、匂いが一枚、入れ替わった。石と、水と、古い蝋。
壁には巡礼者たちが遺した浅い彫り物――祈りの言葉、聖印、誰かの名前。等間隔に並ぶ燭台の窪みには、溶け残った蝋が百年前のまま固まっていた。
隊列は、カラム、アシュ、ネロ、リズ、リヴィアの順。携行の魔導灯が、闇を数歩ずつ削りながら進んでいく。
「全長六キロ。中間に『中間聖堂』――巡礼者の休憩所だった広間があります。そこを過ぎれば、あとは出口まで一本道です」
三十分ほど歩いた頃、リズがふと呟いた。
「……ねえ。寒くない?」
言われて、気づいた。吐く息が、白い。
地下は年中、温度が変わらないはずだ。なのに、進むほどに空気が冷えていく。前方から、冷気が流れてくる。
「……全員、止まれ」
カラムの声が低くなった。
魔導灯の光の先。通路が広がり、中間聖堂の入口が黒い口を開けていた。
その闇の奥に。
何かが、いる。
【白牢】
中間聖堂は、地の底の礼拝堂だった。
石の柱が二列に並び、天井は闇に溶けて見えない。奥の一段高い祭壇に、崩れかけた聖像。
その祭壇の階段に――少女が、座っていた。
魔導灯の光が届いた瞬間、銀色が闇の中で光った。
まっすぐに切り揃えた銀の前髪。銀の睫毛。着古した布の服に、白銀のマント。膝の上に、細身の剣を横たえている。
薄氷の色の瞳が、五人を見ていた。
軍服でも、巡礼の白装束でもない。所属を示すものが、何ひとつない。
リヴィアの足が、一歩、遅れた。
あの立ち方を、知っている。雪の降る滑走路で、照明塔の消えた闇の中を、重さを感じさせずに駆けていった影。覆面の下から、こちらの剣の残光をじっと見ていた目。
(……あの時の)
「……こりゃまた、別嬪さんだ」
カラムが一歩前に出た。声だけは、世間話の調子で。
「巡礼の方かい? こんな地の底で、道にでも迷ったか」
少女は立ち上がり、一言だけ言った。
「……帰って」
感情の読めない声だった。
「そりゃできない相談で――」
カラムが言い終わるより早く。
リヴィアの肌が粟立った。
来る。
空気中の水分が、一斉に少女へ向かって吸い寄せられていく。聖堂全体の魔力が、氷点下へ落ちていく――
「――跳んでッ!!」
リヴィアの叫びと、少女の剣先が床に触れたのは同時だった。
「――白牢」
世界が、白く割れた。
床から、壁から、柱から、氷が爆発的に咲いた。石畳が一瞬で氷原になり、二列の柱が氷の樹と化し、天井から無数の氷柱が牙のように生え揃う。
聖堂という空間そのものが、まばたきひとつの間に氷の監獄へ変わった。
リヴィアの警告で、五人は中央の一段高い床へ跳んでいた。
それでも。
「っ、づ……!」
アシュの左の踵が、床ごと氷に呑まれていた。着地の一瞬を、氷が喰ったのだ。
「リズ、マント!」
「わかって……っ、凍って、剥がれな――」
リズのマントの裾が、ネロの端末の吊り紐が、氷の床に縫い付けられている。
アシュが舌打ちして踵の周りに火を弾けさせ、氷ごと蹴り割った。リヴィアの剣が、マントと紐を根本から断つ。
たった数秒の攻防で、全員の息が上がっていた。
「な……なんですか、今の……」
ネロが震える手で計器を向け――その顔から血の気が引いた。
「で、出力が……測定域を、振り切って……こんな、桁……」
カラムは、動いていなかった。
氷の監獄と化した聖堂を見回し、それから祭壇の上の銀髪を見た。その額を、冷や汗が一筋伝う。
「……全員、下がれ。陣形、俺を頭に楔」
低い、低い声だった。
「四刻だの五刻だの、そういう話じゃねえ。……少佐とやり合った時と、同じ匂いがする。いや――」
彼は言い直さなかった。言い直さないことが、答えだった。
「り、リーダー……! 思い出しました……!」
ネロが上ずった声で言った。
「諜報の幹部情報……リバースオーダーの幹部に、一人……氷結を使う剣士が、いるって……!」
聖堂の空気が、また一段冷えた。
革命軍の、幹部。潜伏状況の「確認」は、最悪の形で済んでしまった。
「……待ち伏せ、か?」
カラムが誰にともなく呟いた。
「なんで、ここが……」
少女は応じない。剣を、すっと上げただけだった。
【簇雨】
凍った天井が、軋んだ。
無数の氷柱が震え、根本から、めきめきと自らを引き抜いていく。
「――氷槍・簇雨」
降ってきた。
槍の雨だった。天井から、柱から、壁から、百を超える氷の槍が五人めがけて波状に殺到する。
「ネロッ!!」
「や――やってま……すッ!!」
ネロが両手を地に叩きつけ、光の天蓋が展開した。
直後、世界が打楽器になった。
ガガガガガガッ――
氷槍が天蓋を叩く音が、音の壁になる。一波。二波。天蓋の表面に、蜘蛛の巣状の亀裂が走り始めた。
「ぐ……っ、う、ぅ……!」
「ネロ、息吐け! 吸うな、吐け!」
リズがネロの背を支え、カラムの小さな防壁が、天蓋の亀裂から漏れた槍を一本、また一本と斜めに逸らす。アシュの二丁の銃が吼え、飛来する槍を空中で撃ち砕いていく――が、多すぎる。
「キリがねえ……!」
三波目の途切れ目。
リヴィアが天蓋の外へ跳んだ。
「――黒閃」
黒い線が、祭壇の銀髪めがけてまっすぐに走る。
エリックの三枚楯を割り、ヴェイルを裂いた、彼女の必殺の一線。
――それが、止まった。
少女の眼前に、一瞬で立ち上がった氷の壁。厚く、幾層にも重なった氷が、黒閃の走る線に対してわずかに角度をつけて――受け流すように、殺していた。
黒い残光が、氷の表面を斜めに焦がして散る。
(防がれた。……初見で。線を、読まれて)
「硬てえとか、そういう次元かよ……!」
アシュの強化射撃が、リズの風の刃が、氷壁に殺到する。火が爆ぜ、風が唸り――壁は、びくともしなかった。表面が薄く削れるそばから、内側から氷が滲み出して傷を埋めていく。
壁の向こうで、少女が次の魔力を練っているのが気配で分かった。
カラムの顎から、汗が落ちた。
退路の通路は、白牢の余波で半ば凍っている。前へ抜けるには、あの少女の前を通るしかない。時間をかければ、隊が磨り潰される。
(……詰み、かけてやがる)
その脇を、リヴィアが前へ出た。
【斑】
「……リヴィア?」
彼女は応じず、レイピアを地面と水平に構えた。
目を閉じる。息を深く落とす。
白の塔の実技棟が、瞼の裏に蘇った。
多重展開。魔力の焦点を、同時に複数、空間へ固定する技術。
十年前、何百回挑んでも、三つ目の焦点で必ず崩れた。四つ目を作ろうとした日には、右腕が肩まで痺れて三日動かなかった。教官には「お前には十年早い」と笑われた。
――十年、経った。
目を、開く。
リヴィアの周囲の空間に、漆黒の紋様が一つ、灯った。
二つ。四つ。八つ。
闇色の呪文陣が、彼女を取り囲むように、十二、宙に展開した。聖堂の氷が、陣の放つ闇を映して黒く染まる。
「な……んだよ、それ……」
アシュの声が掠れた。
「――黒閃・斑」
十二の陣から、同時に黒閃が放たれた。
一本の線ではない。あらゆる角度から、あらゆる高さから、無数の黒い線が氷の壁の一点へ殺到する。
受け流す角度など、存在しなかった。
壁は正面から、側面から、上方から同時に裂かれ――
砕けた。
幾層の氷が黒い光を浴びて、硝子の雨になって崩れ落ちる。
その雨の向こうで、少女の目が、初めて見開かれた。
――リヴィアは、もう跳んでいた。
砕氷の雨を割って、一直線。三歩で間合いが消え、黒曜のレイピアが銀髪めがけて閃く。
鋼の音が、聖堂に響いた。
少女の細剣が、完璧な角度で突きを受けていた。
返しの刺突。受け流し。二の突き。半身。三の突き。鍔迫り。
速い。重い。正確。
同じだ、とリヴィアは剣を交えながら思った。
いや――同じ剣ではない。同じ教わり方をした剣だ。
突きの返し。半身の切り方。鍔迫りからの押し返し。白の塔の実技棟で、教官が何百回も同じ言葉で直させた形が、そのまま目の前で動いている。
(……誰に、習ったの)
問いは、口から出なかった。出す隙が、どこにもなかった。
【託す】
「――先に行ってッ!!」
鍔迫り合いの中から、リヴィアが叫んだ。
「私が抑える! 任務を……!」
カラムの足が半歩前に出かけて、止まった。
全員で帰る。それが、彼の専門分野のはずだった。仲間を置いて先へ行くことは、その真逆だ。
目の前の剣戟は、もう誰も割って入れる速度ではなかった。割って入れば、足を引く。足を引けば、リヴィアが死ぬ。
一秒の迷いの後、カラムは決めた。
「――三十分だ!!」
吼えるような声だった。
「三十分で追いつけ! 来なけりゃ、任務ごと捨てて迎えに戻る!! いいなッ!」
「……ええ!」
「全員、抜けるぞ! リズ先頭、出口側の通路ォ!!」
リヴィアが斑の陣を三つ、少女の退路側に展開し直した。少女の意識が、コンマ数秒、陣に割かれる。
その隙間を、四つの影が駆け抜けた。
――通すわけには、いかない。
少女の左手が床に向く。氷の魔力が石を伝い、走り出した通路の入口へ白い波となって奔る。
白牢の、再展開。
四人の足元が凍りつく寸前――
黒い斬撃が、床を割った。
闇を纏ったリヴィアの刃が、石畳ごと、走る氷の「流れ」を断ち切ったのだ。
術は途中で編まれるのをやめ、半端な霜になって床の上で死んだ。
(……術の、流れを……)
少女の薄氷色の瞳が細くなる。
黒閃で壁を砕く力ではなく、術の縫い目そのものを断つ技術を、彼女は正しく警戒した。
四人の足音が、通路の闇へ消えていく。
聖堂には、二人だけが残された。
【銀と黒】
白い息が、二つ。
砕けた氷と霜の霧の中を、黒いレイピアと白銀のレイピアが、切っ先を低く、円を描くように回る。
「……あなた」
リヴィアが口を開いた。
「何者なの」
少女の唇は、動かなかった。
長い、長い沈黙のあと――薄い唇が、初めて問い以外の言葉を紡いだ。
「……あなたが」
薄氷の瞳が、まっすぐにリヴィアを射た。
「――黒い、閃光」
息が、止まった。
(……知られてる)
バルドアの雪の夜。あの時、覆面の下からこちらを見ていた目。あれは値踏みではなかった。確かめていたのだ。
こちらが何も知らない敵が、こちらをずっと前から知っている。
少女の剣先に、霜が細く渦を巻き始めた。
リヴィアの剣先に、闇が凝っていく。
二人は、同時に地を蹴った。
「――銀閃」
「――黒閃」
銀と黒が、地の底で真っ向から噛み合った。
衝撃が霜の霧を吹き払い、百年眠っていた聖堂の闇が、二色の閃光に、白と黒とに引き裂かれた。




