二人の距離
【十七歳】
北棟の廊下は、六時十分から戦場になる。
「洗面所空いてる人ー!?」
「三番使ってる!」
「ダリオあんた昨日も長かったでしょ!」
「筋トレしてただけだ!」
「洗面所でするな!」
その喧騒を、リヴィアは慣れた足取りで抜けていった。中庭で寝こけていた金髪を叩き起こしてきたところで、制服の袖がまだ芝の匂いをさせている。毎朝のことだった。
「リヴィア! おはよ! ねえ今日の座学、ヴァレンス先生の代講だって!」
廊下の向こうから、赤い三つ編みを揺らしてティナが駆けてくる。
「代講? アイリーン先生は」
「風邪だって。……ってことは今日、抜き打ち小テストの可能性、九割」
「……最悪ね」
「でしょ!? ウィノナのノート借りに行くわよ、走って!」
腕を引かれて廊下を駆けながら、リヴィアは思う。
六年前、この廊下の音は、扉一枚の向こう側の出来事だった。今は、自分がその音の一部になっている。
十一歳だった少女は、十七歳になった。背は伸び、黒髪は腰まで届き、制服の着方も板についた。なにより――もう、階段の隅に一人で座ってはいなかった。
中間評価が返される日の大教室は、いつも空気が一段張り詰める。
「座学首席、グレイ・アークライト。九十四点」
「……ありがとうございます」
「次席、リヴィア・ノクス。九十一点」
「はい」
「三席、ウィノナ・アシュフィールド。八十九」
「わあ……あと二点……!」
名前が読み上げられていく中で、ヴァレンス教官の眉が、ぴくりと動いた。
「……クレイド。六十一」
「あっぶねー! 赤点回避!」
「喜ぶな。実技首席が座学でこの点を取ると、教官の胃が痛む」
「先生、俺、実技で稼ぐ主義なんで!」
「主義で単位はやれん」
教室が、どっと沸いた。
答案を鞄に仕舞いながら、リヴィアは隣の席を横目で見た。セリウスは六十一点の答案を丸めて、なぜか嬉しそうに鞄へ押し込んでいる。
「……あなた、勉強したら普通に上位取れるでしょう」
「えー? やだよ、机に座ってると眠くなる」
「テスト前だけでも」
「リヴィアが教えてくれるなら考える」
さらりと言われて、リヴィアは答案を落としそうになった。
「……なんで私」
「グレイに教わると説教が長い」
「聞こえてるぞ」
前の席から、グレイの声だけが飛んできた。
【夏の演習】
夏になると、実技の授業は丘の上の草原へ移る。
照りつける日差しと、蝉に似た魔法虫の鳴き声。草いきれの中で、二十人の生徒が汗だくで走り回っていた。
「――模擬戦、最終組。クレイド、ノクス」
「またこの組み合わせかよ」
「他に組める相手がいないんだから、仕方ないでしょう」
互いに構える。もう何十回と繰り返してきた立ち合いだ。互いの癖も間合いも、体に染み込んでいる。
「始め!」
打ち合いは、いつも通り拮抗した。光が奔り、闇が薙ぐ。草原の草が舞い上がり、二人の足跡だけが円を描いて地面を抉っていく。
三分が過ぎた頃、リヴィアはいつもと違う感覚に気づいた。
(……セリウスの動きが、鈍い?)
違う。鈍いのではない。彼女の踏み込みに合わせて、彼がほんのわずかに待っている。
「……セリウス」
「ん?」
「手、抜いてる?」
言い終わる前に、リヴィアの剣は彼の首筋の寸前で止まっていた。
草原が、しん、となった。
「――そこまで! ……勝者、ノクス!」
教官の声より、生徒たちのどよめきの方が大きかった。
「え、今のリヴィアが取った!?」
「セリウスが負けた!?」
「初めてじゃない!?」
「……くっそー、やられた」
セリウスは両手を上げて笑っていた。あっさりと。清々しいくらいに。
リヴィアは、剣を下ろさなかった。
「手を、抜いたでしょう」
彼の笑顔が、少しだけ止まった。
「抜いてねえよ」
「嘘。三分過ぎたところから、右の踏み込みが半歩浅かった」
「…………」
「なんで」
セリウスはしばらく黙っていた。それから草の上に座り込んで、空を見上げた。
「……お前が、疲れてたから」
「え」
「今週、ずっと寝てないだろ。座学の追加課題、抱え込んでさ。ウィノナが心配してた」
リヴィアは、言葉を失った。
「あのままやったら、お前、絶対無理して倒れてた。……だから、早めに終わらせた」
「……勝手に」
「勝手にで悪いか」
セリウスは笑った。
「俺、お前が倒れるとこ見たくねえもん」
夏の日差しが、彼の金髪を白く光らせていた。
リヴィアは剣を鞘に納めて、それから彼の隣にどさりと座り込んだ。
「……次は、本気でやって」
「はいはい」
「本当に。……手加減されたら、私、強くなれないから」
「わかったって」
セリウスは寝転がって目を閉じた。
「……でも、無理はすんなよ」
草原に、風が渡った。
少し離れた場所で、グレイが二人の方を見た。水筒の蓋を開け、口をつけ、それから閉めた。飲んだ量は、ほんのひと口だった。
【灯りの祭り】
夏の終わりに、都で灯りの祭りがある。
一年でいちばん夜が短い日、魔光花を水路に流して川面を光で埋める祭りだ。学院も、その夜だけは門限が緩む。
「――行くわよリヴィア! 浴衣! 浴衣着るの!」
「浴衣って何」
「南方の民族衣装! 去年市場で買ったの!」
ティナに引きずられ、ウィノナに着付けを手伝われ、気づけばリヴィアは見慣れない薄い衣を纏って寮の玄関に立っていた。
「うわ、似合う。悔しい」
「なんで悔しいの」
「顔が良すぎるからよ。……ほら、行った行った」
都は、人で溢れていた。
水路の両岸に屋台が並び、魔光花を売る子供たちが籠を提げて歩き回る。橋の上から花を流すと、川面を淡い光が下っていく。その光の帯が水路を縦横に走って、街全体が光の網目になっていた。
「……綺麗」
「な。毎年見てるのに、毎年思う」
いつの間にか、隣にセリウスがいた。彼も私服で、祭りのために少しだけ髪を整えている。
「……なに、その髪」
「うるさい。母さんが送ってきた整髪油だ」
「似合ってない」
「ひでえ!」
二人は笑いながら人波を歩き、屋台で林檎飴を買った。水路の欄干にもたれて、光の流れを見下ろしながら、それを齧る。
「なあ。この花、どこまで流れると思う?」
「さあ……港まで?」
「もっと先だよ。海まで行く」
セリウスは光の帯を目で追った。
「昔、親父に聞いたんだ。この光は海に出て、それから世界中に散っていくんだって」
「本当?」
「嘘だと思う」
「思うんだ」
「でも、いい嘘だろ」
彼は光の川を見つめたまま言った。
「エルデナの光が、世界のどっかに届いてるって考えると、なんかいいじゃん」
リヴィアは、その横顔を見た。祭りの灯りが、彼の睫毛の影を頬に落としている。
(……眩しい)
六年前と、同じことを思った。
「――あっ、いた! 二人だけずるい!」
背後から、ティナの声が飛んできた。
「なにこそこそ二人で!」
「こそこそしてねえよ」
「してたわよ! ねえウィノナ!」
「……私は何も見ていません」
「見てるくせに!」
賑やかな一団に呑まれて、二人はそれ以上、話せなかった。
帰り道。人混みではぐれないように、と言い訳をして、セリウスがリヴィアの手首を掴んだ。寮に着くまで、その手は離れなかった。
橋の中ほどで、グレイが足を止めていた。
人波の向こうに二つの背中が消えるまで、彼はそこに立っていた。それから振り返り、祭りとは反対の方角――白の塔へ続く坂道を、一人で登っていった。
【二月の家】
年が明け、卒業の年になった。
その慌ただしさの合間に、一度だけ、約束は果たされた。
二月の休日、二人は馬車に乗って東の田舎町へ向かった。窓の外は枯れ野で、遠くの山にだけ雪が残っている。
「……なんで急に、連れてく気になったの」
「前に言っただろ。俺の親父、貸してやるって」
リヴィアは、その話を覚えていた。半年前、噴水の縁で焼き菓子を分けた時だ。親の顔も知らない、と自分がこぼした後に、彼はけろりと「じゃあ俺の親父貸してやる」と言ったのだ。
「……冗談じゃなかったのね」
「俺、嘘つかないから」
馬車が石垣の家の前で止まった。庭には、几帳面すぎるほど整えられた植木が並んでいる。
「……本当に整えすぎてる」
「な。病気だろ、あれ」
扉を叩くと、出てきたのは日に焼けた小柄な男だった。白髪混じりの茶色い髪に、皺の深い笑顔。
――金髪でも、青い目でもなかった。
「おお、帰ったか! ……おっ、そちらは?」
「学院の、リヴィアだ」
「リヴィア・ノクスです。突然すみません」
「いやいや! まあ入って入って! 母さん! セリウスが女の子連れてきた!」
「大声で言うなよ!」
家の中は、狭くて、暖かかった。台所から出てきた母親は小柄で優しそうな女性で、彼女もまた黒に近い髪をしていた。
昼食は素朴な野菜のスープと、焼いたパンと、川魚だった。父親は予告通り、庭木の話を延々とした。
「あのな、隣の家の楓がな。うちの日当たりを塞ぐんだ」
「だから勝手に切るなって言ってるだろ」
「切らんよ! 最近は! ちゃんと声をかけてから切る!」
「切るのは変わらないのかよ」
笑いが絶えなかった。
リヴィアは、その光景をずっと眺めていた。家族というものを、彼女は知らない。それでも、これがそうなのだろうと思った。
「セリウスは、親父さんに似てるんですね」
言ってから、あれ、と思った。顔立ちは、どこも似ていない。
「そうなんだよ! 笑い方がそっくりで」
父親が嬉しそうに膝を叩く。セリウスが照れくさそうに頬を掻いた。
「顔は、じいちゃんの若い頃に似てるらしい。写真も残ってないから、確かめようもないけどな」
なんでもないことのように言われた。
リヴィアは、少しだけそこに引っかかった。目の前の少年の、淡い金の髪。驚くほど青い、その目の色。この国では、あまり見ない色だった。
それを口に出す理由も、その時は思いつかなかった。
「リヴィアさん」
帰り際、母親が彼女の手を取った。
「あの子、学院では迷惑をかけていませんか」
「……いえ。いつも、助けられてます」
「まあ」
母親は目を細めた。
「あの子ね、小さい頃は体が弱くて。よく熱を出して、外にも出られなくて」
「……そうなんですか」
「ええ。だから、あんなに外が好きなんだと思うんです。……お日様の下にいると、生きてる気がするんですって」
リヴィアは、庭で父親と言い合っているセリウスを見た。冬の弱い日差しの中で、彼は笑っていた。
「……あの子を、よろしくお願いしますね」
その言葉の意味を深く考える余裕は、その時の彼女にはなかった。
帰りの馬車で、セリウスは照れくさそうに言った。
「……悪かったな。うるさかったろ」
「ううん」
リヴィアは、窓の外の枯れ野を見ながら答えた。
「……いい家だった」
「そうか?」
「うん。……また、来てもいい?」
セリウスは一瞬こちらを見て、それから前を向いた。
「……いつでも来い」
馬車が揺れて、二人の肩が軽く触れた。どちらも、離さなかった。
【遠い雷】
変化は、少しずつ始まっていた。
その年の初めから、教官たちの会話に聞き慣れない単語が混じるようになった。
レムナス。南の宗教国家。エルデナとは大河を挟んだ隣国で、これまでずっと静かな隣人だった。
「マーゴが聞いたって。レムナスの聖堂が燃えたらしいの。それも三つも」
夕食の席で、ティナが言った。
「事故じゃないの?」
「それがね。その火事の現場で、『エルデナの衛兵を見た』って証言が出てるらしいのよ」
テーブルの空気が、少し止まった。
「……そんなわけないでしょ」
ルーカスが、きっぱりと言った。
「我が国は千年、他国に兵を出していない。国境の衛兵は密輸の取り締まりしかしていないんだ。放火など、あり得ない」
「誤解だろう。使者を送って説明すれば済む話だ」
「そう、よね」
その時は、誰もそれ以上、深刻に考えなかった。
――エルデナは、千年戦争をしていない国だから。この国を潰したら、世界中が困るから。そう教わって、そう信じて、育ってきたから。
それから数週間のうちに、小さな変化がいくつか起きた。
図書塔の南向きの窓が、夕方になると閉められるようになった。理由は誰も説明しなかった。
実技の授業に「集団退避」の項目が加わった。演習場に生徒を集め、教官の合図で決められた出口へ整然と逃げる訓練。
「なんですかこれ。地味すぎません?」
カイルが不満を漏らすと、ヴァレンスは短く答えた。
「地味な訓練ほど、命を拾う」
それ以上は説明しなかった。
週末に外出したティナが、妙な顔で帰ってきたこともある。
「……市場でね、レムナスの香辛料、置かなくなってた」
「品切れ?」
「ううん。『しばらく入らない』って」
誰も、返事をしなかった。
三月の初め、談話室の壁に進路の一覧が貼り出された。
二十人分のこれからが、そこに並んでいた。
『ルーカス・グレン――王立文書院』
『ウィノナ・アシュフィールド――学院研究科(残留)』
『ティナ・ヴェルミリア――国境警備隊・魔導士枠』
『カイル・ドレイク――王都魔導警邏』
『セラフィナ・ロウ――王宮儀典部』
『トバイアス・フェン――未定』
『リゼル・サーシャ――王立医療院』
『グレイ・アークライト――王宮外務府』
『セリウス・クレイド――王宮魔導研究所』
「ティナ、国境警備隊なの!?」
「そ。実技しか取り柄ないもの、私」
「危なくない?」
「平和な国よ? 密輸の見張りくらいでしょ」
ティナはけらけらと笑った。
「あんたたちが困った時、国境で助けてあげるわ。特別料金でね」
「高そう」
「高いわよ」
リゼルが控えめに手を挙げた。
「あの……私、医療院に入れたら、みなさんの怪我、ちゃんと治せるようになりますから」
「リゼル、もう治してるだろ」
「もっと、ちゃんと治せるように、です」
「――全員、卒業後も年に一度は集まる。委員長として提案する」
ルーカスが、めずらしく笑った。
「出た、ルーカスの提案」
「良い提案だろう」
「良い提案だな」
「珍しくカイルが同意した」
談話室は、笑い声で満ちていた。誰もが、これからの話をしていた。
一覧の末尾、リヴィアの欄だけが空白のままだった。
「決めなさいよ、あんたも」
「……まだ、決まらないの」
「贅沢な悩みねえ。どこでも取ってくれるでしょうに」
どこでもよかった。ただ、この二十人と、そう遠くない場所にいられれば。
それを口に出すのは、なんだか気恥ずかしかった。
【春の嵐】
三月の半ば、最終演習の前日に、その報せは届いた。
レムナスがエルデナへ送った使者が、道中で殺された。首だけがレムナスへ返送された。エルデナの短剣を、添えられて。
教室に、動揺が走った。
「……そんなの、絶対に嘘だ」
ルーカスの声が震えていた。
「我が国が、使者を殺す? ありえない。永世中立の国だぞ。使者は、王が直々に迎える手筈だったんだ」
「じゃあ誰が」
「……分からない。分からないが、我が国ではない」
「レムナスは、そう思ってないみたいよ」
マーゴが青い顔で言った。
「もう、宣戦の準備が始まってるって。……港が閉鎖されたって、うちの父さんが」
教室が静まり返った。
窓の外は、いつも通りの春だった。白い都。エルデ樹。光の粒。その景色が急に、薄い硝子の上に描かれた絵に見えた。
「……大丈夫よ」
誤解が解ければ、戦争にはならない。王が説明すれば、必ず伝わる。千年、この国はそうやってきたのだから。
誰かがそう言って、みんなが頷いた。頷きながら、誰も、その言葉を信じきれていなかった。
【噴水の縁】
その夜、リヴィアは眠れずに中庭へ降りた。
噴水の縁に、先客がいた。
「……セリウス」
「よお」
彼はいつもの調子で手を上げた。その顔から、いつもの笑顔が抜けていた。
リヴィアは隣に腰を下ろした。春だというのに、夜気は冷たかった。
「……戦争に、なるのかな」
「……ならないよ」
「セリウス」
「ならない」
彼は繰り返した。
「なるわけない。……この国は千年、誰とも戦ってないんだぞ。書物を贈って、留学生を受け入れて、それで千年やってきたんだ。そんな国と、誰が戦争するんだよ」
声が、少しずつ大きくなった。自分に言い聞かせている声だと、リヴィアには分かった。
エルデ樹の枝が、風に鳴った。その枝には、去年結んだ願いの布がまだいくつも残っている。
「……リヴィア」
「うん」
「怖いか」
リヴィアは、正直に答えた。
「……怖い」
「そっか」
セリウスは空を見上げた。
「……俺も」
初めて、彼が弱音を吐いた。そのことが、何よりもこの夜の異常さを物語っていた。
リヴィアは、彼の横顔を見た。いつも太陽みたいだったこの人が、今、月明かりの下で少しだけ小さく見える。
――怖かった。
戦争が、ではない。この人がいなくなるかもしれないことが、怖かった。
自分が何を恐れていて、何を失いたくないのか。それが、初めて、はっきりと形になった。
――時間は、あるうちに使わないと駄目だと、誰かが言っていた。
「……セリウス」
「ん?」
「……あのね」
言葉が、喉の奥でつかえた。六年分の気持ちを、どう言えばいいのか分からなかった。あの日の中庭の階段から、今日この噴水の縁まで。差し出された手を取った日から、ずっと。
「私、ずっと」
声が震えた。
「……あなたに、拾ってもらったと思ってる」
「拾ってって、犬かよ」
「茶化さないで」
「……悪い」
セリウスは口をつぐんだ。
「あの日、あなたが手を差し出さなかったら。私は、たぶん今も階段の隅にいた」
リヴィアは、自分の膝を見つめた。
「……ティナとも、ウィノナとも、グレイとも、話せてなかった。この学級の誰の名前も、覚えてなかった」
「…………」
「あなたが、全部くれたの。……だから」
顔を、上げた。
月明かりの下で、青い目がまっすぐに彼女を見ていた。
「私、あなたのことが――」
その先を、言えなかった。言う前に、彼の手が彼女の手に重なっていたから。
「……知ってる」
セリウスは前を向いたまま言った。声が、少しだけ震えていた。
「たぶん、俺も。……ずっと前から」
「……いつから」
「わかんない。気づいたら」
彼は少し笑った。
「……いや。嘘だ。覚えてる」
「え?」
「三年前の、夏の演習」
彼は夜空を見上げた。
「お前が初めて、俺の一撃を正面から受け止めた日。あの時のお前の顔見て、……なんか、心臓がおかしくなった」
「……そんな時に?」
「そんな時にだよ。……我ながら、どうかしてる」
彼が手を握った。その手は、少し汗ばんでいた。いつも自信満々なこの人の手が緊張していることが、リヴィアには嬉しかった。
「……セリウス」
「なに」
「顔、見せて」
「やだ」
「なんで」
「……いま、絶対、変な顔してるから」
リヴィアは笑った。笑いながら、目の縁が熱くなった。
「……私も、変な顔してる」
「じゃあ、お互い様だな」
「うん」
どちらからともなく、顔を寄せた。
春の夜の、噴水の縁で。エルデ樹の光の粒が、二人の上に降っていた。
その夜のことを、リヴィアは生涯、誰にも話さなかった。
覚えているのは、断片だけだ。
寮の階段で、繋いだ手が離れなかったこと。閉めた扉に背中を預けたこと。外套のボタンを外す指が震えていたこと。
「……手、冷たい」
「お前もな」
小さな声で、そんなことを言い合ったこと。
窓の外で、エルデ樹の光が明滅していたこと。互いの心臓の音が、うるさいくらいに聞こえたこと。彼が何度も名前を呼んだこと。自分も、何度も呼び返したこと。
怖くなかったと言えば、嘘になる。それ以上に、この人がここにいるということを、体のどこかで確かめておきたかった。言葉より確かなもので。
――夜の終わり、うとうとと落ちかけた意識の中で、彼が言った。
「……なあ、リヴィア」
「ん……」
「明日、ちゃんと言うから」
「なにを」
「……全部」
彼の指が、彼女の髪を梳いた。
「明日の朝、演習の前に。ちゃんと、言葉にして言う」
「……うん」
「だから、逃げるなよ」
「……逃げないよ」
リヴィアは彼の胸に額を預けて、目を閉じた。規則正しい鼓動が、耳の奥に響いていた。
温かかった。
この温かさが明日も、明後日も、この先ずっと続くのだと。その時の彼女は、疑いもしなかった。
【出立の朝】
――逃げないよ。
十年経っても、耳の奥に残っているのは、自分のその声だけだった。
窓の外が、白んでいた。
机の上に、ペンダント。壁に、写真が二枚。床に、詰め終えた荷。
リヴィアは体を起こし、黒い軍服に袖を通した。
出立の朝だった。




