静かな任務
【凱旋のあと】
セルバから帝都に戻って、十日が経った。
街の空気が、少しだけ変わっていた。中央駅の売店には『大河戦記・完全版』と銘打った特集誌が平積みされ、路地では子供たちが棒切れを振り回して「帝国軍ごっこ」をしている。
バルドアの時、戦争は三行だった。セルバの今、戦争は売り物になっていた。
その変化を、リヴィアは駅前の壁で立ち止まって見た。
真新しい募兵ポスター。夜の河を背に、黒い軍服の兵士たちの影絵が剣を掲げている。顔は描かれていない。それでも、その立ち姿には見覚えがありすぎた。
『河を制した英雄たちに、続け』
誰の許可も取られていない。誰の顔も描かれていない。あの夜の自分たちが、知らないうちに「絵」にされて壁に貼られている。
リヴィアはポスターの前を離れた。振り返らなかったが、影絵の兵士たちの視線が背中についてくる気がした。
【日常】
「――九十秒」
朝の訓練場に、カラムの声が響いた。
「一本、リヴィア。……アシュ、九十秒だ。前より四十秒、粘った」
「……っ、ぜ……」
床に大の字になったアシュが、荒い息の合間に掠れた声を出した。
「四十秒……ってことは、あと三回で……追い抜く、計算だ……」
「その計算、毎回言ってるけど一回も合ってないわよ」
リズが水筒を放ってやる。
通算、七戦七敗。それでもアシュの装填は本当に一秒を切り始めていたし、床を爆ぜさせる位置は毎回、リヴィアの読みの半歩先に近づいていた。
「……次は、俺が勝つ」
「はいはい、八回目~」
訓練場の壁際では、最近増えた新兵たちが遠巻きにこちらを見てひそひそやっている。
「あれが黒翼……」
「ヴェイル砕いたっていう……」
視線は、もう好奇や嘲りではなかった。憧れに近い、熱っぽい色をしている。
それが、リヴィアには少しだけ居心地が悪かった。
昼、食堂。
リズが一枚の絵葉書をひらひらと振っていた。
「ミンから来たの! 見てこの絵、下手すぎて逆に上手いでしょ」
葉書には、赤いマフラーの棒人間とポニーテールの棒人間が、火と風で巨大な樽を爆破している絵が描かれていた。裏には一言。
『またいっしょにたたかおうね! つぎは樽じゃなくてもっとでかいやつ!』
「……元気そうね」
「元気元気。紅蓮掌、東の駐屯地に戻ったって。レイリンさんからアシュにも何か来てたわよね?」
「来てねえよ」
「え、じゃあこの『銃の兄さんへ 射程四百は嘘だと思う』って走り書きは」
「見せろ!!」
笑い声の中、リヴィアはふと、宿舎の自分の部屋の壁を思い出していた。
写真は、二枚に増えた。一枚は朝の食堂の一枚撮り。もう一枚は、セルバを発つ前にジンが撮った、黒と紅の十人の集合写真。誰も整列していない、ひどい写真だ。
殺風景だった壁が、少しずつうるさくなっていく。
その夜、リヴィアは資料室の灯りに気づいた。
覗くと、ネロが端末の前で、一人で青い顔をしていた。
「……ネロ? まだ起きてたの」
「ひゃっ……り、リヴィアさん」
彼の画面には、二つの波形が並んでいた。一つはバルドアの無効化パルス。一つはセルバのヴェイルの脈動。
「見て、ください。この……立ち上がりの癖。息継ぎの間隔の作り方。エネルギーの、節約の仕方……」
ネロは、ごくりと唾を飲んだ。
「バルドアのパルスと、セルバのヴェイル……別の国の、別の兵器なのに、設計の癖が同じなんです。これって……」
一拍。
「――同じ人が、作ったみたいに」
資料室の空調の音だけが、しばらく響いた。
「……そのデータ、カラムさんには」
「わ、渡してあります。『表には出すな』って……」
「なら、それでいい。……早く寝なさい。顔、真っ青よ」
「は、はい……」
部屋へ戻る廊下で、リヴィアは考えていた。
バルドアに兵器を渡した誰か。セルバに兵器を渡した、同じ誰か。帝国と戦う小国にだけ最新の兵器を配って歩く技術者が、この世界のどこかにいる。
格納庫には、もっと遅くまで灯りがついていた。
カラムが一人、自分の装具を並べて手入れをしていた。
「よう。眠れねえのか、嬢ちゃん」
「……リーダーこそ」
「歳を取るとな、道具いじりが一番落ち着くのさ」
リヴィアは隣の工具箱に腰掛けた。
カラムの手はベルトの革を磨き、留め具の緩みをひとつずつ確かめていく。二十年物だという装具は、傷だらけで、どこも壊れていなかった。
「リーダーは……ずっと、前線に?」
「いんや。若い頃は、つまらん仕事もしたよ」
カラムは革を磨く手を止めずに言った。
「田舎から出てきた三刻の小僧に回ってくる仕事なんざ知れてる。倉庫番、門番……一番長かったのは、研究所の警備だな」
「研究所?」
「帝都のな。白衣の先生様たちを、ぼけーっと眺めてるだけの仕事だ。……ま、あそこで色々、覚えたよ」
それ以上は語らなかった。
代わりに、カラムは磨き終えたベルトを締め、ぽんと膝を叩いた。
「なあ、嬢ちゃん。俺がなんで隊長やってるか、前に話したろ」
「……パルスの夜に。三刻だから、って」
「あれは半分だ。もう半分はな」
彼は格納庫の天井を見上げた。
「うちの隊の連中はよ、全員、俺より強いんだ。リズも、アシュも、ネロも……お前さんは、言うまでもねえ。だから俺の仕事は、勝つことじゃねえ」
「――強いやつらを、一人残らず生きて帰す。それだけが、三刻の俺の専門分野ってわけだ」
自慢でも、決意表明でもない。道具の使い方を説明するみたいな、当たり前の声だった。
だからその言葉は、変に残った。
【密会】
三日後の夕方、書類を届けに来たエレナが、去り際、リヴィアの机に一冊の整備手帳を置いた。
「――返却をお願いします。十九時までに」
手帳に、借りた覚えはなかった。開くと、頁の間に小さな紙片が挟まっている。
『一九〇〇 中層区三番街・時計店ヴェスパー 裏口』
その紙片から目を上げた時、エレナはもう廊下の角を曲がるところだった。脇に抱えた綴りが見えた。薄い、名簿らしき冊子。角がすり切れるほど持ち歩かれているのに、彼女がそれを開くところを、リヴィアは一度も見たことがなかった。
中層区三番街へ向かう道は、思ったより暗かった。
通りの魔導灯が、二本に一本しか点いていない。柱に貼られた告示に『節電のため間引点灯を実施中』とあった。日付は、先月から。
時計店ヴェスパーは、路地の奥の古い小さな店だった。硝子戸の向こうで、売り物の振り子時計が三十いくつ並んでいる。どれも針が違う時刻を指したまま、一本も動いていなかった。
裏口の階段を上がると、二階は分解された時計だらけの作業部屋だった。歯車。ぜんまい。文字盤だけになった円板。それらが小分けの木皿に几帳面に仕分けられて、机の端から端まで並んでいる。部屋のどこからも、秒を刻む音がしなかった。
その真ん中に、私服のグレイが座っていた。
軍服ではないグレイを見るのは、十年ぶりだった。肩の階級章がないだけで、背の高さの印象まで変わって見える。
「……悪いな、呼び立てて。ここなら耳がない」
「ずいぶん時計に囲まれてるのね」
「店主に借りてる。……止まった時計ってのは、耳障りがなくていい」
グレイはリヴィアに椅子を勧め、前置きなしに始めた。
「まず――セルバの件。見事だった。ヴェイル攻略の戦術報告は、上でも相当な評判だ」
「……皮肉に聞こえるけど」
「半分は皮肉だ」
グレイは机の上に、数枚の書類を並べた。
「お前たちが優秀すぎるおかげで、上は次もお前たちを使いたがってる。……その『次』の話をする前に、こっちの現状だ」
彼の指が、書類を順に叩いていく。
「グロリア号の積荷目録。決裁印は、議会軍需委員のディルク・ハイゼン。バルドアの削岩機の発送記録。開戦の三週間前。黒い鉱石と、燃えた時に魔法が死ぬ現象。……そして、ヴァレン提督の遺した証拠一式」
「……全部、繋がってるのね」
「ああ。バルドアも、セルバも――始まりが作られてる。エルデナと、同じ手口でな」
グレイは一度、目を閉じた。
「先が進まん。ハイゼンの周りは議会の壁だ。これ以上嗅ぎ回れば、こっちが調べてることが向こうに知れる」
「……それで。私に話したかったのは、それだけじゃないでしょう」
「察しが良くて助かる」
グレイは、一番下の書類をリヴィアの前に滑らせた。
諜報の集計資料だった。物資の流れ。人の移動。断片的な目撃情報。無数の矢印が、地図の上で一つの場所に吸い込まれている。
大河ルーメルの、河口。
「――リバースオーダーの本拠は、レムナスだ」
息が、止まった。
「巡礼路に紛れた物資の流れ。セルバで消えた『例の連中』の足取り。半年分の断片を重ねると、全部、聖都の周辺で消える。……ほぼ確定と見ていい」
「……レムナスに」
「ああ。そして――十中八九、セリウスも、そこにいる」
リヴィアは膝の上で拳を握った。
――まだ、数ヶ月前だ。あの煙の中で会ってから。
ずっと探していた居場所が、急に、地図の上の一点になった。
「喜ぶのは早いぞ、リヴィア」
グレイの声が低くなった。
「考えてみろ。革命軍の本拠がレムナスだと俺が掴めるなら――上も、掴んでる」
「…………」
「レムナスは戦争を放棄した宗教国家だ。世界中の信徒を抱えてる。普通なら、絶対に手を出せない相手だ。……ところが、『テロ組織を匿っている』となれば?」
リヴィアの背中を、冷たいものが伝った。
「次の戦争の名目が……」
「もう、組み上がりつつある。新聞の一面も、募兵ポスターも、全部その下拵えだ」
グレイは、そこで書類を一枚めくった。
「それとな。妙なことが一つある」
「なに」
「バルドアとセルバ、両方の発令文書を遡った。どっちも、決裁欄が一つ空いたまま通ってる」
「……空欄で?」
「判のない紙が、この国で通るはずがない」
グレイは、その紙をすぐに裏返した。
「誰かが、判を押さずに命令を出せる場所にいる。……名前も、階級も、書面には残らない場所だ」
「それは、誰なの」
「分かってりゃ、こんな時計屋の二階で会ってない」
自嘲の混じった、正直な声だった。
「近いうちに、お前たちにも妙な命令が来るかもしれん。来たら――疑え。命令の中身よりも、『誰が、何のために出したか』をだ」
「……グレイ。あなたは、それを止められないの」
グレイはすぐには答えず、机の上の止まった時計をひとつ、指で回した。
「いいか、リヴィア。今のこの国はな――お前たちの勝利も、お前たちの死も、等しく『使う』。何かあれば、それすら口実にされる。……それだけは、忘れるな」
帰り際、階段の下でエレナが待っていた。
「……お疲れさまでした」
それだけ言って、彼女は二階の窓を一度だけ見上げた。腕に抱えた綴りは、やはり閉じたままだった。
その横顔の意味を、リヴィアはまだ聞けずにいた。
【封蝋】
命令書は、五日後の朝に来た。
作戦室。いつもの長机。いつもの封蝋。
封を割ろうとしたカラムの親指が、一瞬止まった。封筒の隅の発令印を、彼はじっと見ている。
「……リーダー?」
「いや。……なんでもねえ」
封が、割られる。
「特務課を経由しない直令だ。発令元、参謀本部最上層。――任務、レムナス神光国への隠密潜入」
作戦室の音が、消えた。
「れ、レムナスって……あの、レムナスですか? 戦争放棄した……」
「巡礼と托鉢しかしてねえ国だぞ。潜入して、何をしろって……」
「――リバースオーダーの、潜伏状況の確認だ」
カラムは命令書を読み上げた。
「『革命組織リバースオーダーが聖都周辺に潜伏している疑いあり。実態を確認し、証拠を収集せよ。交戦は厳に回避。偵察のみ。期限、侵入より七日』……以上だ」
偵察のみ。交戦回避。文面だけ見れば、無茶な命令ではなかった。むしろ、慎重ですらある。
なのに、リヴィアの耳の奥では、時計店の二階の声が鳴り続けていた。
――命令の中身よりも、誰が、何のために出したかを疑え。
「侵入経路は、こっちで詰めた。ネロ」
「は、はいっ。セルバ要塞の古文書庫から、面白いものを見つけました」
机の上に、古い図面が広げられる。羊皮紙の写しだった。折り目が茶色く焼け、縁は虫に食われている。描かれているのは丘の断面と、その下を横切る一本の細い線だけだった。
「『旧聖廊』――百年以上前の、地下の巡礼道です。冬に河が荒れる季節、巡礼者が国境の丘の下を通るために掘られました。河の水運が発達してからは閉鎖されて、忘れられてます」
図面の上を、ネロの指が辿る。灯りの下で、線は途中で二度、消えかけていた。写した者の手が震えたのか、元の図がそこだけ擦り切れていたのか。
「夜間、小舟で河を下って、国境手前の東岸で上陸。丘の斜面の入口から旧聖廊に入って、地下を約六キロ。抜けた先は――レムナス領の端、辺境の巡礼町オルセの外れです」
「無線はパイドの旧式を持ってく。地下じゃ届かねえから、定時連絡は地上でのみ、一日一回。ジンのヘリは国境を越えられねえ――越えた瞬間、それは『侵攻』になるからな。迎えも送りも、河だけだ」
カラムは全員の顔を見回した。
「……偵察任務だ。見て、記録して、帰る。それだけだ。派手な仕事に慣れた体には、退屈かもしれねえがな」
彼は、命令書を畳んだ。折り目に沿って一度、それから、もう一度。
「出立は三日後、新月の晩。――全員で、行って、全員で帰るぞ」
解散のあと、リヴィアはカラムを呼び止めた。
「リーダー。……命令書、見せてもらえますか」
カラムは少し彼女を見てから、胸ポケットの紙を差し出した。
文面は、読み上げられた通りだった。問題は、末尾だ。
決裁欄が、七つ並んでいる。判が、六つ。左端の一つが、空白のまま通っていた。
「……気づいたか」
「グレイに、聞きました」
「そうか」
カラムは紙を受け取り、胸に戻した。
「聞いたなら、忘れとけ。……いや」
「忘れるな、ですね」
「覚えがいいな、嬢ちゃん」
カラムは笑ったが、その笑い方は、褒めている顔ではなかった。
【前夜】
出立の前の晩、リヴィアは自分の部屋で荷を詰め終えた。
壁には、写真が二枚。窓辺には、名前を知らないままの緑の鉢植え。少し、背が伸びた。
こん、こん。
控えめなノック。開けると、リズが枕を抱えて立っていた。
「……眠れないんですけど」
「奇遇ね」
「でしょ。ちょっと喋って寝る」
リズは勝手に入ってきて、床にぺたんと座った。
とりとめのない話をした。ミンの絵葉書のこと。揚げパンの店に新作が出たこと。ネロが荷物に計器を詰めすぎて怒られたこと。
やがて、リズがぽつりと言った。
「……ね。今回の任務、なんか変よね」
「……うん」
「でもさ。リーダーが『全員で帰るぞ』って言ったから」
リズは枕に顎を乗せて、笑った。
「帰ってこれるのよ、うちの隊は。今までも、ずっとそうだったし」
「……そうね」
リヴィアも笑って頷いた。
リズが自分の部屋へ戻ってから、彼女は机の上にペンダントを置いて、しばらく眺めた。
鎖の擦れた銀。中央に、六つに枝分かれした線と、それを囲む輪。孤児院の細工師も、白の塔の古代語の教官も、これがどの国の意匠なのか答えられなかった。三歳の時からずっと首にあるのに、彼女はこれについて何ひとつ知らない。
見知らぬ紋様は、今夜も何も語らない。
(……レムナス)
エルデナを滅ぼした側の国。十年間、憎むことすら避けてきた名前。
その国のどこかに、セリウスがいる。
――何をしてるの、と聞いた。
――関わるな、と言われた。
今度こそ、その先を聞く。
窓の外では、月のない夜が深まっていった。
その晩、リヴィアは、なかなか眠れなかった。




