河の嘘
【隔壁】
勝鬨は、早すぎた。
外郭を落とした正規軍が河岸で歓声を上げていた頃、要塞ロデルの腹の中では、まだ戦いが続いていた。
中枢区画。石と鉄でできた、水路と隔壁の迷宮だ。通路は人がすれ違えるほどの幅しかなく、天井は低く、足元の側溝を黒い水が流れている。松明の光は数歩先で闇に呑まれ、どこかで絶えず、水の滴る音がしていた。
「……嫌な造りだ」
カラムが低く言った。
「守る側が、水門で通路ごと沈められる構造だな、こりゃ。ラン・ファさん、頼めるか」
「……もう、やってる」
ラン・ファの指先から伸びた無数の糸が、通路の闇の先へ音もなく滑っていく。
「接触あり……前方、交差路。伏兵、六。……上にも、二」
ネロの付与で、全員の視界に赤い光点が浮かんだ。
「六と二、ね。じゃあ――」
リュウ・ファンが、一歩前に出た。
「俺が通る。ついてこい」
それは、戦闘と呼べるものではなかった。
交差路に踏み込んだリュウへ、六本の槍が同時に突き出される。
彼は、止まらなかった。
最初の槍を掌で払った瞬間、その矛先が熱で溶け落ちた。二人目の盾へ、開いた掌が触れる。触れただけに見えた。盾が内側から爆ぜ、持ち主ごと壁まで飛んだ。振り向きざまの裏拳が三人目と四人目をまとめて薙ぎ、天井から降ってきた二人は、着地する床がすでに炎の海だった。
五秒。
交差路に立っているのは、リュウ・ファンだけになっていた。
黒翼の四人は、誰も口を開けなかった。
(……格が、違う)
魔刻が何刻だとか、そういう物差しを当てる気が起きない。戦い続けて生き残った人間の、五十年分の背中だった。
「ぼさっとするな。行くぞ」
異変は、中枢の手前で起きた。
ラン・ファの糸が、前方で一斉に焼き切れた。
「――切られた。糸を、認識されてる」
「はあ? あの糸、ほとんど見えな――」
アシュが言い終わる前に、通路の側面で鈍い金属音が響いた。隔壁の水門が、開いたのだ。
「水、来ます!! 右!!」
ネロの悲鳴と同時に、側路から黒い水の壁が通路へ雪崩れ込んだ。
ただの水ではなかった。濁流の中に、鉤刃を握った人影がいくつも混じっている。水と一緒に、斬りかかってくる。
正面にいたのは、ネロとリズだった。
「――っ、間に合わな……!」
リズが咄嗟にネロを突き飛ばし、風を張ろうとして――狭い通路では、風の逃げ場がない。
二人の視界を、紅い残像が横切った。
グイ・トンだった。
炎を纏った脚が床を蹴った瞬間、彼女の姿は加速の中に消え、見えた時には濁流のただ中にいた。
回し蹴り、一閃。
脚から放たれた炎の斬撃が水の壁を横薙ぎに両断し、中の刃ごと蒸気に変える。返す足で床の排水格子を蹴り割ると、行き場を得た水が轟音とともに床下へ吸い込まれていった。
三秒後、通路には湯気と、尻餅をついたネロと、目を丸くしたリズだけが残っていた。
グイ・トンは濡れた前髪を掻き上げもせず、何事もなかったように歩き出す。
「あ、あの! ありがとう、ございます……!」
ネロの声に、彼女は振り返らず、片手をひらりと振った。
「『貸し一つ』だって!」
後ろから追いついたミン・シアが、通訳して笑った。
中枢の制御室に踏み込んだ時、そこはもぬけの殻だった。
壁一面の配管と計器。中央に、ヴェイルの制御盤らしき大きな操作卓。
その操作卓のハンドルに、カラムが手をかざした。
「……まだ、温い」
部屋の奥、河へ落ちる水路の蓋が開いたままになっていた。切られたロープが一本、暗い水面へ垂れている。遺留品は、それだけだった。
「……昨夜、脈動を弄ってた奴だ。俺たちが裂くより早く、逃げてやがった」
「セルバ兵、ですか?」
「さあな」
カラムは、切られたロープの断面を見た。
「……退き際に、何も残さねえ。どっかで見た手際だよ、まったく」
【水の司令官】
最後の抵抗は、地図の間で終わった。
崩れた天井の梁の下に、セルバ守備軍司令、ヴァレン提督は倒れていた。
白い髭の老人だった。軍服の胸は血に染まり、それでも右手は指揮杖を離していない。
「手当てを――」
「……いらん」
提督は掠れた声で言った。その目が、踏み込んできた黒い軍服を順に見回す。
「……黒翼、か。噂は、届いておったよ。……壁を裂いたのは、お前さんらか」
「……ええ」
リヴィアが膝をついた。
提督は、少し笑ったように見えた。
「見事な、ものだ。……のう、黒い軍服の。ひとつだけ……聞いてくれるか」
「…………」
「わしらは――拿捕など、しておらん」
水の滴る音が、部屋のどこかで続いていた。
「あの船は……検問水域で、燃えながら漂っておった。わしらが引き上げた時……人っ子ひとり、乗っておらんかった。血の、一滴もだ」
「乗員、二十八名は……」
「最初から……おらんかったのだろうよ」
提督は咳き込んだ。
「あの船は……沈められに、来たのだ。わしらの水域で。……お前たちの、船が、だ」
リヴィアの背筋を、冷たいものが走った。
「船倉の箱を開けて……わしらは、知った。これは、荷ではない。……戦争を始めるための、口実だと」
提督の左手が、震えながら部屋の奥の鉄扉を指した。
「証拠は……全部、あそこに。引き上げの記録も、写真も、目録も……世界に見せるために、残してきた。……だから要塞ごと、灰にされる前に、と……」
指が、力を失って落ちる。
「……誰か、に……届けて……くれ……」
「――届けます」
言ってから、リヴィアは自分の声に驚いた。
誰に、どうやって届けるのか。何ひとつ、決まっていないのに。
提督には、もう聞こえていなかった。地図の間に、水の滴る音だけが残った。
リヴィアは、閉じられなかった提督の目を、手のひらで覆って閉じた。
(……二度目だ)
雪の下の少年と同じことを言って死んでいく人を、二度、続けて見た。
――なんも、してない。
――拿捕など、しておらん。
鉄扉の奥の資料室では、ネロが震える手で積荷目録の写しを取っていた。
「カラムさん……これ、日付も、署名も、全部揃ってます。この船が『何を積んで、いつ帝都を出たか』……全部……」
「写せ。二部だ」
カラムの声は低かった。
「一部は俺が預かる。……もう一部は」
彼は、リヴィアを見た。
「お前が持て。約束したんだろ」
返す言葉が、すぐには出なかった。
「表の報告書には、この部屋のことは一行も書くな。全員だ。いいな」
【勝鬨の外】
その夜、河岸は祝勝の焚き火で赤かった。
正規軍の歌声。振る舞い酒。誰かが打ち上げた照明弾が、花火の代わりに空で弾ける。
黒と紅の軍服だけが、その輪の外にいた。
城壁の上で、レイリンが細い煙管をふかしていた。リヴィアはその隣に立った。眼下の河には、砕けたヴェイルの名残の霧が、まだうっすらと漂っている。
「……これで、良かったんでしょうか」
気づけば、口に出ていた。
レイリンは煙をひとつ吐いてから、前を向いたまま言った。
「命令は命令。考えるのは、上の仕事」
「…………」
「――って、割り切れたら楽なんだけどね」
煙管の先が、小さく赤く灯る。
「そうやって、みんなが考えるのをやめてる間に……あたしたちの国も消えたのよ。生まれる三十年も前にね」
リヴィアは、返す言葉を持っていなかった。
城壁の少し離れた場所に、ミン・シアが膝を抱えて座っていた。いつもの、うるさいくらいの声がない。黒い河を見ている。
その隣に、リズが黙って腰を下ろした。
肩と肩が少しだけ触れる距離で、二人はしばらく、同じ河を見ていた。
祝勝の歌は夜更けまで続いた。歌わない者たちの沈黙も、同じだけ続いた。
【三つの視線】
――望楼。
深夜、ネロは一人で南向きの窓に地図を広げていた。
様子を見に来たリヴィアに気づくと、彼はおずおずと、地図の上の青い線を指でなぞった。
「リヴィアさん。……この川、どこまで続いてると思います?」
「……下流は、確か」
「聖都です。レムナス」
ネロの指が、河口で止まる。
「メルローズから、この要塞まで……河は今日、全部、帝国のものになりました。残ってるのは、ここから下流だけ。……そして下流には、レムナスしか、ありません」
開け放した窓から、南の風が入ってきた。湿った、夜の河の匂い。
その風上に何があるのかを、二人はもう考え始めてしまっていた。
――帝都、執務室。
数日後の深夜、グレイの机には二つの紙があった。
一つは、カラムから届いた非公式の封書。積荷目録の写し。
もう一つは、今朝の新聞。
『セルバ陥落! 大河ルーメル、全域確保!』
一面だった。
バルドアの勝利は三面の三行だったのに、セルバは写真つきの一面。
「……ずいぶんと、扱いが違うじゃないか」
世論が、温められている。何か、次の大きなもののために。
グレイは目録に視線を戻し、末尾の決裁印を議会の調達記録と突き合わせた。
指が、一つの署名で止まる。
ディルク・ハイゼン。帝国議会、軍需委員。
「……議会が、革命軍に武器を流していた?」
それとも。
「……流した『ことに、したかった』のか」
答えの代わりに、机の二重底がまた一枚、厚くなった。
窓の外で、グランドアーカムの白い塔だけが、夜の底に光っていた。
――蝋燭の聖堂。
石壁に十字の影が揺れる、地の底の礼拝堂。
その中央だけ、蝋燭の炎が揺れずに静止していた。舞い上がった塵の一粒一粒が、空中で止まったまま金色に光っている。
止まった時間の中心に、その男は座っていた。
「――報告します」
跪いたカリンの銀髪が、蝋燭の光に鈍く光る。
「セルバ、陥落。ヴェイルは……破られました。制御員は無事に離脱。ですが」
一拍。
「壁を裂いたのは――黒い、閃光です」
柱の陰で、微かに革手袋の軋む音がした。フードの下の青い瞳が、暗がりの中でじっと床を見つめている。
男は、何も問わなかった。掌の上の懐中時計を、ぱちりと閉じた。
その音を合図に、止まっていた塵が流れ始める。
「……予定より、早いな」
穏やかな、疲れたような声だった。
「では――こちらも、早めよう」
男は立ち上がり、蝋燭の並ぶ祭壇を見上げた。
「祈りの街に、もうすぐ、客が来る」
それから、柱の陰へ目を向けた。
「セリウス」
「……はい」
「お前も、行くか」
返事は、少し遅れた。
「――行きます」
止まっていた炎が、一斉に揺れた。




