第32話 夜の歌声
その日の夜。
港町ベルクは昼間の賑わいが嘘のように静かだった。
宿の窓から見える港には、いくつもの船が停泊している。
波が岸壁を叩く音だけが、静かに響いていた。
レインは眠れずにいた。
明日から始まる海への旅。
山とは違い、海での戦いは経験がない。
自然と不安が募っていた。
「少し外の空気でも吸おう。」
上着を羽織り、静かに部屋を出る。
⸻
宿の裏手を歩いていると、潮風が頬を撫でた。
月明かりが海を照らし、水面が銀色に揺れている。
「綺麗だな……。」
思わず立ち止まった、その時。
──ララ……。
どこからともなく、透き通るような歌声が聞こえてきた。
「……!」
レインは顔を上げる。
昼間に聞いた噂が頭をよぎった。
『夜の海で女性の歌声が聞こえた船は帰ってこない。』
まさか、本当に……。
歌声は優しく、美しかった。
不思議と心が落ち着く。
もっと近くで聞きたい。
そんな気持ちになり、レインは無意識に海へ向かって歩き始める。
一歩。
また一歩。
足が止まらない。
⸻
「レイン!」
突然、後ろから強く腕を掴まれた。
「えっ?」
振り向くと、リリアが立っていた。
その表情は真剣だった。
「何してる。」
「いや……歌が聞こえて。」
リリアは海を見た。
「私には何も聞こえない。」
「え?」
その一言でレインは我に返る。
周囲は静まり返っている。
歌声も消えていた。
「夢……?」
「違う。」
リリアは首を振る。
「さっき宿で目が覚めたら、お前がふらふら外へ出ていくのが見えた。」
「様子がおかしかった。」
レインは寒気を覚えた。
もしリリアが来なければ、このまま港まで歩いていたのかもしれない。
⸻
二人が宿へ戻ろうとした、その時だった。
「助けてくれ!」
港の方から叫び声が響く。
二人は走り出す。
港へ着くと、一人の若い漁師が海を指差して震えていた。
「あいつが……!」
「海へ飛び込んだ!」
見ると、一人の男がゆっくりと海の中へ歩いていく。
まるで誰かに呼ばれているように。
「止まれ!」
レインが叫ぶ。
しかし男は振り返らない。
そのまま海へ入っていく。
「クロード!」
後ろから駆けつけたクロードが状況を見て驚く。
「何だこれ!」
レインは迷わず海へ飛び込んだ。
冷たい海水が全身を包む。
男まであと少し。
手を伸ばした、その瞬間。
海の中で何かが動いた。
細く長い影。
人のようで、人ではない。
長い髪が水中を漂っている。
赤く光る瞳が、レインを見つめた。
「……!」
影は男の足首を掴むと、一気に深い海へ引きずり込もうとした。
レインは男の腕を掴む。
「離せ!」
魔導書が青く光る。
「《水流弾》!」
水中で放たれた魔法が影へ直撃する。
影は一瞬だけ怯み、その隙に男を引き寄せる。
「今だ!」
岸ではクロードとリリアがロープを投げていた。
レインは男を抱えたままロープを掴む。
三人の力でなんとか岸へ引き上げることができた。
男は気を失っていたが、呼吸はある。
「助かった……。」
クロードが胸をなで下ろす。
その時。
海面から再び歌声が聞こえた。
今度は三人全員に聞こえる。
ラララ……。
悲しそうな旋律。
海の向こうに、一人の女性の姿が見えた。
青白い髪。
白い服。
波の上に立つようにこちらを見つめている。
だが次の瞬間、霧のように消えてしまった。
港に集まっていた人々は震えながら呟く。
「海の魔女だ……。」
レインは首を横に振った。
「違う。」
「あれは……助けを求めていた。」
その言葉に、リリアとクロードは驚いた表情を見せる。
レインだけが感じていた。
あの女性の瞳には、敵意ではなく深い悲しみが宿っていたことを。
海底神殿には、まだ誰も知らない真実が眠っている。
第33話 出航 へ続く。




