第99話 地上で生きるために
数日後。
蓮のスマートフォンが鳴った。
「……ん?」
蓮がスマートフォンを見る。表示されているのは、役所からの電話だった。
「……役所?」
蓮が電話に出る。
「……もしもし」
短い確認を終え、蓮は電話を切った。
「……美月」
「ん?」
「身分証、できたみたい」
「あ、本当?」
「……うん」
「じゃあ、今日一緒に受け取りに行こう」
「……分かった」
蓮はスマートフォンをポケットにしまった。
◇
二人で役所へ向かう。
受付で名前を伝え、案内された窓口へ向かった。
「黒瀬蓮さんですね」
「……はい」
職員が手続きを確認する。
「本人確認も済んでおりますので、こちらをお渡しします」
差し出されたのは――
蓮の身分証だった。
「……これが」
「うん」
美月が隣から見る。そこには、蓮の名前と写真が載っていた。
蓮はしばらく、それを見つめていた。
十年間。ダンジョンの中で生きていた自分。名前を証明するものなんて、何も必要なかった。
けれど今は違う。地上で生きるためには、自分が誰なのかを証明する必要がある。
「……俺のだ」
「うん」
美月が微笑む。
「これで、少しずつ普通の生活に戻っていけるね」
「……うん」
◇
役所を出たあと。
「じゃあ、次は銀行」
「……銀行?」
「うん」
美月が頷く。
「蓮、銀行口座ないでしょ?」
「……ない」
「作っておこう」
「……分かった」
二人は銀行へ向かった。
◇
銀行では、身分証を使って本人確認を行い、必要な書類へ記入していく。
「こちらにお名前をお願いします」
「……はい」
蓮はペンを取る。そして、ゆっくりと自分の名前を書いた。
黒瀬蓮。
今日だけで何度、自分の名前を書いただろう。それが少しだけ不思議だった。
「ありがとうございます」
手続きが進み――
「口座の開設が完了しました」
キャッシュカードを受け取る。蓮はカードを見つめる。
「……これで?」
「うん。蓮の口座だよ」
「……お金を入れられる?」
「入れられるよ」
「……いくら入ってる?」
美月は少し苦笑した。
「……今はゼロ」
「……ゼロ」
「うん」
蓮はカードを見つめる。特に驚いた様子はない。
十年間。お金を使う必要なんて、一度もなかった。
食べ物も。水も。装備も。
必要なものは、すべて自分で手に入れてきた。
けれど――
地上では違う。
「……お金、必要なんだな」
「そうだね」
「……食べ物とか?」
「うん」
「……服とか」
「うん」
「……家とか」
「そう」
美月が笑う。
「普通に生活するなら、必要だよ」
「……そっか」
蓮は少し考える。
「……魔石」
「え?」
「……魔石を売れば、お金になるんだよな?」
「あ……」
美月も思い出した。ギルドに預けた魔石は、まだ調査中だった。
あの魔石は普通とは明らかに違う。
「前に持っていった魔石は、まだ調査中だからね」
「……うん」
美月は少し考えてから続ける。
「でも、普通の魔石なら問題なく売れるよ」
「……普通の?」
「うん。弱い魔物から取れた魔石でも、ちゃんと買い取ってもらえるから」
「……そうなのか」
「もちろん。魔石は魔力を持っているから、ランクが低い魔石でも需要があるの」
蓮は黙って聞いている。
「FランクやEランクの魔物から取れるような魔石なら、普通にギルドで買い取ってもらえるよ」
「……なるほど」
蓮は少し考えた。
「……弱い魔物の魔石なら、ある」
「……あるの?」
「……うん」
「どのくらいの魔石?」
「……三十階層くらいからのなら」
「三十階層?」
美月が少し驚いた表情を見せる。
「それって、弱いの?」
「……俺にとっては」
「……そうだよね」
美月は苦笑する。
「じゃあ、どうしてそれを残してたの?」
「……最初の頃は、残してなかった」
「え?」
「……アイテムボックスの容量が少なかったから」
蓮は少し考える。
「……必要なもの以外は、捨ててた」
「なるほど」
「……でも、三十階層くらいから余裕ができてきたから」
「うん」
「……食べられそうな魔物とか、何かに使えそうな魔物は入れるようになった」
「魔石だけじゃなくて?」
「……うん。魔物ごと」
美月が目を丸くする。
「魔物ごと……?」
「……後で使うかもしれないから」
「でも、魔物をそのまま入れてたら腐らない?」
「……最初は、そうだった」
「最初は?」
「……アイテムボックスのレベルが上がってから、時間が止まるようになった」
「……時間が?」
「……うん」
蓮は頷く。
「だから、それからは腐らなくなった」
「なるほど……」
美月は納得する。
アイテムボックスは、ただ物を収納するだけの能力ではない。レベルが上がれば、収納できる量だけでなく、その性質まで変化する。
蓮はそれを、十年間の生活の中で当たり前のように使っていた。
「……だから、食べられそうな魔物も残してたんだ」
「……うん」
蓮にとっては、それだけの理由だった。
魔石に価値があることも。魔物の素材が売れることも。当時の蓮は知らなかった。
ただ――
食べられるもの。使えそうなもの。いつか必要になるかもしれないもの。
それを、時間が止まったアイテムボックスの中へ入れていた。
「……じゃあ、三十階層くらいからの魔物で、食べられそうなものや使えそうなものを入れてるの?」
「……うん」
「どのくらい?」
「……分からない」
「……分からないんだ」
「……多いから」
美月は少しだけ嫌な予感がした。
「……かなり?」
「……たぶん」
「…………」
「……売れる?」
「うん。普通の魔物の素材なら、ギルドで買い取ってもらえるよ」
「……じゃあ」
蓮は頷いた。
「……魔石と一緒に持っていこう」
「そうしよう」
美月はまだ知らなかった。
蓮のアイテムボックスの中に――
十年間、生きるために選び続けてきた魔物の素材が、どれほど眠っているのかを。
◇
銀行を出る。
蓮は新しく作った口座のカードを手にしていた。残高はゼロ。
それでも――
自分の名前が入ったカードだった。
これから、この口座に自分で稼いだお金が入っていく。
「……美月」
「ん?」
「……普通に生活するって」
「うん」
「……お金が必要なんだな」
「そうだよ」
蓮は手にしたカードを見る。
「……じゃあ、魔石や素材を売ろう」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
十年間。お金なんて必要なかった。
けれど今は――
地上で普通に暮らすために。
蓮は初めて、自分のお金を手に入れようとしていた。




