第98話 10年ぶりの身分証
【第98話・第99話について】
蓮の身分証取得については、現実では本人確認や各種手続きなど、もう少し時間がかかる場合があります。
本作では、蓮が失踪宣告を受けておらず、戸籍上の身分も残っている設定のため、必要な確認・手続きを経たうえで、数日後に身分証を受け取る流れとしています。
細かな行政手続きについては、物語の進行上、省略しています。
翌朝。
朝食を終えたところで、美月が蓮に声をかけた。
「蓮、今日はちょっと出かけよう」
「……どこに?」
「役所」
「……役所?」
「うん」
蓮は首を傾げる。美月はそんな蓮を見て、少し苦笑した。
「蓮、今って身分証ないでしょ?」
「……ない」
「やっぱり」
昨日までの買い物でも、蓮には何かと困ることが多かった。
お金もない。身分証もない。スマートフォンも持っていなかった。
十年間、ダンジョンの中だけで生きてきたのだから当然だった。
「だから、今日は身分証を作るための手続きをしに行こう」
「……分かった」
蓮は素直に頷いた。
◇
美月と蓮は、家を出た。
街を歩く。
昨日までとは少し違う。髪も整え、髭も剃った。普通の服を着ている。
それだけで、蓮はすっかり街の風景に馴染んでいた。
……少なくとも、美月にはそう見えた。
「蓮」
「……ん?」
「少しは、この街にも慣れてきた?」
「……まだ、よく分からない」
「そっか」
美月は笑う。
「まあ、ゆっくりでいいよ」
「……うん」
やがて二人は、役所へ到着した。
◇
「こちらで少々お待ちください」
受付で案内され、二人は窓口へ向かった。美月が事情を説明する。
「この人なんですが……十年前に行方不明になっていて、最近戻ってきたんです」
「十年前……ですか?」
「はい」
職員が蓮を見る。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「……黒瀬蓮です」
職員が端末を操作する。
しばらくして――
「あ……」
画面を確認した職員の表情が変わった。
「黒瀬蓮さんですね」
「……はい」
「戸籍上、こちらのお名前で間違いありません」
蓮は画面を見る。
そこに、自分の名前がある。
黒瀬蓮。
十年前に消えたはずの自分の名前が、今もここに残っていた。
「……まだ、あるんだ」
小さく呟く。
「はい?」
「……なんでもない」
職員は少し不思議そうにしながら、確認を続けた。
「十年前に行方不明届が出されていますね」
「……はい」
「現在、戻られたということでよろしいですか?」
「……うん」
美月が隣で静かに見守っている。
職員は必要な情報を確認していく。
十年前に失踪した人物と、目の前にいる人物が同一人物なのか。現在どこに住んでいるのか。本人確認に必要な情報は揃っているのか。
蓮は質問されるたびに、短く答えていった。
◇
「……それでは、身分証についてですが」
職員が説明を始める。
「長期間行方不明だったという事情がありますので、通常より本人確認に時間がかかる可能性があります」
「……すぐには、もらえない?」
「確認が取れれば、発行の手続きを進めることができます」
「……そう」
蓮は少しだけ考える。
「……どれくらい?」
「確認内容によりますので、今の段階では正確には申し上げられません」
「……分かった」
美月が口を挟む。
「必要なことは、全部やります」
「ありがとうございます」
職員が必要な手続きについて説明していく。蓮は一つずつ聞きながら、書類へ目を落とした。
「こちらにお名前をお願いします」
「……はい」
蓮はペンを手に取る。
そして――
ゆっくりと書いた。
黒瀬蓮。
十年間。ダンジョンの中では、自分の名前を書く必要なんてなかった。誰かに名前を名乗ることもなかった。
ただ、生きる。それだけだった。
けれど今は違う。
自分が誰なのか。自分がどこから来たのか。それを証明するために、自分の名前を書く。
蓮は書き終えた。
「……これでいい?」
「はい。ありがとうございます」
職員が書類を受け取る。
◇
必要な手続きを終えると、二人は役所を出た。
「……終わった」
「うん」
美月が笑う。
「あとは確認が終われば、身分証を作れるよ」
「……そうか」
蓮は、手にした手続きの控えを見る。
たった一枚の紙。
けれど――
蓮にとっては、それだけではなかった。
十年間。自分はダンジョンの中にいた。地上に戻ってきても、何をすればいいのか分からなかった。
けれど。少しずつ。本当に少しずつ。
普通の生活が始まっている。
「蓮?」
「……ん?」
「どうしたの?」
蓮は手元の紙を見る。
「……普通の生活って」
「うん?」
「……こういうことなのかな」
美月は少しだけ目を丸くした。
そして――
「……そうだと思うよ」
笑った。
「まだ始まったばかりだけどね」
「……そっか」
蓮も小さく笑う。
「……悪くない」
二人は並んで歩き出した。
10年ぶりの地上で。
蓮の新しい日常は――
少しずつ形になり始めていた。




