第88話 美月の想い
静かな夜だった。
蓮は、もう眠っている。
美月はリビングのソファに座り、一人でぼんやりと窓の外を眺めていた。
けれど――
頭の中から離れない。さっきの光景が。
「……うまい」
そう言って、涙を流していた蓮。本人は、自分が泣いていることにも気づいていなかった。
美月は、その姿を思い出す。
「…………」
胸が苦しくなった。
まともな料理を食べるのが、十年ぶり。それだけで涙が出る。
それは――
蓮が過ごしてきた十年間が、それほど過酷だったということなのだろう。
「……何を食べてたんだろう」
ダンジョンの中で。食べられるものを探して。水を確保して。眠れる場所を探して。
モンスターと戦って。怪我をしても、誰にも頼れない。
そんな生活を――
十年間。
「…………」
美月は目を伏せた。
自分には想像することしかできない。蓮がどんな場所で。どんな思いで。十年間を生きてきたのか。
それを考えるだけで、悲しくなった。
「……蓮」
小さく名前を呼ぶ。返事はない。もう眠っているのだろう。
美月は、さっき聞いた言葉を思い出す。
『……入ったら、出口がなくなった』
「……出口がなくなった、なんて」
美月は呟く。
美月はAランク冒険者だ。これまで多くのダンジョンに入り、攻略してきた。
ダンジョンの攻略そのものは、今の世界では珍しいことではない。危険なダンジョンもある。難しいダンジョンもある。
けれど――
入った後に、出口そのものがなくなる。そんなダンジョンの話は聞いたことがなかった。
「……そんなダンジョン、本当にあるの?」
美月は考える。
もし本当にそんな場所に閉じ込められたのなら。そこから帰るためには――攻略するしかない。
そして蓮は言った。
『……クリアした』
「…………」
十年間。出口のない異常なダンジョンで。一人で生き延びて。
そして――
最後にはダンジョンをクリアして帰ってきた。
美月の頭に、ある人物が浮かんだ。
「……Unknown」
世界ランキング第一位。七年間、不動の一位に君臨している冒険者。その圧倒的な実力から、世界最強とも呼ばれている。
けれど――
その正体を知る者は誰もいない。
「…………」
美月は黙り込む。
蓮が10年間ダンジョンにいた。異常なダンジョンを攻略して帰ってきた。
そして――
世界には、七年間ずっとランキング一位のUnknownがいる。
「……まさか」
美月の胸が、小さくざわついた。
もちろん、証拠なんてない。Unknownがどんな人物なのか、美月も知らない。
ただ――
蓮の話を聞いた今。どうしても、その名前が頭から離れなかった。
「……でも」
美月は小さく首を振る。
「そんなわけ……」
そこまで言って、言葉を止める。
美月は立ち上がり、蓮が眠っている部屋の前まで歩いた。扉を開ける。
蓮は静かに眠っていた。
昼間まで、十年前に突然いなくなった少年だった。
そして今は――
自分の家で眠っている。
「…………」
美月は蓮を見つめる。
Unknownなのか。それとも、ただ偶然なのか。今はまだ分からない。
それよりも――
目の前にいる蓮のことを考えたかった。
十年間。ずっと一人で生きてきた。
もう、十分だ。
「……もう、辛い思いしなくていいからね」
美月は小さく呟いた。
蓮は眠ったまま、何も答えない。美月は少しだけ微笑んだ。
十年ぶりに帰ってきた幼なじみ。
今度こそ――
そばにいてあげよう。
静かな夜は、ゆっくりと過ぎていった。




