第87話 10年ぶりの食事
パトカーを降りた二人は、並んで歩き始めた。
先ほどまでの騒ぎが聞こえない場所まで移動したため、周囲はもう静かだった。
蓮は、歩きながら街を見回している。
見覚えのない建物。知らない店。道路を走る車。そして、スマートフォンを手に歩く人々。
十年前とは、何もかもが違って見えた。
「……変わったでしょ」
隣を歩く美月が言った。
「……うん」
「この辺も、昔とはかなり変わったよ」
美月は街を見ながら続ける。
「新しい建物も増えたし、昔あった店も結構なくなったかな」
「……そうなんだ」
蓮は黙って周囲を見た。知っているはずの街なのに、知らない場所を歩いているような感覚だった。
十年。街も、人も、時間と一緒に変わっていった。
「……蓮の家の近くまで来ること、たまにあるんだ」
「……?」
「今の家も、この近くだから」
美月が前を指差す。
「歩いてすぐだよ」
「……近いんだな」
「うん」
少し歩いたところで、美月がマンションを見上げた。
「ここ」
そこには、比較的新しいマンションが建っていた。
「……ここに住んでるの?」
「そう」
美月は頷く。
「今は一人暮らし」
「……一人で?」
「うん」
蓮は少しだけ美月を見る。
「……そうなんだ」
「もう二十五だよ?」
美月は少し笑った。
「一人暮らしくらいするよ」
「……そうか」
二人はマンションの中へ入った。エレベーターに乗り、しばらくして美月の部屋の前に着く。
美月が鍵を開ける。
「どうぞ」
「……うん」
蓮はゆっくりと中へ入った。
「ただいま」
美月が何気なく言う。その言葉に、蓮が少しだけ反応した。
「……ただいま?」
「え?」
「今の……」
「ああ」
美月は笑う。
「ただの癖だよ」
「……そう」
蓮は部屋の中を見回した。
綺麗に整理されたリビング。ソファ。テレビ。テーブル。キッチン。
どれも、蓮が長い間見ることのなかったものだった。
「座ってて」
「……うん」
蓮がソファに腰を下ろす。
柔らかい。少しだけ身体が沈んだ。
「……」
蓮は何も言わず、その感触を確かめるように座っていた。
美月はキッチンから飲み物を持ってくる。
「はい」
「……ありがとう」
蓮は受け取った。そして、しばらく黙っていた美月が向かいの椅子に座る。
「……蓮」
「……うん」
「聞いてもいい?」
「何?」
「……この十年間」
美月は少しだけ言葉を選ぶ。
「何をしてたの?」
蓮は黙った。視線を落とす。
十年間。あまりにも長い時間だった。
「……ダンジョンにいた」
「…………え?」
美月の表情が止まる。
「ダンジョン?」
「……うん」
「十年間?」
「……そう」
美月は言葉を失った。
「……どうして?」
「……帰れなかった」
「帰れなかった?」
「……入ったら、出口がなくなった」
「…………」
美月は息を呑む。
「出口が……なくなった?」
「……うん」
蓮は静かに頷いた。
「だから、戻れなかった」
美月は何も言えなかった。
ダンジョンに入った。そして――帰るための出口そのものが消えた。
それなら、十年間戻ってこられなかったことにも納得できる。
「……それで?」
美月は、ゆっくりと尋ねた。
「……どうやって生きてたの?」
「最初は、何も分からなかった」
蓮は静かに答える。
「でも、生きるしかなかった」
「…………」
「食べられるものを探して、水を確保して……」
蓮は淡々と話す。
「モンスターとも戦った」
「……ずっと?」
「……うん」
美月は、目の前にいる蓮を見る。
十年間。帰ることのできない場所で。
たった一人で――
生きてきた。
「……ずっと、一人だったの?」
「……うん」
短い返事だった。けれど、その一言だけで十分だった。
十年間。誰とも話さず。誰にも助けを求められず。
ただ一人で、生き続けた。
「……それで」
美月はゆっくり聞く。
「どうやって、帰ってきたの?」
「……最後まで進んだ」
「……最後?」
「……うん」
「ダンジョンを……?」
「……クリアした」
「…………」
美月は息を呑んだ。
十年間。蓮はずっと戦っていた。
そして――
自分の力だけで、そこから帰ってきた。
「……そっか」
美月は小さく呟いた。
「……本当に、大変だったんだね」
「……うん」
蓮はそれ以上、何も言わなかった。美月も、それ以上は聞かなかった。
今はまだ。十年間のすべてを聞く必要はない。
蓮がここにいる。それだけでよかった。
「……蓮」
「……?」
「今日は、もう休もう」
「……うん」
美月は立ち上がる。
「お風呂、使っていいから」
「……風呂?」
「うん。お湯、沸かしてあるよ」
「…………」
蓮は少しだけ目を見開いた。美月は、その反応を見て笑う。
「十年ぶりのお風呂でしょ?」
「……そうかもしれない」
「じゃあ、ゆっくり入ってきて」
「……うん」
蓮は立ち上がる。そして、浴室へ向かった。
美月はその背中を見送る。
十年前。突然いなくなった幼なじみ。もう会えないと思っていた。
それが――
今、自分の家にいる。
「……本当に、帰ってきたんだ」
美月は小さく呟いた。
そして蓮は、十年ぶりの温かい湯に浸かった。
「……温かい」
思わず、声が漏れる。
戦う必要もない。周囲を警戒する必要もない。ただ、湯に浸かっている。
そんな当たり前の時間が――
今の蓮には、何よりも新鮮だった。
風呂から上がった蓮を待っていたのは、久しぶりのまともな食事だった。
「……食べて」
「……いただきます」
蓮は料理を口に運ぶ。
「…………」
しばらく、何も言わなかった。
そして――
「……うまい」
その瞬間。蓮の頬を、一筋の涙が流れた。
「……え?」
美月が驚いて蓮を見る。蓮自身も、自分が泣いていることに気づいていなかった。
もう一口、料理を口に運ぶ。
「……うまい」
また、涙がこぼれた。
まともな料理を食べるのは――
十年ぶりだった。
ダンジョンでは、食べられるものを探し、生きるために腹へ入れる。味を楽しむ余裕なんてなかった。
温かい料理を誰かに作ってもらうこともなかった。ただ、生きるために食べていた。
だから――
久しぶりに食べた普通の料理が、蓮にはあまりにも美味しかった。
「……蓮」
美月が静かに名前を呼ぶ。
「…………」
蓮は何も答えない。ただ、料理を食べ続けた。
涙を流しながら。
食事を終えると、美月は蓮を一つの部屋へ案内した。
「ここ、使って」
部屋にはベッドがあった。
「……寝る?」
「うん」
「……ここで?」
「そう」
蓮はベッドに手を触れる。
柔らかい。
「……いいのか?」
「もちろん」
「……ありがとう」
蓮はベッドに腰を下ろした。そして、ゆっくりと横になる。
柔らかな布団。静かな部屋。敵の気配もない。明日の命を心配する必要もない。
十年間、そんな夜はなかった。
「……明日は」
蓮が天井を見る。
「……何をすればいい?」
美月は少しだけ笑った。
「何もしなくていいよ」
「……何もしない?」
「うん」
美月は優しく言った。
「今日は帰ってきたばかりなんだから」
「…………」
蓮はしばらく黙っていた。
そして――
「……分かった」
目を閉じる。
十年ぶりに。蓮は、何も考えずに眠ることができた。
それは――
蓮にとって、久しぶりの普通の夜だった。




