第85話 街の中の異物
山道を下りていく。
蓮は黙々と歩いていた。
十年ぶりの地上。山を下りれば、そこにはかつて知っていた街がある。そう思っていた。
やがて、山道を抜ける。視界が開けた。
「…………」
蓮は足を止めた。
街が見える。
けれど――
「……知らない」
思わず、呟いた。
建物が増えている。道路も広くなっている。知っているはずの街なのに、知らない場所に見えた。
人々が手に持っている小さな機械も気になる。歩きながら画面を見ている。誰かと話している。写真を撮っている。
十年前には、こんな光景はなかった。
蓮は周囲を見ながら、街へ入っていく。その姿を、通行人がちらちらと見ていた。
黒を基調とした戦闘用の服。身体を守る軽装の防具。足元には、ダンジョンで手に入れた特殊な靴。
そして――
十年間伸ばしていた髭。自分で切ったため、不揃いな髪。無表情のまま周囲を見回す姿。
街の中では、明らかに浮いていた。
「……何、あの人」
「さあ……見たことない人だね」
「警察に連絡したほうがいいんじゃない?」
そんな声が聞こえてくる。蓮は振り返った。
「…………」
目が合う。すると、女性は慌てて視線を逸らした。
「……?」
蓮は首を傾げる。なぜ避けられたのか。分からない。
十年間。蓮が人間と話すことは、一度もなかった。必要な言葉さえ、使う機会がなかった。
魔物と戦い。食料を確保し。生きる。
それだけの生活だった。
だから、人間の視線や反応など気にしたことがなかった。
蓮は何も気にせず歩き続ける。目的地は決まっていた。
かつて暮らしていた場所。
けれど――
「…………」
蓮は道の途中で足を止めた。
「……こっちだったか?」
記憶を頼りに、道を曲がる。しかし、見覚えのある景色はない。
「…………違う」
しばらく歩いてから、蓮は引き返した。別の道へ進む。それでも、記憶と一致しない。
十年前にあった建物がない。道路も変わっている。新しい建物が増え、昔の目印もなくなっていた。
「……分からない」
蓮は立ち止まる。
頭の中に残っているのは、十年前の街の景色だけ。その記憶を頼りに歩いているのに、どこを通っても知らない場所に見える。
何度も道を間違えた。そのたびに引き返し、別の道を探す。
「…………」
それでも、諦めることはなかった。自分が暮らしていた場所だけは、覚えている。そう信じて歩き続ける。
そして――
「……ここだ」
蓮は足を止めた。
両親と暮らしていた家。蓮が十五歳まで過ごした場所。十年前、家を出たときには確かにここにあった。
けれど。
「…………」
家がない。庭もない。塀もない。
そこにあるのは、ただの更地だった。
「……ない」
蓮の口から、声が漏れる。
一歩、前へ進む。周囲を見回す。何度確認しても、家はなかった。
「…………」
蓮は黙って立ち尽くした。
十年間。いつか帰ることだけを考えていた。ここへ戻ってくれば、帰れる。そう思っていた。
なのに――
帰ってきた場所には、何も残っていなかった。
そんな蓮の姿を、近所の人が見ていた。
見慣れない男。黒い戦闘装備。髭面。何もない更地に、長い時間立ち尽くしている。
「……あの人、何してるの?」
「さあ……見たことない人だね」
「警察に連絡したほうがいいんじゃない?」
その頃。
近くの道を、一人の女性が歩いていた。
神崎美月。二十五歳。Aランク冒険者であり、女性三人で構成されたパーティー《アストラ》のリーダー。
美月は歩きながら、ふと足を止めた。
「…………」
目の前の道を見つめる。
なぜ、ここまで来たのか。自分でも分からなかった。気づけば、足がこの場所へ向かっていた。
昔、蓮が住んでいた家。十年前。蓮がいなくなる前まで、何度も遊びに来ていた場所。
「……また来ちゃった」
美月は小さく呟いた。
蓮がいなくなってから、十年。
十五歳のあの日。蓮は突然、いなくなった。何の前触れもなく。
それから、美月は何度も蓮を探した。学校の友人に聞き、知っている場所を探し、蓮が行きそうな場所を何度も訪れた。
けれど――
何も見つからなかった。
「……あの時」
美月は目を伏せる。今でも、時々思う。
もし、あの時もっと蓮の近くにいてあげていたら。何か変わっていたんじゃないか。蓮がいなくなることを、防げたんじゃないか。
「……私が、もっと気づいてあげてたら」
答えは分からない。けれど、その後悔だけは十年経った今も消えていなかった。
個人で蓮を探すには、限界があった。手掛かりもない。情報もない。
だから、美月は別の方法を選んだ。
モデルになった。
芸能界に入れば、多くの人と繋がることができる。自分が有名になれば、今まで届かなかった場所にも情報が届くかもしれない。芸能界でできた人脈を使えば、蓮を探すための手掛かりが見つかるかもしれない。
そして――
もし自分が有名になれば。もし蓮がどこかで自分を見ていたら。いつか、蓮のほうから連絡をくれるかもしれない。
そんな小さな希望もあった。
けれど、三年後。
世界にダンジョンが現れた。そして、ダンジョンからは、これまで人類が知らなかった様々なものが発見された。
その中には――
傷を治すポーションもあった。
それを知った時、美月は思った。
もしかしたら。ダンジョンには、まだ誰も知らないアイテムが存在するのではないか。
傷を治すことができるものがあるのなら。人を探すことができるアイテムも、いつか見つかるかもしれない。
蓮を探せるものが。蓮の居場所を知ることができるものが。
そんなアイテムが、どこかのダンジョンに眠っているかもしれない。
もちろん、根拠なんてなかった。ただの希望だった。
それでも――
美月は諦めたくなかった。
だから、モデルを辞めた。そして、冒険者になった。
ダンジョンに入るために。蓮を探すために。いつか、蓮を見つけるために。
そして――
もし、蓮と再会できたなら。今度は何もできない自分ではいたくなかった。
十五歳のあの日。何もできなかった自分を、もう繰り返したくない。
だから、強くなった。
努力して。戦って。仲間を得て。Aランクまで上り詰めた。
蓮を探すために。
そして――
いつか蓮に会う、その日のために。
「…………」
美月は昔の家があった方向を見る。十年経った今でも、ここへ来ると胸の奥が少しだけ痛む。
「……蓮」
小さく、その名前を口にする。
返事があるはずもない。そう思っていた。
けれど――
少し先に、人が集まっているのが見えた。その中心に、一人の男が立っている。
そして、その前には――
警察官が二人。
美月は足を止めた。
「……何かあったのかな」
遠くから様子を見つめる。
警察官の一人が、男に声をかけた。
「君。ここで何をしている?」
「……帰ってきた」
「帰ってきた?」
警察官が周囲を見る。そこに家はない。
「ここは更地だぞ」
「……知ってる」
警察官は困ったように顔を見合わせる。
そして――
「君、名前は?」
美月は、何気なくその会話を聞いていた。
男が答える。
「…………」
少しだけ間を置いて。
「……黒瀬蓮」
「…………」
その名前を聞いた瞬間。
美月の足が止まった。
「……え?」
聞き間違いではない。
黒瀬蓮。
十年前に突然いなくなった、幼なじみの名前。
美月はゆっくりと男を見る。
髭に覆われた顔。不揃いな髪。見慣れない黒い装備。
十年前の少年とは、あまりにも違っている。
それでも――
美月の胸の奥で、記憶が重なった。
十五歳だった少年。いつも一緒にいた幼なじみ。十年間、ずっと探し続けた名前。
「……まさか」
美月は一歩、前へ進む。
蓮が振り返った。二人の視線が重なる。
美月の目が大きく見開かれる。
「……蓮?」
蓮は、じっと美月を見る。
「…………」
しばらくして。
「……美月?」
十年ぶりに。
二人は再会した。




