第8話 一年目
どれくらいの時間が経ったのか。
蓮には、もう正確には分からなかった。
ダンジョンの中には太陽がない。
朝もない。
夜もない。
空もない。
外の世界のように、時間の流れを目で確認することができなかった。
それでも最初の頃は、スマートフォンがあった。
時刻を確認する。
日付を見る。
それだけで、外にいた頃と同じように時間を把握することができた。
蓮は最初の数週間、何度もスマートフォンの画面を確認していた。
「……午後三時」
画面を見る。
「……まだ今日なんだ」
そんな独り言を呟くこともあった。
そして、スマートフォンの時計を基準にして眠る時間と起きる時間を決めた。
少しでも規則正しい生活をしようとした。
そうしなければ、自分が今いつなのか分からなくなりそうだったからだ。
◇
しかし。
スマートフォンには限界があった。
充電する場所がない。
最初は残っていた電池も、少しずつ減っていく。
八十パーセント。
六十パーセント。
四十パーセント。
そして――
ある日。
「……十パーセント」
蓮は画面を見つめた。
「もう、これしかないのか……」
スマートフォンを使うことも減らしていた。
明かりとして使う必要がある。
緊急時にも必要になる。
だから、できるだけ電池を温存していた。
それでも。
時間は待ってくれない。
数日後。
「……」
画面が暗くなった。
電源ボタンを押す。
反応しない。
「……切れた」
もう一度押す。
何も起こらない。
蓮はしばらく画面を見つめていた。
「……」
そして、ゆっくりポケットにしまった。
これで。
正確な時刻を知る方法はなくなった。
◇
それから蓮は、自分の身体を時計代わりにするようになった。
眠くなれば眠る。
目が覚めれば起きる。
空腹になれば食べる。
疲れれば休む。
最初はめちゃくちゃだった。
眠る時間も毎回違う。
食事の時間も違う。
活動する時間も一定しない。
けれど、何度も繰り返すうちに。
蓮は自分なりの生活リズムを作るようになった。
起きる。
水を飲む。
食料を探す。
魔物の少ない場所を移動する。
必要なら戦う。
安全な場所へ戻る。
食事をする。
休む。
そして眠る。
その一連の流れを、蓮は一つの区切りとして考えるようになった。
「……今日も終わった」
正確な二十四時間ではない。
外の世界の一日とは違う。
それでも。
蓮にとっては、それが「一日」だった。
◇
時間が経つにつれて、蓮の生活は少しずつ安定していった。
水場を覚えた。
安全な場所を覚えた。
危険な場所を覚えた。
食べられる植物も増えていった。
魔物の種類も少しずつ分かるようになった。
そして。
魔物の気配にも敏感になっていた。
「……来る」
遠くから足音。
蓮はすぐに立ち止まる。
岩陰へ身を隠す。
しばらく待つ。
魔物が姿を現した。
一年前なら、恐怖で身体が動かなかっただろう。
今は違う。
相手の大きさ。
歩く速度。
足の運び。
視線。
それらを観察する。
「……こいつなら」
戦える。
蓮は槍を握った。
以前、自分で作った簡単な武器だった。
魔物がこちらへ向かってくる。
蓮は動かない。
距離を測る。
そして――
魔物が飛びかかった瞬間。
身体を横へ滑らせた。
「……!」
すれ違いざまに槍を突き出す。
――ドンッ。
魔物がよろめいた。
蓮は追撃する。
もう一度。
そして。
魔物が倒れた。
「……勝った」
蓮は荒い息を吐いた。
一年前とは明らかに違う。
身体能力。
反応速度。
持久力。
傷からの回復。
そして何より、危険を感じ取る感覚。
少しずつ。
本当に少しずつ。
蓮の身体は、この場所に適応していた。
《生存適応》。
その力によって。
◇
ある時から、蓮はダンジョンそのものにも変化があることに気づき始めた。
壁に生えている発光する苔。
水場の水量。
魔物の出現する場所。
魔力のような淡い光の流れ。
それらが、一定の間隔で変化している。
「……また変わった」
最初は気にしていなかった。
しかし、何度も同じ変化を経験するうちに、蓮は気づいた。
どうやらダンジョンには、一定の周期がある。
正確な時間は分からない。
けれど。
同じような変化が何度も繰り返される。
蓮はそれを、自分なりの時間の目安にするようになった。
壁に印をつける。
発光する苔の変化を記録する。
水場の変化を覚える。
魔物の出現周期を覚える。
少しずつ。
少しずつ。
蓮はこのダンジョンを理解していった。
◇
そして。
蓮自身が「一年くらい経った」と考える頃。
十五歳だった少年は、十六歳になっていた。
正確な誕生日を確認することはできない。
スマートフォンも、もう使えない。
外の世界で本当に一年が過ぎたのかも分からない。
それでも。
蓮自身には、それくらいの時間が経ったという感覚があった。
蓮は岩陰に座っていた。
壁には、これまで蓮がつけてきた無数の印がある。
一つ一つは、正確な「一日」ではない。
それでも。
自分がどれだけここで生きてきたのかを忘れないための記録だった。
「……一年くらいか」
蓮は壁を見る。
最初の頃の自分を思い出す。
何も知らなかった。
魔物を見て逃げることしかできなかった。
食べられるものも分からなかった。
水場すら見つけられなかった。
今は違う。
水場を知っている。
食料を知っている。
魔物を知っている。
安全な場所も知っている。
そして。
自分がどれくらいの危険なら戦えるのかも、少しずつ分かってきた。
「……俺、変わったな」
蓮は自分の手を見る。
十五歳の頃より、少しだけ大きくなった手。
傷だらけの指。
硬くなった掌。
それでも。
蓮の中にある願いは変わっていなかった。
「……帰りたい」
外へ。
美月のいる場所へ。
そして。
父さんと母さんのいた家へ。
もう二人がいないことは分かっている。
それでも。
蓮には、帰るという目標しかなかった。
「絶対に帰る」
蓮は立ち上がった。
槍を手に取る。
そして、また歩き始める。
出口を探すために。
生き残るために。
いつか外へ帰るために。
この時の蓮は、まだ知らなかった。
この一年が。
これから始まる十年間の、ほんの序章にすぎないことを。




