第231話 怖くても、一歩だけ
それから何日経っても、ひなたの頭からあの日の光景は消えなかった。
怪我をした冒険者たち。血のついた服。苦しそうな声。そして、その中で負傷者の前に膝をつき、治癒魔法を使っていた一人の冒険者。
「…………」
ひなたは何度も冒険者について調べた。
どうすればなれるのか。初心者はどんな場所へ行くのか。最初から一人で魔物と戦わなければならないのか。そして、スキルは本当に魔物を倒せば手に入るのか。
調べれば調べるほど分かることは増えた。同時に、怖さも増えていった。
魔物を倒せば、必ず望んだスキルが手に入るわけではない。どんな能力が発現するかは人によって違い、そもそも最初の討伐で何も得られないこともある。
治癒魔法が欲しいと思ったところで、自分がそれを得られる保証などどこにもなかった。
「だったら……」
やらなくてもいい。
ひなたは何度もそう思った。
自分は今まで通り生活できる。わざわざ怖い場所へ行く必要なんてない。
それでも、冒険者について調べることをやめられなかった。
◆
ある日。
ひなたは冒険者ギルドの前に立っていた。
「…………」
中へ入るつもりで来た。
けれど、入口を前にすると足が動かなかった。
剣を持った人。防具を身につけた人。ダンジョンから戻ってきたらしい冒険者たちが、当たり前のように出入りしている。
ひなたとは明らかに違う人たちに見えた。
「やっぱり……」
帰ろうか。
そう思った時、ギルドから一人の冒険者が出てきた。
肩にかけた鞄から、包帯が少しだけ見えている。
「…………」
あの日見た治癒魔法の光が、また頭に浮かんだ。
ひなたは入口を見る。
「一回だけ」
小さく呟いた。
「一回だけ、やってみよう」
冒険者として生きていくと決めたわけではない。
強くなりたいわけでもない。
ただ、自分に何ができるのか。
それを一度だけ確かめてみたかった。
ひなたはようやくギルドの中へ入った。
◆
必要な手続きを終えたあと、ひなたは初心者向けの説明や訓練を受けることになった。
魔物の危険性。ダンジョン内で守るべきこと。最低限の武器の扱い。そして、危険を感じたら無理をせず退くこと。
当然、何も知らない初心者だけでダンジョンへ放り込まれるわけではない。
初めて入る時には、複数の初心者に経験のある冒険者が同行し、危険があればすぐに介入することになっていた。
それを聞いても、ひなたの不安がなくなることはなかった。
そして初めてダンジョンへ入る日。
「…………」
入口を前にしたひなたは、もう帰りたくなっていた。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
一緒に参加する初心者の一人が声をかけてくる。
「大丈夫……じゃないかも」
「正直だね」
「怖いから」
「俺も怖いよ」
「そうなの?」
「そりゃそうでしょ」
ひなたは少しだけ驚いた。
周りにいる人たちは、自分よりずっと平気そうに見えていた。
けれど、本当に怖くないわけではないらしい。
「緊張するのは普通だ」
先頭にいた引率役の冒険者が振り返る。
「今日は浅いところだけだ。自分で対応できる魔物だけ相手にする。危ないと思ったらすぐ下がれ。こっちで止める」
「……はい」
「倒せそうだからって、無理に追うなよ」
「はい」
ひなたは小さく息を吐いた。
怖いことに変わりはない。
それでも、自分一人ではない。
そう思うだけで、ほんの少しだけ足が動いた。
ひなたは初めて、ダンジョンの中へ踏み込んだ。
◆
最初に出会った魔物は、小さかった。
引率役の冒険者が周囲を確認してから、初心者たちへ告げる。
「一匹だけだ。こいつなら問題ない。誰かやってみるか?」
誰もすぐには動かなかった。
ひなたも同じだった。
目の前にいる魔物は、ニュースで見るような巨大なものではない。それでも、画面越しに見るのと実際に目の前にいるのとでは全く違った。
魔物が低く唸る。
それだけで、ひなたの手に力が入った。
「無理なら下がってていいぞ」
引率役の言葉に、ひなたは一度だけ目を閉じる。
ここまで来た。
一度だけ、自分に何ができるのか確かめるために。
「……私、やります」
「分かった。危なくなったらすぐ止める」
ひなたは教わった通りに武器を構えた。
手が震えている。
魔物が地面を蹴った。
「っ……!」
一瞬、身体が固まった。
「ひなた、動け!」
引率役の声で我に返り、ひなたは横へ身体をずらす。魔物が目の前を通り過ぎた。
息が止まりそうになる。
それでも振り返り、武器を構え直す。
魔物が再び向かってきた。
「…………!」
ひなたは武器を振った。
一度目は外れた。
魔物が横へ逸れる。
「焦るな! よく見ろ!」
「はい……!」
ひなたは必死に呼吸を整える。
逃げたい。
けれど、引率役はまだ止めていない。
自分でも戦えると判断されている。
魔物がもう一度飛び込んでくる。
今度は目を逸らさなかった。
「っ!」
武器が魔物の身体に当たる。
手に伝わった感触に、思わず顔が強張る。
それでも魔物はまだ動いた。
「もう一度!」
ひなたは歯を食いしばり、武器を振る。
やがて、魔物が地面へ倒れた。
「…………」
ひなたはその場に立ち尽くした。
倒した。
自分が。
魔物を。
嬉しいとは思えなかった。
むしろ、身体から一気に力が抜けていくようだった。
「大丈夫か?」
「……はい」
ひなたが答えた、その時だった。
視界に文字が浮かぶ。
『魔物の討伐を確認しました』
「……え?」
『スキルを獲得しました』
ひなたの目が見開かれる。
そして次の瞬間。
『《治癒魔法》を獲得しました』
「…………」
一瞬、意味が分からなかった。
何度も文字を見る。
それでも表示は変わらない。
「治癒……魔法?」
「スキルが出たのか?」
引率役が聞く。
「はい……」
「何だった?」
「《治癒魔法》です」
「初討伐で治癒か。珍しいな」
「…………」
ひなたは自分の両手を見る。
欲しいと思っていたからといって、それが手に入る保証などなかった。
むしろ、何も得られない可能性もあると思っていた。
それなのに。
「……本当に?」
あの日、負傷者を助けていた冒険者が使っていた力。
それと同じ名前が、自分の前に表示されている。
「使えるんだ……」
小さく呟く。
けれど、治癒魔法を手に入れたからといって、怖さが消えたわけではなかった。
魔物と戦うのは怖い。
さっきの一匹ですら、何度も逃げたいと思った。
もう一度同じことをやれと言われたら、今すぐ頷ける自信もなかった。
それでも。
自分にも、あの日見た力がある。
誰かが怪我をした時、何かできるかもしれない力が。
その事実だけは、ひなたの胸に残った。
まだ冒険者を続けると決めたわけではない。
一度だけ試す。
そのつもりで踏み出した一歩だった。
けれど、その一歩の先で手に入れた《治癒魔法》を、ひなたは簡単に忘れることができなくなっていた。




