第207話 世界二位が帰った日
それから数日後。
エイドリアン・クロフォードは、日本を離れることになった。
もともと滞在期間を細かく決めていたわけではない。けれど、日本へ来た一番の目的だった蓮との対面は果たした。
話した。剣を交えた。そして、自分が七年間追い続けてきた世界一位が、どんな人間なのかも知ることができた。
エイドリアンにとって、日本へ来た目的には一区切りついていた。
◆
「じゃあ、帰るんですね」
「ああ」
空港へ向かう前、蓮たち四人はエイドリアンと最後に顔を合わせていた。
「もう少しいるのかと思ってました」
「私も最初はそのつもりだった。ただ、ここに来た目的は十分に果たせたからな」
「目的」
「蓮に会うことだ」
「……俺?」
「ああ」
エイドリアンが当然のように答える。
蓮は少しだけ困ったような顔をした。
「そう言われると、なんか変な感じです」
「なぜだ?」
「俺に会うためだけに外国から来たって、まだ慣れなくて」
「今さらだな」
「そうですけど」
美月が小さく笑う。
「でも、本当にすぐ帰るんですね」
「急いでいるわけではない。ただ、いつまでも日本にいるわけにもいかないからな」
「帰ったら、またダンジョンですか?」
蓮が聞く。
「おそらくな」
「鍛錬も?」
「ああ」
「…………」
「何だ?」
「やっぱり、ずっと強くなること考えてるんですね」
「少なくとも、今はな」
エイドリアンが僅かに笑った。
「あの模擬戦で、考えたいことも増えた」
「俺と戦ったから?」
「ああ」
玲奈が横から口を挟む。
「エイドリアンさん、ずっと模擬戦のこと考えてるんじゃないですか?」
「否定はしない」
「やっぱり」
「自分に足りないものを考えるには、いい経験だったからな」
蓮には、やはりその感覚がまだ完全には分からない。負けたことを悔しいと思いながら、それでも戦えてよかったと言う。
けれど、以前よりは少しだけ分かる気もしていた。
「蓮」
「ん?」
「約束は覚えているな?」
「再戦?」
「ああ」
「覚えてます」
エイドリアンは蓮を見る。
「次は、もう少し近づく」
「…………」
「そして、できるなら勝つ」
「できるならなんですね」
「今の差を知った上で、簡単に勝つと言うつもりはない」
「そういうところ、エイドリアンらしいね」
美月が言うと、エイドリアンが少しだけ笑う。
蓮も考えてから答えた。
「俺も、次に負けるつもりはないです」
「ああ。それでいい」
短いやり取りだった。
それでも、二人には十分だった。
次にいつ会うのかは分からない。日本なのか、イギリスなのか、それともまったく別の場所なのかも分からない。
けれど、また会う。
そして、その時にはもう一度戦う。
それだけは決まっていた。
「エイドリアンさん」
玲奈が呼ぶ。
「また日本に来てくださいね」
「ああ」
「次は戦うだけじゃなくて、普通に観光とかもしたらどうですか?」
「それも悪くないな」
「蓮も一緒に」
「俺も?」
「だから、なんで毎回そこで驚くの?」
「いや……」
ひなたが笑い、美月も少しだけ肩を揺らした。
エイドリアンは四人を見てから、最後に蓮へ視線を戻す。
「では、またな。蓮」
「…………」
最初に会った時なら、その呼ばれ方にも違和感があったかもしれない。
けれど今は違う。
「うん」
蓮も答える。
「また。エイドリアン」
その言葉を聞いて、エイドリアンは小さく笑った。
◆
エイドリアンが日本を離れるという情報は、報道陣にも知られていた。
空港には多くの記者が集まっている。来日時ほどではない。それでも、世界ランキング二位が世界一位の黒瀬蓮と会ったあとで帰国するとなれば、聞きたいことはいくらでもある。
姿を見せたエイドリアンへ、すぐに声が飛んだ。
「クロフォードさん! 黒瀬蓮さんとは実際に会われたんですか!」
「ああ。会った」
「どのような印象でしたか?」
エイドリアンは少し考える。
「想像していた人物とは、かなり違った」
「それはどういう意味でしょうか?」
「ランキングや自分の立場に、ほとんど執着がない。それが一番意外だった」
すぐに次の質問が飛ぶ。
「黒瀬さんの実力については、どう評価されていますか?」
「世界ランキング一位という評価は正しいと思いますか?」
その質問に、エイドリアンは足を止めた。
「ああ」
一瞬の迷いもなかった。
「正しい」
周囲がざわつく。
「では、クロフォードさんよりも黒瀬さんの方が強いと?」
「そうだ」
今度も即答だった。
記者たちの声が一気に大きくなる。
「そこまで断言できる根拠は何でしょうか!」
「黒瀬さんの実力を直接確認したんですか!」
「実際に戦ったということでしょうか!」
「模擬戦をされたんですか!」
エイドリアンの表情は変わらない。
「そこについては答えない」
「では、黒瀬さんの能力について何か知っているということですか?」
「私が言えるのは、彼が世界ランキング一位に相応しいということだけだ」
「レベルは確認されたんでしょうか!」
「スキルについては?」
「それも答えない」
エイドリアンは記者たちを見る。
「彼の能力や事情について、それを私が話すことではない」
一瞬、周囲の声が小さくなった。
「黒瀬さんから口止めされているということでしょうか?」
「そういう問題ではない」
「では?」
エイドリアンは少しだけ間を置く。
「彼が自分のことをどこまで話すかは、彼自身が決めることだ」
「…………」
「彼が話したいと思えば、自分で話すだろう」
それ以上、エイドリアンは何も語らなかった。
模擬戦をしたことも、その結果も、蓮の能力も。そして、蓮が自分から話してくれた十年間のことも。
自分から無理に聞き出した話ではない。蓮が、自分なら話してもいいと思って話してくれたことだった。
それを勝手に外へ持ち出すつもりはない。
◆
やがて搭乗の時間が近づき、エイドリアンは報道陣の前を離れた。
飛行機へ乗り込み、席へ座る。
しばらくすると機体が動き始め、窓の外の景色がゆっくりと流れていった。
「…………」
日本へ来る前、エイドリアンにとって黒瀬蓮は、七年間ずっと自分より上にいた世界一位だった。
顔も知らない。どこにいるのかも分からない。ただ、ランキングの一番上に存在していた人間。
けれど今は、それだけではない。
実際に会い、剣を交えた。
言葉を交わし、蓮自身のことも少し知った。
そして、次に会った時にはもう一度戦うと約束した。
飛行機が滑走路を進み、やがて地面を離れる。
窓の外で、日本の街が少しずつ小さくなっていく。
「次は」
エイドリアンが小さく呟く。
「もう少し、近づいてみせる」
今の自分と蓮の間に、まだ大きな差があることは分かっている。それでも、ここで終わるつもりはなかった。
飛行機はさらに高度を上げていく。
こうして、世界ランキング二位、エイドリアン・クロフォードの日本滞在は終わった。
けれど、彼が日本を離れる直前に残した言葉は、これから世界中へ大きな波紋を広げていくことになる。




