第167話 新しい日常
翌朝。
「…………」
蓮が目を開ける。
最初に耳へ入ったのは、家の中の音だった。
小さな食器の音。水の流れる音。冷蔵庫が開いて、閉じる音。
「…………」
蓮は天井を見たまま、少しだけ意識を広げる。
人の気配。一人。場所はキッチン。
「…………」
分かっている。誰なのか。確認する必要なんて、本当はない。
それでも、まだ身体は先に確かめてしまう。十年間、そうして生きてきた。
でも今は、魔物ではない。危険でもない。
そこにいるのは、美月。
「…………」
蓮はゆっくり身体を起こした。
◆
「おはよう、蓮」
リビングへ入ると、美月が振り返った。
「…………」
蓮は一瞬、いつものように頷くだけで終わりかける。
けれど。
「……おはよう」
少しだけ続ける。
「美月」
「…………」
美月がほんの少し目を見開いた。でも、何も言わない。ただ笑う。
「うん。おはよう」
「……うん」
蓮は椅子に座る。
目の前には朝食。湯気の立つ味噌汁。焼いた魚。ご飯。
「食べよっか」
「……うん」
◆
食事の途中。
テーブルの上に置いていた蓮のスマートフォンが震えた。
「……?」
画面を見る。
《アストラ》
四人のグループメッセージ。
玲奈。
『昨日楽しかった!』
その下。
『次の依頼いつ行く?』
さらに、ひなた。
『お寿司も忘れないでくださいね』
「…………」
蓮は画面を見たまま止まる。
「玲奈たち?」
「……うん」
「なんて?」
「次の依頼」
「うん」
「あと」
少しだけ画面を見る。
「……寿司」
美月が笑う。
「覚えてるね」
「……うん」
「返さないの?」
「…………」
蓮がスマートフォンを見る。
「何て返す?」
「それ、私に聞くの?」
「…………」
以前なら聞いていた。何と送ればいいのか。どう返せばいいのか。正解を探すように。
でも今は、少しだけ違う。
「…………」
蓮は自分で文字を打ち始める。ゆっくり、一文字ずつ。
『次の依頼も行きたい』
少し止まる。
さらに。
『寿司も行きたい』
「…………」
送信。
すぐに既読がつく。
玲奈。
『おお!』
『ちゃんと希望が二つ入ってる!』
ひなた。
『楽しみにしてます』
「…………」
蓮は画面を見る。
「何て?」
美月が聞く。
「……褒められた」
「そっか」
「…………」
少しだけ考える。
「……これでいい?」
美月が笑う。
「蓮」
「……?」
「また正解探してる」
「…………」
「送りたかったこと、送れた?」
「……うん」
「じゃあ、それでいいよ」
「…………」
蓮はもう一度、自分が送った文章を見る。
次の依頼も行きたい。
寿司も行きたい。
「…………」
少し前なら、自分がこんなことを誰かへ送るとは思っていなかった。
◆
朝食が終わる。
美月が食器を片づけながら聞いた。
「今日はどうする?」
「……今日」
「うん」
「…………」
蓮が少し考える。
予定は特にない。だから以前なら、何でもいい。そう答えていた。
「…………」
でも今は、少しだけ浮かんでいるものがある。
「……ギルド」
「ギルド?」
「……うん」
「何かある?」
蓮が少しだけ言葉を探す。
「次の依頼」
「…………」
「見たい」
「蓮が?」
「……うん」
美月が少しだけ笑う。
「じゃあ行こっか」
「…………」
蓮がそこで、もう少しだけ続ける。
「今度は」
「うん?」
「四人で」
「…………」
「選びたい」
「…………」
美月が蓮を見る。
「そっか」
「……うん」
「じゃあ玲奈とひなたにも連絡しよ」
「……俺が?」
「できる?」
「…………」
蓮はスマートフォンを見る。少しだけ考える。
「……やってみる」
◆
ダンジョンにいた十年間。
蓮は、生き残ることを最優先にしていた。
次の魔物。次の階層。食べ物。水。眠れる場所。怪我。魔力。逃げ道。どう戦えば死なないか。
明日、何をしたいか。
そんなことを考える余裕はなかった。
考えるのは、どこへ進むか。何を食べるか。どこで眠るか。どうすれば明日も生きていられるか。
それだけだった。
誰かと何を食べたいか。誰かとどこへ行きたいか。誰かと何をしたいか。
そんな予定は必要なかった。
今は違う。
◆
「蓮?」
「……?」
「また考えてる?」
美月が玄関で靴を履きながら聞く。
「……うん」
「何考えてた?」
「…………」
蓮が少し止まる。
以前なら、分からない。それだけで終わっていたかもしれない。
「……ダンジョンにいた時」
「うん」
「何するか」
「…………」
「考える時」
少しだけ言葉を探す。
「生きることしか」
「…………」
「考えてなかった」
美月は黙って聞く。
「今日は」
「うん」
「ギルド行って」
「…………」
「次の依頼見て」
「うん」
「玲奈とひなたにも会って」
「…………」
「今度」
少し考える。
「寿司も行く」
「うん」
「…………」
蓮が美月を見る。
「なんか」
「なに?」
「……いっぱいある」
美月が少しだけ目を細める。
「やりたいこと?」
「…………」
蓮は考える。
依頼。四人で戦う。寿司。焼肉。玲奈とひなた。美月。帰る場所。次の予定。
「……たぶん」
「そっか」
「…………」
「増えたね」
「……うん」
◆
美月が玄関の扉へ手をかける。
「じゃあ」
「……うん」
「行こっか」
扉が開く。
外から朝の光が入ってくる。
「…………」
蓮はその向こうを見る。
十年前、ダンジョンへ入った時、その先に何があるのか分からなかった。ただ、生きて帰りたかった。
そして十年かけて帰ってきた。
帰ってきてからも、最初は何をすればいいのか分からなかった。人とどう話せばいいのか分からなかった。自分が何を感じているのかも分からなかった。
お金が何のために必要なのか、考えることもなかった。
十年間、一人で、全部やることが当たり前になっていた。
でも今は、少しだけ違う。
「美月」
「ん?」
美月が振り返る。
「…………」
蓮は言葉を探す。
すぐには出てこない。それでも、美月は待っている。
「今の生活」
「うん」
「…………」
蓮がゆっくり続ける。
「……好きかも」
「…………」
美月が少しだけ目を見開く。
「そっか」
「……うん」
「私も好きだよ」
「…………」
蓮は少しだけ考える。
「……そうなんだ」
「そうだよ」
美月が笑った。
◆
十年前。
蓮がダンジョンの中で、何より欲しかったものはただ一つ。
生きて、帰ること。
それだけだった。
でも今は、帰る場所がある。待っている人がいる。一緒に戦う仲間がいる。一緒に食べたいものがある。次に行きたい場所がある。明日、やりたいことがある。
そして、それを少しずつ自分で理解して、少しずつ言葉にできるようになっている。
「……行こう」
蓮が自分から言う。
「うん」
二人は並んで家を出た。
十年ぶりに戻ってきた蓮の日常は、もう新しく動き始めている。
それは、ダンジョンの中では決して手に入らなかったもの。
世界ランキング一位でも、Unknownでもない。
黒瀬蓮として生きる、新しい日常。
そして、その日常はまだ始まったばかりだった。
第二部 完
ここまで見てくださりありがとうございます。
これにて第二部の完結とさせていただきます。
この二部でやっとタイトルを回収をしました。
第三部も引き続きよろしくお願いします。
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