第163話 言葉にするということ
それから、しばらくして。
四人の間には、また少しだけ穏やかな空気が戻っていた。
「…………」
蓮はソファに座ったまま、さっきの話をまだ考えていた。
家族。怖い。安心。いなくなってほしくない。
少し前までなら、どれも自分の中にあるものだとは分からなかった。今は少しだけ分かる。
けれど、分かったからといって、すぐに言葉にできるわけではなかった。
◆
「蓮」
「……?」
美月が隣から呼ぶ。
「さっきから、何考えてるの?」
「…………」
蓮が止まる。
「……何」
「うん」
「…………」
考えている。それは分かる。
でも、何をどう考えているのか聞かれた瞬間、言葉が出てこなくなる。
「…………」
「蓮?」
「……分からない」
「分からない?」
「……うん」
玲奈が少し首を傾げた。
「でも、何か考えてたんでしょ?」
「……考えてた」
「じゃあ、それを言えばいいんじゃない?」
「…………」
蓮が玲奈を見る。
「……どうやって?」
「え?」
「…………」
「どうやってって」
玲奈が少し止まる。
「普通に?」
「……普通」
「…………」
「分からない」
今度は玲奈が黙った。
◆
美月が少し考える。
「蓮」
「……なに?」
「もしかして」
「…………」
「頭の中では、もっといろいろ考えてる?」
「……うん」
「でも」
「……?」
「それを言葉にするのが難しい?」
「…………」
蓮は少し考えた。
「……それも」
「それも?」
「……うん」
「じゃあ、他にもある?」
「…………」
蓮は自分の中を探す。
さっき、美月がいなくなるのは嫌だと思った。怖いとも思った。家族を、もう失いたくないとも思った。
けれど、そこまで辿り着くのにかなり時間がかかった。
「……その前に」
「うん」
「…………」
「自分が」
少しだけ言葉を止める。
「……何を思ってるのか」
「…………」
「分からない時がある」
美月は静かに蓮を見る。
「感情が?」
「……たぶん」
「うん」
「それが分かっても」
「…………」
「どう言えばいいか」
蓮は少しだけ眉を寄せる。
「……分からない」
◆
「なるほど」
玲奈が腕を組む。
「じゃあ」
「……?」
「蓮の中では二段階あるんだ」
「……二段階?」
「まず」
玲奈が指を一本立てる。
「自分が何を感じてるのか分からない」
「……うん」
「で」
もう一本。
「分かったとしても、それをどう言葉にすればいいか分からない」
「…………」
蓮は少し考えて。
「……たぶん」
「そりゃ」
玲奈が少し困ったように笑う。
「会話短くなるよね」
「……短い?」
「短い」
「…………」
「かなり」
ひなたも小さく頷く。
「質問したことには答えてくれるんですけど」
「……うん」
「そこで終わること、多いですよね」
「…………」
蓮は少し考える。
「……必要なこと」
「はい?」
「答えてる」
「うん」
「…………」
「でも」
蓮は不思議そうに三人を見る。
「それじゃ駄目?」
◆
「駄目じゃないよ」
美月がすぐに答えた。
「短いことが悪いわけじゃない」
「……うん」
「ただ」
少しだけ考える。
「蓮が本当はもっと思ってることがあるなら」
「…………」
「それが私たちには分からないこともある」
「…………」
蓮が美月を見る。
「例えば」
「うん」
「この前の《白樹の迷宮》」
「……うん」
「帰ってきてから、楽しかったって言ったでしょ?」
「……言った」
「でも」
美月が少し笑う。
「最初は、それだけだった」
「…………」
「あとから聞いていったら」
「……うん」
「四人で行ったのが楽しかったとか」
「…………」
「また行きたいとか」
「……うん」
「いっぱい出てきた」
「…………」
蓮は少し止まる。
「でも」
「うん?」
「最初は」
「…………」
「楽しかった、しか」
少し考える。
「……分からなかった」
「うん」
「あとから」
「…………」
「考えたら出てきた」
◆
ひなたが静かに口を開く。
「十年間」
「……?」
「ずっと一人だったんですもんね」
「…………」
「話す相手も」
「……いなかった」
「そうですよね」
蓮は少しだけ視線を落とす。
十年間、人と話していない。
誰かに今日あったことを話すことも、何が嫌だったか、何が怖かったか、何を考えたか説明することも、一度もなかった。
「ダンジョンでは」
蓮が小さく言う。
「……話す必要なかった」
「うん」
「魔物に」
「…………」
「説明しても意味ない」
玲奈が思わず少し笑う。
「それはそう」
「…………」
「でも」
蓮が続ける。
「考えてはいた」
「どんなこと?」
「……魔物の位置」
「うん」
「強さ」
「…………」
「次に何してくるか」
「うん」
「どう倒すか」
「…………」
「逃げるなら、どこ」
「…………」
「食べ物」
「うん」
「水」
「…………」
「寝られる場所」
蓮の言葉は淡々としていた。
「そういうのは」
「……うん」
「ずっと考えてた」
◆
「じゃあ」
玲奈が少し興味を持ったように聞く。
「戦ってる時とか」
「……?」
「頭の中では、結構いろいろ考えてるの?」
「……うん」
「例えば?」
「…………」
蓮が少し考える。
「右に二体」
「うん」
「奥に一体」
「…………」
「右の一体が先に動く」
「うん」
「奥は魔力溜めてる」
「…………」
「先に右倒したら」
「うん」
「残った一体が左に回る」
「…………」
「そこを避けて」
「うん」
「奥を先に斬る」
「…………」
玲奈が目を瞬く。
「それ」
「……?」
「普通にめちゃくちゃ考えてるじゃん」
「……うん」
「パーティーでそれ言うなら?」
「…………」
蓮は少し考える。
「……右」
「短っ!」
玲奈の声が部屋に響いた。
「情報量削りすぎでしょ!」
「……?」
「今の説明、全部どこ行ったの!?」
「…………」
「頭」
「そういうことじゃない!」
ひなたが口元を押さえて笑う。美月も少しだけ笑っていた。
◆
「でも」
美月が言う。
「分かった気がする」
「……何が?」
「蓮」
美月が蓮を見る。
「考えることと」
「……うん」
「人に伝えることが」
「…………」
「十年間、完全に別になってたんだね」
「…………」
蓮は少し考える。
「……別?」
「うん」
「ダンジョンでは」
「…………」
「考えれば、それでよかった」
「……うん」
「誰かに説明する必要がなかった」
「…………」
「だから」
美月がゆっくり言う。
「頭の中ではいっぱい考えてても」
「……うん」
「口に出すところまでいかないんじゃないかな」
「…………」
蓮はしばらく黙った。そして。
「……たぶん」
小さく頷いた。
◆
「じゃあ」
玲奈が少し笑う。
「練習してみる?」
「……練習?」
「会話」
「…………」
蓮が警戒するように玲奈を見る。
「なんでそんな顔するの」
「……何する?」
「別に難しいことしないって」
「…………」
「美月」
「私?」
「何か聞いてみて」
「急だなあ」
美月は少し考える。そして。
「じゃあ」
蓮を見る。
「今日」
「……うん」
「玲奈とひなたが遊びに来て」
「…………」
「どうだった?」
「…………」
蓮が止まった。
◆
どうだった。
また、その質問。
蓮は自分の中を探す。
玲奈がいる。ひなたがいる。美月がいる。四人で話した。アイスを食べた。自分のことを、たくさん話した。
「…………」
何を感じている。
「……嫌じゃない」
玲奈が僅かに眉を上げる。
「そこから?」
「玲奈」
美月がすぐに止める。
「いいの」
「でも」
「待とう」
「…………」
「蓮」
「……うん」
「続き、ある?」
「…………」
蓮はまた考える。
「……帰ってほしいとも」
「うん」
「思ってない」
「…………」
玲奈が今度は黙って聞く。
「…………」
「まだ」
蓮が三人を見る。
「……一緒にいてもいい」
ひなたが何か言おうとする。
「それって――」
「ひなた」
美月が優しく止める。
「言わないであげよう」
「……はい」
「…………」
蓮が少し不思議そうに見る。
「なんで?」
「蓮が自分で探した方がいいから」
「……自分で」
「うん」
◆
蓮はまた、自分の中を探す。
帰ってほしくない。まだ一緒にいてもいい。それなら、何なのか。
「…………」
さっき話したことを思い出す。
美月がいると安心する。玲奈やひなたがいなくなるのも嫌。
なら、今三人がここにいることを、どう思っている。
「…………」
長い沈黙。
けれど、三人は何も言わなかった。待っている。急かさない。答えを教えない。
「…………」
そして、蓮が小さく口を開く。
「……一緒にいたい」
「…………」
三人が蓮を見る。
「たぶん」
蓮は少しだけ考えて。
「……今は」
「…………」
「三人と」
ゆっくり。
「……一緒にいたい」
美月が柔らかく笑った。
「うん」
「…………」
「今、ちゃんと伝わったよ」
「……伝わった?」
「伝わった」
「…………」
蓮は少しだけ、不思議そうな顔をした。
◆
「これ」
蓮が聞く。
「……合ってる?」
美月は少し笑う。
「またそれ聞く」
「……?」
「前も言ったでしょ」
「…………」
「感情には」
美月が蓮を見る。
「正解も不正解もないよ」
「……うん」
「一緒にいたいって思ったなら」
「…………」
「そう伝えればいい」
「……それだけ?」
「それだけ」
「…………」
蓮は考える。
ダンジョンでは、間違えれば死ぬことがあった。判断には正解が必要だった。
でも、誰かに自分の気持ちを伝えることには、正しい答えがない。
まだ、それが少し不思議だった。
◆
「じゃあ」
玲奈が楽しそうに笑う。
「もう一個」
「……まだやる?」
「やる」
「…………」
「今度は簡単」
「……何?」
「今日、何食べたい?」
「……焼肉」
「早っ」
「…………」
「そこは出るんだ」
「……食べたいから」
「はい」
玲奈が指を立てる。
「そこで終わらない」
「……?」
「もう一個」
「…………」
「なんで焼肉食べたいの?」
「…………」
蓮が考える。
「……美味しいから」
「もう一個」
「…………」
「玲奈」
美月が笑う。
「追い込みすぎ」
「いや、いけるって」
「…………」
蓮は少しだけ考え続ける。
焼肉。
地上に帰ってきてから、美月と二人で食べに行ったことがある。
目の前で肉を焼いて、美月が「それ、もう食べられるよ」と教えてくれた。
久しぶりに食べる、魔物以外の焼いた肉。温かいご飯。美月と向かい合って食べた。
あの時間を、蓮は覚えていた。
「…………」
「……前に」
「うん」
蓮が美月を見る。
「美月と食べた」
「焼肉?」
「……うん」
美月も思い出したように笑う。
「美味しかった?」
「……うん」
「それで焼肉?」
「…………」
蓮は少し考える。
「……また食べたい」
「うん」
そこで、いつもなら終わっていた。
けれど蓮は、もう少しだけ自分の中を探す。
今は、美月だけではない。玲奈がいる。ひなたもいる。
「…………」
「今度は」
「うん?」
蓮が三人を見る。
「……四人で」
「…………」
「食べてみたい」
一瞬、玲奈が黙った。それから。
「それ!」
「……これ?」
「それ!」
ひなたも笑う。
「すごく分かりやすいです」
「……分かりやすい?」
「はい」
美月も嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度四人で行こっか」
「…………」
蓮が少しだけ考えて。
「……うん」
頷く。そして。
「……行きたい」
さっきよりも、一つだけ言葉が増えた。
◆
「でも」
蓮がぽつりと言う。
「……時間かかる」
「いいよ」
美月が答える。
「……でも」
「待つから」
「…………」
「玲奈も」
「もちろん」
「ひなたも」
「待ちます」
「…………」
蓮は三人を見る。
「毎回?」
玲奈が笑う。
「毎回っていうか」
「……?」
「急いでる時は別だけど」
「…………」
「普通に話してる時くらい待つよ」
「はい」
ひなたも頷く。
「蓮さんが言葉を探してるって分かれば」
「…………」
「待つのは全然嫌じゃないです」
「…………」
美月も静かに頷く。
「だから」
「……うん」
「途中で諦めなくていいよ」
「…………」
「短くてもいい」
「……うん」
「でも」
「…………」
「本当はもう少し伝えたいって思った時は」
美月が少しだけ笑う。
「ゆっくり探せばいい」
◆
蓮は自分の手を見る。
十年間、使わなかったもの。
誰かに気持ちを伝えること。誰かに考えていることを説明すること。誰かが自分の言葉を待ってくれること。
ダンジョンには、全部なかった。
「…………」
「俺」
「うん」
美月が蓮を見る。
「……話せるようになる?」
「なるよ」
「…………」
「すぐじゃなくていい」
「……うん」
「十年使ってなかったんだから」
「…………」
「ゆっくりでいいよ」
「……ゆっくり」
「うん」
◆
夕方。
玲奈とひなたが帰る時間になった。
「じゃあ、またね」
「また来ます」
「……うん」
蓮はいつものように、それだけ答えた。
けれど、二人が玄関へ向かおうとした時。
「…………」
少しだけ止まる。
「玲奈」
「ん?」
「ひなた」
「はい?」
「…………」
二人が振り返る。
蓮は言葉を探す。
「今日」
「うん」
「…………」
「来てくれて」
少しだけ時間がかかる。
「……楽しかった」
玲奈が笑った。
「うん」
ひなたも柔らかく笑う。
「私もです」
「…………」
「また来るね」
「……うん」
今度は、それだけでも十分だった。
◆
二人が帰ったあと。
家には蓮と美月だけが残った。
美月がキッチンから戻ってくる。
「今日はどうだった?」
「…………」
蓮はまた、その質問に止まる。
いつもなら「楽しかった」。それだけで終わる。
「……楽しかった」
「うん」
美月はそれ以上聞かず、待った。
「…………」
蓮も少し考える。
「話すの」
「うん」
「……難しい」
「うん」
「自分が何思ってるかも」
「…………」
「まだ」
言葉を探す。
「……分からない時ある」
「うん」
「分かっても」
「…………」
「どう言えばいいか」
「……うん」
「分からない」
「…………」
美月は黙って聞いていた。
「でも」
「うん」
蓮は美月を見る。
「……待ってくれるなら」
「…………」
「もう少し」
少しだけ考える。
「……話せるようになりたい」
美月がゆっくり笑った。
「うん」
「…………」
蓮はまだ続けようとしていた。
美月は何も言わず、待つ。
「俺」
「うん」
「…………」
「思ってること」
少しだけ詰まる。
それでも、今度は途中でやめなかった。
「……ちゃんと」
「…………」
「伝えられるようになりたい」
「うん」
美月が小さく頷く。
「なれるよ」
「…………」
「一緒に練習しよ」
「……うん」
蓮はそこで一度止まった。そして、もう一つ言葉を探す。
「……美月にも」
「え?」
「…………」
「ちゃんと」
少しだけ時間をかけて。
「……伝えられるようになりたい」
「…………」
美月は一瞬、何も言わなかった。それから、柔らかく笑う。
「うん」
「待ってる」
「…………」
蓮は小さく頷いた。
十年間、一人だった。
考えることはたくさんあった。けれど、誰かに伝えることは一度もなかった。
だから今はまだ、自分が何を感じているのか分からないことがある。分かったとしても、それをどう言葉にすればいいのか分からない。
それでも今は、待ってくれる人がいる。聞いてくれる人がいる。伝えたいと思える人がいる。
だから、少しずつ言葉にしていけばいい。
「…………」
蓮は美月を見る。そして、さっきよりもほんの少しだけ自然に。
「……ありがとう、美月」
そう言った。




