第141話 約束とお礼
話が終わり、美月たちは帰るために席を立った。
蓮もそれに続こうとして――ふと、足を止める。
「……あ」
美月が振り返った。
「どうしたの?」
「……忘れてた」
「何を?」
蓮は支部長を見る。
「……魔石」
「魔石ですか?」
「……十億の」
美月が首を傾げる。
「あの魔石がどうしたの?」
「……まだ渡してない」
「渡す?」
「……うん」
蓮は少し考えてから説明した。
「……昨日、ここに来た時」
「昨日?」
「……受付の人に言った」
「何を?」
「……十億の魔石、渡すって」
「…………え?」
美月の目が大きくなる。玲奈とひなたも蓮を見る。
「ちょっと待って、蓮」
「……?」
「そんなこと言ったの?」
「……うん」
「なんで?」
「……美月のところに行きたかったから」
「それで十億円の魔石を渡すって言ったの!?」
「……うん」
美月は言葉を失った。
あの時、自分たちはSランク化したダンジョンの中にいた。蓮は美月の居場所を知るため、ギルドへ来た。
そして、自分の話を聞いてもらうために、十億円規模の魔石を渡すと受付で言っていた。
美月がそれを知ったのは、今が初めてだった。
「蓮……」
「……うん」
「あの時は急いでたんでしょ?」
「……うん」
「だったら、別に今になって本当に渡さなくても――」
「……でも」
蓮が首を傾げる。
「……渡すって言ったから」
「…………」
「……約束した」
蓮にとっては、それだけだった。
玲奈が呆然とする。
「いやいや……十億だよ?」
「……うん」
「十億円だよ?」
「……知ってる」
「それを約束したからって渡すの?」
「……うん」
「迷わないんだ……」
「……約束だから」
玲奈が額を押さえる。
「蓮のお金の感覚、本当にどうなってるの……」
蓮は少し考えた。
「……まだ、よく分かんない」
「だと思った」
ひなたが小さく笑った。
支部長はしばらく蓮を見ていたが、やがて静かに口を開く。
「黒瀬さん」
「……はい」
「お気持ちは、ありがたく受け取ります」
蓮が頷く。
「……はい」
「ですが、その魔石を無償で受け取ることはできません」
「……?」
蓮が首を傾げた。
「……なんで?」
「金額が大きすぎます」
「……十億だから?」
「はい」
支部長の表情は真剣だった。
「黒瀬さんご本人が納得されていたとしても、十億円規模の資産をギルドが無償で受け取るわけにはいきません」
「……そうなの?」
「そうです」
「……でも、約束した」
「ですから」
支部長が少しだけ表情を和らげる。
「黒瀬さんが約束どおり、その魔石をギルドへ渡してくださるのであれば――こちらも正式に買い取らせてください」
「……買うの?」
「はい」
「……俺は、あげるつもりだったけど」
「そのお気持ちは十分に伝わっています」
支部長は頷いた。
「だからこそ、こちらも正式な形で受け取りたいんです」
蓮は少し考える。そして美月を見る。
「……それでも、約束になる?」
「なるよ」
美月が答えた。
「蓮はちゃんと渡す。ギルドもちゃんと受け取る。その代わり、価値に見合ったお金を払う。それでいいと思う」
「……そっか」
「うん」
蓮は支部長へ向き直った。
「……じゃあ、それで」
「ありがとうございます」
「……でも」
「はい?」
「……十億も、いらないかも」
玲奈がすぐに口を挟む。
「そこはちゃんともらって」
「……多い」
「多くても」
「……使い方、分かんない」
「それはこれから覚えればいいの」
美月も苦笑する。
「そうだよ。蓮のお金なんだから、ちゃんと受け取ろう」
「……分かった」
まだ少し納得していないようだったが、蓮は頷いた。
「正確な金額については、改めて正式な査定を行った上で決定します」
「……十億じゃないの?」
「以前のものは初期査定ですから」
「……そうなんだ」
「はい。正式な鑑定と手続きを経て、買い取り額を確定します」
「……分かりました」
「書類への署名なども必要になります」
蓮の表情が僅かに曇る。
「……書類」
玲奈が笑った。
「十億の魔石よりそっちの方が嫌そうなんだけど」
「……書類、難しいから」
「美月に教えてもらいな」
「なんで私なの?」
「蓮が一番聞くから」
美月は一瞬黙ってから、小さく息を吐いた。
「……まあ、それはいいけど」
「……ありがとう」
「うん」
魔石の話がまとまり、今度こそ帰ろうとしたところで、蓮は支部長を見た。
「……あと」
「はい?」
「……今日は、ありがとうございました」
支部長が少し驚いたように目を瞬く。
「記者会見のことでしょうか?」
「……うん」
蓮は頷く。
「……家の前のこと、言ってくれたから」
自宅周辺での張り込み。近隣住民への取材。私生活への過度な接触。
ギルドは会見の場で、それらを控えるよう正式に求めてくれた。
「……俺が話したくないことも、言わなかった」
「それは当然のことです」
「……でも」
蓮は少しだけ考えてから、もう一度言った。
「……助かりました」
そして。
「……ありがとう」
支部長は少しだけ目を細めた。
「そう言っていただけるなら、こちらとしても会見を開いた意味がありました」
美月は横で、そのやり取りを静かに見ていた。
十年前、蓮は、どこにでもいる普通の少年だった。笑って。話して。誰かに何かをしてもらえば、ちゃんと礼も言えた。
それが、十年間、話す相手のいない場所で、一人きりで生き続けた。
地上へ戻ってきた蓮は、人と話すことにも、相手の表情を読むことにも、まだ少し慣れていない。
それでも今は、自分が嬉しかったことを、自分の言葉で相手に伝えている。
少しずつ、蓮は、人と一緒にいる生活を取り戻し始めていた。
その時、蓮がふと何かを思い出した。
「……そういえば」
玲奈がすぐに反応する。
「まだあるの?」
「……うん」
「今度は何?」
蓮は支部長を見る。
「……ヴァルゼインの遺体」
その言葉に、支部長の表情が変わった。
「はい?」
「……欲しかったって言ってた」
「……ええ」
事情聴取の中で確認された、五十階層のヴァルゼイン。Lv258の《魔公》。
その遺体は五十階層に残されたまま。攻略後にダンジョンそのものが消滅したため、回収することはできなかった。
ギルド側が研究資料として惜しんでいたものだ。
「……ヴァルゼインはないけど」
「はい」
「……同じくらいの魔物なら」
蓮は少し考える。
「……素材がある」
「…………」
支部長が動きを止めた。
「同じくらい、というのは?」
「……レベル」
「レベル……?」
「……250くらい」
「…………え?」
部屋が静まり返った。玲奈がゆっくり蓮を見る。
「蓮」
「……うん」
「今、Lv250くらいって言った?」
「……うん」
「その魔物の素材を持ってるの?」
「……ある」
「どこに?」
「……アイテムボックス」
支部長の表情が完全に変わった。
「黒瀬さん」
「……はい」
「それは、魔石だけではなく?」
「……うん」
「身体の一部なども保存されているということですか?」
「……皮とか」
蓮は思い出しながら答える。
「……牙とか、爪とか」
「…………」
「……骨もあったと思う」
記録担当者の手が止まった。
「Lv250前後の魔物の……素材が?」
「……はい」
「複数種類?」
蓮は少し考えた。
「……たぶん」
「たぶん……」
玲奈が呆れたように蓮を見る。
「自分で何持ってるか分かってないの?」
「……多いから」
「一回ちゃんと整理しなよ」
「……うん」
美月も苦笑する。
「それは本当にやった方がいいね」
「……今度やる」
支部長はそれどころではないようだった。
「黒瀬さん」
「……はい」
「もし差し支えなければ、その素材を確認させていただくことは可能でしょうか?」
蓮が首を傾げる。
「……見る?」
「ぜひ」
返事は即答だった。蓮は少し驚いたように支部長を見る。
「……そんなに?」
「そんなにです」
玲奈が横から笑う。
「ヴァルゼインの遺体欲しがってた人たちにLv250の素材あるって言ったんだから、そりゃそうなるでしょ」
「……そっか」
蓮にとっては、長いダンジョン生活の中で集めた素材の一つ。
だが、地上にとって、それがどれほど異常なものなのか。蓮はまだ、よく分かっていなかった。
十億円の魔石も。Lv250前後の魔物の素材も。
十年間、蓮が生きてきた場所では、必要なら使い、必要がなければしまっておく。ただ、それだけのものだった。
地上に帰ってきて、それら一つ一つの価値を知るのも、蓮にとっては、これからだった。




