第134話 地上へ帰った日
しばらく、誰も何も言わなかった。
美月はまだ蓮を見ている。十年間の果てに蓮が手に入れた《霊薬》。それが今日、自分の命を繋いだ。
その事実を、まだ胸の中で受け止めているようだった。
そんな中、玲奈が静かに口を開く。
「……それで」
蓮を見る。
「古龍を倒して、報酬も手に入れて」
「……うん」
「そのあと、どうやって帰ったの?」
蓮は少しだけ考える。
「……出口が出た」
「出口?」
「……うん」
百階層。古龍を倒し、報酬を受け取ったあと。
それまでどこにもなかった、外へ続く道が現れた。
「すぐに行ったの?」
玲奈が聞く。
「……少し、見てた」
「どうして?」
「……本当に外か、分からなかったから」
玲奈が黙る。
十年間、蓮はずっとダンジョンの中を進んできた。どれだけ探しても、外へ続く道は見つからなかった。
その果てに突然現れた出口。
「……外じゃなかったらって、思った?」
「……少し」
ひなたが静かに蓮を見る。
「それでも、進んだんですね」
「……うん」
蓮はその時のことを思い出す。
外へ続く道を進んだ。その先にあったのは、暗い通路でも、次の階層でも、魔物でもなかった。
「……空があった」
玲奈の表情が止まる。
「空……」
「……うん」
「十年ぶりに?」
「……うん」
ひなたも何も言えなくなる。
十年間。天井しかなかった。岩壁しかなかった。
暗闇の中を一人で生き続けた蓮が、ようやく見上げた空。
「……どうだった?」
玲奈が聞く。蓮は少し考える。
「……広かった」
「それだけ?」
「……あと」
僅かに視線を落とす。
「……明るかった」
美月が静かに蓮を見る。玲奈は何かを言おうとして、やめた。
たぶん蓮には、それ以上うまく説明できない。十年ぶりに見た空をどう感じたのか。どれほど眩しかったのか。
それを言葉にすることに、蓮はまだ慣れていない。
「それから、山を下りたの?」
「……うん」
「街まで?」
「……うん」
十年ぶりの地上。けれど、蓮が知っていた世界とは違っていた。
建物。道路。人。車。そして、誰もが手にしている見たことのない機械。
「スマホも知らなかったんだよね」
玲奈が言う。
「……うん」
「そっか」
十年という時間の流れから、蓮だけが取り残されていた。街は変わった。人も変わった。世界そのものが変わっていた。
「街を見た時、どう思った?」
「……知らない場所みたいだった」
「自分が住んでた街なのに?」
「……うん」
玲奈が少しだけ表情を曇らせる。
「それで……家に帰ったんだよね」
「……うん」
蓮は昔、自分の家があった場所へ向かった。けれど、そこには何もなかった。
「……家、なかった」
ひなたが小さく息を呑む。玲奈も何も言わない。
十年間生きて、ようやく帰ってきた。その場所に、帰る家がなかった。
「それで、警察が来たの?」
美月が尋ねる。
「……うん」
蓮は美月を見る。
「……名前、聞かれた」
美月が少しだけ笑った。
「覚えてる」
玲奈が二人を見る。
「その時?」
「うん」
美月が静かに答える。
「近くにいたの」
「偶然?」
「……うん」
その時、警察官に名前を聞かれた蓮が答えた。
「……黒瀬蓮」
美月はその名前を聞いた。
「最初は」
美月が言う。
「聞き間違いかと思った」
十年前、突然いなくなった幼馴染。何年経っても見つからなかった。
もう帰ってこないかもしれない。そう思ったことも、一度や二度ではなかった。
「でも」
美月は蓮を見る。
「振り向いたら」
そこに蓮がいた。
「十年経ってたのに、すぐ分かったの?」
玲奈が聞く。
「……最初は、自信なかった」
「だよね」
「でも」
美月は少しだけ目を細める。
「蓮だった」
蓮は何も言わず、美月を見る。玲奈が二人を交互に見た。
「……そっか」
十五歳で、突然ダンジョンへ消えた蓮。そこから十年間、一人で生き延び、戦い、強くなり、古龍を倒して。
ようやく地上へ帰ってきた。
玲奈は長く息を吐いた。
「……それが」
蓮を見る。
「蓮の十年間なんだ」
蓮は静かに頷く。
「……うん」
ひなたが蓮を見る。
「ずっと……一人だったんですね」
「……うん」
「十年間」
「……うん」
ひなたは少しだけ寂しそうに笑った。
「でも」
蓮がひなたを見る。
「今は、一人じゃないですね」
蓮はすぐには答えなかった。美月を見る。今日、失いかけた。けれど、戻ってきた。
玲奈を見る。ひなたを見る。二人とも、ここにいる。
少し前まで蓮にはなかったもの。一緒に話す相手。一緒に帰る相手。自分を待っている人。
そして、帰る場所。
蓮はゆっくり頷いた。
「……うん」
そして、小さく続ける。
「……もう、一人じゃない」
美月が微笑む。玲奈もひなたも、何も言わなかった。
十年前。蓮は一人でダンジョンへ入り、十年間、誰とも言葉を交わさず生き抜いて地上へ帰ってきた。
けれど、今は違う。
蓮の目の前には、もう誰かがいる。




