第121話 下へ向かう救助
四人は、広間の奥へ向かって歩き出した。
先頭は蓮。その後ろに、美月。さらに玲奈とひなたが続く。
普通なら、上を目指す場面だった。出口は上にある。
地上へ戻るなら、来た道を引き返す。それが当たり前だった。
けれど、このダンジョンでは、その当たり前が通じない。
上へ戻ろうとすれば、道が歪む。階層が繋がり変わる。
戻っているはずなのに、さらに深くへ押し込まれる。美月たちは、それを何度も味わっていた。
だから蓮は、下へ向かう。五十階層まで。
このダンジョンを攻略して、終わらせるために。
「……本当に、下に行くんだね」
玲奈が呟いた。声には、まだ信じられない響きが残っている。
「……うん」
蓮は振り返らずに答えた。
「普通、救助って上に戻るものじゃない?」
「……今は、下の方が早い」
「言ってること、めちゃくちゃなんだけど……」
玲奈はそう言いながらも、足を止めなかった。
エリクサーの効果で、身体は動く。腕の痛みもない。魔力も戻っている。
けれど、心まで完全に戻ったわけではなかった。
美月が死んだ。その光景が、まだ頭から離れない。
そして、その美月が今、生きて隣を歩いている。
死者を戻す薬。HPとMPを完全に回復させる薬。
そんなものを当然のように出した男。
黒瀬蓮。美月が話していた、十年ぶりに帰ってきた幼なじみ。
玲奈は、前を歩く蓮の背中を見る。
「……ねえ、美月」
「何?」
「あれ、本当に幼なじみ?」
美月は少しだけ困ったように笑った。
「うん」
「幼なじみって、もっとこう……普通じゃない?」
「蓮は……普通じゃないところもあるけど」
「全部普通じゃないんだけど」
玲奈の声に、ひなたも小さく頷いた。
「私も……正直、まだ理解できてません」
ひなたは自分の手を見る。
魔力が戻っている。空になりかけていたはずの魔力が、完全に満ちている。
身体の疲労も消えている。だが、精神だけは追いついていなかった。
「さっきのエリクサーも、霊薬も……地上の常識では、ありえません」
美月は蓮の背中を見つめる。
蓮は何も言わない。ただ前を見ている。
十年間。彼は、誰も知らないダンジョンの中で生きていた。
地上の常識が届かない場所で。
だから、美月は思う。蓮にとっては、これが普通なのかもしれない。
けれど。それが少し、悲しかった。
どれほどの場所で生きてきたら、あんな薬を当然のように扱えるのか。どれほどの敵と戦ってきたら、あの魔物を一瞬で倒せるのか。
そう考えると、胸が痛んだ。
「……蓮」
美月が呼ぶ。
蓮が少しだけ振り返る。
「……何?」
「ありがとう」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。それから、視線を前に戻す。
「……まだ終わってない」
「うん」
「……帰ってからでいい」
その言葉に、美月は目を細めた。
「うん。帰ってから、ちゃんと言うね」
蓮は小さく頷いた。
その直後。
通路の奥から、重い足音が響いた。
ひなたが即座に反応する。
「前方、魔物反応。複数です」
玲奈が剣を構える。
「来るよ」
美月も杖を握り直す。
だが、蓮が片手を軽く上げた。
「……下がってて」
三人の動きが止まる。
「蓮、でも――」
「……前は、俺がやる」
短い言葉。それだけで、蓮は前へ進んだ。
通路の奥から、魔物が現れる。
四体。
どれも、先ほど美月たちを追い込んだ魔物と同格か、それ以上の魔力をまとっていた。
岩のような皮膚。黒い角。異様に長い腕。
通路を塞ぐように並び、咆哮する。
玲奈の手に力が入った。
身体は回復している。戦える。
だが、あの魔物たちを相手にすれば、また全力を出すことになる。
そう思った瞬間。
蓮が一歩踏み出した。
風が鳴る。
次の瞬間、先頭の魔物の頭部が床に叩きつけられていた。
「……え?」
玲奈が声を漏らす。
蓮は止まらない。
二体目の腕が振り下ろされる。蓮はその腕に触れるように手を当てた。
ただ、それだけ。
魔物の腕が内側から弾けた。黒い体液が壁に散る。
三体目が横から突進する。
蓮は軽く身体をずらし、膝を入れた。巨体が浮く。
天井へ叩きつけられ、床へ落ちる。
四体目が口を開き、黒い魔力を吐き出そうとした。
蓮は指を向ける。圧縮された風が一直線に走った。
魔物の胸を貫く。巨体が崩れ落ちる。
数秒。それだけだった。
通路には、四体の死骸だけが残った。
蓮は振り返らない。
「……行く」
そう言って、先へ進む。
玲奈は呆然と立ち尽くしていた。
「……私たち、さっきまで何と戦ってたの?」
誰も答えられなかった。
美月も、ひなたも、ただ蓮の背中を見ていた。
蓮にとって、今のは戦闘ではない。足止めですらない。
道にある邪魔なものを、どけただけ。それが、三人には分かってしまった。
四十六階層。
通路はさらに歪んでいた。壁から黒い結晶が生え、床には魔力の流れが血管のように走っている。
ところどころで空間が揺れ、別の通路の景色が一瞬だけ見える。
普通なら、進むべきではない。
だが、蓮は迷わない。壁に触れる。魔力の流れを読む。
そして、進むべき道を選ぶ。
「……こっち」
「本当に分かるの?」
玲奈が思わず聞く。
「……流れがある」
「流れ?」
「……下に集まってる」
蓮はそれ以上説明しなかった。
玲奈は美月を見る。美月も首を横に振る。
「私にも、そこまでは分からない」
ひなたが小さく呟く。
「でも……蓮さんの魔力、すごく安定してます」
「安定?」
「はい。この中にいると、普通は周囲の魔力に身体の魔力が乱されます。私たちも、ずっとそれで消耗していました。でも蓮さんは……」
ひなたは蓮の背中を見る。
「呑まれていません」
声が震える。
「むしろ、周りの魔力が避けているみたいです」
玲奈は苦笑した。
「もう、何を聞いても驚かないつもりだったんだけどね」
「……私もです」
ひなたも小さく頷いた。
その頃。
地上。
ギルド本部の監視室では、職員たちが画面に張りついていた。
黒瀬蓮の反応。復帰した生命反応。そして、残る二つの反応。
四つの反応が、同じ方向へ動き始めていた。
だが、その方向に、職員たちは言葉を失う。
「黒瀬蓮と《アストラ》の反応、移動開始!」
「上層ではありません!」
「下層へ向かっています!」
監視室がざわついた。
「なぜだ!?」
「救助対象と合流したなら、上へ戻るはずだろ!」
「階層接続が崩れているから戻れないのか!?」
「しかし、下に行けば最深部です!」
支部長は画面を見つめた。
四つの反応は止まらない。四十六階層。さらに下へ。
迷いなく進んでいる。
支部長の脳裏に、ひとつの答えが浮かんだ。
普通ならありえない答え。
救助対象と合流した後、上へ戻るのではなく。ダンジョンの奥へ進む。
五十階層まで到達し、攻略する。そして、ダンジョンそのものを終わらせる。
「……攻略する気か」
その呟きに、監視室が静まり返った。
職員の一人が震える声で言う。
「攻略……ですか?」
「この状況で……?」
「Sランク変異したダンジョンを……?」
支部長は答えなかった。
画面の中で、黒瀬蓮の反応だけが異常に安定していた。周囲の魔力波形が乱れているにもかかわらず、蓮の反応だけは揺れない。
そして、魔物反応が接近するたびに、一瞬で消えていく。
「魔物反応、消失!」
「またです!」
「接触から消失まで、三秒未満!」
「討伐……しているのか……?」
職員たちは信じられないものを見る目で画面を見ていた。
救助ではない。撤退でもない。
進んでいる。
黒瀬蓮は、《アストラ》を連れて、下へ進んでいる。
支部長は拳を握った。
「全記録を残せ」
「はい!」
「これは、ただの救助記録では済まない」
世界ランキング第一位。Unknown。
その力が、初めて公の場で観測されている。
しかも、Sランク変異ダンジョンの深部で。
誰もが息を呑み、画面を見つめていた。
ダンジョン内部。
四十七階層。
蓮は先へ進んでいた。美月たちは、その後ろを追う。
エリクサーで身体は回復している。それでも、蓮の速度についていくのは簡単ではなかった。
蓮は走っているつもりではない。歩幅も大きくない。
だが、迷いがない。曲がる場所で止まらない。罠の前で考えない。魔物の気配で立ち止まらない。
だから速い。
「ちょ、ちょっと待って……!」
玲奈が息を吐きながら言った。
「これ、救助されてるっていうより、連れて走らされてるんだけど……!」
蓮が振り返る。
「……急ぐから」
「それは分かるけど!」
美月が苦笑しながら言う。
「蓮、少しだけ速度落として」
蓮は美月を見た。それから、玲奈とひなたを見る。
少し考えて、頷く。
「……分かった」
本当に少しだけ、速度が落ちた。
玲奈は肩で息をしながら呟く。
「……少しだけね、本当に」
美月は小さく笑った。ひなたも、緊張の中で少しだけ表情を緩める。
だが、すぐにその顔が引き締まった。
「前方、また反応です」
通路の先から、巨大な影が現れる。
今度は一体。だが、魔力は先ほどの複数体よりもさらに重い。
体表に黒い結晶をまとい、背中から長い棘が伸びている。通路全体を塞ぐほどの巨体だった。
玲奈が剣を構える。
「これは……さすがにでかいね」
美月も杖を構えようとする。
だが、蓮がまた片手で制した。
「……大丈夫」
魔物が咆哮する。黒い魔力が波のように押し寄せる。
美月たちの髪が揺れた。だが、蓮はその中を普通に歩いていく。
魔物が突進した。通路が揺れる。床が砕ける。
蓮は右手を上げた。そして、軽く払う。
それだけだった。
圧縮された風が横へ走る。魔物の巨体が、壁ごと吹き飛んだ。
轟音。
岩壁が崩れ、黒い結晶が砕け散る。魔物は壁に埋まり、そのまま動かなくなった。
死骸から黒い体液が流れ落ちる。
蓮は何事もなかったように歩き出した。
「……行く」
玲奈は剣を下ろした。
「もう、驚くのも疲れてきた」
ひなたが小さく頷く。
「でも……すごいです」
美月は黙って蓮を見ていた。
驚きはある。もちろんある。
だが、それ以上に胸の奥が痛んだ。
蓮が強いことは分かっていた。Unknownかもしれないとも思っていた。
けれど、実際にその力を見ると、想像とは違った。
強い。あまりにも強い。
その強さが、蓮を十年間一人で生き残らせた。同時に、蓮を十年間一人にした。
そう思うと、美月は何も言えなかった。
四十八階層。
階層の境目は、もはや階段ではなかった。
黒い穴のような空間。魔力が渦を巻き、下へと流れている。
ひなたが顔をしかめる。
「ここを通るんですか……?」
「……うん」
「安全ですか?」
蓮は穴を見る。少しだけ考える。
「……たぶん」
玲奈が即座に反応した。
「たぶん!?」
「……危ないところは避ける」
「今の返事で余計怖くなったんだけど」
美月が蓮へ言う。
「蓮、私たちも通れる?」
「……通れるようにする」
蓮はそう言って、穴の前に立つ。右手を伸ばし、魔力を流した。
暴れていた渦が、一瞬だけ静まる。
黒い魔力の流れが左右へ割れ、中心に細い道ができた。まるで、水を割って通路を作ったように。
ひなたが息を呑む。
「魔力の流れを……押さえ込んでる……?」
蓮は振り返る。
「……今」
「行こう」
美月がすぐに判断した。
三人は蓮の後に続き、黒い穴を抜ける。
身体を包む魔力は重い。だが、蓮の作った道の中だけは、圧が弱まっていた。
美月たちはそのまま下へ降りる。
視界が揺れる。足場が変わる。
次の瞬間、四人は別の通路に出ていた。
四十八階層。いや、すでに四十九階層に近い空間かもしれない。
端末の表示は、また乱れていた。
四十八。不明。四十九。不明。
だが、蓮は迷わない。
「……近い」
その声に、美月が顔を上げる。
「五十階層?」
「……うん」
前方に、巨大な扉が見えた。
通路の奥。黒い結晶に覆われた、重厚な扉。
まるでダンジョンそのものの心臓を守るように、そこに立っている。
扉の隙間から、濃い魔力が漏れ出していた。
これまでとは桁が違う。重く、冷たく、深い魔力。
ひなたが端末を見て、顔を青ざめさせる。
「魔力反応……これまでとは比べものになりません」
玲奈が剣を握り直す。
「普通なら、絶対入りたくないね」
美月も扉を見つめる。
「ここが……五十階層」
このダンジョンの最深部。Sランク変異の中心。
おそらく、この扉の向こうにボスがいる。
美月は蓮を見る。
「蓮」
「……何」
「本当に、大丈夫?」
蓮は扉を見たまま答える。
「……大丈夫」
そして、一歩前へ出る。扉の前に立つ。
黒い魔力が蓮に向かって吹きつけた。だが、蓮は揺れない。
美月たちは、その背中を見ていた。
さっきまで、自分たちは死にかけていた。助からないと思った。
けれど今、目の前にいる蓮は、この絶望の中心へ向かおうとしている。
怖れるためではない。逃げるためでもない。
終わらせるために。
蓮は扉に手をかけた。
「……すぐ終わらせる」
五十階層。Sランクへ変異したダンジョンの最深部。
その扉の向こうに、この異変の中心がある。
蓮は静かに力を込めた。
黒い扉が、重い音を立てて開いていく。
そして四人は、ダンジョンの最奥へ足を踏み入れた。




