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10年ぶりに帰った俺、世界最強のUnknownになっていた  作者: 神崎昴
第二部 10年ぶりの日常、そして再び

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119/511

第119話 10分

魔物の腕が、ゆっくりと振り上げられた。


 黒い光が、その腕に集まっていく。広間に満ちていた魔力が、渦を巻くように吸い込まれていく。


 空気が重くなる。床が軋む。壁に埋まった黒い結晶が、不気味に脈打った。


 美月は、二人の前に立っていた。


 玲奈は立ち上がろうとしている。だが、足に力が入りきっていない。


 ひなたは杖を握っている。けれど、魔力はもうほとんど残っていない。


 次の一撃。それを受ければ、結界は砕ける。


 美月には分かっていた。それでも、退かなかった。


「美月!」


 玲奈が叫ぶ。


「下がって!」


 美月は振り返らない。


 結界を広げる。玲奈とひなたを包むように。


 自分の後ろへ隠すように。


「ひなた、玲奈をお願い」


「美月さん……?」


「お願い」


 その声は、静かだった。


 ひなたの顔が強張る。玲奈が歯を食いしばった。


「やめて、美月。あんた、何する気――」


 言葉は最後まで続かなかった。


 魔物の腕が振り下ろされた。黒い魔力をまとった、重い一撃。


 美月の結界に直撃する。


 轟音。


 透明な壁が震えた。亀裂が走る。


 細いひびが、瞬く間に広がっていく。


「っ……!」


 美月の膝が沈む。


 それでも、魔力を流し続ける。


 守る。二人を守る。


 ここで崩れたら、二人が死ぬ。


「美月さん!」


 ひなたの声が震える。


 結界が軋む。割れる。砕ける。


 限界だった。


 次の瞬間、美月は自分から結界を解除した。砕け散るより早く。


 反動を最小限に抑えるために。


 そして、玲奈とひなたを突き飛ばした。


「え――」


 二人の身体が横へ飛ぶ。


 その直後。


 魔物の腕が、美月を捉えた。


 鈍い音がした。


 美月の身体が宙に浮く。杖が手から離れ、床を転がった。


 そのまま壁に叩きつけられる。背中からぶつかり、床へ落ちた。


「美月!」


「美月さん!」


 玲奈とひなたの叫びが重なる。


 美月は動かなかった。白い服に、赤が広がっていく。


 折れた杖が、床に転がっている。


 ひなたが這うように駆け寄った。


「美月さん! 美月さん!」


 震える手で、美月に触れる。回復魔法を使おうとする。


 淡い光が、ひなたの手に灯った。けれど、その光は弱い。


 すぐに揺らぎ、消えかける。


「お願い……お願い、治って……!」


 ひなたは必死に魔力を絞り出す。


 だが、傷が深すぎた。身体の損傷も、魔力の乱れも、ひなたの残った力では届かない。


 美月の呼吸は、細くなっていく。


 玲奈も膝をつきながら近づいた。


「美月、嘘でしょ……ねえ、美月!」


 美月のまぶたが、わずかに動いた。焦点の合わない瞳が、玲奈とひなたを見た。


「……れ、な……」


「しゃべらないで!」


 玲奈が叫ぶ。


「ひなたが治すから! すぐ治すから!」


 美月は小さく首を振ろうとした。けれど、それすらできなかった。


「……ひな、た……」


「はい……! はい、美月さん……!」


「……生きて」


 その言葉に、ひなたの顔が歪んだ。


「いやです……そんなの、いやです……!」


「……二人は……帰って……」


「ふざけないでよ!」


 玲奈が叫んだ。涙が滲んでいた。


「三人で帰るって言ったでしょ! あんたが言ったんでしょ!」


 美月は、かすかに笑おうとした。だが、表情はほとんど動かなかった。


 朝のことを思い出す。玄関に立つ蓮。


 不器用に、けれど確かに言ってくれた言葉。


 気をつけて。


 そして、自分が返した言葉。


 すぐ帰るね。


 帰るつもりだった。ちゃんと帰って、ただいまって言うつもりだった。


 また一緒にご飯を食べて。何でもない日常を、続けるつもりだった。


「……蓮……」


 美月の唇が、かすかに動く。


「……ごめんね」


 その声は、ほとんど音にならなかった。


 次の瞬間。美月の身体から、力が抜けた。


 瞳から光が消える。胸の上下が止まる。


 ひなたの手が震えた。


「……え?」


 ひなたは美月の胸元に手を当てる。首筋に触れる。


 もう一度、胸元に手を当てる。


「いや……」


 声が震える。


「いやです……」


 玲奈が美月の肩を掴む。


「美月……?」


 返事はない。呼吸もない。脈もない。


 ひなたの回復魔法は、美月の身体に届かず、虚しく揺れて消えた。


「いや……いやあああっ!」


 ひなたの悲鳴が、広間に響いた。


 玲奈は声を出せなかった。ただ、美月の身体を見つめている。


 美月が倒れている。美月が動かない。


 美月が、死んだ。


 その事実が、あまりにも重く、玲奈の中に落ちていく。


 その頃。


 地上。


 ギルド本部の監視室では、職員たちが画面に張りついていた。


 対象ダンジョンの内部反応。乱れ続ける階層表示。途切れかけの生命反応。


 その中に、《アストラ》の三つの反応があった。


 だが、そのひとつが急激に弱まっていく。


「《アストラ》の生命反応、一つ急低下!」


「回復反応は!?」


「確認できません! 魔力波形、崩れています!」


 監視室の空気が凍る。


 支部長は画面を睨んだ。


「持ちこたえろ……!」


 職員が必死に端末を操作する。


 だが、弱まった反応は戻らない。


 小さく揺れたあと。


 ふっと、消えた。


「……生命反応、一つ消失」


 その言葉に、誰も動けなくなった。


 消えた反応。それが誰なのか、確定はできない。


 だが、内部にいるのは三人だけ。


 神崎美月。水野玲奈。小川ひなた。


 そのうちの一人が、今、消えた。


「……くそっ」


 支部長が拳を握る。


 救助隊は、まだ入れていない。入口は不安定。階層接続は崩壊。通信は途絶。


 助けたい。だが、届かない。


 その現実だけが、監視室に重くのしかかっていた。


 そのとき、別の職員が叫んだ。


「黒瀬蓮の反応、確認!」


 全員の視線が、別の画面へ向く。


 そこには、ありえない速度で階層を下っていく反応が表示されていた。


「四十二階層通過!」


「速すぎる……!」


「階層接続の乱れを無視して進んでいます!」


「いや、無視じゃない……最短で抜けてる……!」


 反応は止まらない。


 四十三。不明。四十四。不明。


 そして、消えた生命反応の近くへ。


 支部長は画面を見つめた。


 消えた反応。近づく反応。


 その二つが、少しずつ重なろうとしている。


「間に合え……」


 誰かが呟いた。


 それが祈りなのか、願いなのか、自分でも分からなかった。


 監視室の全員が、息を殺して画面を見つめていた。


 世界ランキング第一位。Unknown。黒瀬蓮。


 その男だけが今、誰も届かない場所へ近づいていた。


 ダンジョン内部。


 悲しみに沈む時間すら、玲奈たちには与えられなかった。


 魔物が、ゆっくりと歩き出していた。美月が守った二人へ向かって。


 玲奈は剣を握ろうとした。だが、手に力が入らない。


 ひなたは美月に縋ったまま、動けない。


 魔物の腕が、再び持ち上がる。今度は、玲奈とひなたを潰すために。


 その瞬間。


 広間の壁が、内側から砕けた。


 轟音。


 黒い岩壁が吹き飛び、破片が床に散る。


 そこから、一人の男が現れた。


 黒い髪。無表情に近い顔。普通の服。


 けれど、その身体にまとった魔力だけが、空間の空気を変えた。


 玲奈が呆然と呟く。


「……誰……」


 ひなたは顔を上げた。涙で濡れた視界の中、その男を見る。


 男は二人を見なかった。倒れている美月だけを見た。


「……美月」


 小さく。けれど、はっきりと。


 その声を聞いて、玲奈の喉が震えた。


 この男は、美月を知っている。美月を助けに来た。


 それだけは分かった。けれど、誰なのかまでは分からない。


「あんた……誰……?」


 玲奈がかすれた声で尋ねる。


 男は答えなかった。


 男の目は、美月の血を見ていた。折れた杖。動かない身体。


 泣き崩れるひなた。剣を握る力も残っていない玲奈。


 そのすべてを、男は一瞬で見た。


「……遅かった」


 声は静かだった。けれど、その静けさが怖かった。


 魔物が男の方を向く。


 新たな侵入者を見つけ、四本の腕を広げた。広間に満ちる魔力を吸い込み、黒い結晶が鈍く光る。


 美月たち三人が、全力を出しても傷一つつけられなかった魔物。


 その魔物が、男へ向かって動いた。


 男は、美月から目を離さないまま言った。


「……邪魔」


 魔物が腕を振り下ろす。


 男は一歩、前へ出た。


 それだけだった。


 次の瞬間、魔物の腕が砕けた。


 音が遅れて響く。


 玲奈には、何が起きたのか分からなかった。男が動いたように見えなかった。


 ただ、魔物の腕が砕け、黒い体液が床に散った。


 魔物が咆哮する。残った腕を振るう。


 男は顔を上げた。


 その目に、怒りがあった。


 叫ぶような怒りではない。燃え上がるような怒りでもない。


 もっと冷たく、深いもの。


 男は右手を伸ばした。風が集まる。


 圧縮された魔力が、刃のように細くなる。


 そして、振り抜いた。


 広間を風が走った。


 魔物の胴体に、線が入る。


 一拍遅れて、巨体がずれた。上半身が崩れ落ちる。


 床に叩きつけられ、黒い体液が広がった。


 埋まっていた結晶が砕け、鈍い音を立てて散らばる。


 魔物は動かなくなった。死骸だけが、広間に残った。


 玲奈は、言葉を失っていた。ひなたも、涙を流したまま固まっている。


 あれほど強かった魔物。三人で挑んでも、傷一つつけられなかった魔物。


 それを、目の前の男は一瞬で倒した。


 男は魔物を見ていなかった。すぐに美月のそばへ膝をつく。


 ひなたが震えながら言う。


「戻らないんです……」


 声が崩れる。


「回復魔法が……届かなくて……美月さんが……」


 玲奈が唇を噛む。


「遅いよ……」


 絞り出すような声だった。


「もっと早く……来てよ……!」


 責める言葉ではなかった。助けを求める声だった。


 どうしようもない絶望を、どこかにぶつけなければ壊れてしまいそうな声だった。


 男は何も言わなかった。


 美月の首筋に触れる。脈はない。


 胸に手を当てる。心臓は動いていない。呼吸もない。


 普通なら、終わりだった。


 けれど、男は知っている。


 ひとつだけ。まだ終わらせない方法を。


 頭に、鑑定で見た文字が浮かぶ。


 霊薬。肉体の損傷を修復し、魂と肉体を繋ぎ直す秘薬。


 ただし、条件がある。


 死後、十分以内。魂が完全に離れる前でなければならない。


 それを過ぎれば、どれほどの霊薬でも届かない。


 男は顔を上げた。


「……何分」


 玲奈が呆然とする。


「え……?」


「……美月が倒れてから、何分」


 ひなたが涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。


「分なんて……経ってません……」


 声が震える。


「つい、さっきです……今、本当に、今……」


 男の目が変わった。


「……間に合う」


 玲奈が息を呑む。


「間に合うって……何が……」


 男は答えなかった。


 アイテムボックスを開く。空間がわずかに揺れ、男の手の中に小さな瓶が現れた。


 透明な瓶。中には、淡く金色に光る液体が入っている。


 玲奈も、ひなたも、それが何なのか分からなかった。だが、ただの薬ではないことだけは分かる。


 瓶から漏れる魔力が、広間の空気を静かに押し返していた。


 ひなたが震える声で尋ねる。


「それは……?」


「……霊薬」


 男は短く答えた。


「……死んでから、十分以内なら戻せる」


 玲奈の目が見開かれる。


「そんなもの……あるわけ……」


 声が震える。


 死んだ人間を戻す薬など、聞いたことがない。回復魔法ではない。蘇生魔法でもない。


 そんなものが本当に存在するなら、世界の常識が変わる。


 玲奈は目の前の男を見た。


 美月の名前を呼び、あの魔物を一瞬で倒し、死者を戻せると言い切る男。


「あんた……本当に誰なの……?」


 男は美月を抱き起こしたまま、静かに答えた。


「……黒瀬蓮」


 その名前に、玲奈とひなたの表情が変わった。


 黒瀬蓮。美月が話していた名前。


 最近、美月が早く帰る理由。家で待っている人。


 十年ぶりに帰ってきた、美月の大切な幼なじみ。


 その男が、今ここにいた。


 玲奈は言葉を失う。ひなたも、涙を流したまま蓮を見つめていた。


 蓮は二人を見なかった。美月だけを見ていた。


 血に濡れた髪を指で避ける。


 美月の顔は白い。眠っているようには見えなかった。


 命が抜け落ちた身体。


 それでも、蓮は手を止めない。


「……美月」


 小さく名前を呼ぶ。


 十年間。蓮は、多くのものを失った。


 帰る場所。普通の日々。誰かと話す時間。笑い方。眠る安心。


 そして、何度も命を落としかけた。


 けれど、今だけは失えない。


 美月だけは。ここで終わらせるわけにはいかない。


「……戻ってこい」


 蓮は小瓶の封を切った。


 淡い金色の光が、広間に広がる。


 死後、十分以内。


 その境界の内側で。


 蓮は、美月の命を掴もうとしていた。

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