第118話 四十五階層
爆音が、深い階層に響いた。
美月の放った魔法が、通路の奥から迫っていた魔物の一体を吹き飛ばす。黒い角を持つ巨体が壁に叩きつけられ、鈍い音を立てて崩れ落ちた。
だが、終わらない。
残った二体が、地面を揺らしながら迫ってくる。
「玲奈、右!」
「分かってる!」
玲奈が前へ出る。剣を握る手には力が入っていた。
腕の傷はひなたの回復で塞がっている。けれど、痛みが消えたわけではない。
踏み込むたびに、表情がわずかに歪む。それでも玲奈は止まらなかった。
魔物の腕が振り下ろされる。
玲奈は横へ滑るように避け、その足元を斬りつけた。硬い皮膚に刃が食い込む。
だが、浅い。
「硬っ……!」
魔物が身体を捻る。太い腕が玲奈を薙ぎ払おうとした。
「させない!」
美月が結界を張る。透明な壁が、魔物の腕を受け止めた。
衝撃が走る。結界に細い亀裂が入った。
「くっ……!」
「美月さん!」
「大丈夫! ひなた、支援を!」
「はい!」
ひなたが杖を握り、玲奈へ補助魔法を重ねる。
身体強化。反応速度強化。最低限。
それでも今の玲奈には必要だった。
「助かる!」
玲奈がもう一度踏み込む。今度は魔物の膝裏へ剣を入れた。
巨体が傾く。その瞬間、美月が魔法を撃ち込む。
雷光が走り、魔物の頭部を貫いた。巨体が床へ倒れる。
床が揺れた。
最後の一体が咆哮する。通路全体が震えた。
魔力を含んだ声が、身体の内側を直接揺さぶってくる。
「っ……!」
ひなたが膝をつきかけた。
美月は即座に振り返り、ひなたの前に結界を張る。
その一瞬の遅れを、魔物は見逃さなかった。
巨体が突進する。狙いは、美月。
「美月!」
玲奈が叫ぶ。
美月は杖を構え直す。避ける余裕はない。
なら、受けて、撃つ。
「来なさい」
低く呟き、魔力を集中させる。
魔物の腕が振り下ろされる。美月の結界が受け止めた。
亀裂。さらに亀裂。
だが、割れない。
美月は歯を食いしばり、結界越しに魔法を放った。
至近距離からの爆発。魔物の胸部が砕ける。
黒い体液が床に散った。巨体がゆっくりと倒れる。
そして、動かなくなった。
「……はぁ……はぁ……」
玲奈が肩で息をする。ひなたも壁に手をつきながら、なんとか立っていた。
美月は周囲を確認する。
倒した魔物の死骸が、通路に転がっている。血の匂いと、濃い魔力の匂いが混ざっていた。
長くここに留まれば、別の魔物を呼ぶ。
「進むよ」
美月は言った。
「止まってる余裕はない」
「……これ、もう一回やれって言われたら、きついね」
玲奈が苦笑する。
声は軽くしようとしている。だが、疲労は隠せていなかった。
美月はそんな玲奈を見て、短く答える。
「もう一回やらないために、進むの」
「……ほんと、美月らしい」
玲奈は息を整え、剣を握り直した。
ひなたが端末を見る。画面の数字は乱れていた。
四十三。不明。四十四。不明。
そして――。
四十五。
ひなたの顔が青ざめる。
「……美月さん」
「何?」
「階層推定……四十五です」
玲奈の表情が固まった。
「四十五……?」
このダンジョンは、元々Aランク。全五十階層。
四十五階層は、本来なら最深部に近い危険区域だった。Aランク上位の冒険者でも、慎重に準備して進む場所。
それが今は、Sランクへ変異している。その四十五階層。
美月はそれを理解していた。だが、顔には出さなかった。
「端末の表示は乱れてる。確定じゃない」
「でも……」
「確定じゃない」
美月はもう一度言った。
ひなたは唇を噛む。それが慰めではないことは、分かっている。
けれど、今はその言葉に縋るしかなかった。
玲奈が前方を見る。
「戻る道は?」
ひなたが端末を操作する。だが、答えはすぐに出た。
「ありません。後方の通路は閉じています。別経路も……全部、下へ向かう反応です」
「また下か」
玲奈が小さく吐き捨てる。
美月は前を見た。
通路の奥。そこから、重い魔力が流れてくる。
進めば危険。止まっても危険。戻る道はない。
なら、選択肢はひとつしかない。
「行くよ」
「了解」
「はい……!」
三人は歩き出した。
通路の壁は黒く脈打っている。まるで、ダンジョンそのものが生き物になったようだった。
床には亀裂が走り、そこから青黒い光が漏れている。
空気は重い。呼吸をするだけで、肺の奥が焼けるようだった。
それでも、美月は歩く。玲奈も歩く。ひなたも、遅れまいと必死についてくる。
少しでも止まれば、終わる。そんな感覚が、三人の背中を押していた。
その頃。
別の階層。
蓮は、崩れた通路を駆け抜けていた。
三十階層を越えてから、ダンジョンの歪みはさらに強くなっていた。
壁が動く。床が沈む。通路がねじれる。階段が途中で途切れる。
普通の冒険者なら、進路を失って立ち尽くす。
けれど、蓮は止まらない。
壁が塞げば壊す。床が崩れれば飛ぶ。魔物が現れれば、すれ違いざまに倒す。
倒れた魔物の死骸が、後ろに残っていく。だが、蓮は振り返らなかった。
「……まだ下」
蓮は呟いた。
魔力の流れは、さらに深く沈んでいる。その中に、何度も乱れが混じっていた。
魔物の魔力。ダンジョンの歪み。そして、戦闘による揺れ。
遠くで誰かが戦っている。その気配が、わずかに流れてくる。
美月かどうかは分からない。だが、この状況で戦い続けている者がいる。
なら、そこへ向かう。
「……待ってろ」
蓮の足元に風が集まる。
次の瞬間、身体が低く沈み、弾けるように前へ飛んだ。
三十二階層。三十五階層。三十八階層。
階層の表示など、蓮には見えない。けれど、空間が変わっていく感覚は分かる。
魔力が濃くなる。壁の質が変わる。出てくる魔物の強さが上がる。
それでも、蓮の速度は落ちなかった。
通路の奥から、巨大な魔物が現れる。
四本の腕。岩のような皮膚。胸元には、黒い結晶のようなものが浮かんでいた。
魔物が蓮を見つけ、咆哮する。
蓮は止まらない。
魔物が四本の腕を広げ、通路を塞ぐ。蓮はその正面から進んだ。
拳を握る。
一撃。
轟音とともに、魔物の胸が砕けた。黒い結晶が割れ、巨体が後ろへ吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられ、動かなくなる。
蓮はその横を抜けた。
敵ではない。障害にもならない。
蓮の頭にあるのは、美月だけだった。
「……美月」
また、名前を呼ぶ。
返事はない。だが、蓮は進む。
その頃、美月たちは広い空間へ出ていた。
天井が高い。壁は黒く染まり、ところどころに結晶のようなものが生えている。
床には円形の模様が浮かんでいた。
ただの広間ではない。魔力が集まり、渦を巻いている。
ひなたが息を呑む。
「……ここ、まずいです」
「索敵は?」
「反応があります。前方に一体。かなり強いです」
玲奈が剣を構える。
「一体なら、やるしかないね」
ひなたは首を横に振った。
「後ろからも来ています。複数です」
「避けられる?」
「無理です。通路が閉じ始めています」
美月は広間を見渡す。
前には強い反応。後ろには追ってくる魔物。
左右の壁は不安定で、いつ閉じてもおかしくない。逃げ道は限られていた。
なら、答えは一つ。
「突破する」
美月は言った。
「前の一体を抜けて、先へ進む」
「了解」
「はい」
三人は構える。
その瞬間、広間の奥で何かが動いた。黒い影。
ゆっくりと立ち上がる。
それは、これまでの魔物よりも大きかった。人型に近い。
だが、人ではない。
四本の腕。背中から伸びる黒い角。
体表には魔石のような結晶がいくつも埋まっている。結晶が、周囲の魔力を吸い込むように光っていた。
「……何、あれ」
玲奈の声が低くなる。
ひなたの手が震える。
「魔力が……増えてます。周囲の魔力を吸ってる……」
魔物が一歩踏み出す。広間が揺れた。
それだけで、空気が重くなる。
美月は杖を握り締めた。
「ひなた、防御支援」
「はい……!」
「玲奈、正面から受けないで。腕を狙う」
「分かった」
魔物が動いた。
速い。
巨体に似合わない速度で、距離を詰めてくる。
玲奈が横へ跳ぶ。魔物の腕が床を叩いた。
床が砕け、破片が飛び散る。
美月は即座に結界を張り、ひなたを守った。衝撃が結界にぶつかる。
「っ……!」
重い。ただの攻撃ではない。
魔力が乗っている。結界の表面が軋んだ。
「玲奈!」
「行く!」
玲奈が魔物の横へ回り込む。剣が腕の一本を斬りつけた。
だが、刃は弾かれた。
「硬すぎ……!」
魔物の別の腕が玲奈を狙う。
美月が雷撃を放つ。魔物の腕に直撃する。
だが、止まらない。
雷は体表の結晶に吸い込まれるように消え、魔物の動きはほとんど鈍らなかった。
「っ、効いてない……!」
玲奈はかろうじて攻撃を避ける。足が床を滑った。
ひなたが支援を重ねる。だが、息が荒い。
魔力の残量が少ない。
美月はそれを見ていた。
ひなたに無理はさせられない。玲奈も長くは動けない。
自分も、結界と攻撃を繰り返す余裕はもう少ない。
それでも、やるしかない。
「合わせるよ!」
美月が声を張る。
「ひなたは玲奈の補助! 玲奈は脚! 私は正面を撃つ!」
「了解!」
「はい!」
三人の連携は、崩れていない。
アストラ。三人で積み上げてきた戦い方。
そのすべてを使って、魔物へ挑んだ。
美月の魔法が広間を照らす。雷が走る。炎が重なる。
玲奈が横から踏み込み、魔物の脚を狙う。ひなたの支援が、その動きを押し上げる。
三人の呼吸は合っていた。
判断も間違っていない。攻撃のタイミングも、狙う場所も、これ以上ないほど正確だった。
だが――。
届かない。
美月の魔法は、魔物の胸に直撃した。爆音が響き、広間の空気が震える。
けれど、魔物は揺らがなかった。
体表に埋まった黒い結晶が、魔法の威力を吸い込むように鈍く光る。焦げ跡すら残らない。
玲奈の剣が、魔物の膝へ叩き込まれる。金属が硬いものに弾かれる音が響いた。
「っ……!」
玲奈の手が痺れる。
刃は通っていなかった。皮膚を裂くこともできていない。
ひなたの補助魔法を受けてなお、傷一つつけられなかった。
「嘘……でしょ」
玲奈の声が漏れる。
魔物は、ただ立っていた。攻撃を受けたことすら気にしていないように。
美月は息を呑む。
今のは、三人で出せるほぼ最大の連携だった。それでも、通じなかった。
倒せない。削れない。止められない。
その事実だけが、重く広間に落ちる。
魔物の腕が、ゆっくりと持ち上がった。
玲奈が動こうとする。だが、反応が遅れる。
魔物の腕が振るわれた。
「玲奈!」
美月が結界を張る。
玲奈の前に、透明な壁が現れる。魔物の腕が結界に直撃した。
轟音。結界が大きく軋む。
玲奈は吹き飛ばされずに済んだ。だが、美月の身体が後ろへ滑る。
「美月さん!」
ひなたが支えようとする。
美月は踏みとどまった。
「大丈夫……!」
大丈夫ではない。
腕が重い。魔力が削られている。
結界を維持するだけで、意識が揺れる。
それでも、美月は下がらない。
ここで下がれば、玲奈が死ぬ。ひなたが死ぬ。
だから、下がれない。
魔物が再び腕を上げた。今度は二本。
結界を砕くための一撃。
玲奈が立ち上がろうとする。だが、足が震えていた。
ひなたが魔法を使おうとする。だが、魔力が足りない。
美月は二人の前に立つ。杖を握る手に力を込める。
「下がって」
「美月!」
「下がって!」
強い声だった。
玲奈とひなたが息を呑む。
美月は結界を広げる。二人を守るように。
自分の後ろへ隠すように。
魔物の腕が振り下ろされる。結界に衝撃が走る。
亀裂が入る。細く。深く。
広がっていく。
「っ……!」
美月の膝が震えた。それでも、倒れない。
「美月さん!」
ひなたの声が悲鳴に変わる。
美月は歯を食いしばる。
「大丈夫……まだ、守れる」
その言葉と同時に、魔物がもう一度腕を上げた。
広間の魔力が、その腕へ集まっていく。黒い光。圧倒的な重さ。
次の一撃は、今の結界では受けきれない。
美月にも分かった。玲奈にも。ひなたにも。
それでも、美月は動かなかった。
逃げない。二人の前から、退かない。
その頃。
蓮は、深い階層の通路を駆け抜けていた。
前方から、強い魔力の乱れが伝わってくる。
戦闘。大きな衝撃。結界の揺れ。魔物の魔力。
そして、誰かが必死に耐えているような、不安定な波。
蓮の目が細くなる。
「……近い」
風がさらに強くなる。蓮の速度が上がった。
だが、まだ距離がある。
階層は歪み、道は繋がり変わり、真っ直ぐには進ませない。
それでも蓮は、壁を壊し、罠を抜け、魔物を踏み越え、進み続ける。
四十五階層。
美月たちは、限界に近づいていた。
そして蓮は、まだ――。
届いていなかった。




